第298話 東国のドルゴリオタイト篇㉝ 活躍する風と水の精霊娘たち〜ベアトリス生誕祭・宵の口

 * * *



 永世中立の商業都市エストランテ。

 東に突き出したムロレー半島に懐深く抱かれるヘスペリスト港。

 首都の名前を冠する港から街の中心に入っていけばエストランテ王宮がそびえている。


 日が昇る海に対して日が沈む西側には、鬱蒼と広がる魔の森があった。

 エストランテ国境警備隊が常時睨みを効かせ、魔の森から魔物族モンスターが侵入してくるのを防いでいるそこに、一際不自然な一画いっかくがあった。


 そこは私有地。エストランテ随一と謳われるユーノス商会が特別な許可を得て、職員の保養所を建設する目的で国より借り上げている土地だった。


 だが、魔物族を排除したというのに、未だ周囲には鬱蒼と森が広がり、一向に開拓される気配がない。警備を預かる兵はそのことについて何も言えない、言わない。


 その区画に足を踏み入れることは、エストランテ王宮の威光に逆らうことと同義とされて、不干渉が厳命されているからだ。


 区画には出入り口が存在する。大きくて頑丈な鉄門扉が置かれ、そこにはユーノス側で雇ったという冒険者や魔法師が常駐し、不用意に近づくものを攻撃することもある。


 門扉の向こうには木々の林冠に蓋をされた私道がずうっと広がっており、さらにその奥へ進んでいくと、突如として開けた丘の上に出る。


 アーガ・マヤを彷彿とさせる煉瓦造りの四角い建物。地上に出ている部分だけで三階分、地下も丘をくり抜くように二階まで作られているそこには、獣人種の領域や、果てはヒト種族の領域、一部魔族種領から回収してきた大量の黄龍石が運び込まれていた。


 そう、即ちそこは『生産工場だった』。


「――ちッ、もう鼻血もでねえぜッ!」


 男が吐き捨てるように叫び、今正に極大のファイアーボールを詰め込んだばかりの黄龍石をポイっと放り投げる。途端――


「このバカタレが!」


 すかさず拳骨が飛んできて、悪態をついた魔法師の男を殴り飛ばした。


「づあああっ、てめえ、何しやがる!」


 鼻血も出ないはずの男は、あまりの痛みに頭を抑え、ツツっと鼻から血を流していた。


「いいかい、何度も言わせるんじゃないよ! 魔法を込める前はただの石ころ! だが魔法込めた瞬間から、この石はもう味方じゃあなくなるんだ! 不用意な扱いはするんじゃない!」


 男が無造作に投げた石を受け止め、そのまま怒鳴りつけたのは、正に女傑と言った風情の恰幅のいい女だった。はちきれんばかりの筋肉と胸、尻、脚。露出した首筋や腕からは幾重にも重なった切創が見て取れる。ひと目でカタギではないとわかる風貌だった。


「このクソアマぁ。何かにつけてヒトの頭をポンポンポンポンと――」


 色めく男の方は、フードを間深くかぶった痩せ型であり、剣よりも多く魔法を研鑽してきたと解かる男だった。


「ああ? なんだって? 鼻血も出ないほど魔力が枯渇した魔法師が、腕っ節だけでアタシに勝てるっていうのかい?」


 ぐいっと、男の襟首を掴んだ女は、軽々と男を持ち上げる。並の男でも太刀打ちできないほどの腕力だった。


「ち、調子に乗るなよ、お前にひとりくらいならどうとでも――」


 やにわに、なけなしの魔力を餌に炎の魔素へと働きかけをしようとした瞬間だった。


「――ふべッ!」


 男の大して高くもなかった鼻っ柱がまっ平らになった。

 途端、顔面に灼熱の痛みが奔り、男は顔を抑えてうずくまろうとする。

 その刹那を逃さず、女の膝頭が男の眉間を正確に撃ち上げた。


「魔法を使用するためには魔素への働きかけをしなきゃならない。憎の意思って言うんだっけ。そいつはつまり分かりやすすぎる殺気さね。冒険者の懐の中でのんきに魔法が使えると思ってる間抜けが他にいるんなら、おんなじ目に遭ってもらうよ」


