第310話 北の災禍と黒炎の精霊篇④ 蘇る黒猫のトラウマ〜汚れた都の奴隷商再び
* * *
どこまで走ればいい?
どこまで逃げればいい?
本当に一人になってみて初めて気がつく。
ああ、私ってヤツは本当にどこまでも……!
がむしゃらに夜の町を走って走って走り抜けて、私は海の匂いに惹かれるまま港へとたどり着いていた。
濃密な磯の香り。海の匂い。
ここはニオブ海。
陸の魔の境界がリゾーマタなら、ここは海に隔てられたもうひとつの境界。緩衝島であるセレン島を挟んだ先には、ヒルベルト大陸――魔族種の領域が広がっている。
ヒト種族とは比べ物にならないほど強大な力を持った根源貴族。彼らを於いてヒト種族が
だがそれは裏を返せば、身内になってしまえば、ヒト種族の軍隊でもおいそれとは手が出せなくなる。根源貴族の王の庇護はそれほどまでに絶大なのだ。
私の安住の地はこの海を越えた先にある。
タケル・エンペドクレス様。
私の太陽であり神。
自らの生き方を魅せることで、私の生き方をも変えてしまったお方。
この海を渡ればきっと助けてくださる。
そうすればもう何も怖いことはない――
「何を考えているの私は…………!」
このままソーラスちゃんを見捨てて、一人だけ生き延びて何になる?
仲間を見捨てて来た私を、龍神様が受け入れてくれるはずがない。
あの時誓った。
変わる。変わってみせると。
それはあのときだけの誓いではない。
なら、今この時から。
この絶望的な状況下からでも変わって見せなければ。
私は両手で頬を叩き、気合を入れる。
相手は得体の知れない女なのか男なのかもよくわからない仮面の騎士。
おそらく今全力で戦っているであろうソーラスちゃんは劣勢のはず。
私のような実力で遥かに劣るものがふたりの戦いに介入できるとすれば奇襲しかない。
真っ暗な海に背を向けて、灯りが落ちた夜の町を見据える。
ソーラスちゃん、お願い、無事でいて――――
「え」
勇気を抱いて踏み出した私の決意はそこで挫かれた。
不意に生まれた敵の気配に一瞬棒立ちになってしまったのだ。
私の頭上から何かが振ってくる。
一回、二回、三回と何かが私を絡め取る。
闇に紛れてよく見えないが、触った感触で投網だとわかった。
「やれやれ、まさかそのまま海の中に飛び込むかと思ってしまいました。溺れる猫を引き上げるのは苦労しそうだったので、助かりましたよ」
三重に被せられた投網の重さと、両側から引っ張られる圧力に、私はその場に跪くしかなかった。どうにか顔を上げた先には、魔法の鬼火が灯る燭台を持った、仮面の男が立っていた。
ひょろりと枯れ木のように背が高く、覚束ない足取り。冒険者風の男に肩を貸してもらいながら私の前までやってくる。
その頭にはスッポリと、風貌を隠す仮面――というより兜を被っている。
騎士風の兜で顔だけを隠し、あとはどこにでもいる町人風の服装を纏っている。
この男は一体誰? 私を知っているの?
「いやあ、お久しぶりですねえ。おやおや、顔色が優れませんよ。アーガ・マヤであなたを見つけてからもう二月にもなりますか。さすがは獣人種、なかなか捕まえるのは難儀でした。私もこの身体で追いかけるのは苦労させられましたが、どうにか間に合ったようですねえ」
兜の男は饒舌だった。
まるで恋人とでも再会したかのように喜々としてまくし立ててくる。
私は警戒心も顕に兜の男を睨みつけた。
「あなたが、仮面の女が言っていた主、ですか?」
恐怖に怯える前に、少しでも情報を蒐集する。
というかこの状況下ではもはやそれ以外考えられなかった。
「ほ、ほほ。陸に打ち上げられた魚も同然の分際なのにいい目をするじゃありませんか。いいです、それでこそ壊しがいがあるというものです。あの時叶わなかった欲望の丈を今こそ、そのか細い身に刻みつけてやりましょう」
兜の下、濁った瞳が私の身体を舐め回す。
私は自らを掻き抱き、背筋に走る怖気を耐える。
「ああ、やはり美しい。できるのならばあなたを競売にかけたい。どれほどの値打ちが付くのか是非とも見てみたい……!」
「まさか、あなたは
私とソーラスちゃんがずっと追っていた、聖都無きあとも、私達獣人種を食い物にしようとする許されざる奴ら。その首魁が今目の前に――!
