第416話 生涯最高にして最低の夜篇⑦ 暴走する心と言霊の魔法〜僕のために歌ってよ幼馴染様
* * *
『ねえ、知ってる? 風鈴の音を聞いて実際に涼しくなるのは日本人だけなんだって。あなたの中にある遺伝子が、この音を涼しいと感じて、末梢神経に働きかけるの。私にはただの甲高い音にしか感じないのにね――』
僕は移動時間を利用して、心深がヒロインを務める新作アニメ映画の予告編を視聴していた。
内容はソプラノ歌手を目指すフランス人ハーフの少女と、しがない日本人バイオリストの物語である。
少女は喉の病に侵されており、療養も兼ねて父の生まれ故郷である日本を訪れる。
日本人の方はアラサーの男で、色々なことが重なってバイオリストを挫折。今は酒浸りになりながら、日本では珍しいバイオリンの弾き語りを夜の街で披露し生計を立てている。
お互いに音楽を断ち切らなければならない帰路に立たされた少女と男が出会い、惹かれ合いながらもそれぞれの決断をしていくという淡い恋の物語である。
「マジか……このヒロインをあいつが演じてるのか……」
そうなのだ。このハーフの少女役を務めているのが僕の幼馴染様なのである。
同じく彼女がヒロインを務める映画――今年はじめの超大作SFアニメ映画は大成功を収めて、現在もロングラン上映中である。
その大きな要因のひとつとなったのが、心深が『サランガ災害』で行った英雄的行為であり、さらに勲章まで授与されると、彼女が声を務める映画は話題が沸騰。現在では数々の日本映画記録を塗り替える快挙を打ち立て続けている。
そんな彼女の次なる出演作品は、またしてもアニメ映画のヒロイン役なのだが、先程も紹介した通り、フランス人と日本人のハーフであり、ソプラノ歌手を目指しているという難しい役どころだ。
最初は会話部分を心深が演じ、歌の部分をプロに任せる案があったそうだが、なんとどちらも心深が演じているのだ。
元々歌唱力の高いことで有名な心深だったが、クラシックな声楽などは未経験。だが、ヒロインが見習いソプラノ歌手であることから、プロに演技させるよりも、実際に未熟な心深に歌わせるほうがよりリアリティが出ると監督が判断したそうだ。
彼女は数カ月間の集中レッスンを受けて、本当にソプラノの歌唱法を身に着け、実際に劇中曲を歌っていた。
「おお、マジで心深の声だ。上手いなあ……!」
電車に揺られながら、イヤホンを使って映画の予告を視聴する。おそらく一番見どころのシーンだろう。誰もいないクラブホールで、男のバイオリンに併せて少女が生き生きと歌っている。そのソプラノボイスは、紛れもなく心深のものだ。
これがかつてレーザーメスとまで呼ばれた怪鳥音の持ち主だとは、小学生当時彼女を馬鹿にしていた同級生たちも、とても信じられないだろう。
それにしても、と思う。
表の世界で僕の幼馴染はビックリするくらいの大成功を収めているではないか。
本人の才能もあるのだろうが、よくもまあ『サランガ災害』の混乱も冷めやらぬ中、次の出演作品のために新たなスキルを身につけながら、普通に今までの仕事も熟しているものだ。
ちょっと学校がおろそかになってしまっているようだが、それもこの活躍からすれば致し方ないことだろう。
「ん?」
綾瀬川心深関連のネット検索一覧の中に、気になるものを見つける。
「熱烈なファンが暴走?」
心深のミニソロライブに参加していたファンが、警備員の静止を振り切り舞台になだれ込んだという事件が遭ったようだ。本人の説得により大事はなかったようだが、これ以降、心深は人前で歌うことをしていないという。
なんだろう。もし僕の予想が正しければ、これはひょっとして心深のもうひとつのスキルによるものなのではないだろうか。すなわちそれは――
『次は国際展示場正門、国際展示場正門です』
目的の駅に到着した僕は、よくコミックマーケットなどで話題となるビッグサイトがある出口とは反対側に向かう。
今回心深がいるのは駅を挟んでビッグサイトとは反対にあるイベントホールだった。
「あ……無理だ」
僕の中にくすぶるニートの血が早々に白旗を上げた。
ホールがあるビルの周辺には入場無料のイベントにあぶれた心深のファンと思しき人々で溢れていた。
エントランスは商業施設が入っており、一般客もたくさんいるようだが、やっぱり彼女のファンたちは男性が多い。
すでに入場規制が行われているようで、二階の会場に連なるエレベーター前には締め切りの看板が立てられ、もうこれ以上会場に行くことはできないようだ。
「帰りたい。帰りたいけど……」
今日中に心深に結婚報告をしなければ、明日のバカンスに間に合わない。並ぶのなんて大嫌い。ヒトの多いところも苦手。だが僕には魔法があるじゃないか。
僕は一旦エントランスを出ると、駅までの道中、死角になっている木陰で魔法を発動する。
水の魔素をまとい、周りの風景と同化する。あとは再びエントランスに戻り、風に乗ってエスカレーターを飛び越える。
ふわりと着地し、足音をさせないように移動。どうやら心深は三つあるホールの一番大きいところでイベントをしているらしい。
ホールの出入り口には警備員が立っており、ドアは完全に締め切られている。だが事前に見ていた施設案内では、三階の方にスタッフルームやフィッティングルームがあるようだ。二階の搬出入り口から行けるようだが……。
(ビンゴ……!)
