第309話 北の災禍と黒炎の精霊篇③ 追い詰められる黒猫と赤猫〜異様な仮面の女現る

 * * *



 ――私の中に誰かいる。

 それに気づいたのは、もうずっと昔、幼い頃の話だ。


 自宅の裏山で、よく妹と『狩り合い』をして遊んでいた。

 狩り合いとは、私たち獣人種に潜在的にある本能のようなもので、四足獣さながらに地面を駆け、お互いを狩りの対象として戦い合う遊びだ。


 あくまで遊びだし、実際に危ないことは何もないが、でも真剣に遊ぶからこそ、自分の能力がわかってしまう。


 私はこの狩り合いの遊びで、妹に勝てた試しがない。

 いつも私は狩りたてられて、追い詰められて、後ろから伸し掛かられて、首筋に歯を立てられて負けを認めていた。


「アイティアお姉ちゃん弱いー。もっと本気でやってよ」


 ひとつ下で闊達な妹と比べ、私は随分おとなしいと、父や母、その頃はまだ存命だった祖母にも思われていた。


「ちゃんと本気だよ。ミラちゃんは強いね」


 私はお姉さんらしく、妹を讃えながら、歯型が残る首の後を擦る。

 悔しいことなんてない。私はお姉さんだから。妹に負けたって全然平気だ。

 でもホントはチクリと、胸の奥が痛い。それをずっと見て見ぬふりをしてきた。


 その日の夜、私は不思議な夢を見た。

 口元を血まみれにした私自身が、私の目の前に立っている夢だ。

 その足元には妹のミラが真っ赤な水たまりに沈んでいる。


 嫌、そんな……!

 今すぐ妹に駆け寄りたいのに身体は動かない。

 目の前の私が近づいてくる。一歩一歩、まるで重さを感じさせない足取りで。


 真っ赤な私が、真っ赤な手で私に触れる。

 そして呟くのだ。譲れ、と。

 全てを今すぐ明け渡せ、と。


 妹の血を私の頬に擦り付けながら、その血で私の唇にべにを引きながら。

 凄惨な表情でもうひとりの私が囁いてくる。


 私は立ち尽くしたまま動けず、そうやって嬲られながら、朝が来るのをひたすら待つのだ。


 そんな悪夢を見た翌日だ。

 何故かその日は朝から家の中が慌ただしい。


 お昼過ぎには村長の巫女様がいらっしゃって、私をひとめ見た瞬間、「この子には魔法の才がある」と言った。


 どうやら今朝方、私の様子がおかしいことに気づいた両親が村長に相談しに行ったらしい。


 私の異変に真っ先に気づいたのは、一緒に寝ていた妹のミラで、「お姉ちゃん熱くて近づけなかった」と言った。両親も気づいてからはしばらく私に触れることすらできなかったという。その夜から私は部屋で一人で寝るようになった。


「アイティアの好きにしたらいい」


 おばあちゃんは私の黒髪を優しく撫でながらそういってくれた。

 魔法の才の有無が判明するのはもっともっと幼い時分であることが普通だ。

 私はなんとなく、このままで居たほうがいいような気がした。

 両親も私の意志を尊重してくれた。


 でももう、妹と狩り合いの遊びをすることはなくなってしまった。


 それから数年して、私は悪いヒト種族の冒険者に攫われて奴隷にされて。

 龍神様にお逢いして、聖都がなくなって、お役に立ちたくて、もう一度魔法を勉強しようとして……。


 それから、それから……。

 あれ、どうしてこんなことを思い出してるんだろう。

 しばらくこんな夢は見なかったのに。

 …………夢?


 不意に、後ろから肩を叩かれた。

 ゾワッと全身が総毛立つ。

 胸の奥がせり上がって息をするのも苦しい。

 振り向けばそこには私が――


「アイティア!」


 ハッとして目を覚ます。

 私のすぐ至近にはソーラスちゃんがいた。


「起きて、移動するよ」


「う、うん」


 私は寝台から身を起こそうとして、ものすごい倦怠感にふらついた。

 目の奥に鈍痛が走り、思わず両手で顔を覆う。


「寝汗すごいよ、早く着替えて」


「う、うん、ごめん」


 私たちは今、ヒト種族の領域、アーガ・マヤにいる。

 私とソーラスちゃんの主であるラエル・ティオス様の命により、私達獣人種の天敵である人類種神聖教会アークマインの残党の動向を探るのが任務だった。


 人類種神聖教会アークマインは聖都を拠点にして、獣人種の奴隷売買をして多額の資金を得ていた。聖都が消滅する直前、殆どの仲間を救い出すことが叶い、それを成したラエル・ティオス様は列強氏族の中でも大きな発言権と地位を得ることができた。


