母よ あなたは強かった

 ファミレスにおける三者談合の二日後の月曜日。教室にはそれとなく張り詰めた空気が漂っている。

 今週から部活動はない。一学期中間試験の一週間前だからだ。高校生活最初の定期考査を目前にして、授業を受ける生徒たちはこれまでにない緊張を感じているようだ。


「ハ~イ、お昼になりマシタ。お弁当デスネ」


 ディアはそんな緊張とは無縁のようだ。六月にこの世界を去る運命の彼女には試験も成績も関係ないのだろう。


「いただきマス」


 今日も机を並べて四人で食べる。アオイさんは無言だ。金曜日にあんな別れ方をしたのでボクとしても話し掛けづらい。


「ところでアオイさん、傘は持って来てくれたかな」


 話し掛けたのはトウノだ。ディアと同じく陽気で物怖じしない性格が羨ましい。


「ええ。でも本当に降るのかしら。朝から快晴よ」

「まあまあ、そう言わないで。金曜日の例もあるしね。備えあれば憂いなしだよ」

「それは、そうですけれど……」


 怪訝な顔をするアオイさん。彼女のことだ。何かを感じ取っているんだろうな。しかしいくら洞察力に優れていてもボクらの作戦は見破れないだろう。二日前、ファミレスでトウノから策を聞かれされた時は正直驚いた。あまりにも正攻法だったからだ。


「……以上が私の提案だ。雨の中で聞かされた誤解なら雨の中で解いてもらうのが一番だと思うのさ。ただこの策は二つ問題がある。ひとつはヒフミ君のお母さんの演技力。もう一つは都合よく雨が降るかどうか」

「どちらも問題なしデス!」


 二つ目のパフェを食べ終えたディアが答えた。もうお代わりはなしだぞ。


「どうしてそう言えるのかなディアさん。どちらも不確定要素満載だよ」

「母上様に演技をしてもらう必要がないからデス。ありのままを話してもらえばOKなのデス」

「えっ、本当なのかい」


 無言で頷く。こんなところで人を驚かす母の悪癖が役に立つとは思わなかったよ。


「でも雨が降るかどうかはわからないよね」

「それも大丈夫デス。イベントチケットを……」

「ディア!」


 大声を出してディアの言葉を制する。それ以上の情報をトウノに与える必要はない。話がややこしくなる。


「イベントチケット……今そう言ったよね。何だい、それは」

「いや何でもない。ディアの勘違いだ。ただ雨の件に関しては確約できる。月曜日の夕方、かなりの高確率で夕立が発生するはずだ」


 トウノの目付きが変わった。人の心まで見透かすような眼差しをこちらに向けている。きっとトウノの洞察力もアオイさんと同じく最大値の五〇に設定されているのだろう。


「ふうん……どうやら君たちはまだ何か隠しているみたいだね」

「ハイ。隠してマス!」


 思わず笑い出しそうになった。そうだな。下手に否定するよりも素直に認めてしまったほうが相手も納得できる。強張っていたトウノの表情も一気に緩んだ。


「ふふ、了解。言いたくないのなら結構だよ。ではさっそく準備に取り掛かるとするか」


 トウノはスマホを取り出して入力を始めた。しばらく待っていると着信音が聞こえた。返事のようだ。トウノが目を通す。


「OKだ。アオイさん、月曜日は傘を持参してくれるってさ。これで私の準備は終了。あとは君たちで頑張ってくれたまえ」

「おい、今、アオイさんにメールしたのか」

「ああ、そうだよ」


 何てこった。すでにアドレスを交換し合っていた仲だったとは。完全に出し抜かれているじゃないか。こいつがライバル設定されていなくてよかった。


「でも驚いたな。トウノがここまで協力してくれるとは予想外だよ。君はアオイさんに気があるとばかり思っていたからな」

「ああ、もちろんアオイさんも好きだよ。あの人ほど才色兼備な女性は滅多にいないからね。しかし私は一人の女性にこだわらない主義なのさ。全ての女性に愛を注ぐのがこの身に課せられた使命だからね」