 顔から崩折れた魔法師の後頭部を踏みつけながら、女は周囲へと宣言する。

 作業机の上に大量に置かれた黄龍石に向かい合い、魔法を一心に込めていた魔法師のひとりが憎の意志を滾らせる。その途端、女の手が高速で振り抜かれた。


「あぎゃッ!」


「殺気には敏感だって言っただろう。特にアタシにそれを向けて、無事で済んだ男はひとりもいないんだ――」


 女から少し離れた作業机の前で、別の魔法師の男が肩を抑えて悶絶している。そこには深々とダガーナイフが突き刺さっていた。


「いいか全員よく聞け! お前らがやることはせっせと石に魔法を詰める、ただそれだけだ。魔法を込めたあとの石の扱いは丁寧に。お前らが初めて筆をおろした時の緊張感と、初めて触れた女の柔肌のように繊細に扱うんだ。だがもしこの中でまだ未経験の奴がいたら素直に申告しろ。顔が好みだったらアタシが相手してやる――!」


 女は笑った。蔑むように、下品に、魔法師たちを嘲笑った。嗤われた当人たちはギリギリと掻きむしるように胸を、裾を握りながら、歯茎が真っ白になるほど歯を食いしばる。女はなるほど、百戦錬磨らしく、僅かな攻撃の意思を向けただけで、途端笑いながらでもダガーの刃先を向けてくる。


 楽な仕事だと思った。ヒト種族の領域で騎族院に目をつけられ、お尋ね者となってしまった彼らは、エストランテに行けると知って狂喜乱舞した。悪事にまみれて黒くなってしまった身体も、新しい土地でやり直すことで白く、身ぎれいにすることができると考えたからだ。


 誘いをくれたユーノス商会には感謝してもしきれない。おまけに仕事まで斡旋してくれて、飯までついてくる。ここは楽園郷かと思った。だがそれはとんでもない勘違いだった。


 来る日も来る日も、体力の――魔力の限界まで黄龍石に魔法を詰め込む日々。魔力がなくなれば、胃袋が破けるほど飯を食わされ、泥のように眠る。そして起きれば、山のように積み上がった黄龍石に向かい合い、渾身の攻撃魔法を捻り出す。その繰り返し。


 酒が飲みたいと言った者がいた。現場を取り仕切る女の冒険者が「酒が入った状態で魔法なんて撃つなんてとんでもない」と即座に却下した。


 ある者はずっと山ごもりだから街に行って女が抱きたいと言った。すると女冒険者は、「お前らの体力や魔力は一滴残らずこの石に込めるんだよ。この黄龍石を女だと思って精一杯魔力を注いでやんな!」となじられた。


 もう嫌だ。そう言って脱走しようとした者は、翌日変わり果てた姿になって魔法師達の前へと連れてこられた。全身がずたずたになった、ボロ雑巾のような有様だった。全身が食い破られ、野犬の群れに襲われたのだとわかった。


「いいかいお前ら、この辺り一帯の森には腹をすかせた犬どもを放っている。これ、見えるかい? この特殊な香水を持っていないと、問答無用で襲い掛かってくる」


 そう言って女の冒険者は香の原液が入った小瓶を自分の胸元へとしまいこんだ。


「こいつが欲しけりゃアタシを裸にひん剥いて無理やり奪うんだね。まあ、そんなこと天地がひっくり返ってもできないだろうけどね!」


 女がまた下品に笑う。魔法師達は絶望した。唯一街へと続く私道には、女の仲間と思わしき冒険者たちが完全武装で見回りをしている。魔法でひとりやふたり倒したところで、すぐさま他の冒険者が駆けつけ、殺されてしまうだろう。


 つまり、ここに来てしまったが最後、もうどこにも行くことはできない。黄龍石全てに魔法を込め終えるか、魔力が尽きて死んでしまうか。ふたつにひとつ。それならもちろん、前者に全力を注ぐだけだが――


「ああそうそう、喜べよお前ら。さっき追加が来たんだ。おーい、運びな!」


 女の冒険者がそう言うと、作業部屋の中にドカドカと大きな木箱が運び込まれる。入れ代わり立ち代わり、部屋の隅には木箱が積み上げられていく。まさか、あの中身は――


「おらッ!」


 女冒険者の拳が、木箱の腹に突き刺さった。頑丈そうに見えた箱に穴が空き、ガラガラと硬質な音を響かせながら、見慣れた石がこぼれ出てくる。


「よかったなあお前ら。これが最後だとよ。こいつに全部魔法を込めたら、おまえらはお役御免だそうだ。まあその前に精根尽き果てて死ぬんだろうけどねえ」


 女が笑い、女の仲間である冒険者たちも嗤う。その場に居た魔法師たち全員が、己の心が折れる音を聞いていた。即ちそれは、絶望の未来を受け入れた証だった。


「一矢報いたいヤツはいつでもかかってきな。寝てようがクソしてようが、男とまぐわってようが関係ない。万に一つの勝機に賭けて死ぬ気で挑んできな。まあくたばったところでお前らの代わりなどいくらでも用意できるけどねえ!」

