[創作論]言葉を開くには
今朝方、漢字があるならそれを使うのが適当だ、という指摘について、ひらがなに開くのも小説には必要なことなんだよなぁ、という話を見かけた。
私はといえば、そんなに意識はしていない。いや、そもそも、いつかは意識していたが、今はどうだろう、といった感覚である。
私は文字を置くとき、意識下でテンポよく唱えられるかを気にしている。それを口に出して読めばスラスラと読めるだろう……と考えていたが、そうでもないらしいことは、つい最近知った。黙してテンポを測るのと、声として出すのは全く違うことなのだ。
まぁ、漢字をかなにすることに話を戻そう。
上記の通り私はここ最近、あえて変換しないことを意識していない。習慣となってしまったのだろうか? だがはっきりとはい、とは答えられない。なぜなら自覚がないからだ。
では、ここまで読んでみたとき、ふと立ち返ってみてほしい。この段落までに、変換できるのにしていない部分はどれほどあるだろうか?
ひらがな、こと、かな。たったこれだけである。
つまり、なんだかんだで変換し尽くしている。だが見返しても、あまり密には感じないし、視界に入る情報もそれほど多くはない。
これが、慣れというものなのか?
いや、思考をほぼなぞらえて書いているからかもしれない。思えば、いくらか前に書いたタマモのお料理教室のときもそうだった。不思議と変換の必要な文字が減るのだ。
つまり普段、思考していることは、変換なんて意識されていないのだな、と。
確かに、あれやこれやと展開を考えてみるとき、机の上に空間を広げている気がする。そこに意識というひらがなで情報オブジェクトを置いていき、結末や結論を導く。ここに必要なのは言葉をオブジェクトに変えることであり、言葉の変換は不要である。
だからスムーズ(?)に書けるのだろうか? 結局は読者がいなければ回答は得られないのだが。
小難しい話をしていても終わらないだろうと思われるので、ここで切り上げることとする。
今日からの市場の修正では気にしてみようか。
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