「かびの生えた名前ですが、ええ、如何にも。私こそが聖なる都の最も忌むべき暗部を継ぎし者です。故にあなたほどの器量、果たして好事家たちの間で如何程の値が付くのか興味があったのですが……時間切れです」
時間切れ?
何を言っているのだこの男は?
「この身に残された時間はもう幾ばくもありません。したがって、今宵一夜限りの狂宴を開こうではありませんか。主賓はもちろんあなたですともええ」
ジリジリっと、私を投網で拘束する男たち――兜の男の部下が包囲を狭めてくる。
その顔には、明らかに色ごとを愉しもうという気色が浮かんでいるのがわかった。
潜伏生活の最中、娼婦に化けていたことが災いし、男たちのそういう気配にも敏感に気づけるようになってしまっていた。
私は恐怖した。
今から我が身に襲いかかる地獄の責め苦を想像し、心から震え上がった。
暗闇から現れた男たちの数はひとりやふたりでは効かない。
ぞろぞろと十人以上。上背たくましく、獣人種の膂力すらねじ伏せる隆々たる筋肉を誇示する男たちばかりだった。
その顔はありありと、愉悦が浮かんでいる。
抵抗できない私を玩具の如く弄ぶ様を想像しているのだと、娼婦の経験からわかってしまった。
怯えた様子の私に満足するよう、兜の男は一層弾んだ声を上げる。
「大丈夫、殺しはしません。ですが二度と子供が産めない身体にはなってもらいます。そして生きて、生き延びて、是非ともナスカ・タケルに身も心も汚れた姿で再会してください」
「――ッ、どうしてあなたがその名前を知ってるの!?」
恐怖に全身を支配されようと、それだけは問わねばならない。
もし、ことが私の生命と
「おや、そうそうそうでした。私としたことが、このような成りでは気づいて貰えるはずもありませんでしたね」
そう言って男は苦労しながら枯れ枝のような手で兜を脱ぎ捨てる。
その下から現れた顔を見て、私は悲鳴を上げた。
恥も外聞もない、正真正銘の絶叫だった。
「ああ、その声が聞きたかった。ようやく奴隷の立場を思い出しましたね、私のメス猫ちゃん……!」
額を深く抉る刺し傷はソーラスちゃんがつけたもの。
幾重にも深いシワが刻まれ、面相は変わっているが紛れもない。
「どうして、あなたが…………マンドロス!」
聖都の商業取引を一手に引き受けていたアナクシア商会の番頭。
そして奴隷売買を取り仕切っていた男でもある。
彼はおぞましい笑みを浮かべながら、「様をつけろメス餓鬼が……!」と凄んでくる。それだけで私は、悲鳴さえ凍りつくのだった。
*
帳の落ちた町中で、ひとりと一匹の戦闘は続いていた。
背中に守るものを無くしたソーラスの決死の特攻は、捨て身であるが故に辛うじて仮面の騎士と渡り合うことに成功していた。
いやそれどころか――
『ほう……また一段と疾くなったか』
民家の壁を足場に跳躍したソーラスが、ネコ科動物さながらの俊敏性で襲いかかる。
より速度を増し、重くなった両の短剣の一撃は、先程までなら余裕で捌けたはずが、今はいなす度に身体が流されるほどになっていた。
『はは、赤猫ぉ、おもしろいなおまえ……!』
見た目はどう見ても女性なのに、その声は重く低い男性のそれだった。
ソーラスはまさに四足獣の如く散大した瞳孔で、闇の中でも真昼と見紛うほど、相手の姿をしっかと捉えている。
獣人種の俊敏性、種族の恩恵による明るい視野。
それを差し引いても、相手の方がなお上という現実。
だが構わない。初めから勝つことは想定していない。
敵が面白がってソーラスの相手をし続けてくれれば、アイティアを逃がすことができるからだ。
ひとりと一匹は闇に包まれる町中を駆け、破壊の痕を周辺民家に刻みながら戦闘を続けていく。
「ふッ」
ソーラスが不意に跳躍した。
ゆうに平屋の民家の屋根を越え、夜空を背負う。
仮面の女がそれを目で追うと、途端、雲の切れ間からムートゥの淡い光が差し込んだ。
偶然? それとも風の流れを読んだ?
