第177話 地球英雄篇② 地球最後の木曜日〜戦場へと向かう者共・後編

 * * *



 12月29日 午前7時00分

【千葉県沖10キロ地点】


 年の瀬真っ只中の冬の海に、一艘の小型漁船がノロノロとした速度で陸を目指していた。


 漁業を営む相沢家が所有する船のフロントデッキに腰を下ろしたベゴニアは、不安定な揺れの中、上機嫌でビール缶を煽っていた。


「美味い。いやあ、すまないなご主人、私だけこんな厚遇を受けて」


「いいってことよ。大手柄を上げたアンタにゃ少々シケた褒美で申し訳ねえが、陸に上ったらそれこそ母ちゃんにごちそう作ってもらうからよ!」


「それは楽しみだ」


 そう言ってベゴニアは缶の残りを一気に煽った。

 そのすぐそばで、もう使う必要のなくなった釣り竿一式を片付けているのは相沢家の一人息子マサル少年である。


 ベゴニアが痛飲しているのは大漁の際に父が飲むようにこっそりクーラーボックスの中に忍ばせているビールだった。


 水揚げの仕事を自分に任せて、父は寄港早々飲ん兵衛になってしまうことがままあるのだが、当然マサルは一滴たりとも恩恵に預かったことがない。


 ダイビングスーツを着て海に入った彼は口の中の塩っ辛さに辟易しながら「いいなー」と不満そうに呟いていた。


「マサルこの野郎、おまえには10年早いわっ」


「なんでだよ親父、俺18だぞ。あと2年で飲めるだろう!?」


「陸の上ではな」


「海の上は違うってのか!」


「あたりめえだ! 海の上じゃあ獲物の釣果が全てだ! ベゴニアちゃんはあんな大物を仕留めたんだぞ! 見ろ!」


 船尾のさらに向こう――アンカーを打ち込み、浮標ブイを着け、鎖で牽引している巨大な魚影。優に8メートルはあろうかという大物のホオジロザメだった。


「ベゴニアちゃんは命の恩人よ。こんな大物に出会ったが最後、逃げ場のねえ海の上じゃあ死を覚悟しなくちゃならねえ。だが事もあろうにベゴニアちゃんは、冬の海に飛び込んで素手で仕留めちまった。これがどれだけすげえことかわかるか!」


「いや、なんか漫画みてえだなあとは思ったけども……」


 マサルの感想を聞いて、親父は「そんなもんと一緒にするな!」と大激怒だったが、それも仕方のないことだった。


 メカジキが捕れる絶好の穴場へと到着した相沢親子だったが、その日は全くと言っていいほど当たりがなかった。おかしい。メカジキが餌とする小魚もいない。これはまさか――


 そう思った瞬間、船体を超えるような大きな魚影が浮かび上がり、鋭い牙の生えた大口が顕になった。


 まず最初に死神に出会ったことを自覚したのはマサルの父だけ。マサルにとってはこんな人食いの巨大魚など映画の中でしか見たことがなかった。


 いや、それも嘘だ。現代っ子であるマサルは『ジョーズ』などの映画は見たことすらなかった。


 それなのにもかかわらず、ベゴニアは「ちょっと行ってくる」と引き止める暇もなく、自宅から出勤するような気楽さで海の中へと飛び込み――次の瞬間、巨大なホオジロザメが海面から宙へと飛び上がるという、本当に漫画みたいな光景が現出したのだ。


「む、すまんな、少し土手っ腹に穴を空けてしまった。商品価値が下がったかもしれない」


 商品って。海面が赤く染まっていく。

 それはもちろんホオジロザメの血であり、ホオジロザメの上に跪いたベゴニアは当然無傷だった。


 親父は操舵室で腰を抜かし、マサルは「なんだったんだ一体……」と未だに現実感のない光景に理解が追いつかないまま今に至るのだった。


「ちくしょー。ダイビングスーツ着てサメにアンカー打ち込んできたのは俺だぞ……ううう、クソ寒ぃ……!」


 ダイビングスーツの上から更に上着を羽織り、未だにガタガタ震えている息子と、スーツ姿で極寒の海に浸かって、さらに喉が渇いたと言って、冷たいビールを体内に流し込むベゴニア。


 人外であるベゴニアの頑強さと、ごく普通の高校生とを比べるのは酷な話だが、この時の親父は我が息子の不出来を嘆かずにはいられなかった。「動かねーもんに穴開けただけだろうがっ!」とマサルに容赦ない言葉を浴びせるのだった。


