第391話 キミが笑う未来のために篇㉙ アウラとセレスティアの冒険〜迫る自然の脅威と純愛の行方・後編

 *



「アンタたち、どうしてここに――!?」


「お嬢様、探しましたぞ!」


 水仕事をするイオの元に現れたのは、商家ロイダーズに仕える男たちだった。


 彼女が想いを寄せる男――ジャンが貴族の身分を捨てて冒険者になったように、イオもまた裕福な商家の娘という立場を捨てて冒険者になった経緯がある。


 偶然にも冒険者同士として再会した幼馴染同士は、タケル・エンペドクレス扮する冒険者ホシザキ・ナスカによって背中を押されてくっついたのだった。


「この町でお嬢様らしき人物を見かけたと他の商会の方が教えてくださったのです!」


「ああ、なんという、まさかロイダーズ家の長女がこんな下賤な水仕事をしているだなんて!」


「大旦那様が見たらさぞやお嘆きになられることでしょう!」


「ちょっと、いい加減にしてちょうだい!」


 掴まれていた腕を振りほどき、イオは眦を決して自分の実家に仕える男たちを睨み据えた。


「私は家に帰るつもりはないの! もう結婚の約束をしているヒトだっているんだから!」


 キラーンと、自分の胸に下げられた美しい石を誇示するイオ。陽光を反射して煌めくドルゴリオタイトを印籠のように掲げる。


「な、なんですってー!?」


「さ、最悪の事態だ……!」


「どこの馬の骨とも知れない男に、うちのお嬢様が汚されてしまった!」


「失礼なことを大声で言わないで! それにジャンは馬の骨なんかじゃないんだから!」


 真っ青になってブルブル震えるロイダーズの商人たちは、ひとしきりこの世の不条理を嘆いたあと、決然と顔を上げた。


「こうなってはもはや問答無用!」


「全ての裁定は大旦那様に一存いたします!」


「私達の首と引き換えにしてでも、貴方様を連れ帰りますぞ!」


「ふん、やれるもんならやってみなさい――!」


 イオはサッと距離を取ると、炎の魔素を集め始める。彼女は魔法師だ。それも冒険者として後衛を務められるほどの腕前である。


 だがそんなことは商人たちにとっては百も承知のことだった。


「先生、お願いします!」


「やっと出番か」


 その男はまるで血に濡れたナイフのような男だった。全身から発散される獣のような殺気。近くにいるだけで周りを威圧している。


 それと見て真っ当な職業にないとわかる男の眼光に、イオは集中力を乱されてしまう。


「女、俺は魔法師専門の殺し屋だ」


「こ、殺し屋ですって!?」


「おっと。今日は殺しはなしだ、一応な」


 クックック、とイヤらしい笑み。

 男はイオの全身を舐め回すように見た。


「金をもらって雇われているからな。殺さずお前を戦闘不能にする。ただまあ、骨の一本くらいは覚悟して貰おうか」


 言いながら男はスススっと移動し、なんだなんだと遠巻きに見物していた見物人たちの方に移動した。ビクっと、イオはそれだけで己の不利を悟った。


「くッ、卑怯者……!」


「ふはは、善人の証拠だな。お前の得意な魔法はなんだ? ファイヤーボールか? いいぞ、どんどん打ってこい。だが一発二発は必ず躱してみせるぞ……!」


 得意の魔法が撃てない。撃てば確実に無関係の野次馬を巻き込んでしまうからだ。


 イオは完全に相手の術中にハマりつつあった。

 魔法師という強者を相手にしても怯まない男はそれだけの実力を有しているのだろう。


 はっきり口にした以上、戦えばイオは確実に怪我を負わされるほどの攻撃を受ける。痛みや恐怖は集中力を阻害し、魔素を集める邪魔をする。


 イオは完全に追い詰められていた。


