第362話 浄化の勇者様御一行バカンス篇⑨ 続・風と戯れるin混浴温泉〜僕の気分は晴れのち雷雨

 *

 


 佐智さんが出血して倒れた、と聞いたイスカンダルさんは大層慌て、僕を解放してお湯から上がっていった。


 だがよくよく聞いてみると、鼻血を流して貧血になったとのことで、「あんたなにやってんのよ」と言いながら、隣町にある緊急病院へと百理の用意してくれた車で向かった。


 セーレスが万全な状態なら治療は一瞬なのだが、実は今の彼女はへべれけの泥酔状態になって部屋で休んでいるのだ。


 宴会のあのとき、僕が襲われる直前、酔が回ったようにセレスティアはバタンキューとなり、それはセーレスが酔っ払ったことが影響していた。結局、宴会はそこで終了となってしまった。


 今頃セーレスは用意された客間でエアリスに介抱されているはずである。「ここは私だけでいい」というので、みんなで温泉に入ることになったのだった。


「とはいえ、全然入った気がしない……」


 イスカンダルさんの母性と慈愛溢れる抱擁から回復した僕は、自室に戻る途中だった。佐智さんは足元がおぼつかないだけで、意識もあるようだが、なにせ血を失い過ぎているようなので、大事を取って病院に行っている。イスカンダルさんも付き添っている。


 さすがに酔っ払ったセーレスに治療はさせられないしな……。ダメ・絶対・飲酒治療、である。


 ちなみに佐智さんの鼻血で汚れた温泉は、真希奈が水魔法でしっかり綺麗に片付けておいたそうだ。気が利くね。


 さて、今日はもう寝ちゃおうかな。他のみんなも部屋に帰っちゃったし。同じ部屋のイスカンダルさんは帰ってくるとしても日をまたぐだろうし。


「えっと、ここか?」


 僕に用意された部屋の前に立つ。

 扉からして超立派なんですけど……。


「うわ、マジ?」


 僕に用意されていた部屋は、和室とベッドルームがある高級客室だった。


 和洋折衷だけど、モダンなデザインで統一されていて、とっても品がいい。


 ベッドルームのシェードランプから、天井の灯りまで温かな電球色で統一されていて、自然と心が落ち着いていく。


 窓からの景色はどうなってるんだろう。

 周辺は山の中で、街の灯りなどないはずだが、高層階の部屋なので外が気になる。そう思ってベランダの方に近づいてみると……


「嘘、ここにも風呂が!?」


 日本庭園と山の景色を望むベランダには、なんとかけ流しの露天風呂がついていた。この部屋の広さといい、一泊いくらするんだろう……。


「ゴクリ……入り直すか」


 僕は大浴場から着てきた浴衣を脱ぎ捨てると、もうそのまま露天風呂へと全身を沈めた。


 ザバァっとお湯が溢れ出し、乾いていた木目の床を濡らしながら拡がっていく。

 そのまま外の真っ暗な風景が見えるように湯船に背中を預け、どこまでも身体を弛緩させた。


「このまま寝ちゃいそうだな」


 チョロチョロチョロと、注ぎ口から流れる湯の音が耳に心地いい。眠気を誘うメトロノームのように、僕の意識は沈んでいった。



 *



 浄化後、僕がようやく起き上がれるようになったのは三日目からだった。


 それでもまだ極僅かな時間しか起きていることができなかった。


 だが、僕の意識が戻ったと聞くやいなや、いの一番で会いに来たのは、アストロディア・ポコスと、パンディオン・ダルダオス、その他高級閣僚や貴族を従えたオットー・ハーン国王だった。


 国王自ら頭を垂れ、国家を代表しての謝意が述べられる。それに引き続き、他の者達全員からも、今までの非礼を詫びられると同時に感謝の意が伝えられた。


 僕はもちろん、その時の記憶は曖昧なのだが、後々に真希奈が興奮気味に話を繰り返すものだから、なんとなく覚えているのだ。


 そしてその時同時に、僕にかかっていた聖都消滅の罪状を解き、正式に救国の英雄としてヒト種全体に喧伝を行うと告げられた。


 その一環としてパレード的なことをしたいと言われたが、それは流石に辞退しておいた。真希奈は残念がったが。


 あとは、僕が懸念していたこと、獣人種への宣戦の布告であったり、獣人種奴隷の扱いについて、これは全面的にこちらの望みが叶う形となった。


 もともと、一部の好事家や貴族の間でしか横行していなかった獣人種奴隷だが、今回『救国の英雄たっての望み』として、また今後の獣人種との関係を鑑みて、厳しく取締りが行われることになるそうだ。これにはアイティアとソーラスが大喜びしていた。


