第400話 キミが笑う未来のために篇2⑤ 例えばこんなふたりの出会い方〜大人の階段を昇る鋼鉄の少女
* * *
「えー、本日は急遽、留学生を迎えての実習になります。あなた、自己紹介を」
「私の名はエアスト=リアスという。短い期間だがそなたたちと
恰幅のいい講師の隣に見たことも聞いたこともない美少女が立っていた。真っ白い調理服に身を包んだ褐色の外国人だ。結い上げてまとめられた髪は青みがかかった本物の銀髪であり、瞳は月の輝きを思わせる深い琥珀色だった。
ごくりと、年若い男子生徒たちは生唾を飲み込む。いつも目にしてるコックコートとはこんなにエロい服だったかと。いや違う。彼女のプロポーションが飛び抜けていいのだ。女子平均を上回る長身に、突き出たバスト、くびれた腰と大きなお尻。同級生の女の子とは格が違う、と。
クラスの半数を占める女子たちは戦慄していた。とても同じ人間とは思えないのが来た、と。ここは伝統の技術を学ぶ教室である。あんな女は綺麗な洋服を着てモデルでもしていればいいのではないか。来る場所を間違っている。ただ一部の女子生徒は凛々しいエアリスの姿に内心黄色い悲鳴を上げていたが。
「えー、最初に言っておきます。エアスト=リアスさんはとある小国で高い身分にある方です。皆さんはくれぐれも失礼のないように」
全員が心の中で悲鳴を上げた。
ただでさえ圧倒されるような美少女なのに、高貴な身分など反則である。
「えーでは、本日は基本的な包丁の扱いについての試験になります。そのあとは調理実習になります」
留学生の扱いに困っているのは講師も同じなのか、未だ動揺を隠せない生徒たちをそのままにさっさと授業を始めようとする。
「講師タカツカサよ、みたところ皆決まった班があるようだが、私はひとりで行えばいいのか?」
「あ、えー、そうですね、どこかの班に入れてもらいましょうか」
次の瞬間、クラス全員が下を向いた。
目を合わせればやられてしまう。
そんな緊張感が漂っていた。
「ふむ……私はここでよい」
なんのことはないエアリスは一番近かった班を選んだだけなのだが、選ばれたグループの子たちは飛び上がってしまう。驚き半分、喜び半分といった表情だ。
「エアスト=リアスだ。迷惑をかけるが何卒よろしく頼む」
ペコリと、殊勝な態度で頭を下げるエアリスにグループ内は色めき立った。そして選ばれずに胸を撫で下ろしていたはずの他の生徒たちは、何故か嫉妬の心を抱いていた。
「えー、それではみなさん、刃物と火の扱いにはくれぐれも注意してください。実技試験を始めますよ」
風の精霊魔法師エアリスの日本での授業一時間目が始まった。
*
「足取りが軽い……そうか、これが人生の勝利者の気分なのか!?」
地下鉄を降り立ち、改札を抜け、日の当たる場所へと出た僕の第一声はそのようなものだった。
人生をなめきったわ若者特有のセリフではあるが、事実僕はこの地球の価値観で言ってもかなり『飛び抜けた』存在ではないだろうか。
学歴や社会競争から早々に離脱し、その気になれば悠々自適な生活をおくることができる。その気にならないのは、次から次へと問題が起こり、王様という立場上、僕が頑張らざるを得ないからだったりする。
「なんとかなあ、ドルゴリオタイトの販売とエストランテの交易と花火と皆保険と治療石研修と公共事業と多種族との折衷と義務教育普及が一段落ついたらのんびりと……」
いつになるんだそれは!?
