第184話 地球英雄篇⑨ 舞い降りる戦女神たち〜金髪女神は無邪気に笑う

 * * *



「あ、いたいた。サ――、サササ、サランラップ? あれ、なんか違う?」


 12月28日 19時30分

【アメリカ合衆国ネバダ州南部ラスベガス市上空】


 夜の中、ひときわ強い輝きを放つ大都市の上空に、黒いもやがかかっていた。そのひとつひとつの正体は、誰もが嫌悪感を抱かずにはいられない醜悪なバケモノの群れだった。


 セレスティアは頼もしいマリオネット・・・・・・の背から眼下を見下ろし、ふと僅か数十分前のことに思いを馳せる。



 *



「出遅れたか。セレスティア、ここは私に任せろ」


 眼下に広がる海岸線。

 海から無限と湧き出したバケモノ共が、人間の軍隊を蹂躙している様をエアリスとセレスティアは認めた。


 明らかに人間たちの方が不利であり、そして空を飛ぶ糞虫共は、もうその大部分が内陸部へと向かって飛び立ったあとだとわかった。


 眩いばかりの街を覆い尽くすヤツらの影は、尋常な数ではない。

 鉛玉を炎の魔素を使って打ち出す程度の武器では、とてもではないが太刀打ちできないだろう。


「えっと、つまり私はどうすればいいの?」


「ふむ。遺憾ながら今の我らの任務はヒト種族の防衛にある。そなたの父であるタケル・エンペドクレスは元ヒト種族。なればこそ、同族へと向ける慈悲の心が我らへの命令――即ち、あのバケモノ共の殲滅へと繋がったのだ。そこまではわかるな?」


「うん。できるだけ人間を守りつつ、あの気持ち悪いヤツらを皆殺しにすればいいんだよね?」


「そのとおりだ。できるな?」


「全然平気。簡単だよ!」


「よし、いい子だ」


「あ」


 エアリスが差し伸ばした手が、優しくセレスティアの頭を撫でる。

 その大人びた容姿とは裏腹に、中身は完全な幼稚園児レベルであるセレスティアは、母の温もりの一切を知らない。


 セレスティアが誕生したとき、母であるセーレスは死にかけており、その死からセーレスを守るため、アクア・ブラッドの中へと彼女を封印したからだ。


 母を再び目覚めさせるためには、父であるタケル・エンペドクレスが持つ聖剣の力を使い、再び彼女の故郷である魔法世界へと戻らなくてはならない。父が現れる時を待ち焦がれ、セレスティアは長き月日を地球で孤独に過ごした。


 その過程でセレスティアは、自分を利用しようとする大人たちと渡り合うため、自らの心を固く閉ざし、近づく者たちすべてを斬りつける刃物のような――非常に攻撃的な性格になってしまった。


 だがマリアがその心を解きほぐし、そして父と再会したことで、セレスティアはすっかり本来の性格を取り戻していた。どういうことかというと――


「私がここでヤツらの大部分を相手する。そなたは内陸部へと拡散したバケモノ共を相手にして欲しい。ヒト種族が襲われそうになっていたら、できるだけ助けるように……セレスティア?」


 撫でていた手を引こうとするエアリス。

 それと入れ替わりに、セレスティアはヒッシとエアリスに抱きついた。


「そ、そなた、何を!?」


「んー、んん? むふぅー?」


 エアリスの豊満な胸元に顔を埋め、大きく深呼吸を繰り返しながらその感触を堪能するセレスティア。


 エアリスは顔を真っ赤にしながら抗議しようとするが、今度は後ろからアウラが首っ玉に抱きついてきてしまう。


「こら、やめぬかふたりとも。今はそのようなことをしている場合では――ああ、もう、甘ったれ共が!」


 セレスティアの事情を知るが故に、エアリスは強くものを言うことができない。母を守るため、ずっと張り詰め続けてきて、このように誰かに甘えるということはできなかったのだろう。


