第350話 北の災禍と黒炎の精霊篇3⑬ 繰り返される聖剣伝説〜暗黒の宇宙は貪欲なりて
* * *
活火山の噴火において、もっとも人命を奪うもの。
地震、溶岩流、噴煙に伴う落石……などなど。
だが実際は特定条件下で発生し、一度発生したが最後、逃げることは極めて困難な現象がある。
地上の津波とも称され、主な成分は高温のガスが混ざった火山灰――粉塵である。
すべてをなぎ払いながら地を駆ける速度は時速100キロ以上。
舞い上がったガス混じりの粉塵は数十メートルにも達する。
火砕流に巻き込まれれば、まず即死だ。
大やけどか、酸欠か、有毒ガスか。
いずれにしろ確実な死が待っている。
人足で逃げることなど絶対に不可能である。
【ミュー山脈南側麓宿場町クレイトン】
そこは人口わずか100名にも満たない、繋ぎの町だった。
ミュー山脈を抜けてきた旅人たちがホッと足を休める、そんな町。
天然の温泉があり、多いときでは王都からのんびり湯治に訪れる客で賑わう。
だが、聖都が消滅して以降、入山規制がされ、それと同時に町からは活気が消え失せた。商売が成り立たなくなり、他所の町へ移っていく者が続出した。
今では昔から住んでいる40名ほどの町民たちが
そんな町民たちには先祖代々語り継がれている掟があった。温泉から異臭がしたら何をおいても逃げろ、というものだった。
その恩恵のひとつである温泉は、もともとクルプの卵のような匂いがする。町全体に立ち込める、これぞクレイトンの香りとまで言われる名物である。
だが、ひとりが気づいた。
温泉から漂う匂いが激臭といっても過言ではないものへと変貌していることに。
まるでクルプの卵が腐敗したような匂い。とてもではないが眠ることができず、町民は次々と鼻を摘んで起きだした。
町に住む長老でさえ、口伝は口伝として実際に体験したことのないほどの臭気だった。
これこそが、ミュー山脈が火の山として復活した証である。そうなったらもう、町民たちは急ぎ、隣家に呼びかけ、避難することを決定する。
女・子供・年寄りは馬車に載せ、歩けるものはどこまでも。着の身着のまま、最低限の荷物だけを持ち、夜も明けきらぬ早朝に、まるで夜逃げのように町を出た。
その瞬間、彼らは口伝が間違っていなかったことを知った。
地揺れである。
それも未だかつて体験したことがないほどの規模。
町に残してきた家畜たち――クルプたちが一斉に怪鳥の悲鳴を上げ、荷台を引く馬たちが恐怖にいななく。
町民たちは頭を抱え、互いを支え合ってうずくまるしかなかった。
それが今朝方のことだった。
時々襲い来る地揺れに怯えながら、それでも懸命に王都を目指す。
とにかく、一刻も早く、ミュー山脈から距離を置かなければ――
「ああ……間に合わなかったか」
王都までの道のりを四分の一も踏破したところだった。
町民の誰かがポツリと呟く。
皆が諦観と共に背後を振り返った。
山脈が燃えていた。
自分たちが歩んできた北の空が紅蓮に染まっている。
群発する地揺れと共にミュー山脈がゴウゴウと炎を吹き上げていた。
それはまさにこの世の終わりの光景。
中天を過ぎたばかりの空は、たちまち曇天に覆われ、吹き上げる火山の色を薄ぼんやりと映していた。
「あ、あああっ……!」
子供を前にして、大人たちが情けない悲鳴を上げた。
山の天辺から、急速に滑り落ちていく灰色の津波を認めたからだ。
かなりの距離を隔てているにもかかわらず、その規模が大きすぎる故にまざまざと見てしまった。
町民たちはミュー山脈に背を向け、再び歩き出す。可能な限り早く足を進める。
でももう心は半ば諦めている。
何をどうしても間に合わない。
灰色の津波は、またたくまに勢力を拡大し、自分たちが歩いてきた道のりを、丁寧に塗りつぶしていくだろう。
やがて、誰ともなく足を止めた。
ひとり、ふたり……全員と。
朝からの強行軍にヘトヘトだった。
そして背後から迫りくる恐怖に、気持ちが折れてしまった。
逃れられない死を目前に、顔を引きつらせ、涙を流して天を仰ぐ。一体、誰がこの状況から助けてくれるというのか……。
かつて、ヒト種族の中から現れた勇者が、王都に迫っていた溶岩流を消し去ったと言われている。