もしかして僕は不死身というチートと引き換えに、一生働き続ける運命を背負ってしまったのかもしれない。
嫌だあ。休みは欲しいよう。
そうだ、僕は王様なんだ。
月イチくらいで公休日ってのを設定すれば、堂々と朝から二度寝ができるんじゃないだろうか。
「それはいいな。あとはセーレスとエアリスと……むふふ」
いやあ、どうにもこうにもね、結婚が決まったものの、いまいちふたりとのんびりできてないんだよね。どっちか片方となら割といいとこまで行くんだけど、最後までとなるとまだだ。情けない限りである。
でもせっかくお嫁さんがふたり(妻の妻という設定だが)いるんだから、同時に楽しんでみたいと思うのは男として至極真っ当な願望ではないだろうか。
「チャンスはある……」
あるはずだ。とくにアウラとセレスティアがおでかけするイベントをこの後も考えている。あの邸宅がダメならふたりを別の場所に連れ出してもいい。
狙い目は今度の土曜日。つまり三日後である。学校も休みになるその日に、僕は大いなる計画を立てている。
「誰にも邪魔されず、本物の男にならなければ……!」
そう決意し、横断歩道の前で信号待ちをしていたときだった。
「――えいッ!」
――衝撃。女の子? 可愛い――死――!
「おおおおッ!?」
けたたましいクラクションが耳をつんざき、僕のすぐ真横にトラックが迫る。
僕は轢かれる直前、クッション代わりにトラックと自身の間に水魔法を展開。地面を蹴って自ら跳んだ――のだが、跳ぶ方向までは考えてなかった。辛うじてヒトがいない方を選んだ結果、駐輪自転車をなぎ倒しながら信用金庫のドアを突き破ってダイナミック入店をしてしまう。
外からの悲鳴と銀行内の悲鳴。
警報ベルが鳴り響き、僕はとっさにどうにもならないと判断。その場から脱兎のごとく逃げ出した。
*
「い、一体誰が僕を……!」
殺そうとした!?
トラックに轢かれる直前、確かに聞こえた。
「えいッ!」という女の子の声が。
「この世界でこの顔で恨みを買うような真似はしてないんだけどな……」
テロリスト、タケル・エンペドクレスはウィッグにメガネで、素顔は割れてないはず。僕に殺意を持つ女の子なんて、究極的に言えば心深くらいしか心当たりがないんだが……。
闇雲に逃げてきて、気がつけば住宅街の中にいた。呼吸を落ち着けて歩き出せば、小さな公園の入口が見えてくる。自販機もあるみたいだし、飲み物でも買って休憩しようかな。
「あのー?」
「えっ?」
突然声をかけられ振り返る。
そこには黒髪の少女が立っていた。
年の頃は同じくらいだろうか。
どこの学校のものかわからないセーラータイプの制服を着た少女――否、美少女と言っても過言ではないだろう。
艷やかな黒髪は肩のところで切りそろえ、前髪はやや短めでツルッとしたおでこが露出している。目は大きくパッチリしており、キラキラと輝いていた。
胸は――ほほう。なかなかの戦闘力をお持ちのようだ。エアリスや前オクタヴィアを見慣れた僕でも感服せざるを得ない。そういうレベル。少なくともこんな子が教室にいたら、周りの男子たちは色めき立つこと確実だろう。
「さっきは、大丈夫でしたか?」
「さっきって――まさかキミが?」
「はい、ぶつかってごめんなさいでした」
「ぶつかった? 僕思いっきり『えいッ』って聞こえたんだけど?」
「そ、それは、軽くのつもりだったんですが、まだ力加減がよくわからなくて。お声をかける切っ掛けにしようとしたんですけど、あんなことになるとは思わなくて……」
少女は申し訳なさそうに眉をしょげかえらせている。正直僕は殺されかけたのだが、その表情を見ていると責める気がもりもり失せていく。
「もういいよ。幸い身体は頑丈なんだ。この通り怪我もなかったから」
「そうですよね、それはよかったです!」
今にも泣き出しそうだった顔が一瞬で笑顔になる。その表情はお世辞にも可愛らしいものだった。調子狂うなあ……。
「せめて何かお詫びをさせてください! あ、アレって自販機ですよね!? 飲み物でもいかがですか、ごちそうさせてください!」
「いや、僕予定があるから気持ちだけで……」
「ダメ、ですか?」
うわあ、そんな決壊寸前の涙を目尻いっぱいに湛えられても……。