 その他諸々、詳しい聖都の浄化前と後の地形図や航空写真の提出などを求められたり、体調が思わしくない僕への手厚い介護や仲間たちの王宮滞在が無期限で許されたりと、色々なことがあった。


「ああ、大分思い出してきたな……」


 温めのお湯だが、身体の底がじんわりと熱くなって、ふつふつと額に汗をかき始める。僕はそれを洗い流すように バシャっとお湯を両手で掬い、顔を洗った。


 そしてさらに、その先の記憶を思い出そうと目をつぶり、瞑想する。


 ハーン国王にお礼を言われてから何故か……そう、何故か人払いがされたのだ。


 僕とふたりきりで話したいことがあると、男同士で腹を割って話したいと。


 ポコス爺さんも、エアリスやセーレスも遠慮して欲しいと。


「んん? それってなんでだっけ?」


 二人きりになった貴賓室で、ハーン国王は僕に何を話したんだっけ。確か…………レイリィ王女がどうとか――


「タケル」


 その呼び声に覚醒する。

 気がつけば頭の天辺までお湯に沈んでいた。


 いかんいかん。呼吸をするのを忘れていた。

 あまり人間離れしたことをしていはいけないのだ。そのうち、人間の心臓を動かすことすら忘れてしまうから。


「って、エアリス?」


 僕は慌てて背後を振り返る。

 露天風呂への入り口になっているガラス戸の向こうには人影が立っていて、こちらの様子を伺っているようだった。


「……もしかして今風呂に入ってるのか?」


「ああ、まあな」


「大浴場の方に入っていたのではなかったのか?」


「いや、なんかゆっくり出来なくて入り直してた。お前はどうしたんだ?」


「皆が帰ってきて、セーレス殿の様子を見てくれるというので、入れ替わりで風呂に入ろうと思ってな」


「そっか。すごく綺麗な風呂だったぞ。おまえもゆっくり浸かってこいよ」


「…………そうか。そうだな。うん、そうさせてもらおう」


 そのままエアリスは踵を返して部屋を出ていく……ことはなく。

 スモークが入ったガラスの向こうで何やらもぞもぞとし始める。


 え? あれ? エアリスさん?

 もしかして、ねえ、僕の見ているものが確かなら、あなた今服を脱いでませんか?


「お、お邪魔するぞ……」


 扉がスライドされると、なんとそこには一糸まとわぬ裸のエアリスが立っていた。

 僕は混乱した。直前まで考えたいたことが全部吹っ飛んだ。

 何故だ、何故隠さない。でも目が離せない。

 それくらいエアリスの裸体はすごかった。


 な、何がすごいって、まずはその薄っすらと赤みを帯びた褐色の肌が眩しい。

 滑らかで、肌理きめが細かくて、もちっとしていて、それでいてしっとりプルンとしているというか。


 蒼みがかかった銀色の長い髪が肩から零れ、大きな乳房によって谷間側と脇の側へと分かたれてしまっている。それくらいエアリスのバストは大きい。大きいだけでなく、形もいい。重力に引かれることなく、ツンと上向いていて、強気な彼女の性格を表しているようだ。


 引き締まって縦に割れた腹筋と、キュッと括れた腰、そこから再び乳房に負けないくらい大きくて丸みのあるお尻、肉付きのいい太ももからふくらはぎのライン、そして最後に足首から形のいいつま先と。


