第178話 地球英雄篇③ 境界の町の攻防戦〜それでも戦う者共
*
――来た。
――来た。
――ついに来た。
70と数年前、カーミラに拾われたこの命。
天に還すそのときがついに来た。
そしてそれに相応しき戦いの場が今整った。
おもしろおかしく毎日を諧謔的に、享楽的に。
カーミラはそんな生き方は教えてくれても死に方は教えてくれない。
吸血鬼の眷属としては短く、人としては長すぎる生を生きてきた。
ベゴニアはいつしか、日々の仕事に追われながら、頭の隅で、自らの死に方を考えるようになっていた。
だが自分は吸血鬼。
まっとうな死に方は選べない。
昔流行った映画のように溶鉱炉の中に沈んでしまえば当然死ねるだろうが、それでは誇りがない。
戦い。
戦場こそが自分の死に場所にふさわしい。
そして今武人として、そして人外としての勘が、過去最大級の警鐘を自分に与えている。
死力を尽くせ。
全てを出し切れ。
自分のありったけをぶつけてもなお足りないほどの敵がやってきたのだと。
県道254号線に面する君ヶ浜しおさい公園。
防風林に挟まれた向こうには一キロ以上もの湾曲した海岸線が続く。
ベゴニアが到着したとき、まだ県道や浜辺には見物人が数多くいた。
誰もが本当に津波など来るはずがない、地震すら起こっていないのに……。
そんな呑気な顔をしているのが見て取れた。
だがベゴニアは気づいた。
エメラルドの海が真っ黒だった。
海面のすぐ下に
そしてそれは黒い大波となって突如立ち上った。
人々は悲鳴さえもあげられない。
それが一体なんであるのかまるで理解が追いついていないのだ。
逃げることさえできず、ただカカシのように棒立ちになるしかなかった。
「きええええええええええええええつッッッッッッ――――!!」
その瞬間、ベゴニアは一個の弾丸と化した。
海岸線を丸ごと飲み込むほどに立ち上がった真っ黒い大波の土手っ腹目掛け、己の身体ごと突貫したのだ。
立ち上がり、今にも自分らに覆いかぶさらんとしていた黒い大波が真横から甚大な力を加えられ、バラバラと崩れ去っていく――
ベゴニアの『超特急・快・音速拳』が一瞬で通り過ぎ、海岸線を押しつぶさんと迫る大波をまるごと薙ぎ払った。
そして――
「こ、これは……!」
全身全霊、過去最高の一撃を放った右の拳が崩壊していた。
硬い。通常では考えられないほどの硬度をもった何かを殴った。
一つ一つを潰したところでこうはならない。
幾重にも折り重なった群れをまるごと貫いたためこうなっていた。
如何な吸血鬼の眷属とはいえとても耐えられるものではない。
そして黒い大波の正体はすぐに知れた。
フナムシ――に近い形をしたどす黒い甲殻類生物の群れだった。
大波はその生物の集合体だったのだ。
フナムシに似てはいるが非なる存在。
通常フナムシはどんなに大きくとも体長は5センチほど。
だが海からやってきたそれは有に30センチ以上もある。
それが海岸を飲み込むほどの規模で押し寄せてきたのだ。
ベゴニアは振り返る。
遥か空の彼方に我が物顔でこちらを見下ろす黒い太陽。
そして宇宙空間からやってきているであろう、遥か水平線の向こうの向こう――霞がかかってさえ見える――地表へと差し伸ばされる黒い黒い雲海のような道筋。
「あれが、すべて
武人として強力な戦闘力を有するベゴニアであっても戦慄せざるを得なかった。
もしあれが宇宙空間から地球へやってきた
うぞぞぞぞぞぞ――甲殻生物たちが組み合わさり、互いを踏み台にし、再び大波となって屹立する。
ベゴニアは素早く呼吸を整え、肺が破けんばかりに吸気する。
そしてミシっと音がするほど腹筋を固めると、吸い込んだ空気すべてを声に変換して叫んだ。
「逃げろッッッッ――――!!!!」
それは特大の
ヒトの認識さえ越えた音の爆弾。
だがしおさい公園で、いまだにカカシになっている人々を正気に戻すには十分だった。
回れ右をして一目散に走り去っていく人々。
そして恐らくそれを
黒い大波は逃すまいと襲いかかった。
「しええええええええええつッッッ――――!!」
ベゴニアの渾身第二撃が、大波の第二波に突き刺さった。
今度は左拳が崩壊するが、そこは吸血鬼の回復力。
タケルは愚かカーミラにさえ及ばないが、もう既に右の拳は再生しつつある。
「バケモノ――紛うことなきバケモノどもよ! 貴様らの好きにはさせん! 往きたくば私の屍を越えていくがいい――!」
一撃たびに左右の拳を壊し回復させるを繰り返す。
あと一体何波まで耐えられるだろうか。
否、後のことなど考えなくていい。
なんとしても時間を稼がなければ。
何故なら――
(こんな血湧き心踊る状況――あの方が座して静観することなど絶対ない!)