「ご、ごちそうになります」
「はい!」
こうして僕は、見ず知らずの少女とお茶をすることになった。これは決して浮気ではない。念の為自分に言い訳しておく。
「あ、そうえば私、真希――
「はい?」
「名前です。そちらはなんとおっしゃるんですか?」
「……タケル」
「タケルさん! よろしくおねがいしますね!」
もうホントなんなのこの子は……。
*
「ぶーッッ!」
「うわ、汚い! なにすんのよおばさん!」
公園前で邂逅を果たしたふたりから少し離れたところに停車したワゴン車。
マジックミラー越しにタケルと真希奈の様子を観察していたマキ博士が盛大に吹き出した。
「なななな、なんであの子がその名前、里桜って今――!?」
「ああ、真希奈ちゃんの偽名のこと? あれっておばさんが将来女の子生んだ時つけたい名前なんだっけ」
「だからどうしてアンタが私のトップシークレットを知ってるのよ!?」
「落ちてたし」
スッと、付箋がいっぱいついた結婚情報誌が差し出される。
それはマキ博士の涙ぐましい努力の跡が見て取れる走り書きやメモが挟まれており、生まれてくる子供の姓名判断特集には特に大量のメモが書き込まれていたのだ。
「机の引き出しに閉まってたのは落ちてたとは言わないわよ!」
「もーうるさいなあ、爪切り借りようと思って漁ってたら出てきたんだもん。おばさんどんだけ頑張ってるんだろうって応援したくて見ちゃったのよ。男の子は
「あ”あ”あ”あ”あ”ッッ!」
座席シートを倒して突っ伏し、顔を覆って足をバタバタさせるマキ博士。
「あー、もう静かにしてよ。ほら、ふたりして公園の中に入っていくよ。真希奈ちゃん逆ナン成功だね!」
「トラックに轢かせる逆ナンなんて嫌いだー!」
イリーナはマキ博士を放って、パソコンのステータス画面から聞こえる真希奈とタケルの会話に耳を澄ませた。
*
「はい、タケルさんはコーヒーでいいんですよね?」
「あ、ああ……お金出したのは僕だけどね」
そうなのだ。
自販機の前まで元気よく駆け出していった少女は、その場で途方に暮れたように泣き出してしまったのだ。慌てて事情を聞いてみれば彼女は無一文で、結局僕がお金を出す羽目になった。
この子――里桜といったか。
見た目は高校生くらいなのだが、中身はだいぶ幼いのかもしれない。おまけに情緒不安定で、感情の振り幅が大きすぎる。
正直あまり積極的に関わり合いたいと思えない子だったが、何故か放っておけない気持ちにさせられる。悪い子ではないと思うのだが……。
「あっまーい! なんなんですかこの飲み物! こんなの毎日飲んだら病気になっちゃいますよー――あっはっは!」
オレンジ果汁100%のジュースを選んだ彼女は、一口飲んだだけで大騒ぎだった。まるで今初めて清涼飲料水を飲んだとでもいうように。
「あ、遅ればせながらジュースごちそうさまです!」
「い、いや、いいけど……」
今僕らは公園の中のベンチにふたりで腰掛け、缶を傾けている。
駅前の喧騒は遠く、園内はゆっくりとした時間が流れている。豊葦原の近所にこんな公園があったなんて知らなかったな……。
「その、キミがどういうつもりか知らないけど、僕は壺も絵画も買わないからな」
「は? ……ああ、女性に声をかけられることに慣れていなんですね」
「ッ、いや……」
「それとも私のために冗談を言ってくれたんですか?」
「…………」
一瞬で言葉の裏側まで回り込まれて気を使われてしまう。会話のイニシアチブを取ろうとして失敗してしまった。恥ずかしい……。
「里桜のこと、ちゃんと女の子だって認識してくれてるんですね」
「それは、どこからどうみてもそうだろう」
隣の少女が女の子以外の何に見えるというのか。
僕は当たり前のことを言っただけなのに、少女は嬉しそうに顔を赤らめ、とびっきりのはにかんだ表情を見せてくれる。
「嬉しいです。あなたにそう言っていただけただけで、里桜は生まれてきた意味があるような気がします」
「そんな大げさな……というか、本当になんで僕なんかに声かけてきたの?」
「タケルさんのことが好きだからです」
「ッ、……初対面だよ僕ら?」
「初恋ですねえ。お顔を見た瞬間ビビビって来ちゃいました」
「いや、悪いけど僕には――」
