この世は恋愛シミュレーションゲーム
「……」
すぐには言葉が出てこない。言うまでもなく心臓はバクバクだ。背中に冷や汗が流れているのもわかる。風呂に入り直したい気分だ。
そう、ディアの言葉は正しい。夏休みまで成績が中の中であったにもかかわらず、あれだけの難関校に合格できた理由はふたつある。
ひとつは最初のゲームクリアプレイヤーになるためのパソコンが欲しかったから。そしてもうひとつは彼女と同じ高校へ入りたかったから。勉強意欲を高めた比率は二対八くらいで後者のほうが圧倒的に大きかった。こちらがメインの理由と言ってもいいくらいだ。
「な、何を言っているのかな、君は」
なるべく感情を抑えて答える。ディアの言葉は正しいが別にそれを認める義務はない。あっちも当てずっぽうに喋っている可能性だってあるのだ。
好きな女子と同じ高校へ行きたくて受験勉強を頑張った、そんなシチュエーションは漫画でも小説でも腐るくらいにある。適当なことを言ってこちらが引っ掛かるのを待っているのかもしれない。
「おやあ、知らんぷりですか。ヒフミ君って思ったよりも悪あがきするタイプなのですね。素直に認めればいいのになあ。無理しても苦しいだけですよ」
「そっちだって何の証拠もないのにいい加減なことを言うなよ」
挑発には乗らない。乗ったらこちらの負けだ。向こうの言い分は単なる推論に過ぎない。確たる証拠も提示されていない現段階で相手の主張を受け入れる必要はない。
「ふふ。それなら取って置きの事実を提示してあげますね。ええっと」
ディアの右手が何もない空間をスクロールしている。ステータス画面はまだ表示されているようだ。
「あ、これこれ。意中の彼女は美人だけど冷淡で、源氏物語に登場する
「ど、どうしてそれを……」
あり得ない。絶対他人が知り得ない情報なのに。
ひょっとしてさっき風呂に入っている間にこの部屋へ忍び込み、ゲームを起動させてキャラ名を盗み見たのか。いや無理だ。IDとパスワードがなければゲームは起動しないんだから。そしてそれらはどちらもボクの頭の中にしかない。
彼女をアオイと呼んでいることだってそうだ。当てずっぽうで的中できるような事柄ではないはずだ。アオイというあだ名はボクだけしか使っていないのだからな。
「うふふ。これであたしの言葉を信じてくれますか」
「う、そうだな。いや、だが……」
認めたくはない。しかし認めなくては説明がつかない。口籠っているとディアが口を尖らせた。
「まだ駄目なんですか。仕方ないですねえ。それならヒフミ君のもっと恥ずかしい秘密を喋ってあげましょうか。ええっと」
またもやディアの右手が空間をスクロールし始めた。冗談じゃないぞ。これ以上恥をかくのはごめんだ。
「待て。もういい。聞きたくない。わかった。ここは素直に認めるよ。取り敢えず君の言葉は全て真実だと受け入れて話を進めることにする。だからそのステータス画面を閉じてくれ」
「はーい。了解しました。最初からそう言ってくれればいいのに」
ディアは両手を胸の前で向き合わせると、拍手をするように手のひらを打ち合わせた。いかにも何かの画面が閉じたような印象を受ける。
「ねえ、ヒフミ君。お話ししていたら喉が渇いちゃった。何か飲み物を持ってきてくれない」
いきなりパシリ扱いか。文句を言いたいところだが弱みを握られていては下手に口答えもできない。それにボクも少々喉が渇いた。先ほどから興奮しっ放しだからな。
「ああ、わかった。ちょっと待ってろ」
ドアを開けて一階に下りる。リビングでは母がひとりでテレビを見ていた。父はすでに寝室へ引っ込んでしまったようだ。
「あら、まだ起きていたの。早寝早起き元気なおまえにしては珍しいわね」
「あ、うん。なんだか眠れなくて。ちょっと麦茶をもらうよ」
冷蔵庫を開けて麦茶の容器を取り出す。すかさず母がからかってきた。
「わかるよ~。年頃の女の子が一つ屋根の下にいるんだものねえ。眠れなくて当たり前よねえ。いやあ、青春っていいものですねえ」
無視である。真面目に受け答えなんかしたら調子に乗るだけだ。それよりもっと重要なことを訊いておかなくては。
「ねえ母さん、ボクのことについてディアにはどれくらい教えたの?」
「どれくらいって、どういう意味よ」
「例えば幼稚園の頃、保育士のお姉さんが好きだったこととか」
「あらやだ、そうだったの。今日までちっとも知らなかったわ」
ちっ、藪蛇だったか。余計なことを訊いてしまったな。母は人をからかうのは好きだが、こんな質問に嘘をつくような性格じゃないからな。さっさと麦茶を持って二階へ戻ろう。
「えっと、コップは……」
ここで気が付いた。こんな夜遅く二個のコップに麦茶を注いで持っていったら間違いなく母に咎められるだろう。下手をすると母も一緒に二階へ上がってくるかもしれない。
「母さん、麦茶だけど容器のまま持って行ってもいいかな。一杯じゃ足りそうにないから」
「いいわよ。おねしょには気を付けてね」