紅の血風を纏いし自らの主が到着するまで、ベゴニアはひとりバケモノどもの上陸を阻止し続ける。その不退転の覚悟を拳に宿し、ひたすらに叩きつけていくのだった。
* * *
12月29日 午前8時30分
【甘粕士郎自宅】
豊葦原学院の校舎裏でタケルたちと別れてわずか一日。
愛すべき魔王様のクラスメイトたちは朝も早くから甘粕士郎の自宅へと集まっていた。
「私、男の子家って初めてお邪魔したけど、甘粕君の家ってすごくない……? もしかして針生と星崎もこんな感じ?」
呆然と呟いたのは朝倉希だった。彼女らが通されたのは五十畳はあろうかという広々としたリビングだった。
天井はかまぼこ型にくり抜かれ、間接照明が緩やかなカーブを描きながら淡い光を注いでいる。
ソファセットも革張りの豪奢なもので、部屋の奥にはシステムキッチンとダイニングテーブルが見て取れた。
女の子なら一度は夢見る、こんな素敵なキッチンでお料理をしてみたい! ――の理想みたいな間取りだった。
「まさか、俺の家は下町の長屋だぜ」
「僕はマンション住まいやね」
すっかりくつろいだ様子でソファに身を沈めるのは針生清次と星崎一平である。今しがたやってきた希や支倉夢とは違って、昨晩から泊まっているというふたりは、すっかりラフな格好をしていて、まるで我が家のように過ごしていた。
「甘粕くんの家ってお金持ちだったんだねえ〜。お父様は何をされてる方なのかな〜?」
希の隣り、差し入れの袋をテーブルに置きながら、支倉夢が言う。
さりげなく父親の職業を聞くあたり、手慣れているというか育ちが出ているというか。本人は多分に天然なのだろうが。
「金持ちだなんてそんなことはないぞ支倉さん。この家は、まあ遺産のようなものだ」
「遺産?」
あ、聞いたら不味かったかな……ようやくそんな常識的なことを思い至り、夢が口を噤んでいると――
「あ、ちょっとちょっと! これって、カーネーションブランドのポスターじゃない?」
リビングを物色していた希が大声を張り上げて皆を呼んだ。
希が指差す先には大きな額縁があった。例の甘粕がエアリスに制裁を食らうハメになった原因――カーネーションブランドのイメージポスターが飾られている。
新規気鋭のキッズブランドのポスターであり、エアリスに抱きしめられて嬉しそうにするアウラの笑顔が眩しい一枚である。
「わーホントだ。甘粕くんって男の子なのにカーネーションブランド好きなの〜?」
「これってキッズブランドのイメージポスターだよね、確か。いい写真だと思うけどこれを男の子が持ってるのはどうなんだろうねえ?」
夢と希の女子コンビは好き放題言っているが、本来相槌を打ってくるはずの針生と星崎は押し黙ったままだった。変な間が空いて「ふえ?」「どうしたのふたりとも?」と希と夢が疑問を呈したところで針生が重く口を開いた。
「おまえら、それもっと近くで見てみろ」
「え、これを?」
「立派な額縁にはいってるなあ。すごく高そう――って、まさか!?」
「気づいたね。僕も最初見たときはたまげたよ」
星崎が言ったとおり、夢も希も驚きを禁じ得なかった。
カーネーションブランドの宣伝用イメージポスター……に見えたそれは、近くでよく見てみるとなんと『絵』だった。
キャンバスの上にえんぴつと水彩で描かれている。元がモノクロのポスターだったのでまさか手描きのものとは気づかなかったのだ。
「うそうそ、すごーい! まるで写真みたい〜!」
「な、なんて繊細で精緻なタッチ……。こ、これってまさか甘粕君、キミが?」
「うむ。カーネーションの広報部に譲ってくれないかと頼んだが断られたのでな。自分でネットの画像や町中に飾られているものを写真に撮って模写した」
模写。近くで見なければそうとわからない写実的な出来栄えの絵である。まるでドットの一つ一つを描き込んでいるかのような細かさと丁寧さである。まさか甘粕にこんな才能があったとは……。