 つまり軽薄なプレイボーイってことだろ。この男のためにこれまで何人の女子が涙を流し、これから何人の女性が泣かされるのか、考えただけで羨ましくなるぞ。


「では、諸君、月曜日に再会しよう。お勘定はよろしく」

「ねえ、ヒフミ君、パフェお代わりいいデスカ」

「ダメ!」


 そうしてボクらの作戦会議は終了し、月曜日の昼を迎えたのである。


「えっ、傘デスカ。今日、雨が降るのデスカ。困りマシタ。傘持って来てないデス」


 ディアの台詞がわざとらしい。今日は下手な演技をする必要はないんだぞ。


「ディアさん、雨が降ったら私が駅まで送ってあげるよ。先日のお礼に」

「ワーイ。トウノ君、ありがとデス」


 まただ。仲良くしている二人を見ていると胸がもやもやしてくる。アオイさんはこちらをチラリと見たが何も言わなかった。


 午後からは金曜日と同じだった。次第に雲が広がり始め、授業が終わる頃には本降りとなった。


「あのチケット、本物だったのか」


 正直、雨が降るかどうか半信半疑だった。しかし二度続けて奇跡が起きたのだから、もはや偶然では済ませられない。千円のチケットは編み物セット入手の効果しかなかったが、二千円のチケットは本当に特殊効果を発揮させられる力があるようだ。


「トウノ君、さっそくお願いデス」

「お任せあれ」


 ディアとトウノは手を繋いで教室を出て行った。アオイさんがこちらを見ている。


「ヒフミ君、あなたは傘を持っているの」

「いや、今日は降らないと思っていたから」

「なら、送ってあげるわ。私も先日のお礼よ」


 ディアとトウノのようにこちらも手を繋いで教室を出たいところだが、さすがにそれほどの度胸はない。

 昇降口から外に出て雨の中を歩き出す。少し先をディアとトウノが並んで歩いている。そのまま無言で歩く。不用意な発言は慎んだほうがいい。アオイさんに悟られないとも限らないからな。

 しばらくして、


「トウノ君、変ね」


 アオイさんがつぶやくように言った。どうやらすでに何か勘付いているようだ。


「私には傘を持ってくるように言ったのに、どうしてあなたやディアさんには言わなかったのかしら」

「ど、どうしてかな」

「ヒフミ君、私に何か隠してない?」

「べ、別に」


 まずいな。このままではうっかり口を割ってしまいそうだ。


(まだか。早く来てくれ、母さん)


 心の中でそう祈った時、その声は聞こえてきた。


「あらあー、二人とも傘に入っているじゃないの」


 母さん、やっと来てくれたか。立ち止まっているディアたちに追い付いて台本通りの台詞を言う。


「何しているんだよ、こんな所で」

「何しているはないでしょう。傘を持ってきてあげたのよ。あなとディアちゃんの分。でも必要なかったみたいね」

「オオ、ありがとデス」

「それは手間をかけせたね。でもそれならそうと電話かメールで知らせてくれればよかったのに。そしたら友人に迷惑かけずに済んだし」


 ここまでは台本通りだ。そしてここからが本番だ。頼むぞ、母よ。


「うふふ。母さんの性格を知っているでしょう。おまえの驚く顔が見たかったのよ」

「私が初めて家に来た時もそうデシタネ」

「そうそう、あの時のビックリ顔は最高だったわね。秘密にしておいた甲斐があったわよ。なんせ入学式の数日前までディアちゃんが日本に来ることを教えてあげてなかったんだからね」