「怪我をする前に降参するか、怪我をしてから降参するか、好きな方を選べ!」


 ギラリと、男が腰だめのにナイフを抜き放つ。人々から悲鳴が上がった。男は一瞬身体を沈ませると、猛烈な勢いでイオに飛びかかる。


「くぅ――」


 この場での不利を悟り、イオが背を向け走り出す。男は口の中で「馬鹿め」と呟き、イオに猛追するが――


「――ぶッ!」


 したたかに顔面を打たれ、その場にもんどりうって倒れてしまう。


「え――」


 イオが振り返るとそこには、ふわりと宙に浮いたアウラの背中があった。


「ば、馬鹿な! 何だ今のは――」


 唐突に鋼よりも硬い不可視の壁が現れて、顔面からぶつかってしまった。男は頭を振りながら、褐色の少女をにらみつける。


「なんだガキぃ……今のは魔法か?」


 かろうじて分かるのは魔法ということだけ。

 だが、自分が今まで戦ってきたどの魔法師たちとも何かが決定的に違う。


「いお……あいつわるいやつ?」


「え、ええ、そうよ」


「だって、せれすてぃあ」


「はいはーい」


「ッ!?」


 自分のすぐ背後から聞こえてきた声に、男は飛び上がった。一体いつの間に――


「くそ――ガキ、邪魔をすると――お、おお!?」


 この子供を人質に取ろうと男が手を伸ばそうとするが、身体が動かない。まるで全身を縄で締め上げられているような圧迫感だけがあった。


「何をしたクソガキめぇ――!」


「――おまえ、うるさいよ?」


 ゾクリと、男の身体が総毛立つ。

 そして自分の中にあった殺し屋としての矜持が崩れ去る音を聞いた。


 眼の前にいる子供。それが姿通りではなく、もっと別の何かだと気づいたのだ。


 その証拠に、よくよく目を凝らしてみれば、自分の身体が動かせない原因は何かか全身を絡めとっているからであり、透明な蛇の姿をしていて――


「とりあえずお前はポイね」


 男の足元でセレスティアが腕を持ち上げる。

 それは実際には、男の全身を縛る水精の蛇(今は透明化させている)を操る動作だったのだが、周りの人々には、少女が見た目らしからぬ膂力を持って、大の男を持ち上げたように見えた。


「な――ななななぁッ!?」


「そーれ、ぐーるぐーるぐーる」


「お、お、お、お、お、おおおおッ――!」


 大の大人がひとりが、まるで重さなどないかのように振り回されている。

 最初は抵抗をしていた男も、回転が増していくごとに抗えなくなり、最後は手足を投げ出して悲鳴さえ上げられない有様になった。


「アウラ、河ってどっちだっけ」


「たしか……あっち」


「それじゃバイバーイ」


 セレスティアが手を離した瞬間、男は放物線を描いて飛んでいった。

 屋根を飛び越え、遥か遥か遠くへと吹き飛んでいき――見えなくなった。


「あ、かわ……あっちだった」


「えー、ホント? あ、でも大丈夫みたい。生きてる生きてる」


 男が消えた方角を見て、セレスティアは明るい声を上げた。

 それは多分に辛うじて、という意味だが、わざわざ治療しに行く義理もなかった。


「アウラちゃん、セレスティアちゃん。あなた達は一体……?」


 九死に一生を得たイオがふたりに問いかける。

 だが次の瞬間、人々の歓声が三人を包んだ。


 イオはもちろん、アウラもセレスティアもビックリした顔をしている。

 見事恐ろしい風貌の暴漢を倒して退けたアウラとセレスティアに人々は拍手を送り、褒め称えている。


 呆然とするふたりに、イオはしゃがみ込んで目線を合わせると「ありがとう、助かったわ」と頭を下げた。アウラとセレスティアは顔を見合わせ「えへへ」と照れたように笑うのだった。