何才だと思っているのだ。冗談にしてはキツイすぎるぞ。
自分のコップは服の裾を上げてズボンのウエスト部分に挟んで隠し、麦茶の容器と一個のコップを持ってリビングを出る。自室へ戻るとディアは折り畳みの丸テーブルを開いてその前に座っていた。テーブルの上には駄菓子が置かれている。
「お茶、持って来たよ。その菓子は何?」
「お近付きのしるしです。喉が渇いているだけでなくお腹も減っているのではないですか。お茶とお菓子で親睦を深めましょう」
わざわざ姉の部屋へ戻って取ってきたのか。そう言われてみると小腹が減っている。有難くいただくとしよう。
テーブルを挟んでディアの前に座り、麦茶を飲み菓子を頬張る。ささくれ立っていた心が幾分丸くなる。
「今日は驚いてばかりだ。まるでラノベの主人公にでもなったような気がするよ」
「事実は小説よりも奇なりって言いますからね。世の中一寸先は闇なのです。ご油断召されるな」
本当に闇の中へ迷い込んだ気分だ。しばらく五里霧中の日々が続きそうだな。
「なあディア、ひとつ訊いていいかな」
「いいですよ」
「君はここがゲーム世界だと言った。だけどこんなありふれた世界でどんなゲームをするって言うんだい。ここには魔法も異能もない。ドラゴンのような幻想生物もエルフのような特殊な種族もない。あるのは平凡な日常だけじゃないか。こんな世界でどうやってゲームを楽しむんだよ」
「いえいえ、この世界を日常だと感じるのはヒフミ君がこの世界に慣れ切ってしまっているからです。そもそも日常って何ですか。誰にとっても日常は同じだと決め付けていませんか。例えばあのゲームです」
ディアは勉強机に鎮座しているパソコンのディスプレイを指差した。今もまだゲームのオープニングデモが流れている。
「世界は魔法の力に支配され、モンスターが跋扈し、異種族との争いは何百年も続いている、それがあのゲーム世界の日常。そんな日常を生きている人々から見れば、発達した科学技術の恩恵を受け、誰もが平和に暮らし、剣も銃も所持する必要のないこの日本という国は、非日常と表現して然るべき世界なのです。それゆえゲームとして十分楽しめるのです」
なるほど。我々が非日常と感じる世界から見ればこのありふれた日常は非日常そのもの。殺伐とした毎日を送っている人々にとって、戦いのない平和な世界こそゲームに相応しいというわけか。
「じゃあ、ディアがここへ来る前にいたのは、あのゲームみたいに剣と魔法のファンタジックな世界だったのかい」
「それは……秘密です。でも、そんな感じの世界です。毎日、気の休まる時はありませんでした」
また秘密か。どんな世界からどんな理由でここへ来たのか、それに関する事柄は話したくないみたいだな。ゲーム内のキャラが知ってしまうとゲーム進行に支障が出るような内容なのかもしれないな。
「まあいいや。それでディアは元の世界でどんなゲームをプレイしていたんだよ」
「それは言うまでもなく恋愛シミュレーションゲームですっ!」
「れ、恋愛、シミュ……」
その先は言えなかった。言いたくなかった。これまで一度もプレイしたことがない、いや、プレイしたいと思ったことがないゲームだ。
「それって、つまり今ボクらがいるこの世界は恋愛シミュレーションのゲーム世界である、という意味か」
「はい、その通りです」
「そしてそのゲームに登場する主人公がボクってことなのか」
「まったくその通りです。私と力を合わせてゲームクリアを目指しましょう」
猛烈に心が重くなった。自慢ではないが彼女いない歴=年齢である。この年まで恋愛にはまったく縁がない。
バレンタインの義理チョコは母と姉からしかもらったことがなく、好きになった女子は全て片思いのままで終了しているこのボクが恋愛シミュレーションゲームの主人公だと。馬鹿も休み休み言えと吠えたくなる。
「申し訳ないけどゲームクリアは永遠に無理だと思う。まだ高校生の段階でこんなことを言うのは早計かもしれないが、一生独身の覚悟はできているんだ。もしゲームをクリアできなければ、ディアはずっとこのゲーム世界に閉じ込められたままになるのかい」
「いいえ。時間制限があります。お父上様は高校を卒業するまで私を預かると言っていませんでしたか」
ああ、言っていたな。ゲームプレイ可能時間は三年間か。結構長いな。
「だからと言って三年間ここに留まれるわけではありません。クリアしようがゲームオーバーになろうが、六月の中旬頃に私はこの世界を去ることになっています」
そうなのか。まあ夏休み前にいなくなってもらったほうが、こちらとしても気が楽だ。
「で、ボクのターゲットは誰なんだい」
「決まっているではありませんか。先ほど話に出た源氏物語の葵の上に似た女子、通称アオイさんですよ。彼女と相思相愛になれるよう二カ月半頑張りましょう!」
また胸がバクバクし始めた。今夜は眠れそうにない。
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