豹変するのは君子だけではないようだ
夕食後は何も手に付かなかった。突然現れた異国娘、ディア。頭の中は完全に彼女に占領されていた。
教科書を開いてみても何も頭に入ってこない。パソコンはデスクトップ画面を表示したままだ。どうして自分にはディアの記憶がないのか、その理由は今もまだ得られていない。
「忘れてしまった、か」
それは最も単純であり万人を納得させられる理由だ。だが自分は納得できない。幼少の頃、隣町に住んでいた叔母夫婦のことは覚えているのに、その娘の記憶だけ忘れてしまうなんて不自然にも程がある。
「あの娘、いったい何者なんだ」
リビングで自分が書いた手紙を見せられた時、もはや母とディアの言葉を信じないわけにはいかなかった。まだわだかまりは残っていたものの、いったん自分の記憶云々は脇に置いて、ディアが一人だけで日本に来た経緯を教えてもらった。
「日本を忘れられなかったのデス」
叔母夫婦が日本を離れた理由は海外勤務を命じられたからだ。最初はロシア。その後、各地を転々として現在はイギリスに住んでいる。そんな日々の中でもディアは日本のアニメや漫画を欠かさず見ていたようだ。
「高校生活は絶対に日本で送りたい、それが私の希望、いえ、夢デシタ。父も母も快く了承してくれマシタ。そして今日、私は遂に憧れの日本に来たのデス!」
まあ、その気持ちはわからないでもない。子供の頃の記憶は美化され易いからな。日本を離れれば離れるほど、故郷を慕う気持ちは強くなっていったのだろう。
「ディアちゃんの両親からも協力を頼まれたの。それでおまえには内緒で日本の高校を受験させたの。ばれないように事を進めるのは大変だったのよ。でも合格できて良かったわ」
あろうことか、ディアが合格したのはボクと同じ高校だった。公立の進学校にしては珍しく外国人生徒の特別枠が設けられているのだ。これから三年間、毎日仲良く登校することになるわけだ。少し気が重くなる。
「同じ高校と聞いて天にも昇る気持ちデシタ。私は片時も
外人だけあって表情が豊かだ。今にも涙を流さんばかりの顔を見せられ胸がキリキリと
「悪い。それに関しては謝るしかないよ。許してくれ」
「許しマス!」
外人だけあって気持ちの切り替えが早い。一瞬で笑顔になった。泣いたカラスがもう笑ったという言葉は子供でなくても当てはまるようだ。
こうしてボクとディアの初顔合わせは平和裏に終了した。
「あの時は我ながら情けなかった。意味もなく謝罪してしまったからな。女の涙には要注意だ。あ~、明日からあの異国娘に振り回される日々が続くのか。気が重くなるぜ」
長時間操作をしなかったため、パソコン画面はスクリーンセーバが起動している。その無機質で不規則な動きを眺めながら、この行き所のない不満をどう処理すればよいのかと考える。
「お帰りなさい」
母の声と玄関の扉が開く音。父が帰宅したようだ。時計を見れば午後九時を回っている。いつも通りの時刻だ。この後、風呂へ入り軽い食事をとって一階の寝室へと姿を消すのが父のお決まりの行動パターンだ。
「父さんに話を聞いてみるか」
風呂を出た頃合いを見計らってリビングへ下りる。父はテレビを見ながらツナサラダをつまみにして麦茶を飲んでいた。昔はほぼ毎晩ビールだったが、最近はメタボ検診に引っ掛かからないように、アルコールは週末だけにしているようだ。
(父さんも中年オヤジの仲間入りか)
目立ち始めた父の出っ腹を眺めながら隣に腰掛ける。
「聞いたよ。おまえ、ディアちゃんのことをすっかり忘れてしまったんだってな」
父から話し掛けてきた。先ほどの出来事を母から聞いたのだろう。それならこちらも話がしやすい。
「うん。どうにもあの娘のことだけは思い出せないんだ。それにもし覚えていたとしても、いきなり今日から一緒に暮らしますって言われたら驚くよ。こちらだって心の準備が必要なんだから」
「すまないな。本当は入学が決まった時点でおまえに話しておくべきだったんだろうが、母さんがどうしても秘密にしておきたいと言って聞かなかったんだ」
苦笑する父。きっと父も結婚する前から母のビックリ大作戦の犠牲になっていたのだろう。そう考えると気の毒になる。同類相哀れむというやつだ。
「まあ、姉さんの部屋は鍵がかかるし、あれでなかなか気遣いのできる娘のようだから、それほど心配する必要はないと思うぞ。三年間、面倒みてやってくれ」
「高校を卒業した後はどうするのかな」
「それはわからん。ただ進学にしても就職にしてもウチで預かるのは三年間だけだ。向こうの両親ともその条件で引き受けている」
父の言葉は少し冷たく聞こえた。自分と母はディアと血縁関係にあるが、父にとっては義理の妹の娘、血のつながりはない。知り合いの娘を同居させてやるくらいの感覚なのだろう。
「ねえ、父さんはあの娘のことを覚えているの」
「いや、おまえと同じでほとんど覚えていない。ウチに遊びに来ても滅多に会うことはなかったからな。一番の思い出は向こうの家族と一緒にディズニーランドへ行ったことくらいか。いきなりミッキーマウスと英会話を始めてな。随分と驚かされたものだ」
「そうなんだ」
やはり完全に記憶がないのは自分だけのようだ。一人暮らしをしている姉からは一時間前にメールが届いていた。
――今日から始まる女子高生との同居生活。毎日ドキドキが止まらないでしょ。くう~、羨ましい!