 そうして、惜しみない拍手が降り注ぐ中、人垣の向こうから一人の影が飛び出した。


「イオッッ!!」


「――ッ、ジャン!」


 男は革鎧に剣を帯びた冒険者風の出で立ちをしていた。

 先程の男がひと目で暴漢とわかるのに対し、ジャンと呼ばれた男はひと目で好青年とわかる風貌をしていた。


 人々が見ている中、ジャンは走り出し、イオもまた彼の胸に向かって飛び込んでいく。


「わわ……」


「わあ〜」


 子供が見ていようが誰が見ていようが関係ない。

 ふたりは固く抱擁し合うと、唇を寄せ合った。

 人々から先ほどとは違った色合いの歓声が上がる。

 たっぷり口づけを交わしたふたりは、息がかかるほどの距離で会話する。


「おばさんたちが知らせに来てくれたんだ……無事なようでよかった」


「私は大丈夫よ。あの子たちが助けてくれたの」


「あの子たちが? 本当に?」


 アウラとセレスティアに目を丸くしたジャンは、さらにイオから事情を説明され、深く頷いた。そしてふたりの前にまでやってくると、地面に跪き、深々と頭を下げた。


「俺の大切なヒトを守ってくれて感謝する。ありがとう、小さな魔法師さんたち」


「どう、いたしまして……」


「ふふん、まあね〜」


 アウラはもじもじと顔を赤くし、セレスティアは恥ずかしさを誤魔化すように明後日を向いて頷いた。そんな二人の様子にジャンとイオはどこまでも優しい笑みを浮かべていた。


「そういえばジャン、あなた仕事はどうだったの?」


「そうだ、聞いてくれ! 腕前を買われて倉庫番の警備係になったぞ! 定職だ、真っ当な給金がもらえるぞ!」


「やったわ、さすが私のジャン!」


 ふたりは再び抱擁し合い唇を重ねた。

 アウラとセレスティアはそれを見ながら、自分たちの両親の姿を思い出していた。


「お嬢様……」


 声をかけられ、イオが慌ててジャンから離れる。

 苦い顔をするロイダーズ商会の男たちにイオは言い放った。


「私はこの町で、このヒトと生きていくわ。逃げも隠れもしない。来たければいつでも来るといい。でも私の意思は絶対に変わらないから――お父様にはそう伝えて」


 男たちは「承りました」と頭を下げると、がっくりと肩を落として立ち去っていく。


 ジャンは今の会話だけで全てを察したのだろう。複雑な表情を浮かべていたが、口を引き締めると、立ち去る男たちに対して一礼した。顔を上げたときには、何か決意を宿した男の顔になっていた。


「それにしてもさっきのは魔法……よね。なんだかとってもすごかったわ。そんな歳でもう立派な魔法師なのね」


「そんなにすごかったのか?」


「そうよ、あっという間だったんだから」


 ジャンは改めてふたりに向き直るとにこやかな笑みを浮かべる。


「もしよかったら何かお礼をさせてもらえないか。粗末だけど、俺達の借りてる部屋があるんだ。そこで食事でも――」


 ジャンが言いかけたときだった。

 突如として町中に警鐘が鳴り響いた。

 カンカンカンッ、と不気味に轟く金属の鐘に、人々は顔を青くする。


「た、大変だ――、大波が――上流からとんでもない大波が来てる! 港が決壊するぞー!」


 馬に乗って駆けつけた先触れが叫ぶや否や、あたりは大混乱に陥った。

 突如として様相を変えた人々の様にアウラとセレスティアがポカーンとするなか、ジャンの逞しい腕がふたりのお子をしっかと抱き上げた。


「イオ、死ぬ気でついてこいよ!」


「もちろん、わかってるわ!」


 人々の流れに乗りながら、河とは反対方向へと疾走りだすジャンとイオ、そしてアウラとセレスティア。


 背後から阿鼻叫喚の悲鳴が確実に迫っていた。



 *



 時を少し戻して別の場所。

 ひとりの少女が新しく形を成しつつも、まだ名前のないその町の停留所へと降り立った。


早馬車はやばしゃでも結構かかるのね…………あのヒトはいつもこの道を走ってきてるのか……」


 素朴な服装ながらも顔立ちは可愛らしい。

 頭についた猫耳は、普通の獣人種より幾分小さめ。

 それは少女の中に僅かしか獣人種の血が混ざっていないことを意味している。


 ダフトン市の歓楽街ノーバで一番の食堂、バハの店の看板娘、ビオは半ば祖母に尻を叩かれる形で、港湾建設中の町へとやってきた。


 彼女は今とある男性から求婚を受けている真っ最中だった。

 その男性というのが我竜族の青年だった。


 出会いは最悪。

 青年はかつて町を支配して悪さをしていたミクシャ親衛隊の下っ端であり、市内で偶然ビオを見かけて一目惚れをしたのだという。


 その頃の我竜族たちは、バハの店に毎日来ては、少なくなった食料を食い散らかしていく嫌がらせを行っていた。従ってビオの我竜族に対する印象は、未だダフトン市の臣民たちと同様、あまりいいものでは――いや、ビオに限っていえば最悪も最悪と言えた。