ファンとは明らかに違う、関係者と思わしきスーツ姿の女性が歩いてくる。
警備員が立つ搬出入り口で首から下げたパスを見せると、無言で通されている。僕は彼女の後ろにピッタリくっついて侵入することに成功した。
彼女が向かっているのはどうやらフィッティングルームのようだ。関係者が控えている部屋は限られるので、そこに心深がいる可能性が高い。僕はそのまま後ろをついていく。
「入るわよ」
若干焦った口調と共に女性がフィッティングルームのドアをノックする。そのまま僕も一緒に中に入ると、そこには――
「何してるの、まだ着替えてないの!?」
下着姿の幼馴染様が項垂れるようにソファに腰掛けていた。おっと。ラッキースケベですね。紳士な僕はそれとなく目をそらした。
女性はどうやら心深のマネージャーのようだ。
ツカツカと彼女に歩み寄ると、近くにあったローブを手に取り、心深の肩にかけた。
心深は俯いていた顔を上げ、マネージャーの方を見ると、再びガックリと肩を落とす。そして絞り出すように言った。
「歌いたくない……」
「またそんなこと言って。歌がメインの映画なのよ。あなたが歌わないでどうするのよ!」
心深は無気力そのものと言った様子で静かに首を振っている。なるほどマネージャーの焦りはこれに起因しているのか。
「ねえ、本当にどうしたのよ。収録の時は普通に歌えてるじゃない。みんなあなたの生の歌を期待してるのよ」
肩にかけたローブ越しに優しく背中をさするマネージャーだったが、心深はむずがる子供のようにその手を厭い、ひじかけ部分に突っ伏した。
「もしかしてまだあの事件を気にしてるの? ファンが暴徒化したのは怖かったでしょうけど、あなたくらい人気が出ればありえないことじゃないわ。そんなんじゃこれから先やっていけないわよ」
「違うの。あの人達は悪くない。あれは全部私のせいなの……!」
「またそれなの? よくわからないけど、それなら尚更あなたは歌わなくちゃダメじゃない」
「歌ったら、また同じことが起きる……」
「今日も同じことが起きるとは限らないでしょう。この前は歌えてたじゃない」
「あんな腑抜けた歌をみんなに聞かせるくらいなら歌わない……」
「もう、ワガママもいい加減にしてちょうだい!」
マネージャーのその言葉に、今度は心深が苛立ったように顔をあげる。そして眉根を釣り上げると、マネージャーへと食って掛かった。
「あの時は本気で歌わなかったから大丈夫だっただけなの! でもそれだと私の実力は伝わらない! みんなに失望されるくらいならもう歌いたくないの!」
「なんなのよそれ……。そりゃあ確かにいつもよりセーブした歌い方だったけど、あなたが本気を出すと、またファンが暴走するっていうの?」
心深は渋面を作りながらコクリと頷く。
マネージャーは呆れたようにため息をついた。
「ある程度プライドも必要だと思うけど、まだまだキャリアの浅いあなたが言ったところで自惚れにしか聞こえないわよ、その理屈……」
あ、と僕は思った。
心深は顔を真赤にしたあと、目尻に涙を溜めて、テーブルに置いてあったブラシを投げつけた。
「うるさい! 出ていって! ひとりにして!」
「はあ……コーヒー買ってくるわ。あと十五分で繋ぎも終わるから、戻る頃には着替えててよね。あなたもプロなら、会場のファンを裏切る真似はしないでちょうだい」
そう言ってフィッティングルームを出ていくマネージャー。心深はしばらく彼女の消えたドアを睨みつけたあと、ソファにうつ伏せに倒れた。
自惚れるなとマネージャーに言われたとき、僕はてっきり心深のあの怪鳥音ボイスが炸裂すると思ってしまった。
だがその後にも言われた通り心深はもうプロなのだ。自分の喉を痛めるようなヒステリーは起こさないようになったのだろう。
僕は透明化を解除する。室内灯によって床には僕の影が落ち、鏡台を見ればしっかりと姿が写っている。心深は組んだ両腕に突っ伏している。その肩が小刻みに震えていた。
少しためらったあと、僕はそっと手を伸ばす。ポンポンと、優しく肩を叩く。ビクっと心深が震える。そしてそのままの格好で声を荒げた。