それが本当かどうかは、今を生きる者たちにはわからない。所詮伝承は誇張されて後世に伝わるものだと、そう思うからだ。
だが、もし伝説が本当だと言うのなら、今すぐ現れて自分たちを助けて欲しい。
ただ事ではない大人たちの様子と、激変してしまった風景を見て子どもたちが泣き始める。うるさい、などと一喝する大人はいない。この声は生きている証だから。
できることならずっと聞いていたかった。
この鳴き声が途切れるとき、あの灰色の津波に飲み込まれて自分たちが息絶えるときなのだ。
終わりが迫る。
逃げ場などどこにもない。
視界のすべてを灰色が覆い尽くす。
高温の熱波が肌を焼く。
その直前だった――
『開門』
瞬きをした次の瞬間、忽然と風景が切り替わった。
「え」
どこかの都市部だろうか、きれいに整備された広場のような場所だった。
眼の前にはお城がそびえ立ち、周囲には美しい庭木や花壇が並んでいる。
「ここは……?」
荷馬車はそのまま、手をつなぐ母娘もそのまま、赤子を抱き上げる老婆もそのまま。
自らの命を諦めてしまったときのまま、周りの景色だけが変わっていた。
当然、灰色の津波などどこにも存在しない。
「今ここは立入禁止だ! どこから入った!」
身軽な鎧を身に着けた兵士と思わしき男が町民たちを怒鳴りつける。
それもそのはず、自分たちのすぐ側には、隊列をなした兵士たちの一団がいた。
彼らは全員が町民たちをギョッとした目で見つめている。
「待て」
ひとりの男が、ツバを飛ばす兵士を諌める。
普通の兵士とは明らかに造りの違う豪奢な鎧に身を包み、年の頃は初老に差し掛かっていると思われるが、若々しく精悍な顔つきをしていた。
「私は王都王立軍最高指揮官パンディオン・ダルダオス将軍である」
その名前は知っている。
宮廷魔法師アストロディア・ポコス翁と共に、王の右腕と称される武人として有名だったからだ。
町民たちは一斉に膝を着き、頭を下げた。
「ここは王宮前広場であり、現在王都全域には避難命令が出されている。そなたたちはどこの一団か?」
「お、王都!? 王宮前広場!?」
町民たちを率いてきた町長である男が驚愕の声を上げた。
その狼狽した様子に、パンディオン・ダルダオスは一瞬キョトンとし、再び激高しそうになる隣の兵士を手で制した。
「そう、ここは王都の中央に位置する場所だ。城壁を盾にしながら、民たちは南方へと避難している。おまえたちは避難の指示を聞いていなかったのか?」
「ち、違います、私達はクレイトンからやってきました!」
「なんと、クレイトンだと?」
ミュー山脈の麓にある宿場町。
真っ先に生存が絶望視された町である。
「よくぞ無事で……いや、一体いつから避難をしてきたのだ!?」
王都まで馬車であっても丸一日以上はかかる距離だ。
それも正確ではない。パンディオン将軍の言う一日以上とは、訓練を積んだ兵士たちが規則正しく、かつ休憩少なく歩いての時間である。ただの町民が荷馬車を引いて歩いてはその倍以上はかかってしまうのだ。
「今朝からです……ですが、その、確かに私達は、灰色の津波に飲まれたはずで――」
「なんと……いや、落ち着け。順番に、ありのままを説明するのだ」
町に立ち込める異臭の発生から、避難を決意したのが夜明け前。巨大地震を受けながら、懸命に避難を続けた。
だがミュー山脈が噴火し、大規模な灰色の大津波が迫ってきた。飲み込まれるその直前、不思議な声を聞いた。
「確か、かいもん、と……」
「もしやそれは――!」
応接の間からハーン国王とレイリィ王女を異世界へと連れ去ったあの御業。聖剣にて極彩の門を開くときに唱えられたのと同じ言葉ではなかったか。
「タケル・エンペドクレスか――」
パンディオン・ダルダオスは、クレイトンの町民たちに避難を指示する。案内役の兵士を護衛につけ、残った兵士たちは総出で、取り残された民たちがいないか城壁の内部を巡回しなければならない。
いずれ灰色の大津波はここまで押し寄せる。
しかし、ハーン国王もまた、ギリギリまで王宮に残るつもりだという。
(だが、あるいはタケル・エンペドクレスならば――)
