第193話 地球英雄篇2⑤ 絶望に染まる空〜命を燃やす兵ども・前編

 *



 フィリピン海で生まれた地球を灼くほどの光。

 それは疑似太陽の顕現と爆縮崩壊。


 僕の放った超魔法は、最大最悪のサランガ・融合群体を飲み込み、細胞の一片すら残さず完全に消滅させた。


 その残光に目を細めながら僕は、己の内側へと意識を向ける。

 ドクン(ドクッ)――と、確かな拍動がふたつ、僕に応えるよう力強く響いた。


 それは龍神族初代エンペドクレスの心臓と、二代目エンペドクレス――ディーオの心臓だった。


 たったひとつですら神域の魔法を可能とする虚空心臓。それがふたつ。今まで稼働していなかったディーオ・エンペドクレスの心臓が覚醒したことで、僕は完全なる復活を遂げていた。


 即ち、聖剣の支配権、不死性の回復、そして魔法と。

 人工精霊を開発して以来初めてとなる一切の制約がない状態。


 僕は――僅かな時間、ほんの数秒だけ目をつぶった。

 今こうしている間にも日本が、仲間たちが危機に瀕している。


 だが、だからこそ冷静になれと己に訴えかける。

 ともすれば圧倒的な全能感に陶酔しそうな自分自身を叱咤激励する。


「……真希奈、ここから日本まではどれくらいかかる?」


 静かに愛娘へと問いかける。

 今の自分ならさほど時間はかからないだろうと予想する。

 だが真希奈からの答えはそれを超えるものだった。


『今のタケル様なら恐らく一瞬だと思われます!』


「一瞬? どういうことだ?」


『現在タケル様が保有する魔力量ならば、光速に迫る速度が得られるからです!』


 そんなそんな、軽々しく光速なんてこの子ってばもう。


「――って光速ってあの光速っ!?」


『はい! タケル様のお身体を肉体マター情報ジーンに分離。肉体を光子に変換すれば、限りなく光に近い速度で移動することが可能なはずです!』


「……それって僕は死ぬってことか?」


『ネガティブ。いまやタケル様は完全に死を超越されました。そして重要なのは肉体マターではなく情報ジーンの方です。タケル様の肉体情報は虚空心臓内に収容し、移動後に肉体を再生すれば、恐らく瞬きの間に到着できるはずです!』


 光の速度。

 一秒間に約30万キロ。

 一時間なら約10億8千万キロというスピード。


 アインシュタインによればこの宇宙には光より以上に速いものはないそうだ。

 まさかそれを身をもって体験できる日が来ようとは。


「どのみち迷っている暇はないな。こうしている間にもみんながピンチに陥っているかもしれないんだ。真希奈、やってくれ」


 肉体を捨て去ることで光の速度に迫る。

 そんな前人未到の偉業を前に、僕が静かに覚悟を決めていると――、


『か、かかかかしこまりましたー! 不詳この真希奈、全力でタケル様の肉体情報を虚空心臓内に保管させていただきますですはい!』


「お、おう」


 相も変わらず真希奈はバッドトリップしてるみたいにハイテンションだった。

 一体どうしちゃったんだろうこの子は?


『肉体を光子変換開始! 質量の消失に伴い発生したエネルギーを推進力に変換します! タ、タタタタケル様のに、ににに肉体情報を虚空心臓内に収容します!』


「これは――!?」


 変化は激的だった。

 周りの景色が無限に伸びていく・・・・・

 限りなく細く、そして長く。

 海と星空が遥か別世界のように遠い。


『ホロウニック・ドライブ開始――!』


 次の瞬間、僕の全身から重さが消えた。


 ――そして気がつくと、遥か眼下には人工の光源が渦巻く島国があった。

 エアリスが気に入っているという龍の形をした日本列島である。


「本当に瞬きの間だったな……いや、それよりも真希奈――」


『せ、成功です! 直線距離にしておよそ1200キロを瞬時に移動しました! そしておめでとうございます! 只今の移動でタケル様は光速度を0.00002%超えることができました! タケル様は一般相対性理論という物理の地平を飛び越えたのです!』