「出ていってって言ったでしょう。なんで戻ってくるのよ……!」
「いや、違うんだけど……」
ピタっと震えが止まった。
数瞬間を置いたあと、彼女が猛然と振り返る。
「やっほ」
また日を改めたい心境が一割。結婚報告したいという使命感が二割。あとの七割は、魔法に関わるものとして放っておくことができないという義務感だった。
そして、涙目で振り返った幼馴染様になんと声をかけたものかと迷った末の「やっほ」である。
我ながらもっと気の利いた台詞はないのかとも思うが、起き上がりながら滑り落ちたローブのせいで、今の彼女は下着姿だった。
「あ、あんた……!」
「あー、しばらく来られなくて悪かった。それより何か着てくれませんかね」
妻帯者として紳士的に顔を反らしながら言ったのだが、返ってきたのは強烈なビンタだった。
「この――遅いのよッ!」
理不尽極まりない仕打ち。目の中に星が散る。
だが次の瞬間、僕は暖かなものに包まれた。
「ホントに遅い……待ってたんだからぁ!」
僕の背中に腕を回し、心深が力の限り抱きついてくる。
何度も言うが、彼女は下着姿である。薄い布一枚で、それ以外は素肌を晒している。決して小さくない彼女の膨らみが、僕の胸に押し付けられる。
「おい、落ち着け。もう一度言うぞ。何か着てくれ」
「イヤっ……待たせたあんたが悪い。もう少し、このままで……」
いつの頃からか、同い年でありながら姉のように振る舞ってきた心深だが、今の彼女はまるっきり子供のようだった。
日本全国にその名を知られる女の子であり、声優であり、歌手でもある。高校生という身分でありながら、大きな仕事を抱え、大きな期待を背負う少女である。
僕のようにヒトを逸脱したわけでも、後ろ盾があるわけでもない。等身大のその細い肩に、実に多くのモノを背負っているのだ。
「あのな、おまえの電話番号が変わってて、こんなとこまで不法侵入してくる羽目になったんだぞ僕……」
「ストーカー対策。定期的に番号とかメアド変えてるの。そのせいで希や夢とも疎遠になっちゃった」
僕は離れない心深をそのままに、ソファへと腰掛ける。必然僕の胸に収まった心深は、さらに密着するように腕に力を込めてくる。
いくら暖房が効いているとはいえ、今の季節は風邪が心配だ。露出した彼女の肩や背中は、まるで燃えるような熱を帯びていたが、そこにそのまま手を置くことはためらわれた。
床の上に広がったローブまでは手が届かない。せーレスではないが、水の触手を作って拾い上げる。こういうとき魔法とは便利である。
「そうか、人気者は大変だな」
「うん。ホントめんどくさい」
ローブ越しに肩に手を置く。
フッと強張っていた心深の全身から力が抜けていく。
安心しきった子供が身体を預けてくるように、僕らの密着度が更に増す。彼女の胸から、早鐘のような鼓動が伝わってきた。
「僕はこの間、希さんと夢さんと会ったぞ」
「は――? なにそれ。なんであんたが私の友達に私抜きで会ってるの?」
甘酸っぱい雰囲気が吹き飛ぶ。
心深がユラリと僕を睨めつけてくる。
痛い。爪を立てるな。猫かおまえは。
「も、もちろん、会ったのは甘粕くんたちと一緒にだ。おまえ知ってるか、甘粕くん学校辞めたんだぞ」
「あ、うん。なんか色々ひどい目に遭ったって、なんとなく。それいくらいしか知らないけど」
「もう大丈夫だ。僕が就職口を紹介した」
「あんたが?」
両目を見開いて、信じられないという風に見上げてくる。彼女の中では、ニートだった頃の僕の記憶が強すぎるのだろう。
「前に会った時話しただろう。魔法学校の先生をしたって。美術専門の教師になってもらったんだ。昨日から向こうに住み込んでる。元々子供好きだから上手くやってくれると思う」
「昨日から? あんたはいつからこっちにいるの?」
「今週頭からだ」
心深は片眉を器用に跳ね上げながら、ギョロッと目を彷徨わせる。視線が僕のところで止まると、再び爪を立てながらニッコリと笑った。
「なんですぐ私のところに来なかったの? というかこの数ヶ月何してたの? 全部言いなさい」
