第404話 キミが笑う未来のために篇2⑨ 世界がキミを傷つけるだけのものなら〜偏屈男を新天地へとご案内・後編

 *



 俺は画家になるつもりはない。

 自分のあるべき将来を否定した甘粕くんに、希さんと夢さんは声を揃えて「嘘ぉ!」と驚いた。


「なんでなんでー? 甘粕くん画家になるんでしょ、そうなんでしょ? っていうかこんなに絵の才能があるのにあり得なくないー?」


「そうだよ〜、こんなに描けるのにもったいないよ〜、というか学校も辞めちゃって画家にもならないって、じゃあどうやって生活していくの甘粕くんは〜」


 やっぱり女子は現実的だった。

 ちょっと怒った感じになる希さんと夢さんだったが、それも彼を心配してのことだろう。


「ちょっと男子たちー、黙ってないでなんとか言ってやりなよー!」


「お友達のことでしょう〜、黙ってるなんて薄情だよ〜」


「いや、なんてつーか、なあ?」


「せやねえ、こればっかりはねえ……」


 針生くんと星崎くんは口が重い様子だった。

 そうすると必然希さんと夢さんは僕の方を見てくる。

 甘粕くんは相変わらず落ち着いているようだったが、希さんたちの言葉に一切動じてないあたり、決意は硬いようだった。


「そうだね、多分今の希さんたちと同じようなことを、針生くんと星崎くんはずっと前に甘粕くんに言ってたんじゃないのかな。そしてもう彼の意志が変えられないことを半ば納得してるんだろうね」


「え、そうなの?」


 希さんの問いに針生くんと星崎くんは沈黙で肯定した。

 でも、ふたりだって本心では甘粕くんに才能を活かした道に進んでほしいと願っているのは間違いないだろう。


 そんな友人たちの願いを真っ向から否定するように、甘粕くんは懇懇こんこんと己の考えを話し始める。


「才能がある、絵で食べていける、お前は画家になれる。そんなことは子供の頃から散々言われてきたさ。祖父さんの知り合いという画家から、家に出入りをしていた美術関係者、果ては祖父さんの愛人だった女性からもな……」


 特に両親を亡くし、この家に引き取られてからというもの、甘粕くんは絵を描くことを黄赤氏に強要されたらしい。それこそ巨匠は孫の才能を伸ばすための鬼となった。寝ても覚めてもキャンバスの前に座らせられ、学校に行くことすら二の次で、半ば虐待のように毎日毎日絵を描かされ続けたという。


「芸術の世界で食べていくということは尋常じゃない。本人の才能だけじゃなく、それを支える者との出会いが必要不可欠になる。そして俺の場合、そういうヒトたちはもう決っている。俺が絵の世界に飛び込んだが最後、俺を祖父さんの代わりにしようと、付き合いのあった連中が手ぐすねを引いて待っているのさ」


 甘粕くんの口ぶりからは、それを望んでいないことは明白だった。

 幼い頃から彼の才能を認めながらも、山本黄赤の孫という色眼鏡でしか甘粕くんを見てこなかった大人たち。


 そんな大人たちが欲しているのは山本二世。しかも既に傑物となってから付き合い始めた一世とは違い、今度の二世は自分がその才能を認めて引き出した、育てたのだとうそぶける。祖父に群がっていたものたちが、今度は甘粕くんに群がってくることが予想されるのだ。


「祖父さんが死んでからしばらくの間は、ずいぶんと連中は顔を出していたよ。俺を心配するフリをしながら祖父さんの遺作を物色したり、俺の画風にあれこれと注文をつけるようになっていった。祖父さんが存命中はそんなこと一言だって言わなかったのに、死んだ途端俺に対して色気を出してきたのさ。あわよくば自分好みに俺の絵を育てようとしていたんだろう。だから俺は一切絵を描かなくなった。もう描かないと宣言すると、連中は俺に興味をなくして去っていったよ……」


 芸術に関しては鬼だったとはいえ、祖父を亡くし、天涯孤独となったばかりの子供を慰めるふりをして、大人たちは囲い込みを始めた。


 甘粕くんは幼いながら、その下心を看破する目を持っていたために、彼らの醜い心の内をまざまざと見せつけられてしまった。


 試しに絵を描くのを辞めると言うと、大人たちは手のひらを返したように彼の前から去っていった。もし、このときに誰かひとりだけでも、甘粕志郎という寄る辺ない子供に手を差し伸べていれば、彼は救われていたかもしれない……。