 気がつけば僕はエアリスの全身の舐め回すように目に焼き付けていた。


「た、堪能したか……?」


 エアリスは恥ずかしそうに顔をそむけながらも、決して自分で自分を隠すような真似はしなかった。まるで見せつけるように後ろに手を組み、小刻みにもじもじとしている。


 はっ――、湯船から身を乗り出すように見つめていたよ。


「す、すまん、つい――って、どどど、どうしたのさ急に!?」


 もうとっくに手遅れだが、急ぎ後ろを向く。

 目に焼き付いて離れないエアリスの裸体を振り切るようブルブルと首を振った。


「さ、先程も言っただろう。わ、私は風呂に入ろうとしていたのだ。こ、ここにちょうどいい風呂があると思ってな。は、入らせてもらうぞ」


 ひた、ひた、と足音がして、背後でチャプっとお湯をかき分ける音がした。スウッと水位が上がり、ザーッと湯が零れていく。いる。真後ろに、エアリスが。


「ふ、ふう……少しぬるいが、ゆっくりできそうだな」


 その声はものすごく近いところからした。

 恐らく僕の背中、ほとんど密着するくらいの距離からだ。


 ――状況を整理しよう。


 ここは男性用にと用意された部屋であって、女子組には貴賓室なる二十畳の大きな部屋が与えられている。真希奈も今夜はイリーナに呼ばれて、そちらで過ごすと言っていた。


 唯一の男性であるイスカンダルさんは、佐智さんの付き添いで病院に。いつ帰ってくるのかわからない。


 つまり、正真正銘二人っきり――


「そうだ、すっかり忘れてたけどアズズの仮面がテーブルに――」


「安心しろ、廊下に締め出してある」


 耳をすませば確かに、『ちくしょー、なんだよコラぁ! ふざけんなー!』などと聞こえてくる。可哀想だがホッと一安心だ――じゃなくて。


「思い出すな……こうして貴様と湯に浸かるのは二度目だ」


 エアリスのささやくような声がする。

 彼女とこうして温泉に入るのは確かに二度目だ。


 聖剣を求めてミュー山脈を目指していた僕らは、山の中にひっそりと湧いている天然温泉に入浴して、旅の疲れを癒やしたのだ。


 だが、それは決して彼女にとってはいい思い出などでなく。

 何故ならその時の彼女は、まったく僕のことなど好きでも何でもなく、むしろ嫌いですらあったからだ。


 エアリスは、ディーオの死は僕のせいであるとして、僕に憎悪を向けてきていた。だがそれと同時に、自分が愛した男の面影は、もはや僕にしかないこともわかっていたのだ。


 その結果、エアリスは混浴の折に僕に告白をしてきた。とにかく、憎い男であっても、ディーオへ秘め続けた想いを、口に出さずにはいられなかったのだ。


 そして僕はそんなエアリスの思いは偽物であると断じて、彼女をこっぴどく振り、行動不能状態にして裸のまま放置したのである。


「そういえばあの時、貴様はこの身にずいぶんと酷いことをしてくれたな」


 しっかり覚えてる!?

