第295話 東国のドルゴリオタイト篇㉚ 人面獣心の財務大官〜ベアトリス生誕祭・中天
* * *
ベアトリス・エストランテ第二王子の生誕日である。
その日だけはすべての店が開店休業状態。
男は朝から酒を飲み、女は作りおきの料理をこれでもかと振る舞って家事をさぼり、子どもたちには近くの商会や商店からおひねり菓子を貰って大喜びと。すべての国民が幸福のウチに過ごし、幸福のまま眠りにつく日である。
国民がよく食べ、よく働き、よく眠る。それがエストランテの統治の根幹であり、さらにベアトリス殿下は独自の政策を推し進めている。
もともと商家の働き手である父や母を持つ子が多い中、簡単な算術や読み書きは当然のようにできる子が多い。だがそれだけではなく、片親で子供に勉強を教えてやれない家庭にも同じように読み書きと算術を教えるよう、初等教育の無償化を推進しているのだ。
そんなベアトリスの政策に対して、かかる費用の分を増税しようと提案したものがいた。だが賢いベアトリスはそれを突っぱねた。
「馬鹿者。これは未来への投資である。市井の子らが育ち、やがて大人になったとき、さぞや教養のある優秀な働き手になることだろう。そうなった彼らはみな、進んで税を払ってくれるはずだ。それでも余の政策を渋るというのなら、余が仕切っている紡績業の利益を回す。それで文句はなかろう」
王子が自らの懐から予算を出されるとの触れが出され、街は活気に湧いた。子どもたちの親は、おまえたちとそう歳の変わらない殿下が素晴らしい政策をされたと教え解き、幼い子どもたちはみなが一様に王子に対して憧憬の念を抱いた。
エストランテの未来は明るいと、近隣諸国でも評判となり、その実、ベアトリスは名君として名を馳せることだろう。彼の後ろで歯ぎしりをしているギゼル財務大官がいなければ、の話ではあるが。ちなみに掛かる予算の分だけすぐさま増税を訴えたのも、無論この男であった。
*
日差しが中天に差し掛かった時、城下の大広間に集まった民衆は歓喜した。
見上げるばかりの
ベアトリス・エストランテ。
柔らかな飴色の髪と、白魚のような肌。
顔立ちは美しく一見すれば少女のようだが、けれども不敵さを感じさせる太い笑みを浮かべている。
「親愛なる民よ、父よ、母よ、子らよ、そなた達は余を育みし大地である。そして余もまた、民たちを照らす
君民共治とは王のみが統治を行うのではなく、民と共に統治を行うという考え方だ。多くのヒト種族の王国が絶対君主を掲げる中、その統治に疑問を抱き、出奔した初代王オイゼビウスは、多くのことを近隣の獣人列強氏族から学んできた。
ヒト種族の王国が絶対君主が当たり前であり、民は支配されるものに過ぎない。
魔族種は純粋な力と血統に心を置いた臣民とで構成される、上下の確立した世界。
獣人種の統治はその中間に位置し、民を管理するのは列強氏族の役目だが、あくまで彼らは民から支持を得た代表者である。
「余はまたひとつ大人へと近づいた。余が背負し責務と義務は重ねた年齢にも比例し、重きを増していくことだろう。喜ばしき哉。余はさらに成長し、そなたたちをもっと背負いたい。もっと受け止めたい。そしていつの日かこの身が朽ち果てるとき、エストランテの土と海に還り、皆を見守り続けることを誓う。余は永遠にそなた達と共にある!」
雷鳴のような歓声が上がった。
城壁が震え、興奮と歓喜が伝染していく。
中には生まれた時からその姿を見ている老婆などは号泣している有様だった。
やがては外套衣を翻し、鳴り止まない拍手と歓声に背を向ける。
「お見事でございました」
室内で王子を出迎えたのは、側付きの教育係の一人である。
幼い頃から乳母として仕え、姉として、母として接してきた女性だった。
「よせ、ヘラよ。余の演説は兄上の言葉を借りているにすぎない。とても褒められたことではない」
「それでも、言葉に宿る覚悟は本物でした。お聞きください、民達の喜びを。この世界のどこを探しても、あなた様のような王は存在しません。ベアトリス様こそ、初代オイゼビウス王の掲げた理想を継ぐ名君となるでしょう」
「それは――持ち上げすぎだ。それに名君などという言葉は、父や兄上にこそふさわしい。余のこれはすべて演技であるのだぞ。その証拠に見ろ、少し油断すれば、ははっ、今頃足が震えてきよった」
その小さなカラダで父の、そして兄の名代を務めること。
王である父は病状にあり、とてもではないが民衆の前に出られる状態ではない。
そして第一王子たる兄は、交易に出た切り、帰っては来なかった。
真っ先に暗殺の可能性が頭をかすめ、目下全力で捜索しているが、要として行方は知れないのだった。
「殿下、失礼を」
おもむろに近づいたヘラが不敬にもベアトリスの肩を抱いた。
「よい。許す」
まるで委ねるようにベアトリスの肩から力が抜け、震えが収まっていく。