 ひとしきりエアリスの感触を堪能した後、セレスティアはポツリと呟いた。


「これが終わったら」


「うん?」


「帰れるよね、お母様の故郷に。お母様……ちゃんと目覚めるよね?」


 釣り上がっていたエアリスの眦が優しいものになる。

 今度はエアリスの方からセレスティアを抱きしめ、その頭を撫でてやる。


「ああ、そうだな。きっと帰れる。そなたの父が必ずやそれを成し遂げる。アリスト=セレス殿も、きっと無事に目を覚ますはずだ」


「うん。そうしたらお母様、私のこと褒めてくれるかなあ?」


 母の温もりを知らない娘。

 セーレスは死の淵にあって、自らの精霊が顕現したことも知らないはずだ。


 果たして見たことも聞いたこともないセレスティアを見て、自分の娘だと認識することができるだろうか。


「ああ、きっと褒めてくれる。ひとりで今までよくがんばったと、そなたを抱きしめてくれるはずだ」


 セーレスとセレスティアは普通の母娘にあらず。

 精霊の加護を受けた稀有なる魔法師と、それを守護する水の精霊。


 ふたりならば、例え失われた時に断絶されようとも、互いが互いを即座に知覚し合えるはずである。


「うん、わかった。それじゃあ行ってくるね。コレ・・、私が持っていってもいい?」


「好きにしろ。もとより私はそのようなおもちゃを操る術を持たぬ。壁なりなんなり、そなたが使えばいい」


「うん、そーする!」


 エアリスの胸元からようやく顔を離し、セレスティアは満面の笑みを浮かべた。



 *



「それじゃ行っくよ〜!」


 セレスティアは空気中に漂う水の魔素に魔力を通わせると、瞬時にしてそれを神なる魔法――アクア・ブラッドの精製へと転じた。


 アクア・ブラッドはその堅牢性も去ることながら、内部に閉じ込めたモノの時間を停止させる特殊能力を有する。それをアクア・ブラッドフィールドとして周辺に纏わせれば、近づくものを停滞させる防御壁の役割を果たすのだ。


 そして、今回彼女が壁役として持ってきたおもちゃは、非常に有効な役割を果たしてくれることとなる。


 ――バケモノ共が寄り集まった雲海を抜け、セレスティアは街のど真ん中へと降り立つ。ズシンと、重い着地音と衝撃。アスファルトが爆発したようにめくれ上がった。


 そこは極彩の光を纏った阿鼻叫喚の地獄。

 糞虫から逃げ惑い、誰もが正気を失った最中で、突如として現れた巨人・・の姿に、一般市民たちは目を見開いた。


 それは昼間にテロリスト相手に敗北を喫してしまった巨人――たしかラプターというロボットではなかったか。全身がところどころ焦げてはいるが、力強い四肢と各所にカナード翼を持ち、十メートル近い体躯は見間違えようもない。


 そんな巨人の肩に、ひとりの美女が屹立していた。

 見事としかいいようのない煌めくようなプラチナブロンドと抜群のプロポーションを持ち、全身から眩いばかりのインディゴ・ブルーの輝きを放っている。


 神々しいその佇まいと雰囲気は、正に女神と呼ぶにふさわしかった。


「そーれっと!」


 金髪の女神が腕を振るうと、巨人のかいなも同様に振り抜かれる。

 それは、ネオノポリスレジャー施設から街の大通り――サウス・ブルーバードを走り抜け、ラスベガス・ストリップ全域にいたバケモノ共を一瞬で切り裂いた。万と群がっていた糞虫の死骸が雨あられとサウス・ブルーバードに降り注ぐ。