「もうこのまま、ずっと絵画とは無縁の生活を送ってもよかった。でもあの日、俺は出会ってしまった。アウラさんという奇跡の女性に……」


 風の精霊が具現化した存在であるアウラ。

 それこそ四大精霊信仰が息づく魔法世界マクマティカにおいては神と同義とされるアウラを見た途端、皮肉にも祖父譲りの芸術家の感性が刺激され、再び筆を取るきっかけになったという。


 もっというなら、カーネーション・キッズブランドのイメージキャラクターにアウラが採用され、その写真に惹かれたのが決定打になったそうだ。


 筆を執りたい衝動を抑えるために、販促ポスターを売って欲しいと問い合わせたが断られ、結局自分で模写することにしたらしい。


 ちくしょう。そういう事情なら僕に言ってもらえれば手に入れることができたのに。


「再び絵を描き始めて、つくづくわかった。俺は祖父さんの孫という宿命から逃げられないと。今回退学の件で生活指導室に呼ばれたとき言われたよ。お前は山本画伯の孫なんだから、変なことをしてその名を汚すなってな」


「マジかよ……!」


「いくらなんでもそれは……!」


「甘粕くんが犯人じゃないのに……!」


「酷い……!」


 衝撃の事実だったが、当の甘粕くんはもう諦めているのだろう、皮肉げに頬を釣り上げながら、その目はどうしようもなく死んでいた。逆に学校側の心無い対応にみんなはショックを受けているようだった。


「それじゃあ僕からも聞きたいんだけど、甘粕くんはこれからどうするつもりなの?」


 彼の考えはわかった。

 ならばこそ大事なのはこれからのことだ。

 絵を描かないならそれでもいい。


 でも学校を辞めたことは良くない。

 もしこれが、絵を描くことに集中したいからとか、悪い醜聞が立ってしまった学校をやめて、他校で心機一転するというなら話はわかるのだが……。


「とりあえずはバイトをするつもりだ。いい加減両親や祖父さんの遺産で食うのはやめようと思う」


「バイトっておまえ、将来はどうするんだよ?」


 ようやく出てきた具体的な方策に、針生くんが即座に聞き返す。バイトをして、それからどうするかと。


「それからもなにも、それだけだ。とりあえず生活費を稼げればいい」


「甘粕っち、成績だって僕よりいいくらいやん。学校に入り直したりはせえへんの?」


「いや、俺はどうやら働いている方が性分にあってるらしい。なあに、中卒でも自分ひとりならいくらでも食べていけるさ」


 せめて高卒であるならばまだ職の口もあるだろうが、中卒となれば仕事は限られてしまう。単純労働や肉体労働が悪いのではない。自分の道をせばめている彼のことをみんな心配しているのだ。


「そんな、まだ未成年なんだし、ご両親のお金を頼るのは悪くないじゃんかー」


「そ、そうだよ〜、高校生なんだから、なにもそんな急いで決めなくてもいいのに〜」


「これは前々から考えていたことなんだ。いずれこの家も処分しようと思う。庭や廊下の有様を見ただろう。俺には管理しきれないんだ。六畳一間のアパートにでも引っ越そうと思う」


 甘粕くんの決断は、まるで断捨離のようだった。不必要なものだけでなく、己の人生さえ切り捨てて、自分をさっさと枠にはめようとしている……そんな風に見えるのだ。


 自分しかいない、たったひとりの人生。早めの決断は時間だけでなくお金の節約にもなる。まだ夢を見ていられる学生という身分を捨て、自身を早めに規定してしまう。僕もかつては彼と同じだったからその気持はわかる。わかってしまう。


 針生くんは口を引き結んで不機嫌そうだ。

 星崎くんもこれ以上何を言っても無駄だと項垂れてしまっている。

 彼の身の上と、ある意味尖すぎる決断を聞いて、希さんと夢さんは涙目になっていた。


「みんな、これは別に皮肉でいうわけじゃないが、俺は魔法も使えないし王様でもない、普通の人間なんだ。何も人生を儚んで自殺するわけでもない。ただ真っ当に生きていくために働こうと言ってるだけだぞ」


