第316話 北の災禍と黒炎の精霊篇⑩ 幕間・炎、水、風、無属性〜モリガン肉の宿命に泣く

 * * *



 そこは見知らぬ部屋だった。

 天井には煌々と灯りを注ぐ魔法の鬼火が五つも浮かんでいる。


 間取りはかなり広く、どこぞの王侯貴族の一室を彷彿とさせた。だが、調度品はかなり貧相で、必要最低限のものしかなかった。


 あるものと言えば、寝台ベッドとその側に置いてある小さな卓子テーブルのみで、あまり生活感のある部屋とは言えなかった。


「私は……、ここは一体……?」


『あ、目覚めましたですね』


 突如として視界の中に愛嬌のある人形が写り込んだ。


 前髪がパッツンと切りそろえられた愛らしい少女の顔。だが明らかに作り物とわかる顔だった。


「貴様……確かタケル・エンペドクレスの周りをちょろちょろ飛んでいた……」


『あら、まだモリガンのままですか。目覚めれば戻ってるなんて、そう都合良くはいかないものですね」


 モリガンの頭の上に乗っていた真希奈がパッと飛び立ち、鼻先をくっつけるほどの至近から顔を覗き込んでくる。


『改めまして、真希奈は真希奈といいます。意識の混濁はないようですね』


 ニコっと微笑みかけられて、モリガンは自分の置かれた状況に気づく。


「くっ、この……!」


 必死に身体を動かそうとするがビクともしない。

 直立不動のまま、唯一自由になるのは頭部だけだった。


「出せ、私をここから出せぇ!」


『うーん、もう少し冷静になって、理性的で建設的なお話ができるようになってからでないと無理ですね。おっと、目覚めの一発、魔力吸収ドレイン開始』


「な――、あああッ、くそぉ……ちくしょう……!」


 モリガンことアイティアの身体は、プルートーの鎧の中に閉じ込められたままだった。鬼面は取り外されているが、首から下は鎧に包まれている。そして、時間を置いたことで回復したせっかくの魔力も再び吸い取られてしまった。


『ほーう。結構溜まりましたですね。ビート・サイクルレベルにして13と言ったところですか。丸一日以上吸い続けてこれなら、王都の宮廷魔法師を超える力量をもっていますね』