「めんどいし、数が多すぎぃ……こっちも手数を増やそうかな?」


 ブワッと風圧が起こり、ラプターの全身からインディゴ・ブルーを湛えた蛇が現れる。


 それが先端に行くほど枝分かれし、細分化され、さらに蛇の頭部が鋭い三日月型の刃へと変じた。


 刃は、まるで意志があるように蠢き、頭上から襲いかかろうとしていた糞虫共を同時に何百体も切り伏せていく。


 夕食時、同州屈指のメインストリートに降ってわいたバケモノ共。住民たちも、そして住民を守るべく奮戦していた警察も、等しくその圧倒的な光景を目撃していく。


 まるで嵐のような苛烈な戦いっぷり。

 女神を目指して群がる糞虫共は、触れることすら適わず次々と絶命していく。


「あは――あはははッ! ちょっと楽しくなってきたかも!」


 ラプターというマリオネットを操りながら、セレスティアはアクア・ブラッドを展開したフィールドの中を物理法則すら無視して縦横無尽に駆け抜ける。


 バケモノ共はラプターが近づいただけで動きが鈍くなり、鋭い触手の刃の餌食になっていく。


 人々は無邪気な笑い声を耳にしながら、戦女神の快進撃を呆然と見つめ続けるのだった。



 * * *



 12月29日 日本時間14時00分

【北太平洋ウェーク環礁北西400キロ地点・海上】


 エアリスとセレスティアが戦闘を開始したのと同じ頃、タケルは海のど真ん中を飛行中だった。


 最大のライバルとの決戦に臨み、結果としてセーレスを取り戻すことが叶ったはずのタケル。だがそれと同時、地球に滅びをもたらす侵略者、サランガの大軍団が現れた。


 過去に二度、地球上で発達した高度な文明を破壊し尽くしたというサランガ。にわかには信じられないことだったが、地球存亡の危機が目の前にあることを認めざるを得なかった。


 タケルはアダム・スミスの要請の元、地球防衛のためにその最大戦力である精霊魔法使いと精霊を北米大陸の防衛に回すことを承諾した。


 そうしなければ日本を核攻撃する、とアダム・スミスは脅しをかけてきたが、日本がサランガに蹂躙されればどのみち日本は核攻撃されてしまうはずである。


 タケルは、彼我の戦力差を考慮して、日本の防衛に向かう決心をした。


 アメリカ軍とエアリス、セレスティア。

 恐らくアメリカ軍を抜きにしても、後者のふたりで戦力は十分すぎるはずだ。


 その予想は当たり、現在カルフォルニア州とネバダ州の大都市で行われているふたりの戦闘は極めて優勢のまま推移している。


 では日本はどうか。

 すでにして戦闘開始から数時間あまり。


 イリーナの情報によれば、ベゴニアの水際迎撃にて時間を稼ぎ、カーミラと百理が合流に成功。


 直後にテルバン・サランガなる有翅種ゆうよくしゅが現出するも、飛行能力を有した御堂隠密隊が駆けつけ、人外の徒による迎撃を継続中――とのことだった。


 そしてイリーナは現在、戦況を防衛省や自衛隊に送信し、なんとか百理たちを助けることができないかと、工作している最中だという。


 一般市民の避難は概ね良好。

 マキ博士が先んじて行った避難警報のお陰で、初動は鈍かったものの、続々と自主避難が始まっており、最悪の事態だけは避けられそう、とのことだった。


 その一連の報を聞き、タケルの心は震えずにはいられなかった。


 ひとりひとりが最善を選択し、その行動が歯車となって噛み合い、回っていく。

 誰に褒められるわけでもなく、下手をすれば後ろ指を刺されることもあるだろう。


 だが、自分のためではなく、他者のために死力を尽くして戦う姿には、心から敬服せずにはいられない。


 だからこそ焦る。間に合えと。

 ボロボロの身体を引きずって、持てる力の全てを振り絞り、タケルはひたすらに日本を目指して飛行中だった。


「真希奈、頼む、もっと急いでくれ」


『これ以上は無茶です! タケル様のお身体はもう――!』


 真希奈が言葉を濁すほど、今のタケルのコンディションは最悪だった。

 ラプターとダンブーガ。そして最後のあの一撃。恐らく、タケルの状態に気づいていたのは、殴られたアダム・スミス本人だけだろう。


 彼にケジメとして制裁を加えたとき、紛れもなくあれは全力の拳だった。

 魔族種であるタケルが殴りつけて、鼻血程度のダメージなのだ。

 現在も尚タケルの体内には、DDT特殊弾頭弾の毒素が燻り続けている。


 セレスティアの治癒のお陰で大分マシになったとはいえ、全身の細胞を賦活させるには魔力がまるで足りない。おまけに現在回復は置き去りにして、全ての魔力を推進剤に回していた。