 

 そこは紛れもない地獄だった。

 いっそ死んでしまった方が救われる。

 そう思えるほどの、この世界の愁嘆場。


 だからだろう。

 魔法師たちは皆、自分の頭がおかしくなってしまったと思った。

 あまりの絶望に、有りもしない幻覚を見てしまっているのだと。

 何故なら今、瞬きをした途端、視界の中にひとりの少女が現れたから――


 浅黒い肌に浅葱色の髪。全身を仄かな深緑の輝きが覆っている。

 まるで天上人のように美しく清らかな少女だと思った。

 あの魔物族とヒト種族の間の子のような女冒険者などではない、この少女になら甘んじて生命を捧げられると、そう思えるほどの――


「なッ、なんだと――!?」


 高笑いを続けていた女冒険者が驚愕の声を上げる。

 これまで見せたことのない、余裕のない表情。女はとっさに腰だめに短剣を抜き放ち、他の冒険者たちも各々の獲物を抜き放った。


 部屋の中に見知らぬ子供がいる。

 それだけの事実が冒険者たちには恐怖だった。


 ここは街の子供が遊び半分でたどり着けるような場所ではない。

 魔の森に面した一級危険地帯であり、唯一の私道には見張りが立っている。

 さらに森を突っ切ってこようにも、そこには飢えた野犬が放たれているのだ。


 ダメ押しをすれば、この建物の中にも、各所に冒険者が配置され、自由に入退室をすることは絶対にできない。


「一体どっから入ったんだい、お嬢ちゃん?」


 浅葱色の髪をふたつ、おさげにした少女は、キョロキョロと周囲を見渡し、作業机の上に山積みになっていた黄龍石の元へタタターっと駆け寄った。


「あった」


『じゃから言ったじゃろう。ここが悪の巣窟だと』


「!? ――今、声が!?」


 少女から少女以外の声が聞こえ、女冒険者は戸惑いの声を上げる。

 仲間の冒険者たちもザザッと四隅に散らばり、他に侵入者が居ないか目を光らせる。


『儂の言葉が信じられんかったのかの?』


「パパ言ってた。疑問、あったら、自分の目で確かめろ、って」


『ほほ。なかなかあやつめは、まともな教育をしておるようじゃのう』


 突如として現れた少女が見えない第三者と会話をしている。

 その様を目の当たりにし、女冒険者は即座に頭を切り替えた。


「――ちッ、ホントは趣味じゃないんだけどね」


 懐から抜き放ったダガーナイフが少女を射抜く。

 ――射抜く直前、ナイフの刃先がブワッと持ち上がり、タンッッ、と天井へと突き刺さった。


 女は一瞬驚愕し、だが流石なもので、即座に第二刃の投擲を行い――再びナイフは天井へと吸い込まれた。


『無駄じゃぞ、この娘に飛び道具の類は一切通用せんからの。と、そこの――おぬしホンにヒトか? 魔物族モンスターに孕まされた母親から生まれたかのような容姿をしておるのう』