速攻で削除した。人をからかって楽しむ性格は母譲りである。
「ちょっと、一階にいるのならお風呂入っちゃいなさいよ」
台所で後片付けをしていた母が戻ってきた。これ以上父と会話しても何も得られそうにない。そろそろ退散する頃か。
「はーい」
風呂へ入り、二階の自室へ戻る。何をするでもなくパソコンの電源を入れる。父と話したことで少し気が晴れはしたが、まだもやもやは残っている。
「考えていても仕方ないか」
記憶のあるなしにかかわらず、あの異国女子と三年間同居生活を送ることは決定事項だ。いつまでも我を張らずこれも運命と割り切り、周囲に合わせて過ごしたほうが精神的に楽だ。それに三年経てばこれまでと同じ生活が戻ってくる。
「そうだな。三年間の辛抱だ」
心のもやもやがかなり薄れてきた。ゲームのアイコンをクリックする。残り少ない春休み。存分にゲームを楽しんでおこう。
「ヘエ~、ゲーム、好きデスカ?」
耳を疑った。振り返ると真後ろにディアが立っていた。
「い、いつの間に……」
全然気が付かなった。ドアが開く音も足音も息遣いも、何も聞こえなかった。いや、そんなことよりどうしてここにいるんだ。そろそろ就寝時刻だろう。こんな夜更けに若い娘が年頃の男子の部屋を訪れるなんて言語道断の振る舞いだ。これほどの暴挙に及んでまでも解決せねばならない用件でもあると言うのか。
「何か用?」
できるだけ平静を装って尋ねる。が、心臓の鼓動は止まらない。ディアはパジャマ姿。上のボタンを外して大きく開いた胸元からは豊かな谷間が覗いている。ツインテールは解かれて先ほどよりも女っぽさが増している。こんな格好を見せられて平常心でいろと言うほうが無理な話だ。
「私のこと、少しは思い出してくれマシタカ?」
その話か。悪いがまるで思い出せない。わざわざそんなことを訊きにきたのか。
「いや、父さんとも話したけど……」
と言い掛けて口を閉ざす。正直に答えてどうなると言うのだ。こんな時刻にやって来たんだぞ。「少しも記憶にない」などと答えたら、「ジャア、思い出させてあげマス」とばかりに昔話を何時間も聞かされることになるんじゃないか。それも今日だけでなく明日も明後日も繰り返される可能性だってある。冗談じゃないぞ。嘘も方便。ここは適当に答えておくのが賢明だ。
「えっと、父さんと話して少し思い出せた気がするよ。ディズニーランドでミッキーマウスと英会話していたよね。ビックリしちゃった」
さっそく父の記憶を流用させてもらった。父よ、貴重な情報を提供していただき心から感謝する。
「アレレ、話したのは、ミッキーマウスではなく、ドナルドダック、デシタヨ」
なんだと。くそ、感謝は取り消しだ。
「あ、ああ、そうだったね。ドナルドだったね」
「それに、英語ではなくロシア語デシタヨ」
「あ、ああ、そうだったね。英語もロシア語も子供には同じに聞こえるからね」
声が震える。ずぶずぶと深みにはまっていく気がする。ディアの口元に笑みが浮かんだ。まるで小悪魔のような薄笑いだ。
「うふふ、ウソですよ。英会話をしたのはミッキーマウスです。あなたってウソが下手ですね」
「えっ!」
突然の豹変。流暢な日本語。喋り方が変わっただけなのに目の前にいるディアは別人のように見えた。話し方も表情も顔付きも、それはもう十代の異国の小娘ではなかった。
「ディア、その言葉、そんな日本語が話せるのか?」
「はい、話せますよ。これまでわざと片言で喋っていたのです。あ~、疲れた」
「どうして。下手な日本語を話す必要性がどこにあるって言うんだい」
「それが私のキャラだからです。十年近く海外で暮らしていて、今日、久しぶりに日本へ戻ってきた帰国子女。そんなキャラがペラペラと流暢な日本語を話していたらおかしいでしょう。だから片言で喋っていたのです。まあ要するにキャラを演じていたってわけですね」
キャラを演じる? 何を言っているんだ。説明を聞けば聞くほど謎が増えていくぞ。
「つまり君はディアではない他の誰かで、何かの事情でディアになり切ろうとしている、そういう意味なのかい」
「いいえ、私はディアですよ。生れた時からその愛称で呼ばれています。ただこの世界の存在ではありません。別の世界の存在なのです。今日ディアはイギリスから日本へ来たのではなく、別世界からこの世界へ転移したのです」
頬をつねる。痛い。どうやら夢ではないようだ。パソコンの画面からはゲームタイトルが消えて、賑やかなオープンニングデモが始まっていた。
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