とにかく、天の差配はソーラスに味方した。
ムートゥの光とはいえ、それまでとは格別の光量に目がくらむ。
その隙を逃さず、ソーラスは両の短剣を投擲した。
『甘い』
寸分違わず胴を狙って放たれた短剣を、いともたやすく防いでみせる仮面の女。
だが――
「バーカ!」
短剣の柄尻から紐が伸びている。
今まで隠してきた奥手。
ソーラスが紐を繰ると、弾かれたはずの短剣は切っ先を曲げ、くるりと仮面の女の剣に絡みついた。
『何ッ!?』
ソーラスは渾身の力で二本の短剣の紐を引いた。
残念ながら獲物を奪うことはかななかったが、前のめりに体制を崩すことはできた。
ソーラスが猛然と駆ける。
影さえ置き去りにするほどの最速の踏み込みを以て、懐から抜いた小刀を仮面の女へと突き入れる――――だが。
『甘いと言ったぞ』
「ギャンッッッ!」
次の瞬間、ソーラスは無様な獣の悲鳴と共に、地面に叩きつけられていた。
何が起こったのかまるでわからない。
仮面の女の手元が僅かにブレたとしか認識できていない。
だがそれだけで、ソーラスの身体は激流に揉まれたように捻じれて吹き飛び、顔面から地面に沈むことになった。
「――なに、がッ……!?」
土の地面で幸いした。
石畳だったら額が割れて致命傷になっていた。
それでも視界はドロドロだ。
典型的な脳震盪の症状により、なかなか立ち上がることができない。
そんな視界の中、振り返った仮面の女の手には、ソーラスが投げたはずの短剣が収まっていた。死に体となった瞬間、己の武器をあっさりと捨て、その場で最も扱いやすいと判断した短剣を仕様したのだ。
なんという見切りの早さ。そしてアイティア以上にアイティアの短剣を使いこなす技量。やはりこの仮面の女、只者ではない。
『なかなかいい戦法だったが、相手に武器を与えたのは不味かったな。防がれたと見た瞬間、突撃するなど愚の骨頂。まだその小刀を投げた方が可能性があったな』
「ウソ、つけ……!」
例え拍子をズラした三投目を放ったとしても、それすらあっさりと受け止めるか、あるいは躱すか――この騎士ならたやすくそうしていただろう。
いや騎士という呼び方は違う。己の武器に執着することなく、使えるものはなんでも使うその姿勢。己が誇りをただ一刀に捧げる騎士のあり方とはあまりに違う。まるでこいつの剣は喧嘩そのもの。それも恐ろしい技量に裏打ちされた、戦争そのものの武力を有している。
『悪いが借り物の身体なんでな。最後は少し大人気なく技を使っちまった。だが誇っていいぜ女! なんてたってこの俺、アズズ・ダキキと渡り合ったんだからな!』
「な、に……!?」
バカな。今この女はなんと言った?
その名前は
魔族種の根源貴族――剣豪王として知られる男の名前ではなかったか。
『おっと、少しうるさくしすぎたか』
ピー、ピーと招集を告げる笛の音が夜の町に鳴り響く。
さすがに誰かが通報したのだろう。
町の警備を司る冒険者か騎族院の者がやってきてしまう。
『よっと、おとなしくしてろよ』
「ま、待て……どうする、つもりだ」
未だ立ち上がることすらできないソーラスの身体と、己の剣を拾い上げながら、アズズと名乗った女? 男? ――身体は女なのに中身は魔族種の王を名乗る者は、疾風の速度で闇夜を駆ける。
『俺はこれ以上おまえとやりあうつもりはねえ。俺の目的は時間稼ぎだ。少し借りのある男がな、くたばる前にどうしてもあの黒猫族の娘と話がしたいというんでな。手を貸してやったまでよ』
女の肩の腕の上に乗っかったまま、ソーラスは薄れ行く意識の中で、懸命に女の主とやらの名前を聞いていた。
「ヒト種族の名前を覚えるのは苦手なんだが……なんだったか。マンドロス、だったか」
ソーラスはその名前に戦慄しながら気を失うのだった。
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