「でも、だからってなんで私がこんなこと……」


 ビオの手には大きな籠が抱えられており、中身は弁当である。いつの間にかバハが注文を受け、ビオが作らされた。


 そして何故か今日に限ってそれを馬車でしか行けない距離の港まで届けるようにと命令されたのだ。


 普段はあんなに優しい祖母なのに、今回だけは一切の文句を許さぬ様子で、いいからさっさと届けに行けと怒られてしまったのだ。


 なんで自分が……と、ブツブツ文句を言いながら定期馬車に乗り、東へ向かっている最中、怒りに燃えていたビオはだんだんと静かになっていった。


 未だ舗装されていない道路は硬かったり、泥濘ぬかるんでいたり、デコボコしていたりして、馬車はかなり酷い揺れだった。


 そんな道を我竜族の青年は毎日短い昼休みを利用してダフトン市まで走り、バハの店に通っているのだ。いくら身体が丈夫な種族とはいえ、こんなところを毎日往復していてはいつか病気になってしまうかもしれない。


「でもアイツらがしたことを許すなんて……!」


 おばあちゃんが少ない材料で作った料理を貧乏くさいと馬鹿にしたり、食べもせずに床にぶちまけたり。それらはビオにとって何よりも許せないことだ。危うく止めに入った自分さえ手篭めにされかけたこともあった。


 本当にあのとき、エアリスちゃんと龍王様が助けてくれなかったら、自分はどうなっていたかわからない。今思い出しただけでも身が竦んでしまう。


(でも、その後王様が一緒に謝りに来たし……それに悪いことしたのは彼本人じゃないけど……)


 後日、龍王タケル・エンペドクレスが我竜族の王、ゾルダ・ジグモンドを倒し、ダフトンの治世は正統後継者タケル王へと取り戻された。


 ゾルダ王の恐怖政治から開放された我竜族は新たな王、ミクシャ・ジグモンドの元、ダフトン市の外れに新たな国を建国することが決定した。


 そして避けては通れない道として、暴虐の限りを尽くして迷惑をかけたダフトン臣民への謝罪行脚を王ミクシャとその親衛隊たちは行ったのだ。


 色眼鏡なしに見ても、その真摯な態度は、臣民たちの敵対感情を好転――させるまでには至らなくとも、彼らの建国に反対する者たちを著しく減じさせる結果となった。


 その後、龍王タケル・エンペドクレスの辣腕により、あの東の大国エステランテとの貿易話が立ち上がり、その受け皿を我竜族たちの町に作ることになった。


 つまりダフトン市の豊かな生活に、我竜族たちの町が欠かせなくなってしまったのだ。


 そんな噂にダフトン市の臣民が戸惑う中、バハの食堂にやってきたのが我竜族の青年だった。彼は突然ビオに告白をしてきた。


 他の客がいる中で、あなたのことが好きになった。自分とどうか結婚して欲しいと言ってきたのだ。


 ビオは憤激した。

 私はお前たちの暴虐を忘れていない。いくら謝罪されても絶対に許さない。今すぐ消えてくれと叫んだ。彼は「ごめんなさい……」とこぼし、トボトボと帰っていった。


 いつもなら酒の肴にからかってくる客たちも、あまりのビオの剣幕に、それ以上その話題に触れることはなかった。


 だが翌日、彼はまたしてもやってきたのだ。

 今度は店の中には入らず、入り口の前に立つと、仲間たちのことを謝罪してきた。


 さらに彼は言う。あなたが許してくれるまで毎日謝りにきたい。店の迷惑にならないよう、昼間に一度だけ来る。そして許してくれたら、もう一度告白させて欲しいと。


 昨日の怒りが冷めやらぬビオは、再び激怒して追い返したが、彼の日参はそれから本当に毎日続いた。ビオに怒鳴られようが、客に冷やかされようが、彼は毎日毎日食堂に来続けた。


