第347話 北の災禍と黒炎の精霊篇3⑩ 暁の荒野に聳える威容〜マクマティカ最大の危機!
* * *
暁闇。
月が沈み、日が昇る前の、最も闇が濃くなる狭間の時。
「ふいー、よう寝たわ」
肉体年齢は若くとも、精神年齢が最も老成している現オクタヴィアが一番早くに目を覚ましていた。
「運動なぞ必要ないと思っていたが、若い身体はなかなか調子が上がるようじゃな」
アクア・リキッドスーツという身体能力を補助してくれるアイテムを着用しているためか、昨夜の肉体労働の疲れもなく、目覚めも快適だった。
いつもなら中天近くまで惰眠を貪ることもあるというのに、今日に限っては早々に目が覚めてしまった。なにせ昨夜の夕食分をまた作らなければならないのだ。早起きしすぎということはないだろう。
「いや、待てよ……呪いから回復した女衆が手伝ってくれるのではないか?」
しまったー、とオクタヴィアは天を仰いだ。月も星もないぼんやりとした闇が漂う空を見つめながら、急激に寝床が恋しくなってきた。
「朝食まで時間が大分あるの……トホホ」
などと思いながら設置されているキッチンテントを覗いてみると、そこにはなんと先客がいた。
「おお、イリーナか。お主もずいぶんと早起きじゃな」
テントの中に設置された仮設テーブルの上には、一心不乱にパソコンと格闘するイリーナがいた。その表情は真剣そのもので、気楽に声をかけたオクタヴィアが首をすくめるほどだった。
パソコン……オクタヴィアにとっては、セーレスが施してくれたアクア・ブラッドと同じくアーティファクトの類だ。光り輝く四角い板に色鮮やかな絵やら文字やらが目まぐるしく表示されている。
それを見つめるイリーナの表情は険しい。あまりの鬼気迫る様子に、オクタヴィアは押し黙ったまましばし背後で立ち尽くした。
と――
「まずいかも……」
ようやく絞り出された言葉はロシア語だったため、意味はわからなかったが、響きから深刻さだけは伝わった。ふう、とため息をひとつ、オクタヴィアはそっとイリーナの肩に手を置きながら「何があったのじゃ?」と魔族語で問うた。
「うわっ――オクタヴィアか……」
ビクンと身体を跳ねさせるイリーナだったが、すぐさま落ち着きを取り戻すと、なんと彼女はたどたどしい魔族語で話しかけてきた。
「状態……状況……危い、危ない、かも」
「お主、もう話せるのか!?」
言葉の意味を理解するより先にオクタヴィアは驚愕した。
昨日今日
「うん、いや、そんな場合ではなかったな。何やら危ないとな。待っておれ、真希奈を連れてくる」
イリーナの学習速度は驚嘆に値するが、それでも彼女は専門的な説明をしようとしているようだ。通訳である真希奈を連れてくるのが手っ取り早いだろう。
えっほえっほと、白み始めた荒野に土煙を立てながら、セーレスたちが寝床にしてるテントに向かうと、そこには驚愕するべき光景が広がっていた。
「な――何があった!?」
テントの入口に立ち尽くす門番のようなプルートーの鎧。
その中は甘ったるい匂いが立ち込め、タケルとエアリス、セーレスが川の字で寝ていた。川と言ってもその隙間にアウラとセレスティアが挟まり、真希奈はタケルの頭上を占領している。イリーナが見れば「何朝チュンしてんのよー!」と大激怒確定の光景だった。
「ええい、うらやまけしからん!」
いっそのこと自分も飛び込んでやろうかと思ったが、イリーナの真剣な表情を思い出し、真希奈だけをかっさらって走り出す。
『むにゃ、タケル様……真希奈にも肉体があれば……乳デカやセーレスさんにも後れは……むむ、何やら視界が揺れますね』
「真希奈よ、はよ起きろ、何やら緊急事態じゃぞ」
『はい〜?』
たまにこやつが精霊だと忘れてしまいそうになるのう……などとと思っていると、イリーナがいるテントに到着する。中の様子を見た途端、真希奈はさっと表情を引き締めた。
『イーニャさん、おはようございます、どうしましたか?』
「真希奈ちゃん、ちょっとこれ見て」
イリーナは背後を振り返ることもなく、緊迫した様子で画面を指さした。
『むむむ、これは、一昨日からドーリア駐屯地に設置していた観測バルーンと計測震度計のリアルタイムデータですね――――なんと!?』
そこに表示されていたのは、昨夜未明から今朝方までに観測された地震の回数だった。体感できないものと微弱なものを含めての回数は――
『に、2322回!?』
昨夜から計算してほぼ十秒に一回、小さな地震が起きている計算になる。
「それだけじゃない。ついさっきからずっと、波形の長い増幅傾向の地震が続いてる。そろそろ体感できるかも」
机の上に置いていたイリーナのペンが僅かに鳴った。
やがてそれは、誰の足元からも感じられる揺れへと拡大していく。
「な、長いな!」
戸惑いながらオクタヴィアが悲鳴をあげる。
いつものおちゃらけた感じではない、明らかに恐怖を誤魔化すための叫びだった。
『イリーナッ!』
一陣の風と共にタケルが現れる。
その姿は鎧姿であり臨戦態勢だ。
オクタヴィアは両脇にセーレスとエアリスを侍らせていた時の間抜け面のまま現れたらはっ倒してやろうと思っていたので内心で舌打ちした。
『この地震はただ事じゃない。そこらじゅうで土の魔素が暴れまわってる。まずいぞこれは……!』
タケルの言葉にイリーナは椅子を蹴倒して立ち上がった。