 ――ぶはっ、と不運にも噴き出してしまった冒険者の一人は、眉間にダガーナイフを生やすこととなり絶命した。


「別にアタシは化物との間の子じゃないよ。こう見えても生粋のヒト種族さ。それよりもいい加減、姿を現したらどうなんだい。こそこそ影に隠れていないで出てきな!」


 浅葱色の髪の少女へ向けて、姿なき者を誰何する女冒険者。

 だがその途端彼女は、尻もちを着くほど度肝を抜かれることとなる。

 何故なら――


『儂は別に隠れたつもりなどないぞい。お主らには声しか聞こえぬだけでのう。どれ、こうして位相を合わせて現実に寄れば――――見えるかの?』


「なッ、なッ、なあ――――!?」


 己の首筋に巻き付きながら、二股の舌先が触れ合うほどの至近に白蛇がいた。淡い光を放ちながら、女を映していた平たい瞳孔がキュウっと鋭角に窄まる。


 彼女はとっさにその白蛇を掴むと、浅葱色の髪の少女へ向けて放り投げつけ――ふわっと、彼女の意図に反して、白蛇は少女の手の中へ静かに収まった。


「なんだ、一体何なんだ前らは――!」


 女はあからさまに動揺していた。

 己の腕力と知恵で切り抜けられなかった事態など、これまでひとつもなかった。

 だがそれは己の暴力がキチンと届く、まっとうな相手に限られた話である。


『儂らがなにかと問われれば、それはもうお主らの敵としか言いようがない。のうアウラよ?』


「パパ、助ける。こいつら、悪いやつら」


 グッ、と小さな拳を握りしめ、少女は大きく頷く。

 その姿を見て、女冒険者は鼻で笑い飛ばした。


「は――、ガキが。砂遊びでも始めるつもりかい?」


 女冒険者は精一杯の虚勢を張りながら、短剣を構え、ジリッと距離を詰めていく。他の冒険者も同様に戦闘態勢を取っている。状況についてけない魔法師たちだけが、その場に留まり右往左往していた。そして――――


「さあ、覚悟しな、ガキだからって容赦は――」


 言いかけた途端、ゴッ、と女冒険者の顔の側面に何かがぶつかった。彼女は混乱する。何故なら自分のすぐ脇に壁が現れたからだ。その壁はビクともせず、押しても引いてもまったく動かない。そしてようやく「違う」と理解する。彼女はいつの間にか床に倒れ伏し、床を壁だと思って懸命に押していたのだ。


「あっ、がっ……!」


 とんでもない耳鳴りがした。

 まるで高山でかかる特有の病のようだった。


 頭を振り、なんとか顔を上げれば、女と同じく他の冒険者仲間も、魔法師たちも全員床に這いつくばっていた。


「これは、まさかガキ、おまえが……。一体何をした……!?」


 全員がのたうち回る中、少女だけが不動だった。

 淡い深緑の輝きを纏いながら、この惨状の最中、まったく平然としている。


『なんのことはないぞい。ちょいと空気の密度と組成を弄っただけじゃ。生身の者には覿面じゃな』


 少女の首へと巻き付いた白蛇は、まるで自分の手柄のように説明をする。女冒険者には半分も理解できなかったが、この少女と白蛇には確かに自分たちを無力化するだけの力があるようだった。でも、それでも――


「こんな耳鳴り如きで、アタシを止められると思っているのかい。舐めるんじゃないよ――!」


 もつれようとする脚に短剣を刺して気付けとし、痛みに脳髄を焦がしながら躍りかかる。全体重を乗せた渾身の刃が少女を捉えた瞬間――その姿が霞のように消えた。


 女冒険者の顔が引きつる。――引きつりながらもその目は正確に、天井付近へと現出した少女の姿を捉えていた。


「まいったね。アタシが殺してきた中に、お前みたいなガキがいたか? もしくは身ごもっていた妊婦でもウッカリ殺しちまったかね」


『幽霊の類いなどではないぞい。もっと高貴でありがたい存在なのじゃが――アウラよ、王宮の方ではもう始まったようじゃ。さっさと終わらせるぞい』


「う、ん……!」


 少女が手を掲げる。

 途端、天井が爆発した。


 一瞬で夜空が顕になり、そしてその夜空いっぱいに巨大な人影が女たちを見下ろしていた。


「な、なななな――か、神代の怪物か――!!」


 全身に藍色の大蛇を纏った巨大なヒト型人形。

 全身の腕、肩、そして膝に剣を埋め込まれたような恐ろしい形状をしている。


 魔法師なら息をするように殺せる。だが霞のように消える少女や、流暢に喋る白蛇、そしてあのような怪物を相手にする術など女は持ち合わせていなかった。


「全部――壊す」


 暴風が、吹き荒れていた。

 凄まじい上昇気流によって女冒険者の身体が持ち上がっていく。


 どんなに手を動かしても空中を泳げるはずもなく、周囲の仲間や魔法師、そして創り上げた黄龍石もろとも、空へと吸い込まれていく。ことここに至り、女冒険者は諦観とともに愚痴を漏らした。


