[日記]気づけば歪は整えうる

 違和感を覚え、立ち返る。するとそこには二回着席するルーネルの姿がある。その間に立ち上がった形跡はない。

 なので、一回目のものを削除して、整える。うん、これで椅子にめり込むルーネルはいなくなった。

 たまにこういうことするんだよなぁ。その場、その場の記憶で描いているために、今の景色を忘れてしまう。

 こういうときは、見つけられたからよしとするのがいい。下手に再発防止のために努めても、出してしまうのが人間だ。ならば、確認の読み返しのときに発見できればいいのだ。


 そうしてふと思ったのだが、どうやったらうまく書けるか、という質問に、書くしかない、という回答がある。

 あれこれとうまく見せようとして辞書を引くより、書いて慣れて磨け、というふうに私は解釈しているが、さて、ここで問題だ。

 書けば書くだけうまくなるのは事実か?

 実際のところ、言葉的には七割はそうだと思われる。書けば書くだけ文章の違和感を見つけやすいし、どうすれば読みやすくなるかの組み立て方も分かってくる。言い方を変えれば、経験を積んでしまうのが近道というわけだ。

 では残りの三割は? それはうまくなりたいという意思だと思われる。注目されたい、ではだめである。しかし、こういった質問をする以上、向上心があるととっていいのだろう。

 例えば、うまくなりたいと思わない人は、投稿前に見直したりするだろうか? 一字一句丁寧に意識にインプットして、比喩の違和感や誤字脱字に気づけるだろうか? あるいは、熟語を精査して採用するだろうか?

 究極、それらに気づけるかは個人の問題だが、そういった熟読も一切行わない人と、する人では、才能に雲泥の差があったとしても、どちらが早くに破綻しやすくなるだろうか。

 もちろん、その熟読をするには、書いてある作品が必要だ。ならば結局書くしかないのだが、がむしゃらに一万を書かず、三千を書いて歩調を合わせることが適切なのだろう。


 もっとも、これは文字だけの話ではない。

 はたと感じた経験則からくる違和感。勘違いで済めばいいのだが、違和感がどこからくるのか、をはっきりさせるだけで、学習というか、知識、感覚は磨かれる。

 もちろん個人の好き嫌いはあるかもしれないが、少なくとも私はそういった経験値を使ってこれを書いている。

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