「俺らも初めてみたときは、てっきり街中からポスター盗んできたんじゃねーかと思ったほどでよ」
「それがマジで本人が描いた絵なんやて。これってホンマに詐欺やで?」
こんな大きな家に住み、芸術的な感性に優れ、顔も実は悪くない。なので黙っていれば甘粕はモテる。そう、彼は確かに入学当初はモテていたのだ。でも本人がこのようなあけすけな性格なので自分の趣味や言動を一切隠さない。
隠さないので周りが彼の本性に気づく→引く→離れる→可愛さ余って憎さ百倍→軽蔑される。
当然の帰結である。
だが彼は言うのだ。それは誤解だと。
「俺は美しいものが好きなだけだ。まだ世間を知らない、穢れを知らない、まっさらな心を持った子供はこの世界で最も美しい。それを慈しみ守りたい。ただそれだけなんだ」
もう何度目か。甘粕のお決まりのセリフ――というか座右の銘が炸裂する。針生と星崎は「はあ、またか」とため息を吐くのだが、初めて耳にする夢と希は違った。
「甘粕くんは子供が好きなんだねえ〜、きっといいお父さんになるよ〜」
「まあ、手を出さなきゃいいんじゃないの。言わんとしてることは全部間違いってわけでもないし」
融和とは歩み寄りと譲歩、互いが理解を示そうとするその心によって誤解は生まれる。甘粕は「ありがとう支倉さん、朝倉さん」と目に涙を浮かべながら続けた。
「キミたちのような無垢な心を持った女の子が身近にいることが俺にとってはなにより幸いなことだ……」
「甘粕くん……。私は今まで甘粕くんを誤解していたかも。キミってとっても純粋な心の持ち主なんだね……」
「支倉さん……。俺にはその言葉だけで十分だ。ああ、本当にキミが14歳以下だったらどれだ――」
ゴンっと針生の肘鉄が甘粕の後頭部に突き刺さった。
希は素早く夢の耳を塞ぎ、なんとか事なきを得たようだった。
「痛いぞ。舌を噛んだじゃないか」
「いい加減学習しろ。いつもいつも最後のそのセリフが全てを台無しにするってなんでわかんねーんだ!?」
「これだけは譲れないラインだからだ!」
「なになに、どうしたの希ちゃん〜? 今甘粕くん何か言った〜?」
「ううん、何も言ってないよ。アンタはそのままでいいの。知らなくていいことってこの世に結構あるんだよ……」
「変な希ちゃん……?」
* * *
「アカン、また粘着してきよった。新しいスレ立てる度に絡んできて、ほんまムカつくのー……!」
さて、本日朝も早くからどうして希と夢が甘粕の家に集まったのかというと、もちろん女子ふたりもタケルの動向が気になっていたからである。
日本時間では昨夜未明、アメリカNY時間ではお昼頃――正確を期すならその三時間前から――突如としてホワイトハウスのホームページで始まった公式ストリーミング放送。
そこに彼らが校舎裏の雑木林で見送ったはずの友人が出演しているとなれば、友人たちとしては心穏やかでは居られない。
昨夜は遅かったために希と夢にはラインでのみメッセージを残し、そして今朝早速リアクションを寄越したふたりを男三人が集まっている甘粕邸へと招待したのだった。
「さっきから星崎くんは何してんの? パソコンでネット?」
「僕ら今交代で義勇兵やってるんよ」
「義勇兵?」
希の質問に星崎が答える。彼女ははますますわからないといった顔で首をひねった。
「今テレビの報道酷いやん。みんなしてセンセのことよー知らんと犯人扱いして」
「ああ、だからせめてネットだけはと思って情報拡散してるんだ俺ら」
「へええ、ふたりとも成華くんのために〜?」
「アンタら……マジでいいやつじゃん!」
夢と希の称賛に照れた表情を見せる星崎と針生だったが、唐突に真剣な表情を作ると押し黙り大きくため息をついた。
「あんな戦い見ちまったらなあ……」
「ホンマ、センセすごかったわ……」
昨夜から甘粕邸に寝泊まりしていた男三人は夜通しで白いロボットVS黒衣のテロリストの戦いをリアルタイムで見ていた。