「キス、したよな今?」


『な、ななななんのことでしょうか、真希奈にはとんと心当たりがありませんです!』


 ようやく真希奈のおかしなテンションの理由がわかった。

 今の『ホロウニック・ドライブ』とやらで、僕の身体は肉体とそれを構成する情報とに分離された。


 肉体は光子に変換され、そして分離した情報は虚空心臓の中へと格納された。

 いわば僕は仮初の情報生命体となったのだ。

 人工的に創り出された情報生命である真希奈と一緒である・・・・・・・・・


 先程、景色が無限に伸びて、僕の身体が消失――全身が色を失い、限りなく透明になった瞬間、目の前に全裸の少女が現れた。


 その少女――前髪パッツンの黒髪少女は性急な様子で僕に抱きつくと、問答無用で唇を奪っていった。「ムフーッ!」なんて言っちゃって。肉体を持たない真希奈が直接――僕の魂に触れて親愛の証を残して行ったのだった。


『あの、タケル様……もしかしてお嫌だったでしょうか?』


 そんなわけあるか。でも不意打ちみたいなのは勘弁して欲しい。


「いい感じに肩の力が抜けたよ。ありがとな真希奈」


 ポンポンと黄金の胴当ての上から胸を撫でる。

 真希奈から安堵の感情が流れ込んでくると同時、若干の怒りも感じる。

 なんでさ?


『むむむ。そう言っていただいて嬉しい反面、女として全く意識されていない現実が悲しいです!』


「そりゃあ娘だからな。でもちゃんと愛してるぞ真希奈」


『あ、ああああ、愛!? 愛して――!?』


 ホント、真希奈相手ならいくらでも歯の浮くような台詞も、それこそ愛だって囁くことができるのにどうして僕は――いやいや、コレ以上の思考は蛇足であり泥沼だ。


「さて真希奈――」


 僕は眼下の島国を見下ろす。

 こうしているだけでも、魔族種である僕の耳には、風と共に無辜なる悲鳴が聞こえてくるようだった。


「終わらせるぞ――魔素情報星雲エレメンタル・クラウド最大展開!」


『畏まりました。日本列島・・・・全域に魔素情報星雲エレメンタル・クラウドを急速展開します!』


 この忌まわしき戦いに終止符を打つ。

 そのために僕は1億2700万人が住まう日本という国そのものを掌握し始めた。



 * * *



 都内の市街地で戦い続けるのは現行最強の力を有した歩兵拡張装甲サムラオウである。


 その全身は数多のサランガを屠った証のように汚穢な体液に濡れている。まさしく鬼神の如き一騎当千の戦闘力だったが、今その動きは精彩を欠いていた。


『戦闘開始から2時間34分52秒が経過。バッテリー残量320%、活動限界まで3734秒――ですが、マスター・マリアの肉体が限界に近づいています。これ以上負荷をかけ続けるのは危険です』


