ディアのいなくなった世界で

 夏休み前における最大の試練、一学期期末試験は無事終了した。中間試験と違ってボクもまた無事終了した。今回、赤点は一科目もなかった。

 試験前、図書室でアオイさんに鬼のような、ではなくて親身の指導をしていただいたおかげだ。これで夏休みの一部を補習で潰さずに済む。


「君たち、夏休みの計画は立てたかい」


 一学期も残り数日となったある日の昼、いつも一緒に弁当を食べているトウノがそんなことを言い出した。


「夏休みかあ~、ボクはお盆に祖父の家へ帰省するくらいかな。帰省って言っても隣町だから、別にいつでも遊びに行けるんだけどね」

「私は帰省の予定はないけれど、家族旅行に行くかもしれないわ。毎年の恒例行事なの」


 アオイさんは一人っ子のはずだから両親と三人で旅行か。仲睦まじい家族だな。


「そう言うトウノは何か予定はあるのかい」

「海外へ行くつもりさ。去年はハワイだったから今年はグアムがいいな」


 くそっ、聞くんじゃなかった。こいつの家は相当な金持ちだと誰かが言っていたな。羨ましいぜ。


「大和撫子もいいけれど、外国の女子も魅力的なんだよなあ。金髪、碧眼、白い肌……」


 急にトウノは口を閉ざした。窓際の最後尾をぼんやり眺めている。


「どうした、トウノ」

「いや、変に思うかもしれないけど、時々妙な考えにとらわれることがあるんだよ。窓際にはもうひとつ席があって、そこに外国から来た女子生徒が座っていたはずなのに、って」

「あら、トウノ君も。私もそうなの。今は三人でお昼を食べているけど、誰かもう一人いたような気がする時があるのよ」

「……二人とも、そうなんだ」


 それだけを言うのが精一杯だった。ディアがいなくなって半月近く、この二人はそんなことを思いながら毎日を過ごしていたのか。


「このクラスは女子が一人少ないから、増えればいいと思ってそんな考えが浮かぶんじゃないのか。アオイさんは男子二人と一緒に食べているから、女子と一緒に食べたいって願望がそんな妄想を生んでいるのかもね。まあ単なる憶測だけど」

「なるほど」

「そうね」


 こんな付け焼き刃の理由でも納得してくれたか。二人とも単なる気の迷いだと思っているからだろうな。けれども違うんだ。その女子は確かに存在した。今でも不思議に思う。なぜボクの記憶だけ消去されなかったのだろう。


 夏至の日にディアが姿を消した瞬間、全ての事象が元に戻った。

 両親からも級友からもディアの記憶は消え、これまでの彼女の行動は別の者の行動へと置き換えられた。ボクの場合、ディアの行動の大部分はトウノによって担われることになった。

 昼食を三人で食べようと言い出し、源氏物語を引き合いに出してトウノというあだ名を決め、そのせいでついうっかりアオイさんのあだ名をボクが口に出してしまい、手芸部にアオイさんが入部したと知るとボクを強引に入部させ、雨傘作戦を実行に移し、ハピダンで互いに言い出せないボクとアオイさんを安積山へ連れて行って告白させた。

 これらは全てトウノによって成し遂げられた、ということになっている。今では彼は完全にボクの親友だ。


「君たちが一緒に踊るとなると、私は応募を見合わせた方が良さそうだね」


 安積山での告白はハピダン応募が始まる前だった。ボクとアオイさんは最初からお互いを希望の相手に選んで応募した。一方、トウノは応募しなかった。


「この身は全ての女子生徒のものだからね。一人を選ぶなんてこと、できるはずがないだろう」


 これは賢明な判断だった。おかげでダンスの練習も体育祭も平和裏に終了できた、ということらしい。


(覚えていないんだよなあ。仲間外れにされた気分だ)


 これらは全てトウノやアオイさんから聞かされた話だ。書き換えられた二カ月半の出来事はボクの頭の中には一切ない。あるのはディアと過ごした二カ月半の出来事だけだ。


(どうしてボクだけ改変されないんだ。ディアが来た時も去った時もボクの記憶は変わらなかった。記憶はディアたちの魔術によって改変される。その魔術を無効にするような魔術がすでにボクにかけられていたとしたらどうだろう……)