「入学式の数日前まで……」


 アオイさんの表情が変わった。そうだよ、ボクがディアのことを知ったのは四月になってから。高校に合格が決まった後なんだ。受験とは全然関係ないんだ。


「ところでディアちゃん、そちらは彼氏さん?」

「ハーイ。そうデス。三日前からお付き合いしてイマス」

「あら、あなたたちってそんな関係だったの。一緒にお昼を食べていたのに少しも気付かなかったわ」


 よしよしさすがのアオイさんも驚いているな。恋愛関係には本当に頭が回らないみたいだ。


「まあ付き合っているって言っても高校生ですから、友人関係に毛が生えた程度のものです。御心配には及びませんよ」


 丁寧なトウノの口調が逆に胡散臭いな。ディアに手出ししたら承知しないからな。


「とにかくせっかく持って来たから傘を渡すわね。はい」

「ああ、ありがとう母さん」


 これで母の芝居は終わりだ。アオイさんの誤解も解けただろう。


「うふふ」


 母がにやついている。何してるんだ。出番は終わったんだから早く帰れよ。


「ひょっとして、その、おまえの彼女なの」

「ち、違うよ。同じクラスの同級生で、たまたま傘を持っていたから入れてもらっているだけだよ」


 くそ。母のからかい癖が始まったか。せっかくうまくいっているのに余計なことをしてくれる。


「傘を持っている同級生なら他にもいるでしょう。どうしてその娘なのでしょうねえ」

「そ、それは、同じ中学の同級生だし、同じクラブだし、隣の席だから……」

「ふふん、そういうことね」


 母のにやにやが止まらない。おかしなことを口走らなきゃいいんだが。


「手芸部に入るって聞いた時は驚いたわ。おまえにそんな趣味があるなんて初耳だったからねえ。でもこの娘を見て納得した。中学の時、受験勉強を手伝ってくれた同級生にまだお礼をしていない。だから手袋かマフラーを作ってプレゼントしてあげたい、おまえ、そう言っていたわよね。それがこの娘なのでしょう。こんな別嬪さんならおまえが惚れるのも無理はないわね」

「母さんっ!」


 なんてことだ。このアドリブは完全に想定外だ。高校受験の理由に対する誤解が解ければ手芸部の件は放置で構わないだろうと判断して、敢えて台本には書かなかったのに。トウノにもディアにも知られていない秘密をバラしやがって。

 入部試験合格のために寸暇を惜しんでリビングで編み物の練習をしていた時に、あんまりしつこくまとわりくので、追っ払うつもりで適当な理由をこじつけたんだ。あんなこと、言わなきゃよかったな。


「私にお礼を……そのために手芸部に……」


 アオイさんは放心状態だ。トウノとディアも驚きを隠せないようだ。


「へえ~、そうなんだ。まあ知っていたけどね」

「ヒフミ君、私にも編んでくれマセンカ」


 誰がおまえになんか編んでやるものか。それにしてもいつまで相合傘しているんだよ。傘を受け取ったんだから自分のを差せよ。


「ねえ、ヒフミ君。私、あなたのことを誤解していたみたいね。何の根拠もなく独り善がりの思い込みなんかしてしまって……謝るわ。ごめんなさい」

「い、いや。わかってもらえればそれでいいんだよ。ボクも紛らわしい言い方をしていたしね」


 アオイさんが顔を上げた。いつになく柔らかい眼差しをしている。


「あの、もしよかったら雨が降っていない日でも一緒に帰らない? 委員の仕事があるからそんなに毎日は時間が合わないかもしれないけど。もちろんディアさんも、それからトウノ君も一緒で構わないわ」

「うん。その言葉が聞けてよかった」


 大きな幸福感がボクを包んだ。やっとアオイさんにこちらの気持ちが通じた、それだけで昇天するほど嬉しかった。

 そしてボクは感じた。今この瞬間、ステージをクリアできたことがはっきりとわかった。二人だけの親密トーク、それは会話の長さも周囲の人間も関係なかった。言葉によって二人の心を通わせ合うこと、それが親密トークの意味、そしてこのステージをクリアするための条件だったのだ。


「ヒフミ君たち、いい雰囲気じゃないか」

「はい。ゲームクリアも間近デス」

「んっ? ゲームクリアって?」

「いえ。何でもないデス」


 ボクは幸せだった。そう、これは中学の時からずっと待ち望んでいた瞬間に違いないのだから。けれどもそれと同時に心底から喜べない自分をボクは感じていた。その原因が肩を寄せ合って相合傘をしているディアとトウノにあることもまた自覚していた。

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