「核でもパラチオンでも、日本をあんな目に遭わせてたまるか――!」


 パラチオン特殊弾頭弾が落とされればどうなるのか。

 タケルは実際にその光景を目の当たりにしてきた。

 スリーマイルから北米大陸を横断し、一路ハワイを通過してきたのだ。

 かつての常夏の楽園は地獄という表現すら生ぬるい有様だった。


 完全なる無。

 生きとし生けることを全ての生命が放棄した世界。

 ヒトも鳥も魚も植物も。そしてサランガたちでさえ。

 あらゆる生命が等しく死に絶えた虚無がそこにはあった。


 その光景はむごいなどという言葉では現すことができない。

 苦痛と苦悶のうちに生命を奪われた死に際が、時を停めたままずっと残り続けているのだ。


 タケルは息を呑みながら、自分の体内にもその片鱗を宿したまま、命ある者の責務として、生涯忘れ得ぬようその光景を目に焼き付けたのだった。


「真希奈、あとどれくらいで日本に到着する?」


『現在のスピードを維持した場合、到着予定時刻は日本時間17時50分頃を予定しています』


「日本でのサランガたちとの戦闘はどうなっている?」


『アダム・スミスが提唱する有翅種ゆうよくしゅ、テルバン・サランガが発生して約一時間が経過しました。やはり空を自在に飛行するサランガの迎撃は非常に困難です。劣勢と言って差し支えないかと……』