「痛い痛い痛い。言うから。血が出ちゃうだろ」
そして僕は家族ごとこちらに来ているということを説明した。
心深に話していたのは、魔法学校の教師をしていたところまでだったので、それ以降の話をする。
龍神族の領地を奪還するため、我竜族の王ゾルダと戦ったところから、妹ミクシャを王に据えて我竜族ごと領地に取り込んだ件や、東国エストランテでの政変に巻き込まれて判明したドルゴリオタイトの特性から、それを使って商売を始めたこと。
放射能に汚染された聖都を浄化していたことなどを簡単に話して聞かせた。
「――というわけなんだけど」
「ゲームの話、じゃないんだよねもう……」
以前の心深なら、僕のこのような話はゲームの中のできごとだと決めてかかっていた。
だが、彼女自身も魔法に関わるようになり、そしてあの『サランガ災害』を通じて、この世ならざるものが本当にあるのだと、おとぎ話のような出来事も現実にあるのだと思い知ったはずだ。
それと同時に、もう僕が以前の僕ではなく、それどころか人間ではない証も、あのラブホテルでまざまざと見ているはずなのである。
「違う世界で王様かあ……元ニートが大出世したじゃない」
「まあな。おまえも現役高校生でおまけにアイドル声優だろ。すごいじゃん」
「私はダメ、もういっぱいいっぱい……」
心深は僕の首に腕を回し、ギュウっとしがみついてくる。これも以前の彼女からは考えられない、気弱な言葉と態度だった。
いや、もしかしたら、引きこもり続けていた僕を前に、ことさらしっかりした姿を見せようと、彼女は気を張り続けていたのかもしれない。
今やそんな必要もないと判断し、本来の素の部分を見せているのだろう。それは、彼女の中にあったニートの僕が完全に死んだことを意味していた。
「ねえ、私もそっちに行きたいな」
「そっちって?」
「あんたが王様してる世界。そこで私の仕事先も世話してよ」
「残念ながら電気も発明されてない世界で、テレビもアニメもないんだぞ。声優の仕事口なんてないよ」
「いいわよ、声優なんてもうやめる。なんならどこかの下働きでもいいから」
僕は初めて弱さを見せる心深に驚いていた。
子供の頃から己の声にコンプレックスを持っていた彼女は、その声を活かせる仕事に誇りを持っていたはずだ。
まだニートだった頃、彼女は僕に、渡された台本やら、今度声をあてるアニメを熱心に話してきたことが何度もあった。
少なくともその時の彼女は自分に与えられた仕事を心から楽しんでいるようだった。
「おまえ……やっぱり、自分の魔法を制御できなくなってきてるのか?」
心深は無言で目をそらした。それが答えだった。
言霊の魔法と、僕が呼んでいるのが彼女の特別なスキルの正体だ。
地球では珍しい、本物の魔法使いである彼女は、己の声を媒介にして、人々の精神に影響を与えることができる。
彼女よりさらに強い魔力を帯びた僕などには効かないが、魔力が枯渇した地球の人間は抵抗力が皆無なので、彼女がその気になれば、いくらでも精神支配が可能なのである。
「お前の生の歌を聞いたファンが暴走したって、それもまさか――」
「…………うん。『こっちに来て、抱きしめて』って。そんな歌詞だったかな。本当に感情を込めて歌ったら、あんなことになっちゃって……」
だから人前で歌いたくないとゴネていたのか。
機械を通して収録した声を流せば問題はないのだろうが、マネージャーさんが言っていたとおり、それだけでは済まない場面が多々ある。
特に心深のように顔出しまでして売っている声優は、ファンの前で歌うことも少なくない。そんな時に言霊の魔法が発現して、彼女は無意識にファンのヒトを操ってしまったのだろう。
本当にそうして欲しいわけではもちろんない。でも、本気で歌えば、言葉になぞらえた、望まない影響を及ぼしてしまう。
そうならないためには歌わないことが一番だ。しかし、それも仕事である以上、限界がある――と。
「わかった。とりあえず今、僕の前で本気で歌ってみろよ」
「え、なんで――」
「大丈夫だ。僕がなんとかするから。らしくない弱音を吐く前にやってみるんだ」