 だがそれと同時に義務も背負ってしまった。

 一度始めた事案には完全な決着をつける。


 つまり、再び獣人種をかどわかす可能性のある人類種神聖教会アークマインの残党の存在を把握しておく必要が示唆されたのだ。


 私とソーラスちゃんはヒト種族に好かれやすい容姿をしているということで、内部に入り込み潜入調査をしていたのだが……。


「やっぱり振り切れてない。一定の距離を置いて監視されてる」


 窓枠の隙間から外の様子を探りつつ、ソーラスちゃんはそう零した。

 同行者である私にも現状を把握させるために、わざとそう言っているのだ。


 私たちは追う側からいつの間にか追われる立場になってしまった。

 二月前、特殊な夜伽をする高級娼館に潜入して、客を取るフリをしては相手を眠らせ、私たちは人類種神聖教会アークマインに繋がる情報を得ようとしてた。


 もう幾人目になるか、客に香をかがせ夢見心地にしていたとき、突然ソーラスちゃんが監視の存在に気づいた。その瞬間から、私たちは追われる存在となってしまった。


 ソーラスちゃんは赤猫族の優秀な戦士だった。

 魔法の才能こそ無いが、こと戦闘に関してはラエル様の部下の中でも三本の指に入るという。


 その三本指の中には、ラエル様の係累で、同じく雷狼の能力が備わった方もいるので、それと同等の力がありと認められている。ヒト種族という、私達を蔑み、下に見ることしかない敵地に潜入してからも、彼女の存在は心強かった。


 ソーラスちゃんは、獣人種の中でも優れた五感を有している。

 特に第六感とも云うべき勘の良さは、今まで様々な危機を直前に察知し、回避することに成功していた。


 だが今回は、そんなソーラスちゃんであっても、一筋縄ではいかない相手らしい。

 どんなに逃げても、一定の距離を於いて付かず離れず、追跡されているという。私は全くそんな気配は感じられないのだが、ソーラスちゃんが言うからには本当なのだろう。


 何よりこの二ヶ月あまり、ソーラスちゃんの消耗が激しい。毎日毎日、ほとんど寝ていない。交代で見張りをしているのに、私の番の時も、彼女は熟睡はしていないようだ。突然ハッと目覚めては、怯えた様子で「移動するよ」と告げることもしばしばだ。どうやらまたしても追跡者の気配を感じたらしい。


 私は自分が情けない。

 ソーラスちゃんにばかり負担を強いて、完全に足手まといになってしまっている。彼女ひとりだけならもっと簡単に逃げられるのではないか。私の存在のせいで思うように追跡を躱せていないのではないか。


 だがそんな私の心情を察したのか、ソーラスちゃんは言った。


「アイティア、状況は厳しいけど絶対に逃げ切ってみせるからね。あんたが居てくれてホント助かってるからね」


 彼女は言う。もし自分ひとりだったら、絶対にどこかで諦めていたかもしれない、と。逃げることに疲れてしまい、どこかで自害して果てていたかもしれない。それをしないでいられる理由が私なのだと、そういうのだ。


 でもそれは、どれだけ私達が絶望的に追い詰められているかを示してもいた。それほどまでに追跡者が尋常ならざる相手であると示していた。


「このまま海路で逃げると見せかけて陸路で魔族種領まで逃げるよ。そこまで行けばあの方を頼れるからね」


 ドクン、と私の胸が高鳴る。

 あの方。ソーラスちゃんが誰のことを言っているのかすぐにわかった。


 龍神様――タケル・エンペドクレス様。

 ラエル様から定期的にやってくる伝書鷲の密書――最後にそれを受け取ることができたのは、もう三ヶ月近く前になる。


 それによれば、今あの方は獣人種の共有魔法学校で教鞭を取られ、魔法師教育に革命を起しているという。


 そして一定の成果を出した後は、ご自身が治めるべき魔族種の領地にお戻りになる予定だと。だからきっと今頃は、奪われた領地を平定されて、王として君臨されているはず。


 ヒト種族の領域を抜ければ、今度はヒト種族の方が異端者になる。魔族種の領域では魔族種や獣人種の数の方がヒト種族より圧倒的に多いからだ。


 あと少し、あと少しであの方に会える。

 タケル様の庇護下に入れば、もう安心だ。

 そうしたら私は、私は――――


 夜の闇に紛れて、灯の落ちた町中を進む私達の前に、何者かが立ちふさがった。

 顔の左半分を仮面で隠した……あれは女か。

 その全身は外套衣マントに覆われて見ることは適わない。

 だが隣のソーラスちゃんが真っ青になっているのがわかった。


「ウソ……!」


 戦慄と共にそう呟く彼女の様子から全てを察する。

 つまり、私達をずっと追いかけていたのは目の前の仮面の女だったのだろう。


 ソーラスちゃんは私を背後にかばいながら前に出る。

 そして早口で囁いた。「逃げて」と。


「そんな、私も戦う……!」


「ダメ……多分私でも勝てない」


 ソーラスちゃんの勘は外れたことがない。

 でも悲しいかな、今はその勘が相手と自分との実力差を知らしめていた。


「まさかこんな化け物がでてくるとは思わなかった……甘かった。実際今目の前に立たれていても全然気配を感じない。だけど私達を追い詰めていたのは間違いなくこいつなんだ……!」


