[日記]ところで技ってなんだろう?

 ふと思う。


 人気だからと書籍化すれば売れるものなのだろうか?


 度々口にしているが、つくる人にとって書籍化、もとい二次グッズ販売は夢である。小説でいうなれば、人気が出て、書籍化されて、最近ではアニメ化されて。そこまでいければ儲けものである。

 しかし考えてみれば、人気の作品ほど無料で読めるならそっちでいいや、という人が圧倒的に多いことが予想されるうえに、読むような暇を持っている人はこれもあれもとマイライブラリを常に増やすような人だと思う。

 実際どうなのだろう。本屋にあるweb原作小説の宣伝帯を見てほしい。あそこで高順位、どこでPV獲得……よく言われていることだと思うが、webの需要と本屋の需要というものはまるで違うことだとだろう。

 言い換えるなら、この国では米が主食だからパンも食べるだろう、という発想である。もちろん的を射ぬく可能性もあるが、好みに合わせて変化を加えることも必要になることだろう。


 売れているからこそそんな出版商法が成り立っているのだと思われる。しかし、なら「書く」という技術ってなんだろうか、と思うのである。

 例えば料理。食材から調味料まで熟知して作られた美味しいものに、技術がある、と思うだろう。

 この地球の世界地図を、ラグなくリアルタイムで見れる技術も、すごいと思われるだろう。

 米粒に写経するように、胡麻に写経するのも、器用な技術だと思われるだろう。

 実写かと思われるようなイラストや、こだわり描かれた絵画を、すばらしいものだと褒め称えることもあるだろう。


 だが、「書く」ことで描くという技術は、誰もすごいとは思わないのだ。

 あえて書かない、含みを持たせる。句読点の使い方を守る。様々な単語を覚え、おもしろおかしく書いたとしても、それを「技術」だとは、多くの人は思わないのである。

 あるのは技術なんてほっぽりだした、外に居る人の干渉だけ。面白いというのは、彼らの中に首をもたげるのみだ。


 誰だって書けて当たり前だろう。小学校とかで習うんだから。


 それは技術ではない。どちらかといえば処世術だ。社会に出たときに困らないための。

 あえてそれで編んでいる。一枚の絵画を描くために、丁寧に一言一句を選ぶ。だがいかに美しい物語を描いたとしても、そこにすばらしいと声をかけてくれる人などいないのだ。

 その一声をかける。それが運営している者の役割なのでは? とふと考えた。もちろん、私たちもその一声をかけることが、必要なのだが。

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