第249話 龍王の帰還篇⑤ 老婆・バハへの対価〜孤独な王を慕う者たち

 * * *



 城下町ダフトン。通称『龍の膝下』。

 その中心地であり、最も栄えた繁華街ノーバ。


 街一番と評判の食堂バハの店は、本来なら昼時ということもあって、毎日大変な賑わいを見せる。孫娘のビオも厨房と客席をせわしなく行き来し、息をつく暇も無いほどだ。


 だが今、バハの店を始め、近隣の商店は軒並み開店休業状態だ。

 原因は明白で、数か月前からこの街に――小高い丘を登った先に見える古城――龍王城に我竜族のミクシャ・ジグモンドが取り巻き達と共に住み着き、悪さを働いているからだった。


 毎日毎日、繁華街にやってきては、生かさず殺さず、徹底的な嫌がらせを繰り返しては帰っていく。いい加減街を出るか、それとも立ち向かうべきなのか。連中によって物流が止められ、臣民の中で備蓄している食料もほとんどなくなりつつある。


 このまま無抵抗でいては餓死するしかない。かと言って立ち向かったところで、ほとんどが脆弱な獣人種や魔人族、あるいはそれらの間の子供しかいない。ヒルベルト大陸の何処へ行っても差別や搾取しかされない臣民達は、ここ以外に他に行く場所などなかった。


 彼らの王は強く気高く、そして懐が深かった。どんな素性のものでも受け入れ、自らの膝下で生きることを許容してくれた。この街でなら卑屈にならずに済んだ。この街なら犯罪に手を染めずとも、働いた対価は等しく得ることができた。


 孤高で孤独な王を皆が心の中で慕っていた。決して言葉にせずとも、臣民の心の中には常に王がいた。


 だから王が死んだなど、決して受け入れられることではない。あと少し、もう少しだけ我慢して耐えていれば、きっと王が駆けつけ、悪漢共をやっつけてくれる。


 虐げられながら、それでも臣民たちが今日まで生きてこられたのは、それら王への信頼があったればこそだった。



 *



「すまないねえ、今はこれくらいしかお出しできるものがないんだよ……」


 そう言って僕とエアリスの前には皿に薄く盛られたスープがあった。

 具材など無い。野菜の切れっ端らしきものが僅かに浮いているのみで、ほとんど透明に近いスープだ。


 むくつけ共を追い払ったあと、この店の老婆と孫娘はエアリスが特に懇意にしていたということで、再会を喜び合い、話を聞きがてら食事をリクエストしてみたのだ。


 ところが孫娘――ビオは申し訳なさそうにうつむき、バハさんは厨房へ引っ込むと、震える両手を抑えるよう、静かな足取りで客席へと戻ってきた。


 そうして差し出されたのが今目の前にある一杯のスープだった。


「あいつらが来てから段々と市に食料が入らなくなったんだ。それでも区長たちが少しずつ備蓄を切り崩して食べ凌いでいたんだけど、それすらもあいつらがさっきみたいに……」


 ビオの視線の先にはシミがついた床があった。奴らがマズイとぶちまけた料理ですら、今のビオとバハさんならふたりで何日も食べていける量だったのだろう。


「せっかく来てくれたって言うのに、こんなものしか出せなくてごめんなさい。でも悪いことは言わないよ、あいつらが仕返しにくるまえにこの街を出たほうがいい。あいつらの言葉が本当なら、もうすぐ我竜族の奴らが一斉に攻めてくるはずなんだ」


 ビオは手が真っ白になるほどにエプロンを握りしめている。僕はそんな彼女に当然の問いを投げた。


『ならばどうしてこの街に居続ける? おまえたちこそどこかに逃げればいいのではないか?』


「なんだよあんた、大層なナリしてるくせに物を知らないね。あたし達みたいな半端者はどこに行ったって厄介者扱いしかされないんだ。私達が魔族種の端くれとして、ごくごく当たり前に暮らせるのはこの街だけなのさ」


 歳はエアリスと同じくらい、僕より少し年上くらいなのに、随分と悟ったことをいう子だなと思った。


『ビオと言ったか。おまえは生まれてこの方この街の外に出たことがあるのか?』


「え、いや、それはないけど……」


『なるほど。まあ僕もヒルベルト大陸のすべてを歩いたことはないからキミと同じようなものだろう。でも、なら獣人種領はどうだ? 列強十氏族の中にはたとえ魔族種との混血であっても受け入れてくれるところはあると思うぞ』