 それは確かにそうなのだろう。だがそれでも、みんなの心が晴れることはない。


 誰よりも才覚に溢れる男が、祖父から続くしがらみに縛られ、思う様やりたいことができずにいる。


 彼が自由になるためには、日本を飛び出て海外にでも拠点を移さなければならないだろう。いやそれでも、絵の世界に居続ける限りは、必ずどこかで干渉されてしまうのだ……。


「さて、宴もたけなわだな。今日は来てくれてありがとう。遅くなるまえに帰った方がいい……」


 重い空気を察した甘粕くんが解散を宣言する。

 だが、誰ひとりとして席を立とうとするものはいなかった。

 まだ何かできることがあるのではないか、もっとなにかいい方法があるのではないか。


 甘粕志郎という友人のために自分たちのできることはないだろうか。彼が自由に羽を伸ばせる未来はないだろうか――


 懊悩するみんなを追い出すつもりはないのだろう、甘粕くんは穏やかな表情でみんなを見つめている。ただそれは、諦めてしまうのを待っているようにも見えた。


 やれやれ、忘れてないかな甘粕くんは。社会人の先輩が、ここにはいるってことをさあ――


「甘粕くん、いくつか聞きたいことがあるんだけどいいかな」


「うん、なんだ? いいぞ、なんでも聞いてくれ」


 みんなが顔をあげる。

 まるで一縷の望みを僕に託すように、その目には期待が込められていた。

 応えてやろうじゃないか。僕は王様だからな。


「あの絵を描いたとき、キミはどんな気持ちで描いたのかな」


 あの絵というのは、二メートル近い巨大キャンバスに描かれた美人画のことだ。アウラをイメージして描いた心象画とも言える作品である。


「あれか……。特にどうという感情はないんだがな」


「描きながら、早く完成させたいけど、でもわざと筆を遅らせたりしたんじゃないのかな」


「…………何が言いたんだ?」


 要領を得ない僕の質問をみんなは訝しんでいる。

 でも甘粕くんからの表情からは笑みが消えていた。

 諦観からくる、取り繕った余裕の笑みがなくなったのだ。


「あの画はもう筆を置くため、決別のために描き始めたんだろうね。でも、早く描き上げてラクになりたいのに、描いてるうちに楽しくなって、もっと描いていたい、筆を止めたくないって、そう思っていたじゃないのかな」


「はは、妄想が過ぎるぞ成華。確かにあれは断筆のつもりで描いたものだが、今の俺は晴れ晴れとした気分でいる。まるで元日の朝にパンツを履き替えたばかりのような気分ってやつだ」


「おまえなあ……」


「アホかいな……」


 男子は速攻で反応するが、女子たちはキョトンとしている。

 残念、そのネタは通じませんでした。


「ところが妄想じゃないんだなあ。僕ってほら、人間じゃないから、色々みんなには見えないものが見えるんだよ。生の絵画に触れる機会はこれが初めてだけど、キミの絵からは徹頭徹尾『愛の意志力』しか感じられない」


「愛の意志力、だと。なんだそれは?」


「僕ら魔法師が四大魔素へと働きかける意志のことだよ。愛と憎。ポジティブとネガティブ。陽と陰。それは精魂込められた無機物にも宿り、周囲の魔素に働きかける。この世界の人間には、魔素を励起させるための魔力がないから視覚化はできないだろうけど」