 つまり私たちは意図的に泳がされ、意図的に追い詰められていたということ。

 追跡の気配をソーラスちゃんにわざと感じさせては追い立て、精神的に肉体的に疲労するように差し向けられていた。そうして疲れ切ったところを狙われて――


「――抵抗は無駄よ。我が主があなた達に会いたがっている」


 その声は間違いなく女性のものだった。

 多分私達より幾分年上くらい。

 まだ若干の幼さを感じさせながらも、通りがよく落ち着いた声音だった。


「私たちはまったくアンタの主とやらには用がないんだけど?」


「直接顔見ればわかる、とのことよ」


「せっかくのご招待だけど、お断りするわ」


「そう、なら――」


『力づくで連れて行くまでだ』


「ッ!?」


「え――!?」


 私も、そしてソーラスちゃんも、思わず声を上げてしまった。

 今一瞬、目の前の仮面の女の声音が変わった。

 落ち着いた女性のそれから、しわがれた壮年を感じさせる男性のものへと。


 そして仮面の女は、外套衣の奥からスラリと剣を引き抜いた。

 片刃のやや湾曲したその剣はヒト種族の中では殆ど流通していない特別な剣だった。あれは確か魔族種の一部でのみ使われている――――


「アイティア、私が時間を稼ぐ。あんたは逃げて……!」


「そんな――、ソーラスちゃんを置いて行けない!」


 ソーラスちゃんは両手に短剣を抜き放ちながらそう言う。

 顔色は真っ青を通り越して白くなり、その全身は小刻みに震えている。

 そして尚も食い下がろうとする私を、彼女は叱りつけた。


「早く行け! あんたが居ても邪魔なのよ!」


 そのあまりの激に、私は身体を固くし、何も言えなくなってしまう。

 それでも飛び出す直前、ソーラスちゃんは笑った。私にお姉ちゃんが居たらこんな感じなのかな、といつも思わせてくれていた、全てを包み込むような優しい笑み。


 私は一瞬で全てを察する。

 ソーラスちゃんは生命がけで私が逃げる時間を稼ぐつもりだ。


 優秀な戦士であるはずの彼女がそうまでしなければならないほど、あの仮面の女――男? は強いのだ。


 実際、目にも留まらぬ速度で肉薄したソーラスちゃんの一撃は、仮面の女の剣によりたやすく流されてしまった。まるで相手が透明になってすり抜けてしまったように、僅かな抵抗もなくソーラスちゃんは、吹っ飛んでいってしまった。


「あ、ああ……!」


 私と仮面の女との間に遮るものは何もない。

 一対一で対峙して初めてわかった。

 相手の異常さ、そしてその実力の底知れなさ。

 私などではまるで歯が立たない。

 僅かな抵抗をする暇もなく殺されてしまう――


「どこを見てる、お前の相手はあたしだ――!!」


 背後から飛びかかったソーラスちゃんの一撃を、仮面の女はあろうことか、背を向けたままで捌いた。


 後ろに向けて無造作に手を振ったようにしか見えなかったその剣により、ガキィンと硬質の音が響き、ソーラスちゃんの身体が横へ流される。


 三度攻撃を仕掛けるソーラスちゃんだったが、持ち手を変えた剣によりあっさりと捌かれてしまう。


 その間も、ずっと仮面の女は私から目を逸らさない。じっと私を見たまま、まるで子供をジャレつかせるようにソーラスちゃんをいなし続けている。


 私は、その目――女の右目と仮面の左目に射すくめられ、まったく身動きができなくなってしまった。


 と、ようやくその視界が遮られる。

 それはすでに肩で息をし始めたソーラスちゃんの背中だった。

 まるで私を庇うように、構えも取らずに両手を広げている。


 私はようやく身体が動けるようになったことに気づき、急ぎその場から走り出した。私ができることは何もない。いてもソーラスちゃんの邪魔になるだけ。そのことが骨身に染みて理解できた。


 龍神様と出会って変わったと、変わることができたと思っていたのに。

 結局私は弱いまま、何もできないままで、逃げることしかできない。


 背後で聞こえ始めた剣戟を振り切るよう、私は夜の町を全力で駆け抜けるのだった。


 続く。

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