「ええ、獣人種の!? で、でもおばあちゃんは半分灰猫族だけど、私はほんの少しだけしか獣人種の血は流れてないし、きっとダメだよ。それにおばあちゃんを置いてはいけないし……」


 ビオはチラッと祖母の方を見た。

 魔人族と灰猫族のハーフ。浅黒い魔人族の肌に、頭には純血より小さめの猫耳がくっついている。腰が曲がって、すっかり小さくなってしまった矮躯で、彼女は先程から僕をじいっと見つめている。鬼面の奥の僕の妖しい金色の瞳を覗き込んでくるのだ。


『バハさんと言ったか。あんたはどうなんだ? この街はもうすぐ暴虐の限りを尽くされる。いや、今までもあったのだろうが、そんなものの比ではない。我竜族の王とやらがやってきたら、きっとあんたたちは隷属と忠誠を誓わされる。そうしたらどうする?』


「そうですなあ……」


 スープを載せてきたお盆を両手で抱きしめながらバハさんは、ただ静かに己の運命を受け入れて頷いた。


「その時は、厨房の出刃で自分の首でも掻っ切りましょうかねえ」


「おばあちゃん!?」


 ビオは目をむいて祖母にすがった。

 バハはそんな孫娘を受け止めながらにっこりと微笑んだ。


「私は物心ついたときから、王様の膝下で育ってきました。王様はなんの血縁も係累でもない私たちを懐深く受け入れてくださいました。ええ、寡黙なお方で、滅多なことで私達の前に姿を現すこともなかったヒトですが、区長を始めこの街の古参達は全員そんな王様を慕っていたんですよ」


 自分よりも背の高いビオに手を伸ばし、その灰色の髪を撫でてやるバハ。祖母のしわくちゃの手で優しく髪を梳かれ、ビオの顔はくしゃくしゃになった。


「だから、あのヒトたちの言うとおり、本当に王様が死んでしまわれたのなら、私はそれでもいいと思ってるんです。いつも寂しそうで、誰にも何も言わないおヒトだったけど、長くこの街に住んだものはみんな、王様が孤独だったことは理解してます」


 バハの話を聞きながらエアリスが目を閉じる。幼き日、王によって買われてきた少女。だが彼女でさえも王の孤独を埋めるには至らなかった。そのことを責められているわけでもないのに、エアリスの中では一生涯消えることのない傷として在り続けるのだろう。


「死んだら私たちはそれまでだけど、多分長く……それこそずうっとずうっと生きてらっしゃる王様のことだから、今はラクになれたって、喜んでらっしゃるんじゃないかなあって、私はそう思うんですよ。ほほ……」


 シワの中に沈んでほとんど隠れてしまっているバハさんの瞳から、ポロッと涙が一滴落ちた。


「ただねえ孫は、孫娘のビオだけは、もし叶うならあなた様に連れて行ってもらえませんかねえ。ほんの少しだけとは言え灰猫族の血を引いてますんで、慈悲深い獣人種の領主様がいらっしゃったら、一通り家事はしこんでますんで、あとは礼儀作法だけ教えていただけたら……ねえ?」


「何言ってるの、私がおばあちゃんを置いていけるわけないでしょう!」


「それは困ったねえ。ならばあちゃんも、最後まで頑張らないとだねえ」


「そうよ、私がお嫁に行くまで死ねないんでしょう? なんならひ孫を抱くまでがんばってよ……生きていてよ!」


 ビオは顔を真っ赤にさせて、赤子みたいに泣いていた。


「ほっほ。あんたが生まれた時、もうこんなに小さくて、こんなに弱々しくて、でも私には宝物に思えたもんさ。そうさね、もう一度その宝物を抱くことができたら、言うことは無いさねえ……」