 吸収した魔力は鎧の動力源として蓄えられている。プルートーシステムを起動すれば、しばらくは無魔力状態で稼働できるほどだ。


「なにを、冷静に……、私の魔力を返せ……!」


『それはできない相談ですねー。一度体外に排出されてしまった魔力はどうあっても元には戻せませんので。廃人になる覚悟があるなら試してみますか……?』


「ひッ――」


 自分の命はこの人形の胸三寸なのだ。

 それを思い知り、モリガンは初めて怯えた。


 宿主であるアイティアの中で生まれたモリガン。以来十数年に渡り、自由にならない苛立ちを抱いて過ごしてきた。


 ようやく好き勝手できる身体を手に入れたというのに、肉の身体というのは不便極まりなく、無理をすれば痛みが走り、寒さや暑さにも弱い。


 おまけに今は生命エネルギーである魔力まで奪われ、手足の一本すら動かせない有様だった。


 モリガンはちょっぴりアイティアに同情した。

 悔しくて恥ずかしくて、でもどうにもできないこの気持ち。


 アイティアが男たちによって組み敷かれて絶望したときと何が違うだろう。


 そうか、あの時のアイティアも、こんな気持を味わっていたのか――


「あ、いたいた!」


「いた……悪い子」


 気持ちが沈み、延々と落ち込みそうになったそのとき、新たな声が室内に響いた。


 目を開ければそこには、見知らぬお子たちがいた。


 一人は金髪に切れ長のつり目が印象的な少女。耳の先端がピンと尖っているのは長耳長命族エルフの特徴のようだ。


 もう一人は浅葱色の髪を両脇で結わえた少女。どこかトロンとした目をしていて、浅黒い肌は魔人族の特徴に似ている気がする。


「ねえ真希奈、その子でしょ悪い子」


「悪い子……」


『まあ悪い子、ですね。ストレスの発散のためだけに町を一つ燃やしかけましたから』


 タタタっと駆け寄ったお子ふたりが、鎧に包まれたモリガンを興味津々と言った瞳で見上げている。


 そのふたりをまじまじと見下ろし、モリガンは目を見開いた。それと同時に喜びの声を上げる。


「おお……、おおお……、わかる、わかるぞ! お前たちも私と同じ精霊だな!? し、しかも、その身体、魔素と魔力で編まれているのか! す、すごい……!」


 涙もろいのは肉体のせいなのか、モリガンはボロボロと号泣する。


「後生だ、助けてくれ……。同じ精霊なら私のこともわかるはずだ。私はずっと長い間不自由を強いられ、ようやく解き放たれたと思った途端、このような酷い仕打ちを受けているのだ……」


 突然情に訴え始めたモリガンに、セレスティアとアウラはキョトンとした顔になった。


 真希奈はその頭上でやれやれとアメリカンナイズな手振りで首を振っている。


「げに憎きはタケル・エンペドクレスよ。あやつのせいで私はこのような有様になっているのだ。どうか協力してくれ、共にあの男を倒そうではないか……!」


「お父様が何?」


「パパ、倒す……?」


「ん……?」


 無垢なる瞳に懐疑が宿り、次の瞬間には怒り――とはいかないまでも、不機嫌そうに目が細められる。


 ヒュオ――と、室内に凍てついた風が吹き抜けた。モリガンの顔の横を吹き抜けた途端、ハラリと、艶やかな黒髪が数本落ちた。


 まるで心の温度を表すよう、アウラを中心にして氷雪の風が吹き抜ける。


 中に氷の刃でも仕込まれているのか、唯一露出した顔に風が吹き付ける度、切り裂かれるような痛みがモリガンに走った。


「ねえ、今なんて言ったの? お父様をやっつけるって言った?」


 ニコニコと笑顔なのに、その目は笑っていなかった。セレスティアは全身から水精の蛇を出現させると、それを大挙としてモリガンの顔面に近づける。


「ひッ、ひいいい――!」


「ねえもう一度言ってよ、お父様をどうするって言ったの?」


「倒す……って、言った」


 しまった、とモリガンは後悔した。

 自分と同じ精霊だからと喜び勇み、立ち位置も確認せずにすがってしまった。


 タケル・エンペドクレスめ、まさか既にして精霊二体をも己が手中に収めているとは――!


「ま、まて、待ってくれ、こんな無体な……!」


「アウラ、どうしよっかコイツ?」


「パパの敵……やっつける」


「違う、誤解、そう誤解だ……!」


 身動きが取れないまま嬲りものにされることを恐れたモリガンは必死に頭を巡らせる。この子たちの怒りをなんとか鎮めなければ……!


「た、倒すとは遊びのことだ! そう、遊戯のことだ! 私はそれで一度もタケル・エンペドクレスに勝ったことがないのだ! ふ、ふたりに協力してもらって倒せたらいいなー、なんて思ったりして……」


 自分で言っていて羞恥に頬が染まる。

 流石に苦しいか、とモリガンが心配していると――


「あ、なーんだ、そういうことかー。びっくりしたー」


「パパに、痛いことしない……?」


「しないしない。するはずもない」


 ガックンガックンと必死に首肯する。

 よかった。相手が騙しやすい子どもで。


 などと思っていると、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた人形――真希奈がじーっとモリガンを見つめていた。


 まずい。こいつだけ騙せてない。

 バラされたら殺される……?