「うるせえっ――いいから次の優先目標を出せ!」


『左舷9時方向、距離700』


「遠い! 桜花、プラズマジェットだ!」


『警告。推定負荷24、8Gが予想されます。内蔵器官に多数の内出血を確認。これ以上はパイロットの安全を保証できません』


「いいからやるんだよ! あたしが生きてるうちは、もう誰も死なせねえ!」


 マリアの顔は苦悶に歪んでいた。

 戦闘開始からほぼずっとサムラオウの殺人的戦闘機動を継続してるのだ。


 吐くものなど胃袋の中になにもないというのに、鉄臭いものが幾度となくマリアの口内にはこみ上げ、それを飲み下す作業を繰り返している。


 意識が飛ぶ。身体の末端から感覚が消え失せている。

 それでも手足はまだ動く。動く以上、戦い続けなければ。

 人々を救い続けなければ――


『教官! 突出しすぎです! 一度下がってください!』


「馬鹿野郎! そんなことしたらまた犠牲者が出ちまうだろうが――! 桜花、やれ――!」


『プラズマジェット点火』


 眩いばかりのフレアをたなびかせ、サムラオウが要救助者の頭上へと駆けつける。

 数十人からの避難民に一斉に襲おうとしていたサランガは、空中でバラバラに切断され地面へと降り注いだ。そしてマリアは――


「うっ――がはっ!」


 鮮血を吐いた。

 腹の中と肺をナイフで刺されているような鋭い痛みに襲われる。


『パイロットの身体負荷、アクア・リキッドスーツの補助限界を越えました。即時撤退を進言します』


「やめ……ろっ! 警報を切れ!」


『教官、教官、応答してください教官!』


「次だ――次は誰を、あたしは誰を助ければいい……!?」


 高濃度アクア・リキッドに包まれたヘルメット内部が濁っていく。

 七孔噴血しちこうふんけつ。目、耳、鼻、口。

 顔面のあらゆる孔から出血している。


 マリアの肉体は限界だった。

 あくまでサムラオウは試作機。魔法での身体能力向上を期待・・してパイロットの負担を度外視した設計をされているのだ。


 だが、そんなサムラオウのお陰で、マリアは凄まじい数のサランガを屠り、幾度となく人々を救ってきた。そしてついにその代償を払うときがきたのだ。


『警告。無数の敵に囲まれています。総個体数約300。パイロットには機体を放棄し、即時退却を推奨します。繰り返します――』


「あたしは、まだ、やれるぞ――!」


 マリアの闘志は尚も燃え盛るが、それは消えゆく前の蝋燭の炎のようだった。



 * * *



「怖くない怖くない怖くない!」


 百理ちゃんが戦ってる。

 心深ちゃんもエアリスちゃんもアウラちゃんもセレスティアも。

 みんなみんな頑張ってるんだ――!


 イリーナは極寒のコンテナの中、9台にも及ぶパソコンを床にならべて休む暇もなく高速タイピングをしていた。実際は目の前に置いたスイッチキーボードを3台並べて、瞬時に登録PCを切り替えながら作業を続けていた。


 心深が行っているジャック放送を支えているものこそ誰であろうイリーナであり、今や心深の放送は日本国民全員を支える希望となっていた。その希望の火を絶やすわけにはいかないのだ。


 画像偵察衛星、情報偵察衛星、早期警戒衛星へのクラッキングを継続しながら、戦闘地域の生きているカメラ――公共の定点カメラから個人携帯端末、記録用ウェアラブルに至るまで。


 かつてRNA量子複合暗号文を解読したときと同じように、魔人のような並列的な演算速度を駆使し、ひとりで百人分もの作業をこなしていた。


 その集中力は凄まじく、また消費するカロリーも凄まじい。

 あれほど甘味を食べたはずなのに、さっきからお腹が空いてしょうがない。

 それでも今手を止めるわけにはいかない。

 そんな時だった。


「――ひっ!」


 ガンッ――と、コンテナの天井に硬いものがぶつかる音がした。

 イリーナは驚き、一瞬手を止めてしまう。


「しま――クソ、カウンターウイルスを掴まされた!? ダミーを……ああ、画像偵察衛星のリンクが!」


 切れてしまった。

 エアリスやセレスティアの戦いを拾っていた俯瞰映像が消えてしまった。見目麗しい女神ふたりの戦いは人々の戦意高揚や恐怖心の払拭に多大な貢献をしていただけに損失は大きい。


 だが、今はそんなことよりも――


「嘘でしょう……!」


 天井からガサガサとした音。

 そしてガンッ、ガガンッ、と再び硬い音がする。一匹や二匹ではない。ついに校舎裏の雑木林に隠していたトラックがサランガ共に捕捉されたのだ。


「こ、怖くない、怖くなんてない!」


 いくら天才でも、どんなに大人ぶっていても、イリーナはまだ子供である。

 そして彼女は世界の誰よりも、画面越しとはいえ、サランガの恐怖に触れている。

 ハワイの惨状も、イリーナほど仔細に目に焼き付けたものはいないはずだ。


 ガタガタと歯の根が合わなくなる。

 寒さからではなく恐怖によって手が震える。


「私が、私ががんばらなくちゃ……! これが私の戦いなんだ……!」


 恐怖により処理速度が極端に遅くなる。このままではせっかくクラッキングして構築した偵察衛星の迂回路バイパスまで奪われてしまう。


「あっ、ダメ!」


 ペンタゴンの対ハッキング部隊から再びカウンタークラックを喰らってしまう。先程までは余裕で躱せていた攻撃も、今のイリーナでは防ぎきれない。


 イリーナは一番左端のノートPCから電源とLANケーブルを引っこ抜いた。一台分を犠牲にしなければ、他のPCにも感染していたかもしれない。英断だったが、精神的なダメージは大きかった。