己の最大の一撃をこともなげに受け止めて見せたあの少年。
まだ元服したばかりに見える幼い顔で、まったく実力の底が知れない。
あの男がもし本物だというのなら、かつての伝説が現実のものになるかもしれない。
(ならば、タケル・エンペドクレスは本物の――)
勇者なのか。
その言葉を口にするのは、パンディオン・ダルダオスほどの武人でも抵抗がある。
だが、もしこの王都が何事の被害もなく救われたのなら認めねばなるまい。
彼こそが人類種ヒト種族の――否、あるいは全世界を救う英雄なのだと。
*
『進路クリア、オールグリーン。周辺に生体反応ありません』
『よし、始めるか』
まるでその物言いは、面倒な掃除を片付けるような響きだなと、自分で言ってておかしくなった。
僕の眼の前に広がる光景。
火山灰に覆われた空と、火を吹き上げる山脈と、山肌を猛スピードで駆け下りてくる大火砕流。
魔法師の目を通して見れば、炎の魔素と土の魔素が渾然一体となって暴れ狂っているのが見えることだろう。
森を飲み込み、木々をなぎ倒し、土砂や岩石も巻き込み、巨大な怪物は貪欲にすべてを破壊しながら、さらに成長し、迫ってきている。
その速度は毎時100キロ以上。
馬や大鷲がせいぜいの
もうすでに大火砕流は王都まで三分の一まで距離を詰めていた。
これ以上進ませては、ヒトが住む土地が壊滅的な被害を受けてしまう。
途中、避難民を見つけて、王都のど真ん中に送り届けていたために時間を食ってしまった。さっさと片付けてしまおう。
『猛り狂え――僕の
ドクン(ドクッ)と心臓が跳ねる。
僕の心臓ではない。僕の内面世界に格納された二つの神龍の心臓が暴れ狂っているのだ。
迫りくる大火砕流の規模は大津波にも匹敵する。
それを丸ごと飲み込むための『ゲート』を維持するためには、湯水のような魔力が必要になるのだ。
『ビート・サイクルレベル順調に上昇中。現在レベル99を突破、なおも上昇中。生成した魔力はすべて【ゲート】の展開と維持に回します』
トン、と僕は地面を蹴った。
ふわりと、まるでエレベーターの昇降のようにゆっくりと上昇しながら深呼吸をひとつ。左足を引き、身体をやや半身にしながら、心の中で抜刀するように鯉口を切るイメージを描く。
『大開門』
無垢なる刀身を横薙ぎに振り抜く。
180度すべての空間が一瞬歪み、次の瞬間、極彩の巨大『ゲート』が現れる。
本来ここではない、違う世界への距離をゼロにしてくれる究極の魔法。
だが僕は知っている。『ゲート』は決して繋げてはいけない世界をも瞬時に繋げてしまうことを。
七色の極光を発していた『ゲート』が漆黒に染まる。
周囲の景色がまるでモニターの光度を落とすように暗くなっていく。
一体それを成すのは何なのか。
大きく開いた『ゲート』の奥から『闇』そのものがズズズっとせり出してくる。
周辺環境との差異がありすぎる故に、『景色を塗りつぶす』という現象を以てかろうじて観測できているもの。
あらゆる理を超越した暗黒の宇宙からせり出したのは『ダークマター』である。
事実、地球文明が解明できている宇宙など、全体からすればごくごく僅かなもの。
何故なら宇宙全体を構成する殆どのものは、暗黒物質とダークエネルギーに占められているのだから。
つまり宇宙全体の95%以上を、人類は観測できていない計算になるのだ。
もし将来、色荷を持たず、光学観測もできない、それら暗黒物質を観測できる術を人類が手に入れたら、今ある色鮮やかな宇宙の姿は一変するかもしれない。
そして、僕が今開いた『ゲート』は、暴食の宇宙へと広がっている。
一切の光を持たない暗黒。無明の大海。すべての物質を構成する原子結合を阻害し、消滅させてしまういう絶対法則をもった空間。
『目標、大火砕流との接触まであと十秒――』
その世界に囚われてしまったが最後、すべての物質が崩壊する。崩壊し完全なる無へと返される。
かつて三度、この世界に現れたという聖剣は、最初は大隆起した大陸を、次に巨大大津波を、そして迫り来る溶岩流を飲み込んだという。
その行き着く先が、暗黒物質とダークエネルギーに支配された別の宇宙なのだ。
『接触まで残り五秒、四、三、二、一――今!』