「全員撤収! まずは避難する人たちの安全が最優先。みんな手分けして町のヒトたちを今すぐ叩き起こして! 私はトラックでお年寄りを優先して運ぶから!」
タケル、真希奈、オクタヴィアが弾かれたように行動を開始する。
その直後、上空で大きな爆発音がした。タケルだ。運動会の朝に鳴る号砲花火だ。これで町民たちの殆どが強制的に目を覚ましたはずである。
辺り一帯に、清廉で鮮烈な朝日が降り注ぐ。
気流結界のおかげで安眠していた町民たちは目覚めと共に、不気味な鳴動を感じて小さな悲鳴を上げた。
まるで地の底から唸り声が聞こえてくるようだったからだ。
「タ、タケル様、この地揺れは一体!?」
エミールやポコス翁を引き連れ、レイリィが合流する。
その後ろには、パルメニやソーラス、アイティアも一緒だった。
タケルはわざと周囲にも響き渡るよう、大きな声で状況を説明する。
『この地震はまずい。すぐさまここから離れてドーリア駐屯地へ向かう。少しでも聖都跡から離れた方がいい。町のみんなにも手分けして説明してくれ!』
「わかりました!」
レイリィ王女が走り出す。
他のメンバーも四方八方に散っていく。
緊迫した事態ではあるが、それをそのまま町の住民に伝えてはいけない。
彼らはまだ呪いから回復したばかりで体力に心もとない。
パニックになっていらぬ怪我をしてしまうことも防がなければ。
『足腰に不安のあるお年寄りはこちらの大きな馬車の荷台に乗ってください! お尻は痛くなるけどちょっと我慢してくださいねー』
真希奈の呼び声で、よぼよぼ歩きの老人たちがトラックの前に列をなす。乗り心地は悪いだろうが、歩くよりかはよっぽど早いはずだ。
「タケルさん、準備ができた者たちから出発させていい? 百人単位で五列を作って、先導は私、アイティアとソーラス、カフラーの男連中で手分けするから!」
『ああ、頼んだ!』
パルメニの判断は的確だった。さすが元冒険者組合員で唯一の社会人。「おら、俺様が護衛してやっからとっとと行くぞ!」というアズズの号令で先発隊が動き出した。
「タケル!」
神像――ラプターに騎乗したセーレスとセレスティアがズシンと着地する。
さらにアウラを抱いたエアリスも風と共に飛来した。
「念のためもう一度町を見てきたけど、もう誰もいなかったよ!」
「私も確かめてきた。問題ない!」
『ふたりともでかした! それ大事! じゃあ残りは本当にここにいる人たちだけだな。僕たちも出発するぞ!』
パルメニ・アズズが率いる先発隊に追いつくため、殿を勤めるトラックが出発した。運転手はもちろんイリーナだ。その助手席には未だ船を漕いだままの前オクタヴィアと、オクタヴィアがいる。オクタヴィアは膝の上でイリーナのパソコンを広げており、時たま運転席のイリーナに画面を見せていた。
「さあ、参りましょうテティさん。大丈夫、必ず戻ってくられますから」
「は、はい……!」
王女に手を引かれ、テティ嬢も歩き出す。
だがやっぱり未練があるのだろう、背後に広がるアクラガスの町を何度も振り返っていた。
不気味な鳴動、そして地震は続いている。
ついに周囲一体に砂塵が舞い始めた。
微細で断続的な振動により、煙のように砂が漂っているのだ。
そして――
「タケルっ!」
『タケル様!』
イリーナと真希奈が同時に叫んだ。
その瞬間、タケルもまた大声を上げていた。
『全員停止! その場に伏せて頭を守れ!』
拡声器のように風の魔素を使い、全方位に向けて声を届ける――その次の瞬間だった。
ボンッ、と地面がバウンドした。
続けざま、立っていられないほどの地震が襲いかかる。
町民たちは悲鳴さえ飲み込んで、頭を抱え、地面にうずくまった。
意外とまずかったのはトラックの荷台に乗っている老人たちだった。
硬い床の上でダイレクトに揺さぶられ、荷台から転げ落ちる者たちが続出したのだ。
「ああ、町が……!」
悲痛な声はテティ嬢のものだった。
彼女は地面から這いつくばるように顔を上げて遥か彼方のアクラガスの町を見ている。
町があった場所が大きな土煙を上げているのが見て取れた。
それは町の建物が崩壊して巻き上げられたものだ。
自分たちが住んでいた町の形が失われていく様をテティ嬢は涙ながらに見送った。
その場にいる誰もが、崩れ去っていくアクラガスの町を目撃していた。
だがタケルはそのさらに奥、なにか得体の知れない影を認めて戦慄した。
『アレは……!?』
朝日が降り注ぐ中、何百メートルも舞い上がる土煙を割って、それは現れた。
まるで地の底から這い出てきたかのような威容。
低く鋭く、大気を震わせる鳴き声。
「な、なんなんだあれは……!?」
「こりゃあ、たまげたわい……!」
エミールとポコス翁が顔面を蒼白にして呟く。
小さなテティ嬢を抱きしめるレイリィも、目を見開いてそれを見つめていた。
『冗談だろ……!』
タケルは自分で見たものが信じられず首を降った。
だがタケルだけが――正確には地球の知識を有する彼やイリーナだけがその威容に名前を与えてやることができた。
「なによあれ、マジで怪獣じゃん」
運転席から出てきたイリーナの呟きを耳にして、「あ、先に言われた」とタケルは臍を噛むのだった。
続く。
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