 跪き、縋って泣きじゃくる孫娘の頭を、老婆は優しく撫で続ける。


 馬鹿野郎め。

 ディーオ・エンペドクレスの大馬鹿野郎。

 長く生きすぎて、耳も目も遠くなったのか。


 お前が捨てていったもの、お前の思いつきで蔑ろにされた人々。

 それでも彼らはお前のことが好きなんだとさ。

 お前のことを信じてるんだってよ。

 本当に――


『腹立たしい男だ』


 ふ――と、対面の席に座るエアリスが笑いをこぼす。

 わかってる。個体ではあまりにも長く生きてしまったため、ディーオは確かに感情が欠落していたのだろう。


 あのオクタヴィアですら、7万年という時間を生きているが、それでも200年周期で肉体をリフレッシュさせる必要がある。


 長命というによって、魔族種という生き物は心が壊れていく運命にあるのかもしれない。


 肉体の劣化に精神は引っ張られる。

 そして精神の死はイコール心の死なのだから。


 そして少なくとも、この街の住人はただ救いのヒーローを求めているだけの意気地なしたちばかりではないようだ。


 王と共に歩み、王と共に死ぬ。その覚悟の元、たとえ違う者たちが侵略してきて、新しい王を名乗ろうとも、決して従属するつもりはないようだ。


 今だって王が助けに来てくれるかもしれない、その一縷の希望の元に我竜族の暴虐を耐え忍んでいる。


 そのことが、よくわかった。


「む。記憶にあるものよりも薄味だが、やはり美味いな」


 木匙でスープを掬ったエアリスが喉を鳴らす。


「アウラ、そなたも食べてみるといい」


 腕の中に抱く幼子の口元に匙を近づける。

 アウラはあーんっと大口を開けてからパクンと口を閉じた。


「……おいしい」


「そうかい。ホントはもっと美味しいんだけどねえ。また今度おいでな、その時にはちゃんとしたあつものをごちそうするよ、ああ、ええっと……」


「アウラ、あの者たちに自己紹介しなさい」


「あう。アウラ、です」


 エアリスの胸元から顔を挙げて、キチンとバハたちの方を見てから頭を下げるアウラ。そんな可愛らしい姿に、老婆の目尻はだだ下がりだった。


「おお、えらいねえ。ちゃんとお名前言えるんだねえ。アウラちゃんはいくつなのかな?」


 バハは目尻のシワをより一層深くしながら質問する。

 アウラはキョトンとした顔の後、エアリスを見てから僕を見た。


『正確には9ヶ月ほどか?』


「確かにこの姿になったのはそれくらいだろう。だが、アウラは私が風に目覚めたときから共にあったのだ。とすればもう10歳にはなるはずだぞ」


「何言ってるのあんたら?」


 他者には絶対理解できない会話に疑義を呈したのはビオだった。


『なら見た目の年齢を取って、対外的には4歳ということにしよう』


「ふむ。それが一番混乱がなくていいかもしれないな。アウラ、そなたこれからは年齢を聞かれたら4歳と答えるがいい」


 こくり、と頷いたアウラがフワリと浮かび上がる。

 音もなく、風もなく、ただその小さな身体のみが物理法則を無視する。


 老婆と孫娘、ふたりしてまったく同じタイミングで目を見開き、口をあんぐりと開ける姿には失笑を禁じ得なかった。


「アウラ……よんちゃいです」


「お、おおお……こ、この子は、いや、この御子は、まさか精霊様、なのかい?」


 例え本物を見たことがなくとも、目の前に神や悪魔がいれば常人でも気づくだろう。エアリスと共にいるときは母娘にカモフラージュできても、やはり間近に見てその言葉に触れれば、アウラが入神の域にあるものだとわかってしまうのだ。


『エアリス、僕にも一口くれ』


「うむ。なんなら口移しでやろうか?」


『人前で何いってんのさ!』


「冗談だ。照れるな。今度ふたりきりの時にしてやろう」


『お、おう』


 これが里帰り効果か。

 今日のエアリスさんはいつになく上機嫌だ。


 僕は鬼面の下半分だけを取り、口元を露わにすると、エアリスが差し出してきた木匙からスープを啜った。


『うん、美味いな。バハさん、お代はつけておいてくれ』


 僕は鬼面を付けながらガダンと立ち上がる。


「そ、それは構わないが、あんた達、これからどうするつもりだい?」


『スープ代を稼いでくる。それだけだ』


 鬼面の下、僕の耳元に取り付けられた無線イヤホンから真希奈の合図が聞こえてくる。あのあと、さらに龍王城へ偵察に向かった真希奈が、敵に動きがあったことを知らせてくれる。


 どうやらミクシャ・ジグモンドは自分の子分が連続して撃退され、敵が複数街に入り込んだと思い込んでいるらしい。その証拠に街中の部下に招集をかけて、城の守りを強化するつもりのようだ。


 ちょうどいい。一網打尽にしてやろう――!


 続く。

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