 やがてその光景はバハ食堂の新たな名物となり、最初はビオの味方をしていた客たちも、次第に彼を気遣うようになっていった。


 そしてある時、彼が実は建設中の港湾作業に従事しており、毎日の日参は自分の脚で走ってやってきているのだと、実際に目撃した客から教えられてしまった。


「私、どうしたらいいのよ……」


 彼を受け入れるべきなのだろうか。

 でも、もしそれが彼の目的だったら。


 地元でも『顔』として知られるバハの娘ビオ。

 その自分といい仲になることで、我竜族の悪感情をすすぐ目的があったとしたら。


 そうして自分たちを油断させておいて、今度はダフトン市の内部に潜り込み、悪いことをしようとしているのかも知れない……。


 自分の判断一つで、もしかしたら街に迷惑をかけてしまうかもしれない。そんなことを考えると、どうしてもビオは彼の誠意を受け入れる気持ちにはなれないのだった。


「でも、今日は本当に、注文されたお弁当を届けるだけだから。それだけだから……」


 我竜族たちの町は素朴ながらも活気に溢れている。ダフトン市から出向している職人さんが多い。ヒト種族と獣人種、そして魔族種が渾然一体と仕事をしている。


 ビオは教えられた通り、人々の波を縫い、もうすぐ完成するという港湾施設の方へ赴く。


「うわ……すごい」


 その光景に、ビオは思わず声を漏らした。

 大きく陸地にくり抜かれた湾と、未だむき出しになっている川底。

 そこには大きな杭が打ち込まれ、その上には桟橋がかけられている。

 加工済みの丸太がいくつも整然と並べられていて、圧巻の光景だった。


 こんなに立派な施設だとは思いもよらなかった。

 これを僅かな期間で建設したというのか。いくら力自慢とはいえ、こんなものを本当に作り出してしまうとは――


「お、来たなビオちゃん。遠くまでわざわざありがとうな!」


「あ、ホビオさん……」


 呆然と湾を眺めていたビオは突然声をかけられビクっと肩を竦めた。だが振り返ると見知った顔だったのでホッと胸をなでおろす。


「どうだ、すごいだろう!」


 ホビオは両手を広げて眼の前の光景を讃える。

 確かにこの施設はすごいので、ビオは素直に頷いた。


「確かにそうですね。あの、ご注文の品です」


「おお、ありがとうよ。じゃあこれがお代な。こっちは馬車の代金な」


「はい、ちょうどですね。それじゃ――」


「ちょちょちょ、待ってくれよ。どうせならもう少しだけ見て行かないか」


「いえ、帰ります」


「違うんだって、もうすぐ水引きの時間なんだよ」


「水引き?」


 聞き慣れない言葉にビオは足を止め首を傾げた。


「上流に作った支流門を閉じて、本来の河の流れに戻す作業さ。そうすると向かって左の上流側から、ドドドっと水が流れ込んできて、今見えてる川底も見えなくなっちまう。その瞬間、見たくないか?」


「そ、そうなんですか? 確かにそれは、見てみたいですけど……」


「よし、じゃあ特等席で見せてあげよう。こっちにおいで」


 言われるまま、ビオはホビオの後をついていく。

 帰りたいという気持ちはまだあるが、好奇心の方が勝ったのだ。でも、すぐにそれを後悔することになる。


「あ――ビオさん!」


「う……!」


 歩き出したホビオの向こうから、嫌でも見慣れた青年が顔を見せる。


 高い背丈に恵まれた身体。顔だってよく見るとカッコいいかも知れない。我竜族の彼だった。


「今日はどうしたんですか? もしかして私に会いに――」


「違います。注文を受けたのでお弁当を届けにきたんです」


「私の食べるお弁当をですか?」


「え? あなたの?」


 ホビオの方を見ると、フイっと目をそらす。

 ようやくわかった。おばあちゃんもホビオさんもグルだったんだ。


「おおっと、ごめんビオちゃん。俺は用事があったんだ。悪いんだけど、案内はこいつに頼むよ。ほれラワン、おまえの分の弁当な!」


「え、あ、はい、ありがとうございます親方」


 態とらしく弁当を渡すホビオは、パンパンと青年の背中を叩き、足早に去っていった。


 くそ。本当にちくしょう。


「あ、えっと……」


「もうすぐ水引きの時間なんでしょ……」


「そう、そうです!」


「それ見たら帰るから」


「わかりました……あの、いい場所があるのでそちらに行きませんか?」


「別にいいけど……」


「こっちです」


 そう言って青年は歩きだした。

 ビオは憮然としながらついていく。


(何この脚……)