末広がりに迫ってきていた大火砕流。それが『ゲート』を中心に収斂し、勢いよく吸い込まれていく。まるで出来の悪い漫画のようだ。直上からの光景を想像してみて欲しい。
後から後から迫ってくる大火砕流が、『ゲート』が広がる平行線上から先に進めず、その勢いが停止――否、遮断されてしまっているのだ。
久しぶりに解放された暗黒の宇宙は、もっと寄越せ、もっと食べさせろとばかりに、現実の世界を侵食し始める。汚穢な触手を伸ばすように、『ゲート』から闇そのものが伸びてくる。
『真希奈、制御が甘い! もっと魔力を注げ!』
『了解、ビート・サイクルレベル上昇させます!』
虚空心臓がさらに昂ぶる。
あまりにも早すぎる拍動は、震える鋼の弦のように、ピィンと張り詰めた音へと変化していく。
『来た来た来たぁ……!』
溢れ出す魔力の本流。僅かに込み上げる全能感。
その純粋なエネルギーは聖剣に注がれ、暗黒の宇宙を維持してもなお有り余る量になっていく。
かつて地球でサランガの大軍団を殲滅した時と同様、僕の身体から物質化した金色の粒子が漂い始めていた。
『進むぞ!』
言いながら『ゲート』を展開したまま飛んだ。
暗黒の宇宙の吸引力は凄まじく、辺り一帯の火砕流はあらかた吸い尽くしてしまっていた。
目指す先には、未だ炎を吹き上げ続けるミュー山脈がある。その山肌を埋め尽くす火砕流、土石流、火山灰をもろともに吸引しながら、ただひたすらに火口を目指す。
僕が通った跡には、何も残らない。
抉れた地面だけが痕跡を残すのみ。
ひとつでもコントロールを誤れば、ミュー山脈を丸ごと飲み込んでしまいそうだった。
『たらふく食えっ!』
吹き上げるマグマが、その方向を変えた。
空を覆っていた暗雲が急速に消えていく。
僕はまるで蓋でもするように、山脈の火口の上に『ゲート』を押し当てた。
『閉門』
『ゲート』が消えた先には、ポッカリと口を開くすり鉢状の火口があった。
その中心は、未だに真っ赤なマグマが蠢いているが、再び吹き出す様子は見せない。
『塞いでおくか』
ざっと周囲を見渡す。
山脈と言う通り、なだらかな尾根が続いているが、ひとつだけ、妙に鋭角的な
『真希奈、あの尖った山は削っても平気か?』
『内部にマグマ溜まりなどはありません。自然の地形が作り出した岩山のようです』
『ならいいか』
僕はその岩山まで近づくと、再び『開門』と呟く。上からすっぽりと被せるように『ゲート』を展開し一旦閉じる。
台形型になった岩山に背を向けると、再び火口の上空で『ゲート』を開いた。
暗黒ではなく、極彩の『ゲート』からズズズっと、緩慢な様子で大質量の岩山が出てくる。
僕が以前行った白鳥座の宇宙空間に岩山を移し、再び『ゲート』を開いて取り出したのだ。
ちょうど岩山の頭頂部が下になるように門を開いたので、あとは通常空間に復帰すれば、重力に引かれて落ちていく。
『よし、きれいにハマったな!』
火口口にはまるでコルクで栓をしたように、岩山によって塞がれていた。これでたとえ次の噴火があっても、ある程度時間をかせぐことができるだろう。
今回の一連の噴火活動も、全ては汚染された聖都とその地下に広がる地脈とが密接に関係している可能性が高い。
ならばやはり、この一連の異変を止めるためには、聖都の浄化作業を急がなくてはならないだろう。
『じゃあとっととあの怪獣もやっつけちゃうか』
『エルザドンですね!』
すかさずのツッコミに驚く。
真希奈、おまえもか。おまえもそのネーミング気に入ってたのか。
『まあもう倒されてるかもしれないけどな』
うちのエアリスさんとセーレスさんを舐めないでほしい。サランガ災害を乗り越えた僕たちの戦闘力は以前とは比べ物にならないのだ。
僕は再び、もはや霊峰とは呼び難い不格好で歪になってしまったミュー山脈を見やる。景観にまで配慮している場合ではないが、あの荘厳な景色はもう二度と拝めないだろう。
『まあ、命が助かったんだから文句はいわれないよね』
それだけ言い残し、僕は聖都跡を目指し飛び立つのだった。
続く。
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