矮小な等身大の人間が、ビルほどもある人型の巨人に正面から挑むという、エンターテイメントとしてもあまりに一方的で公平性を欠いた戦いはしかし、誰の目から見ても引き分け――いやテロリストの勝利で終わったように見えた。
そんな映像の真偽自体を巡って他人事のように眺めていられる大多数とは違い、戦っている当人の知り合いであり、その戦う目的の一端を聞き及び、そしてVFXやCGなどではない本物の神秘――魔法が使われていると理解している甘粕たちはどうしてもジッとしていることができなかったのだ。
その結果が夜を呈してのネットへの書き込みや情報の拡散である。
5ちゃんねるやまとめサイト、ツイッターなどのSNSを主とした、タケルへの悪意ある情報や、明らかな的外れとわかる誹謗中傷を和らげるためのカウンターの書き込みを行っていたのだ。
焼け石に水。暖簾に腕押し。柳に風。
効果の程はお世辞にもいいとは言えないが、ただの高校生にできる範囲では精一杯のものと言えた。
「ちょい刺激は強いけど、夢っちと希っちも見てみるとええよ。昨日別れたばかりのセンセがマジで戦う姿を――」
「おう、正直言って最初は吹き出しそうになるんだけどな。あまりにも漫画みたいな展開でよ」
「ストリーミングしたデータを動画に変換したものをテレビにリモートしよう」
手慣れた様子で甘粕がテーブルの中央にあるノートパソコンに手を伸ばす。だがその手が「ん?」と止まった。
「どないしたん甘粕っち?」
「ツイッターのトレンドに気になるのがあってな。『ハワイで巨大地震か?』と……」
甘粕はカチカチっとマウスを操作し、そのトレンドタグを表示させる。
それはとある個人のツイートが発端となっていた。
ハワイに旅行中の友人と連絡が取れない、と。
そしてそれに同意するツイートが続き、航空会社のハワイ定期便の欠航が話題になっていた。
「針生、テレビをつけてくれるか?」
「おう」
言われるがまま針生がリモコンを操作すると、60インチのテレビが朝の情報番組を映し出す。どのチャンネルの話題も、先日の『秋葉原テロ災害』一色になっているが、L字テロップには『JAL、ANA、ハワイ定期便欠航……地震のため。被害多数』などと書かれていた。
「なんやこれ? どういうことなん?」
「ハワイ〜? ウチもお正月は毎年ハワイに行ってるんだけど〜、これじゃあ今年はダメそうだね〜?」
「おい甘粕、どうしたんだ? まさかいつもの『アレ』か?」
針生が言う『アレ』とは甘粕が時折り発揮する神がかり的な勘の良さのことである。
甘粕は腕を組み、終始テレビを睨んだまま黙り込んでいる。
その場の全員が釣られて沈黙する中、希の悲鳴が静寂を破った。
「ちょ――、あ、あま、甘粕くん! あれ、あれっ!」
血相を変えて希が指差す方向には、中庭へと続く大きなサッシ窓があった。カーテンを開け放たれ、冬の朝日を室内に取り込んでいたはずの窓は真っ暗に塗りつぶされていた。
「はあああ? なんだこりゃあ!?」
「きゃあッ! いやぁ〜!」
針生にしては珍しく、そして夢は当然のように悲鳴を上げた。
サッシ窓の向こう、中庭には黒い何かが蠢いていた。
その正体は『ヤブ蚊』であった。
甘粕邸の庭には小さな池があり、夏場はよくボーフラが沸いて蚊が飛び交う。
だが――
「ちょ、今って12月なんやけど!? なんでこんな季節外れの大発生が……!?」
「まさか……!」
甘粕は再びパソコンを操作し、ツイッターの検索で『虫 大発生』と打ち込んだ。
「やはり」
「おい、これって……」
「蝿? こっちは蜂、こっちは油虫やて〜?」
「あ、あぶらむしって、てんとう虫さんが食べる、菜の花にくっついてたりするあの……?」
「いやいや夢、残念ながらそれは『あぶらむし』であって、漢字で『油虫』って書く場合はゴキ――」
「いやあッ! やめて希ちゃん!」
割りと本気でダメなのだろう、夢は希に抱きついてガタガタと震え始めた。
「季節外れにもほどがあるだろう、今は真冬だぞ。なんでこんなに害虫の大量発生がツイートされてるんだ?」