「そうか……」


 さらなるスピードアップを要求してもそれは詮無いこと。

 今は仲間たちを信じてただ愚直に進み続けるしかない。

 と、その時だった。


『――ッ!? タケル様、たった今救難信号を受信しました!』


「救難信号――どこからだ!?」


『硫黄島航空基地からのエマージェンシーコールです!』


「本土に救援を求めているのか。間に合うわけがない……!」


『その通りです。いかがしますか。現在もっとも近いところにいるのは私達だけです』


「――行く。なにかとてつもなく嫌な予感がするんだ」


『畏まりました――進路変更、北緯24度45分29秒、東経141度17分14秒、小笠原諸島硫黄島航空基地に向かいます!』


 果たして、タケルの予感は的中するのだった。



 *



 硫黄島いおうとう

 かつて太平洋戦争時、アメリカ軍との激戦の舞台となった場所。

 未だ数多の英霊の遺骨が取り残されたままになっている小笠原諸島の小さな島である。


 東西8キロ、南北4キロ、面積は23キロ平方メートル。

 島のど真ん中には滑走路が置かれ、海上自衛隊の航空基地と航空自衛隊の分屯基地が存在している。


 そこでは今――


「なんだこれは――!?」


 進路変更から二時間あまり。

 薄っすらと島影が見え始めた頃から、すでにして我が目を疑う異常な光景が硫黄島には広がっていた。


 島の上に――が乗っかっている。

 冗談でも何でもなく、航空基地の滑走路を塞ぐ形で、巨大な何かが誕生しつつあるのだ。


『あ、あまりにも巨大です! 推定全長約1000メートル! 全高約150メートル! 航空基地を丸ごと飲み込もうとしています!』


「あれもサランガ、なのか!?」


 黒くて丸くて巨大な何か。

 それは紛れもなくサランガが集合したものだった。


 互いに組み合い、結合し、ひとかたまりとなったそれが、ズズズっと滑走路を引きずる形で移動をしている。


 移動する度に地面を破壊し、滑走路を削りながら、その跡は海岸から一直線に続いていた。


 恐らく海中から牛歩のような歩みで移動を続けていたのだろう。

 超々巨大サランガの目指す先には航空司令塔や兵舎の姿が見て取れた。


「真希奈、島内の人間はまだ無事なのか!?」


『生体反応多数! 大部分が生き残っているようですが、滑走路を塞がれ脱出できずにいる模様です!』


「あのデカブツの気を引くぞ! 真希奈、派手な花火を打ち上げろ!」


『畏まりました! ――魔素選択炎精ヴァルカン!』


 真希奈が炎の魔素を駆使して即席の花火を作り上げる。

 大きな音を伴った大輪の花が、夕闇が迫りつつある硫黄島を染め上げた。


「――どうだ!?」


『目標進行停止しました!』


「――ッ、この音はなんだ!?」


 動きを止めた超々巨大サランガから不協和音が轟く。

 それは翅音。数十万、数百万体が一斉に奏でる汚れた協奏曲。


 そしてついに、タケルの見ている眼の前で、あまりに大きな巨体が、土煙を上げながらふわりと浮かび上がった。


『推定――恐らくあの個体は数百万体のサランガが寄り集まったものと思われます! 目標を【融合群体ゆうごうぐんたい】と暫定呼称します!』


「アイツを日本に上陸させるわけにはいかない……なんとしても海の上で仕留めるぞ!」


『了解!』


 タケルは少ない魔力で花火を打ち上げ、自身が誘蛾の役割を果たしながら硫黄島から飛び立つ。


 超々巨大サランガ――融合群体はタケルの狙い通り、彼に引き寄せられるように浮遊を開始した。


 その姿はふらふらと左右に揺れる円盤のようであり、実際は巨大なホバークラフトのようでもあった。


 島の上で上がっていた土煙が、海上に出た途端、細かな水しぶきとなって、辺りに濃霧を作り出す。移動速度は、意外と速い。


「真希奈、ヤツにダメージを与えられるだけの魔力を練り出せるか!?」


『申し訳ありません、今は推進力を維持するのが精一杯です!』


「きっついなあ……!」


 こんな状態で、果たして自分は日本についてからも戦力となり得たのだろうか。

 だが弱音など吐いている場合ではない。

 今はただ知恵と勇気を駆使して戦うしかないのだ。


 タケルの孤独な戦いが始まった。



 * * *



 12月29日 午後14時30分

【東京都港区竹芝ふ頭公園】


「お姉ちゃん、何してるの?」


 無邪気に声をかけられ、マリアはようやく目を覚ました。

 どうやらベンチで微睡んでいて、ついぞ寝入ってしまったらしい。


 警察庁国際テロ対策課で取り調べを受けてからまる二日。

 マリアは失意のまま街中を歩き、そしていつの間にかこの場所へたどり着いていた。


 彼女を導いたのは潮の匂い。

 マリアの生活にはいつだって海があった。

 たとえ気持が沈んでいようとも、無意識のうちに自分の心に従ってしまったのだろう。


 だが彼女の前に広がるのは熱い日差しが照りつける焼けた砂浜などではなく、冷たいコンクリートとビルに囲まれた矮小な海だった。


 そこで彼女は何をするでもなく。食事も摂らず、風呂にも入らず、ただひたすら無気力に惰眠だけを貪った。


 真冬の野宿など自殺行為だというのに、彼女に宿る魔力は、決して風邪を引くことを許さず、ただひたすらに優しく、そして残酷に彼女を守り続けていた。


「お姉ちゃん、昨日もずっとここにいたよね?」


 ずずっと鼻をすすりながら、マリアは寝ぼけ眼で、自分を起こした主を見た。


 小学校低学年くらいだろうか。ピンク色のダウンコートを着た、お下げの可愛い女の子だった。大きなどんぐり眼が、興味津々と言った様子でマリアを見つめている。


「放っとけ。失せろガキ」


 普段なら絶対言わないセリフをマリアは口にした。

 女性にしては長身なマリアからそう凄まれれば、大概の子供は泣きながら退散するだろうと睨んでのことだ。


「昨日もね、ママとお買い物した帰りにここに海を見に来て、そしたらお姉ちゃんが居たから覚えてたんだよ。ねえ、そんな格好で寒くない? ご飯とか食べてるの? っていうかお姉ちゃんて外国人? どこの国のヒト? ねえねえ?」