 いや、忘れるはずもないか。

 僕は床の木目さえ数えながら、懸命に言い訳をする。


「いや、あれは、地球に行くためにおまえを巻き込まないように――」


「指の一本も動かせず、裸のまま岩場に放置され、私がどれだけ惨めな想いをしたかわかるか?」


「そ、その節は大変申し訳ありませんでした……」


「いーや、許さん」


 その声はとても小さくて、僕の耳元で聞こえた。

 え――と思った瞬間には、後ろから伸びてきた手に頬を掴まれる。

 無理やり振り向かせられると、眼前に迫ったエアリスとの距離がゼロになった。


「ん……」


 温泉よりも熱い吐息が、僕の口元で炸裂した。

 エアリスは全身を預けるように覆いかぶさり、僕は後ろに手をついてそれを支える。


 自分の胸板の上で、エアリスの乳房が押しつぶされる。

 お腹とお腹が密着し、僕らは湯船の中で抱き合う格好になった。


「私は今、かつてない幸せを感じている……」


 唇が触れ合うほど近くで、熱っぽくエアリスが囁いた。


「昔の私には何もなかった。自身のことさえ見えていなかった。貴様が私を変えたのだ。私のすべてを――」


 喋りながら再び唇を押し付けてくるエアリス。

 最後の言葉は淫靡な水音にかき消された。

 エアリスは性急に、そして情熱的に僕の唇を求めていた。


 まるで息継ぎさえさせないといわんばかりに、僕の唇を吸い、ねぶり、求め、甘噛する。


 そして僕も、ここまでされてしまっては、もう大人しくなどできはしない。


「んッ、んうっ――!?」


 エアリスが目を見開いた。

 口内へと進入した僕の舌が、対になるエアリスの舌先を吸い上げ、はむっと歯を立てる。


 まるで電流でも浴びたかのように、密着した彼女の全身は震え、小刻みな振動を僕に伝えてくる。


 エアリスも負けていられないとばかりに僕の舌を、下品な音と共に吸い上げると、自分の口内で甘噛し、ザラザラとした自身の舌先を絡めてくる。


 もう自分が何をしているのかよくわからない。

 それはエアリスも同じようで、ただ反射と反射の応酬のように、口内にある全てを駆使して、お互いの舌を刺激し合うことだけに没頭した。



 *



「ぷはっ――はあ、はあ、はあ……!」


 どれくらいそうしていたのか。

 指の皮がふやけてシワシワになるほどの時間。


 先に顔を仰け反らせ、唇を離したのはエアリスだった。

 呼吸が限界だったのだろう、胸を上下させて荒い息をつく。

 僕の胸板で暴力的な感触が擦り付けられる。


「セーレスの言ってた通りだな……」


 僕の独り言のような呟きに荒々しい息のエアリスが反応する。


「な、何の話だ……?」


 時折ビクっと痙攣しながら、エアリスはトロンと蕩けた瞳で僕を見つめる。


「馬乗り」


「――なッ!?」


「僕の顔がドロドロになるまでキスしてくれたんだってお前?」


 そう言った途端、エアリスは涙目になり、「セ、セーレスめぇ……内緒にするとあれほど……!」と蚊の泣くような声で言った。


「まったく、ヒトが寝ている間に、自分の欲望を満たすためだけに好き放題してくれちゃって……」


「す、すまないと思っている……だが、貴様があまりにも静かに、まるで死んでいるように眠っているから――」


「から?」


「その、きちんと生きてるのか、色々と心臓の音を聞いたり、吐息を確認しているうちに、その、なんだか盛り上がってしまって……」


 拗ねたように唇を尖らせるエアリス。

 そんな子供っぽい表情を見せるなんて反則だ。

 僕は彼女の首の後ろに手を回しながら、もう何度目かもわからないキスをする。


「今度からはちゃんと起きてるときにしてくれ。いいな?」


「それは……保証できない」


 なんでだよ? そんなに寝込みを襲いたいの?