「ううう〜! 負けるもんかあ――!」


 頭の上からは断続的にガツン、ガツン、ガツン! と刺突音が聞こえてくる。

 サランガ達が群がって、コンテナに穴を開けようとしているのだ。


 本当は今すぐ逃げ出したいくらい恐ろしい。

 部屋の隅で頭を抱えてしまいたい。


 だが、それでもイリーナは歯を食いしばり、涙をこらえながら高速タイプを続ける。心深の元へと――ひいては日本全国へと映像を届けるために。


 サランガの攻撃音で心を摩耗させながら、懸命に歯を食いしばっていたその時――


「イリーナ・アレクセイヴナ・ケレンスカヤ! いるか!?」


「え――!?」


 コンテナの外から名前を呼ばれ、イリーナはぎょっとした。

 聞き覚えのある声。確か昨日、食料を届けてくれた――


「あ、甘粕、だっけ?」


「やっぱりいたか! 様子を見に来て正解だったな!」


 甘粕志郎――黙ってればキリッとしたやつなのに、口を開けばロリコンとしか思えない言動の残念なやつだ。


「甘粕だけじゃねえぞ!」


「僕らもおるよ、イリーナちゃん!」


 またしても聞き覚えのある声だった。

 針生、そして星崎……だったか。


「な、なにしてんのあんたたち! 危ないから離れて!」


「幼女をひとり置いていくわけにはいかない。一緒に逃げるぞ!」


 ガチャっと扉が開かれる。

 そこには松明を手にした三人の姿が見えた。

 サランガも生物である以上、炎には警戒をしているようだが――


「これは――!?」


 コンテナの中を覗き込んだ三人の表情が驚愕に染まる。床に並べたノートPC。その真ん前に陣取るイリーナに尋常ではない何かを感じたのだ。


「ダメッ、私が今ここを離れたら放送が止まっちゃう!」


「放送って、綾瀬川の!?」


「ほえー、ようわからんけど、キミが配信してるん?」


 針生と星崎の問いにイリーナは再びタイピングを開始しながら叫ぶ。


「私は世界中からみんなが戦ってる映像を集めてるの! だからここから離れられない! 私のことはいいから、あんたたちは逃げて!」


「ふ――、そういうことか。ならばますます逃げるわけにはいかないな!」


「おうよ! ちびっこ、てめーの映像のお陰でみんな元気出たってよ、ありがとな!」


「正直もっかいチビりそうやけど、ここでカッコつけな男やないしね!」


「バ、バカじゃないのあんたら――!?」


 バダンっ、と再び扉が閉じられる。

 甘粕、針生、星崎は松明とモップの柄を武器に、コンテナを守るようサランガと対峙した。


「俺が行く。ヒットアンドアウェイだ!」


「針生、頭上に気をつけろ! 深追いはするな! 松明だけは絶対死守しろよ!」


「うひー、甘粕っち、なんか僕の方にばっか集まってきてるぅ!」


「腰が引けてるぞ星崎! ヤツら俺達をよくみてる、弱気に漬け込んでくるぞ! 胸を張って踏ん張るんだ!」


 甘粕はポケットから希と夢から拝借してきたヘアスプレーを取り出す。

 火気厳禁マークがついたそれを松明に噴射し、即席の火炎放射器にする。

 ゴォっと空気が震え、サランガ達が怯んだ。


「オラァ――!」


 勇敢にもサランガに肉薄した針生が、全身を回転させモップを振るう。

 見た目よりも軽量なサランガが三匹まとめて薙ぎ払われる。


 即座に針生へと殺到するサランガだったが、そこにはもう彼の姿はない。

 華麗なバックステップで後退し、追いすがろうとする個体には甘粕が火炎放射を浴びせかけた。


「ちょちょい、ふたりともなんでそんなに息ピッタリなん!? 僕だけひとりで戦ってるんですけどー!?」


「針生くらい機敏に動けるなら援護してやるぞ」


「無理ッ! って甘粕っち、スプレーのガス切れた!」


「もう残り何本もないぞ、バカスカ使うな!」


「オラぁ、もういっちょ行くぞ――!」


 外から聞こえる三人の声と戦闘音。

 絶望的な状況なのに、それに勇気づけられている自分がいる。

 イリーナは泣きそうになるのをこらえながら懸命に映像の配信を続ける。


(バカバカ、三バカ共! 死なないで――!)