ヘラは労るように背中に手を回し、額に唇を寄せた。
「ヘラがお側におります。ゼイビスアス様も、必ず生きておいでです。あのようなひょうひょうとしたお方が、安々と生命を落とすはずがありません」
「そうだな、兄上のことだから、もしかしたらまた金の成る木を探し当ててくるやもしれん。あの方は商いの天才だからな。またぞろとんでもない手土産を持って帰ってくるだろうよ」
「ええ、その通りでございます。ヘラはなんの心配もしていません」
ゆらゆらと身体を揺らすヘラに合わせ、ベアトリスの身体も静かに揺れる。
まるで揺りかごにいるような心地よさだが、少し自分を子供扱いし過ぎではないだろうか。
乳飲み子の頃から世話になっているので、その時の名残なのだろうが、少し復讐したい気持ちがベアトリスに沸き起こる。
「兄上は必ず帰って来る。それはまったく心配してはいない。だが女癖の悪さには大いに憂慮している。フラッと帰ってきて、余の甥か姪を連れて来られた日には目も当てられん」
「――――うっ」
ヘラの動きがビタッ、と止まった。
まるで足が根付いてしまったように微動だにしない。
商売と女性に対しては手の早い兄のことだ、留守の間に他所でお手つきをしてしまうことも十分に考えられた。
「はは、冗談だ。兄上がそなたを悲しませるようなことをするはずがない。許せ許せ、ヘラ、おい、ちょっと痛いぞ?」
「殿下〜、王族として、商人としてのゼイビスアス様を手本にされるのは構いません。ですが男性としてのゼイビスアス様は参考にしてはいけませんよ?」
「わかった、わかっているとも」
まるで姉と弟のように気安い関係。
お互いに最愛の男を心配し、同時に最悪の事態を考えないように慰め合う。
ふたりは確かな絆で支え合いながら、ゼイビスアスの無事を祈り続けているのだった。
と、その時、強く扉が開かれる音がした。
あまりにも無粋な侵入の音にヘラはビクっと肩を震わせる。
「ベアトリス殿下。民衆への演説、お疲れ様でした。そして8歳のお誕生日、おめでとうございます」
無粋極まりない侵入者は、膝を折りながら臣下としての礼を取る。ギラギラと獣じみた瞳を向けられ、ギュッとベアトリスとヘラは、互いを抱く手に力を籠めた。
「ギゼル……、露台の間にはヘラ以外誰も入るなと命じていたはずだぞ?」
「いつまでも控えの間においでにならないので心配いたしておりました。今夜の晩餐会の打ち合わせを致しませんと間に合わなくなります」
「何を――
「それはもう、今夜の晩餐会はベアトリス様の特別なお誕生日になりますので。王都やグリマルディ、ドゴイからも各王女殿下がいらしております。万が一にもベアトリス様が侮られないよう、対話術の練習もいたしませんと」
「わかっている。言いたいことはそれだけか?」
ジロリと、面を上げたギゼルの瞳。
それを見た瞬間、ベアトリスはヘラを背中へと庇った。
まるでヒトの血の通わない、爬虫類じみた眼のようだった。
「いえ、まだございます。失礼ながら、事前に報告をいただきました内容と、演説の中身が食い違っているようでした。恐れながら殿下はまだお若い。
「矛盾して聞こえるなギゼルよ。民間徴用から取り立てられたおまえは、君民共治の恩恵を受けたひとりではないか。優秀であれば官民を問わず国政を任せる役目に就かせるべきだと――」
「今はッ――!」
遮るような
ギゼルは「失礼」と言いながら「今は非常時ですので」と続けた。
「ゼイビスアス殿下がお隠れになられて――」
「まだ死んではいない!」
今度はベアトリスがギゼルを遮った。
目を爛々と血走らせ、口を引き結ぶ。
「失礼。あくまで行方を隠されたという意味です。ゼイビスアス様も不在であり、エストランテの屋台骨は揺らいでおります。市井に分散した統治や権力機構を今一度殿下の手に取り戻されて差配される方が、効率的かと存じます」
深々と頭を垂れるギゼルに、ベアトリスは肩を震わせた。
その肩にヘラが優しく手を置いてくれなければ、幼子のように喚き散らしていたかもしれない。
「おまえの言葉は理解した。一考しよう」
「ありがたき幸せ。無礼な物言いをお許し下さい」
言いながらギゼルは立ち上がり、一礼の後に背を向けた。
「殿下」
ギゼルは背中を向けたまま「これは独り言なのですが」と付け加える。
ベアトリスに対して、正対を欠いた非礼極まる態度だったが、咎めるより早くギゼルは口を開いた。
「殿下ももう八つになられ、分別のつくお歳になられた。未だに幼子のように乳母を侍らせることは関心いたしません。人目がないとはいえ抱き合うなど――」
「おまえの独り言に余も独り言を返そう」
「あ――」
ベアトリスは性急な様子でグイッとヘラの腰を抱き寄せた。
体格差があるため、まるで尻に抱きつくような形になってしまう。