「何をぼんやりしているんだい、ヒフミ君。さては君にも碧眼金髪の異国女子の幻影が見えているのではないのかな」

「ふっ、そうなのかもな」


 もし見えるのなら見てみたい、そう思った。



 帰宅後、夕食を済ませ風呂に入り勉強机に向かう。そこに鎮座したパソコンの電源を入れゲーム画面を開く。今はもうボクも魔王城まで進んでいる。でもこれ以上進めるつもりはない。


「このゲーム、今はもう誰もプレイしていないんだろうな」


 ディアをこの世界へ呼び込むことになったゲームは大きく様変わりした。あの夏至の日を思い出す。


「さてと、始めるわね」


 午後三時、ディアが姿を消すと、アオイさんはすぐゲームをプレイしようとした。ボクは慌てて止めた。


「やめろ、アオイさん。どういうつもりだ」

「あら、どうして止めるの。あなた、私のプレイを見に来たのでしょう」

「ディアの言葉を忘れたのか。クリアすれば向こうの世界が滅ぶんだぞ」

「ディア? 滅ぶ? ヒフミ君、何を言っているの」


 その時になって初めて気付いた。アオイさんからはディアの記憶が消えてしまったのだと。そして自分にはまだ残っているのだと。


「とにかくお願いだ。しばらくの間、このゲームはプレイしないで欲しい」


 勇者アルスちゃんが最強化したのはアオイさんが失恋したから。今はもうその心配はないのでプレイしても問題はないはずだが、それでも頼まずにはいられなかった。


「いいわ。もうすぐ期末だし。理由は訊かないでおいてあげる」


 アオイさんは素直に応じてくれた。


 ゲームに異変が起きたのは七夕を過ぎた頃だ。ゲームクリアの報告がネットに溢れ始めたのである。それだけでなくこれまで攻略を困難にしていた協力プレイやゲームオーバー後の再スタートも可能となった。聞くところによるとそれが初期の頃の仕様だったらしい。


「ゲーム世界の切り離しに成功したんだな」


 理由はすぐにわかった。ディアが言っていたゲーム世界同調断絶術、それがようやく完成したのだ。これでもうアオイさんがゲームをクリアしても何の問題もない。さっそく彼女の家へ行って最終ステージを見学させてもらった。


「えっ、これで終わりなの」


 あまりにも呆気ない終わり方だった。魔王ディアモンが倒れた瞬間、ビープ音が鳴って画面にゲームクリアの文字が表示される。それだけだった。

 最悪のエンディングを見せられてネットでは罵詈雑言の嵐が吹き荒れた。元々このゲームの売りは難易度の高さにあった。それなのに誰でも簡単にクリアできるまでにレベルが下げられたばかりか、せっかくクリアしてもエンディングの達成感を微塵も味わえないとなれば完全なるクソゲーである。今ではもう話題にすら上らない過去のゲームとなってしまった。


「ディア、今日も会いに来たよ」


 それでもボクは続けている。そしてこれ以上進める気はない。このゲームの空間は確かに断絶された。しかしボクらの世界とディアたちの世界はまだ繋がっている。ディアは言っていた。ジイ=ユーシャがそちらの世界にいる限り、繋がりを断つことはできないと。


「さて今日はどうしようかな。レベルを上げるか。クエストを貰って金を稼ぐか」

(やっぱりお金でしょ。たくさん稼いで美味しいものを食べましょうよ)


 また聞こえてきた。ディアの話を聞いてから選択に迷った時はいつもこの声が聞こえてくる。


「ディア、おまえ向こうの世界でまたゲームをやっているんじゃないだろうな。ボクをプレイヤーキャラにして」


 ゲームに限らず生きていれば選択に悩む場面は何度もやっている。最終的にどうするかを決めるのは自分だ。でもそれは本当に自分の意思で選択しているのだろうか。実は他の世界のプレイヤーがゲーム画面を通して選択させているのではないだろうか。ディアに会ってからそんな考えを持つようになった。


「我ながら馬鹿げた妄想だ。でもあり得るかもしれない。だってボクはまだディアを覚えているんだからな」


 その理由はわからない。しかしきっと意味があるに違いないのだ。二つの世界が繋がっているように、ボクとディアの心もまだ繋がっている、そんな気がしてならないのだ。


 画面には魔王ディアモンの胸像画が映し出されている。ディアそっくりの姿を見ていると彼女と共に過ごした日々がよみがえる。よく食べ、よく笑い、よく怒り、そして最後までボクらの幸福を願い続けてくれたディア。これでお別れだとは思わない。いつか必ず再会できる。そう信じてもいいだろう。もう一度会えることを心の底から願いながら、ボクはずっと待ち続けているよ、ディア……

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