 青年は今、腰布と前掛けしか着用していない。

 従って脚や背中、腕は丸出しの状態だった。


 彼が歩くたびに、長く太く引き締まった脚のふくらはぎにビシビシっと筋肉の筋が浮き上がるのだ。毎日大変かと思ったが、これだけ逞しい脚をしていたら、そりゃあ町を往復するくらい簡単かもしれない。


「あの」


 突然声をかけられ、ビオは慌てて顔を上げた。


「な、なによ」


「このお弁当って、ビオさんが作ったんですか?」


「そうよ、悪い?」


「いえ、ビオさんの料理初めてなので、すごく楽しみです!」


 ニカっと笑い、青年は再び歩き出す。

 よくよく考えればそうか。毎日食堂に通ってはいるが、初日はビオに叩き出され、それ以降は謝りにくるだけ。彼が食事をしている光景は一度も見ていない。


(じゃあ毎日どこでお昼食べてたのよ……?)


 こんなにすごい港湾施設を作るのは、相当な激務だったはず。そんな仕事に従事しておいて、毎日ダフトン市とこことを往復していた。まさか、お昼ご飯は抜いてたというのだろうか。


 すれ違う体格のいい男たちはみんな我竜族だろう。その彼らに比べてみれば一目瞭然。眼の前の背中は良く言えば引き締まっているが、悪く言えば痩せている。やはり、そうとう無理をしていたのか……。


 そしてさらに気づく。

 ビオの背丈は彼の腰元までしかない。

 これだけ身長差があるのに、一緒に歩きながらも距離が開かない。


(あ……)


 青年が小さく小さく、歩幅をビオに合わせて歩いているのだ。そして時々振り返っては、ビオが離れないよう気を使っている。なんだか、ビオは一気に力が抜けてしまった。


「アンタ、ラワンって言ったっけ」


「えっ!?」


 青年が目を見開いて振り返る。


「ど、どうして私の名前を?」


「さっきホビオさんがそう呼んでたから。そもそもアンタ、うちの食堂に来るようになってから一度も名乗ってないよね」


「しまった……そういえばそうでした。不義理をしてすみません」


 青年は大きな肩幅をしょんぼりと下げてうつむいた。誠意を示すべき相手に基本的な礼儀を欠いていたことに気づいたのだ。致命的な失敗をしたと思っているのかも知れない。


「ホント今更よね。こんな遠いところまで弁当届ける方の身にもなってよ」


「はい、すみません……」


「だから」


 ビオはギュッと口を引き締めた。

 これは決して負けではない。まだ認めたわけではないのだと、心の中で散々に言い訳をしてから、その言葉を呟いた。


「今度うちの食堂でごはん食べて行きなさいよ。アンタ、他の我竜族と比べて痩せすぎだから」


「い、いいんですか……?」


「あくまで客としてよ? それだけなんだか――」


 次の瞬間、青年――ラワンが叫んだ。

 実際ビオの顔には音の衝撃がぶつかるほどの声量だった。


 そして目をやれば、両手を天に突き出したラワンが白い歯を見せて笑っている。目尻には涙まで溜まっていた。


「ありがとうございます、毎日通います!」


「この馬鹿、いきなりなんて声出してるのよ」


 耳鳴りは止まないが、全身で喜びを表現するラワンにビオ苦笑する。だがふと気になったことを聞いてみることにした。


「ちなみになんだけど、アンタって今いくつなの?」


「私ですか? 来年元服になります!」


 その事実は、先程以上の衝撃となってビオに届いた。


「年下……」


 ニッコニコのラワンに、複雑な顔をしてビオは項垂れるのだった。


 そして――


 辺りに響き渡る警鐘。

 早馬によって知らされる先触れ。

 逃げ出そうとしたときには既に遅く。

 ビオは自然の齎す大きな力を目の当たりにし、絶望するのだった。


 続く。

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