「というのは冗談ですけど」
「…………」
完全に手玉に取られている。
少女はもう楽しくて楽しくてしょうがないのか、足をブラブラさせながらご機嫌で身体を揺すっている。
「里桜は16歳ですが、タケルさんも同い年くらいでしょう。だから里桜とおんなじ仲間かな、と思いまして」
「仲間?」
「サボり仲間です。豊葦原の生徒さんですよね?」
「いや、僕は違うけど……って、キミは豊葦原の生徒なの?」
「はい、と言っても来週からになりますけど」
「ああ、なるほど」
転校生か。
それなら豊葦原じゃない制服を身に着けているのも納得だ。
「今日は先生方にだけ挨拶して、通学路の周りを見て回ろうと思ってたんです」
「それで僕を見つけてサボりだと思ったと」
「はい、違いましたか?」
「惜しいけど外れだ。辞めたんだ学校」
「どうしてですか?」
「家庭の事情ってやつだよ。家業の方が忙しくなったから豊葦原を中退してそっちの仕事をしてるんだ」
「まあ、もう働いてらっしゃるんですね。すごいです、どおりで大人っぽい方だなあと思いました!」
「そ、そうかな?」
「はい、そのお歳でもうご自分で独り立ちされてるなんて尊敬しちゃいます!」
ストレートな言葉がいちいち胸に刺さる。
お世辞なんかじゃなく、本気で言っているのだとわかるからだ。
そんな無防備な気持ちをぶつけられるとどうしていいのかわからなくなる。
「あれ、お顔が赤いですよ。どうかしましたか?」
「大丈夫だから、あと近いから」
「里桜が近いと嫌ですか?」
「嫌っていうか、恥ずかしいじゃん」
「そうか、照れてらっしゃるんですね?」
「そうだよっ!」
僕が怒鳴ると少女はクスクスと笑いながら離れていく。顔立ちは純日本風なのに、もしかして海外育ちなのか。
こんな無邪気な女の子が現代日本で育つとはちょっと思えない……。
「はあ、世界ってこんなに美しかったんですね……」
「ぶはっ!」
口をつけた缶コーヒーを吹き出しながら隣を見やれば、少女はポーッと目を細めながら空を見上げていた。まさに天高く馬肥ゆる秋……いや初冬の空である。中天に差し掛かる日差しは柔らかく、ちょうどいい陽気だ。
「その言い方って、まるで昨日今日生まれてきたみたいな物言いだね」
「あ、当たりです。里桜って実は先程生まれたばかりなんです」
「冗談だよね?」
「嘘かホントか、どっちだと思います?」
「もしかして僕をからかってる?」
「そんなこと――なくもないですけど」
「もしかして漫画とかアニメとか好き?」
「大好きです!」
そうか権田原桜智さんとおんなじ趣味の子なのか。それならば、こんな夢見る少女みたいな物言いも納得できる。
「さて、僕はそろそろ行くよ。話ができてよかった」
「え、もう行っちゃうんですか!?」
「うん、これから友達に会う約束があるんだ」
「そんな……」
呆然と、まるで親に置いて行かれる子供みたいな表情で僕を見上げる少女。
その手から、空っぽになった缶を取り上げると、僕は自分のと一緒にくずかごに捨てる。
「待ってください、もうちょっと、もう少しだけお話を――」
「友達が欲しいんだったら、キミみたいな子、学校に行けば人気者になれるよ」
「そうじゃなくて、里桜はタケルさんと、タケルさんだけとお近づきになりたいんです! タケルさんじゃなきゃダメなんです……!」
「いやホント、一年前にキミみたいな子にアタックされてたら、僕みたいな元ニートはイチコロだったかもね」
でも、今は違う。
「僕ね、こう見えて妻帯者なんだ。もうすぐ式も挙げる予定。今日はこっちの友達にその報告もするつもりなんだ」
「ご結婚、されるんですか……?」
「うん。そうだよ」
さすがにふたりの女性と、とは言わないでおく。
日本の常識に照らし合わせても理解されるとは思わないからだ。
「お相手の方、里桜よりも好きなんですか?」
「そうだね……キミが望む答えを、僕は言ってあげられないと思う」
「そうですか……」
「じゃあ、バイバイ。もう会うこともないと思うけど」
「――ッ!?」
そう言って、彼女に背を向けた次の瞬間だった。
先ほどと同じように、再び背中に衝撃。
体制を崩しながら振り返れば、すぐ目の前に少女の顔が――
「痛ってて……」