「うるせー……」


 口の中で呟きながら、マリアは再びベンチに背を預けた。

 今の彼女には怒る気力すらない。


 全ての感情の波濤がフラットになってしまっている。

 何故なら彼女は己の中の大儀を失ってしまったからだ。


 AAT部隊の仲間であり、味方でありつづけると誓ったセレスティア。

 そんな彼女が暴走し、一般市民を襲った秋葉原テロ災害。

 マリアはセレスティアを止めるため、人類の剣として戦った。

 だがその全てはアダム・スミス――彼女の上司が仕組んだ奸計だった。


 セレスティアをスケープゴートに、彼女の父であるタケル・エンペドクレスを表舞台に引きずり出し、晒し者にし、テロリストの汚名を着せて世界の憎悪を煽り、そしてそれを華麗に誅することで人心と尊敬を自身へと帰結させる。


 そんな独りよがりのマッチポンプの片棒を担がされた彼女は、ほとほとアダム・スミスという男に愛想が尽きてしまっていた。


 今の彼女は陸上自衛隊習志野駐屯地の歩兵拡張装甲部隊の教導官という立場にある。取り調べ後に迎えにやってきたであろう、部下の工藤功を袖にしておいて、もう無断外泊も二日目である。


 今頃、捜索願が出されているかも……。


「ねえ、お姉ちゃんってアメリカ人?」


「おおう、なんだこのガキ、領土侵犯だぞ」


 いつの間にか隣に座られていた。

 しかもお尻とお尻がくっつくほどの距離である。


「ここはこーきょーのベンチだよ、お姉ちゃんが独占してちゃダメなんだよ」


「小賢しい。わかった。あばよ」


 マリアは立ち上がろうとして、ぐいっと袖を引かれた。

 空腹により足に力が入らず、フラフラとベンチに倒れ込んでしまう。


「わあ。青い目。綺麗。でも目やにはちゃんと取らないと、がんびょうになっちゃうんだよ〜」


 結果として少女に膝枕をしてもらう形になったマリアは、なんだかそれ以上意地を張る気力もなくなり、なすがままの状態になった。


 少女はポシェットからウェットティッシュを取り出すと、マリアの目の周りを丁寧に拭き始める。


「バッ、おまえ、それノンアルコールじゃねえな!? 目に染みるだろうが!」


「えー、でも綺麗に取れたよ」


「目が開けられねえ……!」


「ちがうよお姉ちゃん、そこは『目がぁ、目がはぁ〜!』って言わないと」


「おまえからはあたしの大嫌いな男と同じ趣味のニオイがする!」


「それってお姉ちゃんの好きな人!?」


「大嫌いって言ってんだろ!?」


「嫌よ嫌よも好きのウチなんだよ!」


「だーっもー、話が噛み合わねえ! あと目が痛え!」


 そんな風に少女と戯れていたときだった。

 ふたりの頭の上に、不気味なサイレンが鳴り響く。

 これは災害無線か、とマリアはギョッとした。


「もうね、ずっとこれ鳴り続けてるの。午前中からずーっとずーっと。いい加減頭にきてたんだけど、ママがね、一応避難しよっかって」


「ずっと? いつから鳴ってたんだ?」


「うーん、9時ぐらいからかなあ」


 寝すぎだろあたし……。

 今までずっと鳴り続けていたのに、少女に起こされるまでちっとも気がつかなかった。いくらなんでも気を抜きすぎだったかとマリアは反省をした。


「あ、ママだ!」


 ふ頭公園の二階プロムナードデッキに少女の母らしき女性が現れた。

 避難用の大きなリュックを抱え、笑顔で手を降っている。

 少女は喜び勇んで走り出す。

 マリアは苦笑しながら、その背中を見送った。


 ――その時、少女の行く手を遮るように、突如として大きな影が降り立った。

 影の正体は、少女の体躯を有に超える異形のバケモノだった。


 まるで水生生物のタガメをそのままサイズアップしたような。

 だが細部はまるで違う、より凶悪で、攻撃的なフォルムをしている。


 少女は足を止めてその場に立ちすくんだ。

 そしてバケモノがノコギリのような前足を持ち上げ少女へと飛びかかる。

 次の瞬間マリアは走り出していた。


 先程までの無気力など関係ない。

 全身を爆発させて、少女の前へと躰を滑り込ませていた――

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