「ギゼルの旦那――アンタ、ひょっとして神様でも敵に回したのかい?」


 その言葉を最後に、女の意識は闇へと沈んだ。



 * * *



 ――水を。

 誰か――水を。


 男は懸命に叫んでいた。

 声にはならない声で。

 心が壊れるほどの悲哀を持って。

 男は確かに叫んでいた。


 男の名前はヘスペリス・エストランテ。

 永世中立を掲げるエストランテの現国王であり、すべてを奪われた哀れな老人でもあった。


 何故なら彼は王宮内にある隔離の塔へと幽閉されていたからだ。

 国王は難病であるとされ、その病による『呪い』は忽ち周囲へと撒き散らされる恐れがあるとされていた。


 新しく就任した財務大官であり、摂政を行っていたあの男――ギゼル・ティアマンテの命に依り、ヘスペリスは肉親であるゼイビスアスやベアトリスから引き離された。決まった命令しか遂行できない、人形のような召し使いのみを充てがわれ、真綿で首を絞められるようにジワジワと死の淵へと追い込まれていた。


 喉が。

 誰ぞ水を。

 喉が焼けるようなのじゃ。


 枯れ木のような手を伸ばし、寝台側の机の上に置かれた水刺しを床へと叩き落とす。ガチャン、と破砕音がし、床に中身がぶちまけられる。これはヘスペリスの日課になっていた。


 水差しの中身を飲むことはできない。

 何故ならその中身は、ヘスペリスを隔離の塔へと幽閉することになった原因――毒が盛られていたからだ。


 もう何日も水など口にしていない。

 世話係の者たちが持ってくるものは、ひとつとして信用できなかった。


「おのれ、おのれぇ……ギゼルめぇ……!」


 すべての元凶はわかっている。

 ギゼル・ティアマンテ。思えばヘスペリス最大の失敗は、彼の者の野心を見抜けず、市井から引き立て、王宮に招き入れてしまったことだ。


 当初、反発の声もあったが、疑いようもなく優秀な男であり、実績を重ねることでそれらの声を封殺していった。


 だがある時、ヘスペリスは病に倒れた。手足が痺れ、ろれつが回らず、思考力が極端に鈍る。毒であると、瞬時に見抜いたヘスペリスだったが、喋ることはおろか筆談すらままならない。


 あれよあれよという間に、まるで舞台劇の台本でもなぞる様に、へスペリスが病により倒れたと触れが出され、ベアトリスを次王とする新たな体制がギゼルにより発表された。何一つへスペリスの意思を反映しないまま王宮は乗っ取られていった。


 ――このままでは息子たちが、ゼイビスアスとベアトリスが殺されてしまう。あるいはもうすでにそうなっているかもしれない。外の様子を知ることは叶わず、もう何ヶ月も外界から隔離されている。


 全てが手遅れになる前にこの塔から脱出しなければ。

 へスペリス御自らが、ギゼルを倒すため勅命を下す。


 大勢の家臣たちの前で自らの健在を見せつけ、罪人を裁かなければエストランテ王国は崩壊してしまうだろう。


 そのためには――

 いや、だからこそ。


 この喉の渇きはどうしようもなく、鈍った思考力はそのことばかりに占領されている。まずそのかつえを満たさない限り、ヘスペリスは一歩も前に進むことができないのだった。と、その時――


「おじさん、水が欲しいの?」


 幻聴が聞こえたと、ヘスペリスは思った。

 鈴を転がすような凛と清廉な声が耳朶を震わせる。


 ――誰ぞ?


 声なき声で呼びかける。

 いや、誰でもいい。

 悪魔でも天上人でもいい。

 誰ぞ、助けてくれ。この渇きを癒やしてくれ――


「ぶッ」


 寝台で仰向けになったヘスペリスの顔に水がぶっかけられた。

 次の瞬間、ヘスペリスは叫んでいた。


「何をするか無礼者――がっは、ごほッ!」


 あまりにも久しぶりに声を出したために、思い切り咽てしまった。

 だが先程まで息をするだけで肺腑が傷んでいたのに、今は少しラクになったような……。


 そして未だ寝台に伏せたまま目だけを動かせば、そこには紛れもない天上人が自分を覗き込んでいた。


「おじさん、お水もっと飲む?」


 金色の髪に翡翠の瞳。

 やや尖った耳は長耳長命族エルフの証か。

 見た目はどうみても子供だと言うのに、ハッと息を呑むような美しい少女だった。


「お、お主は誰ぞ……?」


「私セレスティア。お父様がね、おじさんを助けて来いっていうから来たの」


 ニコっと無邪気な笑みを浮かべる。

 助けてくれるのはありがたいが、現状少女ひとりでこの隔離の塔を脱出することは適わない。なにせ、塔のいたるところに見張りの兵たち――ギゼルの息がかかったものたちが配されていて――