顔を上げれば、公園の出口に消えていく少女の後ろ姿が見えた。それを見送った僕は、仰向けに倒れたまま眩い青空を見上げる。
「キス、されたよな今……」
有無を言わさぬ強い力。
無理やり押し倒されて伸し掛かられて、一瞬の躊躇いを見せた彼女が、それでも精一杯の親愛を込めてしてきたであろう口づけ。
唇が微かに触れ合うだけの拙いものだったが、その分切実な気持ち……というか感情が伝わってきた。
「僕のことが好きってマジだったんだな……」
てっきり冗談半分かと思ったら、あれは本気も本気だったようだ。
自分の記憶を漁って、地球にいた頃を思い出してみるが、あんな女の子と知り合った覚えはない。心深以外のクラスメイトの子は、顔も名前も忘れてしまっている。
だけど、キスされる直前に見た、僕だけを真摯に見つめるあの瞳には見覚えがあるような……。
「あれ、もしかして」
まるで昨日今日生まれたばかりみたいな――
あ、当たりです。実は先程生まれたばかりで――
「ええ〜……マジ!?」
ひとつの可能性に思い至り、僕は頭を抱えた。
そうと知ってたら、もっと優しくしたのに、とも思う。
「いや、違うか」
あくまでひとりの女の子として僕と普通に出会って会話したかったってことだろう。
「おまえだって知ってたら、答えは違ったぞ…………真希奈」
*
「――ヒック、グズ……、うえーん!」
車内はお通夜状態だった。
車を運転するマキ博士も、大泣きする真希奈を隣で抱きしめるイリーナも、かける言葉が見つからなかった。
答えなんて本当はわかっていたはずなのに。
今更第三者としてタケルに告白をしたところで、もう入り込む隙間などないはずなのに。
それでも肉体を手に入れてしまったからには、小さくとも可能性に賭けたくなってしまった。その夢が、ある意味当然のように破れてしまったのだ。
真希奈はまだ生後一年足らずである。
様々な要因から、年不相応に大人びてはいるが、その情動はまだまだ未熟な部分が多い。
肉体を手に入れたばかりで、様々な五感情報を受け取りながら、自分の創造主に否定的な言葉を言われては、このようになってしまうのも無理からぬことだと言えた。
こうなることは、少し考えればわかることだった。それでもマキ博士もイリーナも、科学者特有の好奇心に負けてしまった。
真希奈が傷つく可能性よりも、肉体を得た精霊の感情クラスタの変化をモニターすることばかりに気を取られてしまった。大いに反省しなければなるまい。
「真希奈ちゃん、ごめんね。大人としてもっと慎重に行動するべきだったわ……」
後部座席で涙に暮れる少女をいたわるように、青信号と共に優しく車を発進させながらマキ博士は謝罪した。
「私もごめんね。一緒にはしゃいじゃった……」
自分よりも大きな真希奈を抱きしめながら、イリーナは頭を撫でていた。
「違います……グス、これは必要なことだったのです……真希奈が本当の意味でタケル様の娘になるために……」
通過儀礼だったのだと真希奈は言う。
失恋という心の痛みを経験することで、自分の不埒な感情を封印することができるのだと。
こんな思いをするくらいなら自分は娘のままでいいと。
他人なら、振られてしまえばそれでおしまい。
でも娘なら、一生側にいられる。一生愛し続けることができる。
バイバイ、などと背中を向けられることなど絶対にないのだ。
「そっか……いや、それにしても真希奈ちゃんは私が30年かけてようやく体験できたことを、わずか一年足らずで全部こなしちゃうんだから、ホントすごいよ。もうすっかり大人だねえ」
「おばさん、自分で言ってて悲しくならないそれ……」
「うっさいわね。場を和ます気遣いを汲み取りなさいよ」
「おばさんの場合単なる自虐にしか聞こえないんだもん」
「なにをー!?」
ふたりの言い争いを耳にしながら、真希奈は自分の気持が落ち着いていくのを感じた。重い沈黙が満ちていた先ほどよりも、今の雰囲気の方が心が幾分軽くなるようだった。
「次は娘として、会いに行きますねタケル様……」
悲しみを乗り越えて、少女はまたひとつ大人になる。ふたりが再会する時は近い。
続く。
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