「えーっと、『
動画付きのツイートを開いてみれば、庭一面を覆い尽くした黒い雲が映し出される。それは大量のヤブ蚊が縦横無尽に飛び回るというショッキングな映像だった。
「甘粕くん」
「甘粕君」
「甘粕!」
「甘粕っち!」
夢、希、針生、星崎に注目され、甘粕は慎重に口を開く。
「ニュースと言うものには尻尾がある」
「は?」
「尻尾やて?」
「ああ。一見関係のないニュースにみえて、実は裏では共通の話題で繋がっていることが往々にしてあるものなのだ」
「そ、それってつまり、甘粕くんはこの虫さんたちの大発生と……」
「ハワイの地震が関係あるって言ってるわけ?」
流石に突拍子もなさすぎて全員が胡散臭そうな視線を甘粕に送る。
だがそんな甘粕の懸念を裏付けるように、突如、全員のスマホがけたたましいアラートを奏で始めた。
「うるさ――って、緊急避難警報じゃねーかこれ。初めてみた……」
針生は外装が傷だらけのスマホを手に取り、画面を覗き込んでいる。
星崎や夢、希も同様。甘粕はテレビに新たに表示されたテロップ、『緊急津波警報』を食い入るように見つめている。
お決まりの日本列島の地図がデカデカと写り、朝の情報番組が小さくなる。そして地図には太平洋側が真っ赤な色で塗りつぶされていた。
「あ、甘粕くん、家と連絡が取れないよ〜! どうしよう〜!」
夢はスマホの画面を見ながら狼狽えた様子で泣いていた。
夢よりは気丈な様子だが希も自分のスマホを握る手が震えている。
針生と星崎は尚も甘粕を見ていた。
彼の次なる言葉を便りとするために。
甘粕は一度大きく深呼吸すると、よどみなく言い放った。
「みんな、とりあえず落ち着け。支倉さん、家に連絡が取れないのは一時的なものだ。避難警報などが出た直後は皆が一斉に家族の安否を確認しようとするので回線がパンクするんだ。『東北大震災』のときもそうだったと聞く」
「え、ほんと〜?」
ホッと安心したように笑みを浮かべる夢。
針生が「俺らこれからどうするんだ?」と質問する。
甘粕の決断は早かった。
「近所の避難所に行こう。今全員がバラバラに行動するのは危険だ。ご丁寧にスマホの緊急警報には避難経路付きのメールまで送られてきている。Jアラートかなにか知らないが非常にありがたい。豊葦原学院まで行けば同じく避難してきた人たちと情報交換ができるはずだ。家族とも会えるかもしれない」
「なるほど。確かにここにいるよりかは情報が集まりやすいかもな。さすが、こういうときは頼りになるな!」
甘粕が全員を見渡す。
賛成を示すように針生たちは一様に頷いた。
「そうと決まれば行動だ。針生、星崎、お前たちはすぐに着替えて俺の部屋で荷物をまとめてくれ。持っていくものは懐中電灯とパソコン、モバイルバッテリー。あと夏に使った残りの殺虫剤と虫よけスプレーがどこかにあったはずだ。見つけておいてくれ」
「わかった」
「まかせとき!」
「支倉さんと朝倉さんは俺とキッチンで食料の確保だ。火を通さずすぐに食べられるもの――果物とブロック食品があったはずだ。あとは冷凍食品は持っていって半日もすれば解凍されて食べられるな。それから空のペットボトルを洗って水を詰めておいてくれ」
「あいよ!」
「うん、わかった〜」
「俺は昨日の残りのご飯を全部握り飯にする。食パンも適当な具材を挟んでサンドイッチにしてしまおう。それから――どうしたみんな?」
あっという間に決断し、みんなに的確な指示を飛ばす甘粕。
なのに彼は学校中の女子から毛虫のように嫌われているのだ。
「おまえ、本当に残念すぎるぜ」
「残念極まりないわ。もったいなさすぎるで」
「本当だよ。あっちの趣味さえなければなあ」
「ほとんど詐欺だよね、甘粕くんって〜」
全員が一斉にため息を吐くなか、甘粕はどうしてそんなことを言われるのか首を捻るばかりだった。
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