『それは初耳ですが、一体なんの遊戯ゲームをタケル様と興じていたのでしょうね?』


「うえっ!?」


 真希奈からの思わぬツッコミにモリガンは狼狽えた。ゲームというのは察するに遊戯のことらしいが、内容までは考えてなかった。


 お子ふたりが愛らしい表情で見上げてくる。なにやら期待に瞳が輝いているようだが、依然として室内には氷雪の風が吹き、モリガンの顔は水精の蛇に絡め取られたままだ。


 答えを間違え、精霊たちの機嫌を損なえば確実に死んでしまう。


「お……………………追いかけっこ」


 遊戯の記憶などアイティアが妹と野山を駆け巡っていたときのものしかない。


 獣人種の間では『狩り合い』という名の遊びで、ごくごく親しい間柄でしか行われないそれは、捕まえて屈服させた相手の首にあまがみをして終了となる遊びだ。追いかけっこと言えなくもない。


 とっさに出てきた言葉だが、さすがに無理か……? などとモリガンは思うが、それは杞憂だった。


「追いかけっこかー。お父様ってば四大魔素全部使って追いかけてくるから絶対強いよねー」


「パパからなら、逃げられない……しょうがない」


 ピタっと氷雪の風が止み、水精の蛇もスルスルと後退していく。助かった、とモリガンは息をついた。


『追いかけっこですか。では具体的にどのような感じでタケル様と遊んだのか、お教え願えますか?』


「貴様……!」


 しつこくツッコミを入れてくる真希奈を、モリガンは殺意も露わに睨みつけた。


 これ以上喋れば確実にボロが出る。だがキラキラした瞳で見上げてくる精霊ふたりを裏切ることはできない。


 モリガンは必死になって、アイティア越しに妹と戯れた記憶を説明しようとする。


 と、その時だった。猛烈な違和感が彼女を襲ったのは。


「む、しばし待て。何かおかしい」


『どうしたのですか? 答えられないのなら――』


「そうではない、何やら下っ腹がキリキリと痛むのだ」


 最初は僅かな痛みだったのが、今やグッと力を籠めて耐えられないほどの激痛になってきている。肉体を得てから初めての苦痛に、モリガンの顔はしょげ返った。


「なんだこれは、何かが私の中から出ようとしている……ような感じがする。イタタ、駄目だ、我慢できん! 猛烈に痛むぞ……!?」


 なにやら額に脂汗まで浮かんできた。

 一体どうしてしまったというのだ。


 ままならない肉の身体に戸惑っていると、真希奈が得心したとばかりに頷いた。


『ああ、まる一日以上鎧に閉じ込めていましたからね。そりゃあ溜まるものも溜まるでしょう』


「溜まるって、何がだ?」


『お小水ですよ』


「は……?」


 上品な言い方をしているがつまるところはアレである。


「そ、それってにょ――」


 モリガンは戦慄した。

 アイティアの中に閉じ込められていたときは気にしもしなかった生理現象。


 だがいざ自分がするとなると、とてつもなく恥ずかしい気持ちが湧いてくる。


「ど、どどど、どうすればいいのだ、こ、こんな閉じ込められた状態ではどうすることもできないぞ……?」


 あわよくば鎧から解放されるかもしれない。

 一抹の期待とともに疑義を呈するのだが――


『各種パーツが脱着可能なので問題ありません。股間の部分をパージしましょう』


「なにぃぃぃ!」


 パカーンと腰部の装甲が開き、期せずしてアイティアの下半身が顕となった。


 恥ずかしいなんてものじゃない。しかも真希奈が動かしているのか、鎧の両足がしやすい・・・・ようにやや開かれる。全裸よりも遥かに卑猥な恰好だった。


「おお〜」


「パチパチ……」


 何故か精霊娘たちは絶賛だった。

 露出した生身の下半身をマジマジと見つめてくる。や、やめろ、見るなぁ……!


『セレスティア、魔法で小水壺を作ってください。致したあとは浄化するのを忘れないでくださいね』


「かしこまりー!」


 有言実行。

 すぐさま深さがある藍色の円筒形の器が作られ、着水地点・・・・にしっかと置かれる。


 そしてなぜかセレスティアとアウラは筒の真ん前にしゃがみ込み、キラキラとした瞳でモリガンを見上げてくる。勘弁してくれ――!