「貴様が起きているときは、私が主導権を握れないではないか」


 ちくしょう。

 参ったぞこんちくしょう。

 うちのエアリスさん可愛すぎ。

 キスのしすぎてプックリと腫れた唇までも愛おしい。


 もうこうなったら止まらない。

 そして当然キスだけでは終わらない。

 いいよね、もうゴールしても。

 そして大人のスタートラインに立っても。

 いいよね――


『よくないと思います』


 まるで僕の心を読んだかのように。

 冷水よりも冷たい、怖気を誘うような怨嗟の声がした。


 ギリギリギリっと、サビの切れたブリキのように首を回す。

 真っ暗な風景が広がるベランダの手摺には、恐ろしい形相をした呪いの人形が鎮座していた。


「真希奈……いつから」


「あらら、見つかっちゃった」


 僕が戦慄していると、今度は部屋側の窓から声がする。

 そこには、セーレスを始めとした女性陣が全員集まっていた。


「なッ、そ、そなたたち、全部見て……!?」


 僕の腕の中、エアリスも真っ赤になって口をパクパクとさせている。


「ごめんごめん、でもエアリスもタケルも夢中になってて全然気づいてないんだもん。あ、次は私の番ね?」


 テヘペロってなもんでセーレスが謝る。

 だが悪びれる様子は微塵もない。

 それは他のみんなも同じだだった。


「すごい……大人の口づけ……凄すぎる……!」


「もうお互い獣のように貪り合ってましたねー」


「ふたりだけの世界を創っちゃってまあ……ごちそうさま」


「儂はすごいものをみてしまった。これをあと少ししたら儂もするのか……!?」


「素晴らしい舌技の絶技でした。私が教えられることはもうありません」


「アウラちゃん、セレスティア見ちゃダメ!」


「みえ、ない……」


「ちょっとイーニャ、なんで意地悪するのー!?」


 今までセーレスの水魔法によって姿を消していたのだろう、全員次々と姿を現しながら好き勝手なことを言ってくれる。


 ちなみにアイティア、ソーラス、パルメニさん、オクタヴィア、前オクタヴィア、イリーナ、アウラ、セレスティアの順番である。


 イリーナはお子の目を塞いでいるのはいいが、自分は目をランランとさせながら、裸で抱き合う僕らを凝視している。


「お、おまえら、いい加減に――」


『いい加減にするのはタケル様の方です。いつまで抱き合ってるんですか』


 ゆらぁっと左右に揺れながら、真希奈が近づいてくる。

 カタカタっと小刻みに震えると、湯船までもが波紋を立て始める。


『何を、なさっているんですか、タケル様。あと乳デカ女……長湯が過ぎるから様子を見に行ったら影も形もなく、まさかタケル様とこんな裏山けしからんことになっているとは――』


 真希奈(人形)の全身から湯水の如く魔力が立ち上る。

 正真正銘、僕から吸い上げた魔力である。

 波紋を立てていた温泉は、今やグラグラと煮立ち始めている。

 僕は急ぎエアリスを抱きかかえ、湯船から放り投げた。


『このぉ、タケル様の浮気者ぉぉぉ!!』


 炸裂する魔力の塊。

 露天風呂はベランダごと破壊され、僕はひとり地上へと落下する。


 唐突に。

 僕は落下しながら僕は王都での記憶を完全に思い出していた。

 図らずも真希奈が齎した衝撃が思い出す切っ掛けになったようだ。


「魔族種龍神族との友好の証として」


 レイリィ王女をそなたの后に――


「――ぶッ!」


 瓦礫に押しつぶされながら、僕は内と外、二重のショックに、身じろぎひとつできないのだった。



 * * *



 眠れない。

 とても眠れそうにない。


 あのあと――、一同ベランダを壊してしまったことを百理に平謝りして、いい加減就寝と相成った。


 佐智さんも大事ないとのことで戻ってきており、女子たちと一緒に大部屋で寝ている。


 僕の隣にはイスカンダルさんが大いびきで寝ており、その気になれば音を遮断することもできるのだが、どうにもそんな気分にもなれなかった。


「后って、つまり結婚しろってことだよな……?」


 ヒト種族の代表たるハーン国王が口にしたことだ。

 伊達や酔狂で済ませられるはずもない。

 間違いなく彼は本気で自分の末娘――オットー・レイリィ・バウムガルテンを僕――タケル・エンペドクレスへと嫁がせるつもりなのだ。


 正直、そのときにはなんと返答したのか覚えていない。

 恐らく確約などはしていないが、それでもいずれ正式な返事を出さなければならない。


 ――いや、無理だろ。


 当然断るつもりだが、ことはそれで済むはずがない。

 王族同士の婚姻を断るなど、それはもう戦争だ。


 僕は自分の我を通せるだけの力を持っているが、それによって引き起こされるいざこざは、もはや僕一人の問題で終わるレベルではない。


 あと、もっと問題なのは本人の意思で――


「…………」


 それはもう、オールグリーンだったような気がする。


「いやいや、違うだろ、ダメだろ……」


 レイリィ王女と結婚などできはしない。

 何故なら僕は、彼女より先に責任をとらなければならない相手がいるからだ。


 セーレス。

 そしてエアリス。


 このふたりを置いて別の第三者と結婚など、絶対にあり得ない。


「馬鹿か僕は……!」


 それも違う。

 なぜ僕がセーレスやエアリスと結婚する前提で考えているのか。

 僕みたいな元ニートの元国際テロリストが結婚なんて――


「ダメだ、堂々巡りになってる」


 あと独り言ばっかり。

 イスカンダルさんが起きないからってこれはいけない。

 僕は頭を冷やすために、ぶらぶらと散歩に出かけることにした。


 音を立てないよう部屋を出て、無人の廊下を歩いていく。

 修繕工事が終わったばかりで、まだ一般の宿泊客はいないそうだ。

 多分、その修繕工事は延長することになるだろうけど……。


 時間は夜中の三時を過ぎたばかり。

 朝が早い旅館でも、今の時間は誰も彼も休んでいる。


 人気の失せた無人の館内を歩きながら僕は、答えの出ない問いを繰り返していく。


 龍神族の王としてレイリィ王女を迎え入れるべきか。

 そうなったら、セーレスとエアリスはどうなる?