「お主、そういえば、どこから……?」


「え、どこから来たかってこと? それならあそこだよ?」


 ついっと少女が指さすのは、小さく切り取られた明かり取り。ヘスペリスは愚か、少女の矮躯でさえ通り抜けることは不可能だった。と――


『このおバカ娘、ひとりでさっさと行くんじゃないですよ! 合図をするまで騒ぎは起こすなってタケル様に言われたのを忘れたのですか!』


 ヘスペリスは目を剥いた。

 小さな明かり取りからなんと、羽根を生やした小さな少女が現れたからだ。


 こちらは黒髪が愛らしい、人形のような容姿をしている。

 背中から生えている四枚の羽根は偽物ではないようで、パタパタと羽撃かせると、フワリとヘスペリスとの周りを浮遊しだした。


「ぶー。だって真希奈遅いんだもん。モタモタしてたら計画がパーだもん」


『あなたが不用意に突っ走っても計画はおじゃんになります。まったく、少しは私の言うことを――』


「うるさい、バカ真希奈」


『誰が馬鹿ですか! 呪いますよ!』


「――――ッ!?」


 あんなに愛らしかった羽根の少女の顔が一瞬恐ろしいものに変貌した。

 眼窩と口が真っ黒に塗りつぶされたその面相を見て、もしかしたらこちらの金髪の少女も悪魔の御使いかもしれない……ヘスペリスはそう思った。


『兎にも角にも、さっさと診察をしますですよ。陛下、ちょっと失礼します』


 元の愛らしい顔つきに戻った羽根の少女が、ペタペタと触れてくる。

 手首、首筋、そして両手でガバッと口を開き、『ベーっと舌を出してください』と言う。ヘスペリスは言われたとおりにした。


『かなり危険な状態ですね。脈拍も弱く、血管内にも多数の動脈瘤ができて血流を阻害しています。内臓機能もほぼほぼ停止しかけて黄疸まで……。日常的に毒を摂取させられていたようですね』


 言われるまでもなく、ヘスペリスにも覚えがあることだった。

 世話係が持ってくる水、薬、果ては食事にまで毒が混入されていた。


 ここしばらくは特に食欲がなくなり、毎日薬と称する毒を無理やり飲まされ続けていた。それを拒絶する体力すら、ヘスペリスには残されていなかった。


「でももうそんなの関係ないよね。とっとと治しちゃおう」


『そうですね。ことは一刻を争います。やっちゃってください』


 金髪の少女と羽根の少女の会話にヘスペリスは耳を疑った。

 震える唇を開き、懸命に疑義を伝える。


「誠か……、お主……そなたは、余を治せるのか……?」


「うん、だから治すって言ってるでしょ。おじさんバカなの?」


 金髪の少女がそう口にした途端、パコーンと羽根の少女がその頭をどついた。


「いたーい、何するの真希奈のアホー!」


『相手はヒト種族とはいえ、一応王族なのですよ。あなたが下品な言葉を使うと、タケル様が安く見られるのです。いい加減学びなさい』


「うー、お父様のため……わかった。おじさんはバカだけど、バカじゃないことにする」


『もうホントこの娘は……!』


 羽根の少女は頭を抱えてしまった。

 ヘスペリスは訥々と口を開いた。


「……よい。もしも、余を治すことができれば、全て水に流す……そなた達と、そのタケルという者にも、最大の感謝を贈ろう……」


 金髪の少女はキョトンとしたあと、ニコーっと笑った。


「だってー。おじさん太っ腹ー。それじゃいくよー」


 ブワッと、少女の全身から魔力が迸った。

 そして、その両手の間に、藍色の太陽が生まれる。


 決して目を焼くことのない輝きを放ち、触れるまでもなく肌を焦がすほどの熱を放っている。


「最初はちょっとキツイかもだけど、すぐに元気になるからねー」


 ゴクリ、と、ヘスペリスは喉を鳴らした。

 一見無垢そのものに見える少女は、やっぱり悪魔なのかもしれない。

 そんなことを思いながら、彼は藍色の太陽に全身を炙られるのだった。


 続く。

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