「やめ、やめろ、やめてくれ……! こんな羞恥、とても耐えられない……!」


 だが我慢すればするほど下腹部の痛みはひどくなる一方だった。


 恥ずかしくもあり、そして怖くもある。

 力を抜いてしまえば、この痛みから果たして本当に開放されるのか、それともさらなる痛みが襲ってくるのだろうか――


『これは生理現象だから仕方のないことなのです。それに我慢をすればするほど様々な病気になってしまいますよ。尿閉になったり膀胱が破裂したり、最悪腎不全になって尿毒症になってしまうかも。わかりやすく言うと、全身の血液に尿の毒素が混じってしまうのです』


「ひッ、そんな……!」


 アイティアと同じ時間を過ごしたとはいえ、モリガンの精神はまだ幼いままだった。


 排尿を厭う子どもを母親が叱るような口調で真希奈は、やや強めの脅しをかける。


 当然、現段階でそんな危険は少ないのだが、だからと言ってこのまま一生しないというわけにもいかない。一線を越えさせるための決断を促しているのだ。


「わ、わかった、する、するから……! でも、誰かに見られてするというのは恥ずべきことなのだろう? それくらいは私にだってわかるぞ……?」


 縋るように真希奈に懇願する。だが――


『ふむ。セレスティア、アウラ、ちょっとお部屋の外で待っていてもらえますか?』


「えー、なんで?」


「するとこ……見たい」


『というわけです。諦めてください』


「早すぎるだろ! もっと食い下がれ! 説得しろ!」


『面倒ですし。それに相手は子どもです。理性的な説得は不可能です』


 そう、無垢なる瞳に理由などない。

 強いて言うなら他人の排尿行為が見たいという簡単な理由だ。


 それは多分に感情的なものだが、相手はやっぱり子どもなのだからしょうがない。


『やりづらいというなら、……音頭でも取りますか?』


「いらんわ!」


 そーれ、だーせ、だーせ!

 などとやられては出るものも出なくなる。


 いや、出なくなるなら重畳なのだが、そんなことを言ってもいられないほど我慢は限界を振り切っていた。


「ああ、くそぅ、ちくしょう……、こ、こんな辱めを味わうとは……!」


「ねー、まだ出ないのー?」


「早くして……」


「うあああっ、もうダメ……出すぞぉ!」


 悲痛なモリガンの啜り泣きとともに、室内――タケルの個室にはひとりの愛らしい美少女が鎧に拘束されたまま排尿をするという高度な水音が鳴り響いた。


 その様を目撃した精霊娘たちは何故か拍手喝采を贈り、当のモリガンは、恐れていた痛みは最初に乾いた尿道を通る時の一瞬だけであり、あとはむしろ気持ちいいことに気づき、「ほふう……」と、だらしのない面相をさらけ出していた。


「すっごい勢いだねー」


「いっぱい。すごい……」


「もういっそ殺して……」


 連日の逃亡生活と緊迫した状況により、まるまる二日ぶりに出した排泄の量はそれはそれは全身の水分を絞り出すほどのものとなったのだった。


『セレスティア、後始末として拭ってやってください』


「はーい」


「ちょっと待て、水精の蛇でなどっ!」


「乾かして、あげる……」


「ひんっ、冷たい! それも止めてくれっ!」


 アイティアという宿主を押しのけ、ようやく表に出てくることができたのに、肉の身体で味わうアレやコレやの宿業を体験し、モリガンはもうヘトヘトになっていた。


 そして、心の奥底で新たに生まれた怒りの炎は、憎き男へとすべて捧げられることとなる。


(おのれおのれ、タケル・エンペドクレス……! 私にこのような仕打ちを……。絶対に許さん……!)


 百たび焼き尽くしてもなお足りない。

 あの者の臓腑を内側から焼き尽くして、出来上がった消し炭を地面にぶちまけてやりたい。


 そんなことを口にしたら精霊たちの逆鱗に触れるのは火を見るより明らかなので、モリガンはギリギリと歯を食いしばりながら、タケルへの憎悪を燃やし続けるのだった。


 続く。

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