[創作論]大喜利

「道を歩いていますとね、消火栓の近くで消防士さんと普通の人がね、火事を目の前に口論してたんですよ。さて、なぜ口論をしていたのか教えてください」

 ふと流れる、なめらかな言葉遣い。トーンも軽やかで不思議と頭に入ってくる景色に、首をかしげる。

 消防士は鎮火を試みるが、それを止められたのか。はたまた、現状の報告をしているのを口論と見間違えたのか。あるいは、やってはいけないことだが、消防士は仮装しているだけで、食いかかっているのはそういったことに詳しくない人かもしれない。

 もちろん、大喜利としては面白くない回答だろう。


 そういえば、創作というのは設定とシチュエーションの大喜利なのではないだろうか。もちろん、単なる大喜利ではなく、表現者に大きく依存するうえ、共感を得るにも一定の水準が必要だ。

 設定があって、シチュエーションがあって、それをどう処理するかの大喜利。


 特にハズレスキルだとかそういうのは、タイトルからして大喜利だろう。一般的にはこうだが、こう使うことでなんということでしょう、という。大喜利として考えると、なんだかんだで読めるものなのかもしれない。

 だが書く側として一歩立ち止まってみると、ほんとに大喜利状態なのだと思う。こんな敵を用意して、こうしたら面白くなるし設定も生きる。ならこんなのは? 次はこれでいこう、と。

 そうなると、シチュエーションにキャラクターたちが振り回されていないだろうか? アホの子一辺倒だとか、即惚れるだとか。

 大喜利としては確かに面白いかもしれない。むしろ、そういったノリだからこそ大喜利は面白いのだ。何が起こったのか、どうしてなのか、そのしょうもなさにクスリとくるのがこれである。

 しかしキャラクターたちにとってはどうだろうか。そういった小芝居に付き合わされている、振り回されている人形になっていないだろうか?


 私は「彼らがどうしてなにを成すのか」を描きたい派なので、このシチュエーションに遭わせるためにどうするかを考えながら書く。そこにクスリとくる大喜利は存在していないが、彼らに選択肢を委ねているつもりではある。

 ほんとに考えたキャラたちが選んだのか、はたまた私の希望するものを取らされているのか。その真偽は不明だが、彼らをただの大喜利の役者にしたくないというのは私の書き方に望んでいるものである。


 ちなみに冒頭の大喜利は私が適当に考えたものであり、どこかで放送していたとかではありません。あまり面白いもの思い浮かばないですね。

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