 

 心の中で三人の無事を祈りながら、イリーナは自らの役目を全うし続けるのだった。



 * * *



「ダメです! 敷地内はヤツらに占領されました!」


 首都近郊にもサランガの魔の手が迫っていた。

 人工知能進化研究所。いまや近隣住民の避難所となっているそこでも、ついに避けては通れない戦いが始まろうとしていた。


「避難民の収容は?」


「全員地下施設に誘導完了してます!」


 職員からの返答にマキ博士はホッと胸を撫で下ろした。

 どうにか避難だけは間に合ったか。


「そう、じゃあみんなもさっさと下に降りてちょうだい。私は最後でいいから」


「そんな、所長も一緒に逃げましょう!」


 一階のロビーでは僅かな警官隊が囮を引き受けて戦闘中だ。

 東棟の非常階段には大きな防火扉が設置されており、避難民はそこから下、実験用のラボなどに分散して収容している。


「いやあ、私一応責任者だし、さすがに警官隊を見捨てては行けないでしょう」


「なら私達も残ります!」


「所長だけ置いていくわけにはいきません!」


 職員たちの申し出に、マキ博士はやれやれと頭を掻いた。


「あのね、所長所長言ってるけど、キミたちは暇を出されている身分なのよ。だからキミたちはこの施設や私に関してなんら道義的責任はないわけ。オーケー?」


「そんな、でも……!」


「みんな下には家族が避難してるんでしょう。ほら、行った行った。警官隊が下がってきたら一緒に合流するから。ここは私だけで十分だってば」


 家族が待っている。

 その言葉が効いたのだろう。渋々といった風情だが、人研の職員たちは小さく切り取られた侵入用の扉から地下シェルターへと降りていった。


「ふいー。いやあ熱いねえ。こういうノリ苦手なんだよねえ私」


 天井まであるような巨大な防火扉に背中を預けて、マキ博士はタバコに火を着けた。しばらく禁煙していたが、まあ最後・・くらいはいいだろう。


「あーあ。結婚、したかった……かなあ?」


 マキ博士は独り身だ。

 恋人など、もう十年近くいない。

 最後に付き合った経験は学生時代のことだ。


「ふ。俺と結婚してくれ、家庭に入ってくれ……最悪なヤツだったなあ」


 科学者として当時から非凡な才能を発揮し始めていたマキ博士。

 著名な学術誌に論文が載ったことでその知名度は一気に高まった。


 そんな折にプロポーズをされたのだ。

 家庭か、研究か。

 マキ博士は当然のように後者を選んだ。


「理解してくれてると思ったんだけどなあ……」


 研究はマキ博士の身体の一部であり、もはや切っても切り離せないものだった。


 結婚してくれ。おまえの側で支えさせてくれ。そんなことを言ってくれる相手なら、彼女も喜んで結婚していただろう。


 自分も、愛する夫と子供のために、なんとか家庭と研究を両立させようと努力していたはずである。


「いや、『たられば』に意味はないか。どうせ私みたいな女、離婚して旦那に親権取られて終わりだよね」


 ヒヒヒっ、と変な笑い声が零れた。タバコのフィルターを噛み締めているのだから当然だった。


 ――ガシャーンと、遠くから窓が割れる音が響く。

 三日前、警官隊が強行突入してきたときにも耳にした音だが、今度は断続的に破砕音がしている。ずいぶん行儀が悪い手合のようだ。


「およよ、迷いがないなあ。一直線にこっちに近づいてくる。警官隊はやられちゃったかなあ。はあ。ありがとうね、ホント。私も多分もうすぐだから……」


 マキ博士は足元にあった消化器を手に取る。

 抵抗しないで死ぬのは自殺と一緒だ。

 天国や地獄は信じてはいないが、何もしないで死ぬのはごめんだった。


(せめてヤツらに一矢報いてから死んでやる……!)


 非力な理系女子の、ささやかな戦いが始まった。



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