「いや、おまえが何を言ってるのかまったくわからん。どういうことなんだ?」


「つまり、こういうことさ――」


 僕は徐に席を立ち、壁際まで行くと室内灯の電源をオフにする。

 すでに夕食時で日が暮れていたため、部屋の中は当然真っ暗になる――はずだった。


「なッ、馬鹿な!?」


「おいおい、これって」


「ほえー、甘粕っちの絵が」


「なんかキラキラと輝いてる?」


「すっごく綺麗なんだけど〜」


 深緑の空に抱かれた風の乙女の絵が、幻想的に光り輝いていた。

 おそらく甘粕くんは無意識に、だが強い意志力を込めて、風のイメージをキャンバスに込めたのだろう。


 そこには愛の意志力――ポジティブな感情しかなかったのだ。

 絵を描くことが好きで好きでたまらなければ、これほどまでに美しく、風の魔素が集結することなどあり得ない。


 逆に言えば、彼がどうしようもなく世界を憎悪し、負の感情を込めて絵を描けば、おそらく魔力を添加した途端、周囲を焼き尽くす炎が顕現していたかもしれない。


 ヒトの持てる愛の意志が宿ったこの絵画は、そういう意味でも傑作といえる作品なのだ。


「甘粕くん、性根を据えて返答して欲しい。キミの将来を左右する大事な質問だ。絵を描くこと自体は、好きなんだよね?」


「それは――」


 核心も核心の質問に、甘粕くんは一瞬詰まった。

 全員が注目するなか、彼は「はあ」とため息をひとつ、素直に頷いた。


「嫌いだ、と言ったところで好きな証拠を目に見える形で示されては認めないわけにはいかないな」


 なにやらややこしい返答だが、好きってことでオーケーだね。


「じゃあキミの本当の望みは、お祖父さんのしがらみが一切ないところで、思う存分絵を描くことでいいかな?」


「それができれば一番いいが、難しいだろう。先程も言ったが、俺はもう学校を辞めた身だ。働かなければ食べていけない」


「それもそうだね。もうひとつ質問。キミは子供が好きみたいだけど、それはどうして?」


「なんだその質問は。意図がまるでわからんぞ」


「これが一番大事なことかもしれない。キミは学校のクズどもが言うように本物のペドフィリアなの?」


「馬鹿をいうな。男女を問わず子供とは慈しみ、守ってやらなければならない。大人の歪んだ嗜好を押し付けることがどれだけ本人を傷つけるか。それだけは絶対にあってはならないのだ……!」


 その言葉の前半は以前にも聞いたことがある。だが後半の言葉はどうにも実感が込められているように聞こえてしまった。


「間違ってたらごめんだけど……もしかして子供の頃キミ自身がなにかされたの? 例えばお祖父さんの愛人っていうヒトとかに……」


 サッと、僕と甘粕くん以外の全員に緊張が走った。

 甘粕くんは一瞬虚を突かれたように目を見開いたあと、ゆるゆると首を振った。


「やれやれ、ここだけの話にしてくれよ。お察しのとおりだ」


 山本黄赤の家に出入りしていた愛人は、銀座の高級クラブに務めるホステスだったそうだ。黄赤がまだ存命だった頃、まだ子供だった甘粕くんに、隠れて悪戯じみたことをしていたらしい。


 そこまでされていたとは僕も予想外だった。

 針生くんは怒りの表情を顕にし、星崎くんは絶句している。

 淡々と話す甘粕くんの様子に、希さんと夢さんは声を出さずに泣いていた。


「最初は母親代わりのように慕っていた女性だった……。だが、さすがにこれはおかしいと思い、祖父に相談するとすぐに追い出してくれた。それが唯一の救いだったが――」


「おい、今の話のどこに救いがあるんだよ……!」


「甘粕っちが辛い目に遭ったんは変わらへんやん……!」


「私自分が恥ずかしい……。甘粕くんのこと誤解してた……」


「私もだよ〜、てっきりそういう趣味のヒトなのかと……。でも本当は小さい子が、自分のような目に遭ってほしくないだけだったんだね〜……」


「なんだ、みんな引かないのか? 今の話を聞いて気持ち悪かったりしないのか?」


 恐る恐るといった甘粕くんの言葉に、みんは示し合わせたように激怒した。

 そんなことはないと、むしろ怒りの矛先は、幼い頃彼にトラウマを植え付けたその女に向かっていた。


「ああ、なんだ……、暴かれておいてなんだが、自分のトラウマを肯定され、怒ってもらえるというのは、ずいぶん心がラクになるものだな……ははっ」


 力ない笑みだったが、その目頭には薄っすらと涙が光っていたのを、誰もが見て見ぬふりをした。


 僕もだ。僕もようやく甘粕志郎という男がわかった気がする。

 突飛な行動や言動、趣味や嗜好のその源流を知ることができて、彼を心から信頼できると、そう確信していた。


「答えにくいことまでありがとう甘粕くん。でもそのおかげでキミの考えや人となりがよくわかった」


 我ながら面接官みたいな物言いだが、事実これは面接のつもりだった。


「そういう事情があるのならば、僕はキミにいい提案ができると思う。いっその事、海外とは言わずに、違う世界で新しい生活を始めてみないか?」


「なに? それはどういうことだ……?」


 改めて室内灯を点けたリビングで、甘粕くんを始め、みんなが僕に注目する。

 彼の望む生活を僕は用意することができるのだ。


「山本黄赤なんて誰も知らない別の世界で、才能ある子どもたちを相手に絵の先生をして欲しいんだ。キミにピッタリの仕事だと思う」


 その提案を聞いた瞬間、死んでいた甘粕くんの目が一瞬輝いたのを僕は見逃さなかった。


 続く。

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