「う、うん……」
腕の中から心深が見上げてくる。
不安そうに、それでいて名残惜しそうに離れると、彼女は肩からローブを引っ掛けただけの格好で、その美声を響かせた。
ポップなノリのアニメソングの方ではない。新しい映画で使われる声楽だろう。正直言って圧倒される。それくらい彼女の歌は本物だった。そして――
「なるほど」
心深の全身から発散される確かなエネルギー。それは魔力。普通の人間には見えないが、極稀に鋭いものにはオーラのように認識されるかもしれない。この魔力に当てられたものは、その精神に影響を受ける。
以前は「黙りなさいよッ」という彼女の言葉によって、それを耳にした全員が口をつぐまされ、呼吸すらできなくなったほどだ。その時よりも、ずっとパワーアップしているみたいだった。
「
僕は
魔素分子星雲が魔素に魔力を添加した励起状態なのに比べて、魔素情報星雲の方は魔力を添加していない。
したがって、それで心深を包み込み、魔力だけを吸収して歌声だけを素通りさせる即席のフィルターに使用するのだ。
「うん、問題なさそうだ」
魔素情報星雲というフィルターに吸収された心深の魔力は、人間としては破格でも、僕やエアリスたちのような精霊魔法師からすれば微々たるものだ。これなら十分カバーすることができる。
「ほ、本当に大丈夫なの?」
「ああ、とりあえず僕がお前の歌声に乗った魔力を吸収しちまうから、普通に本気で歌っても大丈夫だぞ。これから出番なんだろう、袖で見ててやるから――」
最後まで言い切る前に、僕は押し倒された。
さっきは子供のように抱きついてきた心深だが、今はまるで犬か猫が愛情表現するみたいに顔や身体をこすり付けてくる。当然、ローブははだけた下着姿の状態でだ。
「ありがとう、本当にありがとう!」
異世界に逃げたいなどと弱音を吐きながらも、彼女はやっぱりプロの声優であり歌手なのだ。自分のファンを置き去りにして逃亡などできるはずがない。自分の力だけではどうしようもない事態に陥り、心が疲れていただけなのだろう。
「僕の方こそ悪かった。まさかおまえがこんなことになってるなんて。もっと早く来てやれば、怖い思いもさせなかったのにな……」
ハッキリ言って、暴徒と化した男性たちに集られるなどトラウマものだろう。彼女の説得によって大人しくなったらしいが、それも言霊の魔法で大人しくさせたに違いない。
僕はアウラやセレスティアにするように、抱きついてくる彼女の頭を優しく撫でた。心深がビックリしたように僕を見てきたが、トロンと目を細めると、いつかのホテルのように僕の胸に顔を埋めた。
「あんた……やっぱり変わったわ」
「そうかな」
「絶対そうよ。僕の方こそ悪かった、なんて昔なら死んでも言わなかった台詞じゃない」
「いやあ、本気で一回死んでるからね僕」
死んで生まれ変わったからこそ今の僕があるのだ。そして常人では決して体験できないような日常を送っている。それで何も変わらなかったら、それこそただの馬鹿だろう。
「あのね、ファンのヒトたちが舞台に上がってきた時の歌ね」
「うん?」
「私、ずっとあんたのこと考えながら歌ってたの」
こっちに来て、抱きしめて――という歌詞だったか。
「それだけじゃない。私が本気で感情込めて歌うとき、いつも心の中に思い浮かべるのはあんただけなの――」
しつこいくらい言っているが、心深は下着姿である。そんな姿のまま、僕を床に押し倒し、あまつさえ強請るように赤くなった顔を寄せてくる。
「心深、入るわよ」
ノックの音に気を取られた僕の唇に、心深の唇が重なった。バシャンという水音と共にコーヒーの香りが漂う。
フィッティングルームのドアの前にはマネージャーさんが驚愕の表情で立ち尽くしていた。
「なッ、なにしてんのあんたたち――!?」
ホント何してるんでしょうね僕ってやつは。
それはそうと、結婚の報告いつしようかな。
もう無理かも……。
続く。
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