 そもそも僕が結婚って笑わせるなよ……。


「全然考えがまとまらない」


 方策などない。

 どれもが悪手に見え、全てが最善手に思える。


 ため息をつきながら、僕は飲み物でも買おうと、休憩スペースがあるロビーへとやってきた。


 豪華なシャンデリアに照らされた広いロビーは無人だった。

 いや、違う。

 奥に一人誰かいる。


 女性、のようだ。

 浴衣の上からストールのようなものを羽織り、なにか独り言をブツブツと言っている。


 独り言ではなかった。

 それは我が子に向けた愛の囁きだった。


 女性はどうやら妊婦さんのようだ。

 大きなお腹を優しく撫でながら、慈愛の表情を浮かべ、まるで本当にそこに赤子がいるように語りかけている。


「もうすぐ会えますわね……あなた、きっといい男に育ちますわよ――って女の子だったらどうしましょう?」


 一人ノリツッコミを赤ん坊に聞かせている妊婦さん。

 それは誰であろう、僕がよく知る人物だった。


「カー、ミラ? おまえ、何してるんだ?」


 ビクン、とカーミラの独り言が止む。

 彼女はそのまま固まり、僕の方を見ようとはしなかった。


 その代わりに僕は彼女の横顔を観察する。

 すこしだけふっくらとしたか。

 血色もよく、大きなお腹以外はとても健康そうに見える。


 というかやっぱりこの旅館に泊まっていたのか。

 百理がいるんだからカーミラも当然いるものと思っていた。


 だが実際に僕らの前に現れたのは百理だけで、カーミラの代わりに忙しそうに仕事をしていたのはベゴニアだった。


 それはつまり、産休ってことなのか?

 だからカーミラの代わりにベゴニアが会長代行なんてして……?


「タケル……とうとう見つかってしまいましたわね」


「いや、見つかるって……えっと、結婚したのか?」


 自分が今その結婚問題で苦しんでいたというのに、平気で他人にはそれを口にするのか。だがどう考えても、眼の前の女性が妊娠をする理由が、それ以外に見つからなかった。


「……仕方のないこととはいえ、あなたからそう言われると、傷つきますわね」


 いつもの享楽的なふるまいは鳴りを潜め、カーミラは泣き笑いみたいに顔を歪め僕を見た。


「どういう意味だよ。まさか、そのお腹の子供って……?」


 うぬぼれにも程がある。

 カーミラは日本に根づいて立派に会社を経営するスーパーウーマンだ。

 容姿も美しく、自社のモデルもこなすカッコいいプロポーションをしている。


 彼女がその気になれば、起業家、芸能人、音楽家、芸術家、スポーツ選手、ありとあらゆる著名人の男と付き合うことができるはず。


 そんな彼女が、たった一度寝ただけの――しかも緊急避難的に命を救うためだけに、仕方なく肌を重ねた男との絆をずっと抱えて、育てて、慈しんでいた?


 まさかまさか、そんな馬鹿な……!


「不思議なもので、もうほぼ間違いないと思うのですが……きっとこの子は男の子ですわ」


 ドキリっと胸が高鳴る。

 母親というものをろくに知らない僕が、まさしくそれは我が子を愛でる母の表情だとわかってしまう。


 カーミラは自分のお腹を擦りながら、慈しむ母の表情のまま僕を見た。

 そして――


「名前ももう決めていますの。この子は――タケオは、あなたの息子ですわ」


 ただ事実を突きつけられることが、時に凶器にもなるのだと、僕は初めて知るのだった。



 *



 おまけ

 アズズ『おーい、誰か……さすがに泣きたくなってきたぞ……』


 続く。


【浄化の勇者様御一行様バカンス篇】了。

 次回【キミが笑う未来のために篇】に続く。

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