「余は早熟であるからな。最近では女遊びをヘラに習っていたところよ。おまえが来るまで
無論ウソである。
だがお互いに慰めあっていたなどと弱みを見せることは絶対にできなかった。
「左様でございましたか。色遊びは男の嗜み。するなとは言いませんが一つだけ」
「なんだ?」
「手を付けるなら、どうぞヒト種族の若い
「――ッ!?」
息を飲むヘラは確かに獣人種だった。豊満な身体つきが特徴的な黒牛族であり、本人の母性あふれる性格と合わせ、大変魅力的な女性でもある。だというのに――
「おまえは獣人種を差別するというのか!? エストランテの半数以上は獣人種だというのに、国体をも揺らがす発言ぞ――!」
「誤解なきよう、民であれば問題ありません。ですが王族であれば話は別です。初代王オイゼビウスはヒト種族。その正妻もヒト種族であり、獣人種はあくまで側室でした。殿下も、最初はヒト種族にて女を知るべきだと具申いたします」
「お、大きなお世話だ!」
叫ぶことしかできなかった。
まるで子供のワガママのようだった。
それは敗北と同じだった。
ギゼルは「口が過ぎました。お許しを」と言い残し、今度こそ部屋を出た。
ベアトリスは一人、打ち震えた。
怒りと恥ずかしさと後悔。
すべてがいっぺんに襲い掛かってきて、ギゼルの姿が見えなくなった途端、ボロボロと涙が溢れた。
「殿下……!」
「余は、自分が情けない。兄上の愛した女すら守れん。とっさに機転を効かせたつもりが、結局はヘラを侮辱することになってしまった……すまぬ、すまぬ――!」
ヘラももう我慢の限界だった。
ベアトリスは8歳になったばかりの子供なのだ。
ヘラを守るためにつかなくていいウソをつき、それを逆手に取られ深く傷ついてしまった。
「よいのです、殿下の優しいお気持ちは伝わっております。あの男を前に竦んでしまった私をしかとお守りくださいました。それだけで嬉しゅうございます……!」
膝をつき、後ろから小さな身体を抱きしめる。
こらえようとする度に嗚咽が漏れ始め、露台の間はしばしふたりの悲哀に満たされた。
兄を殺したかもしれない男。
限りなく黒に近い男を前にしても無力な幼子と女。
幸福なはずのベアトリス生誕祭の幕開けはただただ悲しみに包まれていた。
*
「ふん――ガキめが」
無人の控室に戻ると、ギゼルはポツリと呟いた。
大方さめざめと泣き合っていたのだろうとカマをかけたのに、意外な返しをされてしまった。小賢しい。だが十分に意趣返しはできただろうとギゼルは思った。
「まあ本当に交合しあっていたならそれはそれで見ものだったがな」
ニヤリと、ギゼルは好色そうに顔を歪めた。
「――ブッ、はははははははッ!」
突然の哄笑。傍から見れば気が触れたかと思うほど、ギゼルは腹を抱えて笑った。
なんのことはない、あの乳母のデカイ尻に抱きつき、懸命に小さな腰を動かすベアトリスを想像したからだった。
「いや覗き見は無理だな、笑いをこらえる自信がない! ははははッ! 兄貴のカキタレを弟が使うか! 古着のお下がりでもあるまいし! ヒーッ、ヒヒヒ!」
大きな会議机をバシバシと叩き、ギゼルはひとしきり笑い転げるのだった。
「ふー、笑ったな。こんな愉快な気持ちになったのは久しぶりだ。ふ、それにしてもまだ希望を捨てないか。もうとっくにゼイビスアスは死んでいるというのに」
ギゼルの放った暗殺者により、ゼイビスアスは遠く離れたヒルベルト大陸の地で名も知らぬ死体となりはてた。仕事を果たした暗殺者は報酬を受け取り、静養させた後に殺してある。これで第一王子の死を知るものは誰もいなくなった。
「君民共治などとカビが生えたことを言いおって。そんなことをされたら、俺が王になったときに権力が減ってしまうではないか……!」
絶対君主制への回帰はもちろん、ベアトリスのためなどではなかった。
もう間もなく、いや、今夜からもギゼルの時代がやってくる。
魔法を付加した新兵器である黄龍石を発表し、ドゴイやグリマルディの姫たちの前にその有効性を指し示す。
魔法つきの黄龍石の価値ははかりしれず、莫大な利益を生むはずだ。
その功績と金を駆使して、まず王宮内部とエストランテ議会を支配する。
異を唱えるものはこの世から消してしまえばいい。
やがて利用価値がなくなれば、ベアトリスであろうとも――
「目の前であの乳母を犯してやるか……ユーノス商会が経営する女郎部屋にでも落としてやれば……。いや、それならベアトリスも一緒に客を取らせた方がおもしろいな」
ヒトの皮を被った獣は、そうして妄想の中で悦に浸り続ける。
覚めない夢の中を漂うように、自分がエストランテの玉座に君臨する姿を夢想する。
数刻後、よもやその夢が幻と消えることを、彼はまだ知らなかった。
続く。
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