「……それにしても改めて見てもすげえバケモノだ。国内じゃあ最大クラスの大きさじゃねえか。ここまでの大物になると、小さな船ならひっくり返されちまうこともある。海に落ちたが最後、こいつの餌になるしかねえ。それをおめえ、素手、素手だぜ……これが興奮せずにいられるかよ! ベゴニアちゃんは海のヒーローよ!」


「恐縮だご主人」


 ベゴニアはビールを飲み干すと、グシャ、カシュ、コキ、ペキ、コロコロっと缶を握りつぶして、手のひらの中でこね始める。


 アルミ缶はみるみる球体に成形され、やがて真球になった。ついにピンポン玉より小さくなったそれをポイっとマサルへと放ってよこすのだった。


「なんだこの密度! 指が入らねえ! か、硬えええ!」


「むう。魚相手に拳を振るって少々いい気になってるらしい。力が入りすぎたかな」


「半端な力じゃねえだろ!」


「いやあ、どこまでも豪快だな! ますます気に入ったぜ!」


「恐れ入るご主人」


「いや、やっぱおかしい! 絶対変だってこんなの!」


 マサル少年の常識的な叫びは海に吹き付ける寒風にかき消されるのだった。



 * * *



 冬場の夜明けは遅い。

 けれども澄んだ大気のおかげか、常よりも清廉な朝日と出会うことができる。


 ホオジロザメのような3トンを超える大型魚を牽引しているため、小型船の速度は牛歩並といっても過言ではない。


 すっかり日も高くなった代わりに、もう間もなく陸地が見えてくる頃だろう。

 

 ベゴニアは相変わらずフロントデッキに座り込み、遥かな水平線の向こうを見つめていた。


 どんなものに思いを馳せているのか、その視線は鋭く厳しい。

 マサル少年は少し躊躇いながらも、そっと声をかけた。


「なあベゴニアさん」


「うむ、なんだろうか」


 厳しい視線が一転、マサルに向けられる表情には人懐っこい笑みが浮かんでいた。


「あんた、もしかして漁の経験があるのか?」


 マサル少年はベゴニアとの初めての出会い――というより発見した僅か一日前のことを思い出す。


 結局昨日は漁に出かけることができなかった。船の中で発見したベゴニアは呼びかけても揺り動かしても全く起きる気配がなく、仕方がないので漁業組合の知り合いを呼んでえっちらおっちら担架に乗せてマサルの自宅まで運んだのだ。


 あらあらまあまあ、とマサルの母に介抱されている間もベゴニアは眠り続け、「コラ、何見てんだ!」と叱られるまで、マサルはベゴニアの肌を凝視してしまった。


 弁解すれば、それは決してスケベ心からではなく、母親が着替えのために脱がせた服の下から現れたのは、大きくて分厚くてそして鋼のように引き絞られた見事な身体だった。


 それは長い時間をかけて激流に揉まれ、角が取れるまで磨き抜かれた玉石のような――あるいは槌の振り下ろしによって極限まで不純物を廃された刀身のようでもあり――そして彫刻作家が妥協なく一心不乱に削り出した彫像にも似ていた。


 まさに極地に至ったもの特有の美しさと力強さを併せ持つ、至高の芸術品を彷彿とさ、ついついマナー違反とわかっていながらも、マサルは目が離せなかったのだ。


 さらに半日以上も眠り続けたベゴニアは、凄まじい腹の虫の音と共に起き上がり、相沢家の夕食を一緒に食べることとなった。


 眠り方が豪胆ならば、食べ方は豪快だった。マサルの母が作った食事は瞬く間に平らげられ、噂を聞きつけた漁師仲間達が差し入れとともに現れるたび、ベゴニアはそれらもすべて胃袋へと収めてしまった。


 大人たちは大喜びで拍手喝采を送り、ベゴニアはごちそうさまと貴人に対する立派な礼節と共に、一宿一飯の恩義に報いたいと、本日の漁への同行を自ら申し出たのだった。


「うむ、漁師か。大昔に一時期やっていたことがある。その時は大間のマグロ漁だったがな」


「へえ、通りで。俺なんかよりずっと船内での立ち回りや手伝いが様になっていたもんなあ」


 一宿一飯の恩義があろうとなかろうと、素人が海になど出ても邪魔なだけである。だが実際に父から激が飛ぶのはマサルの方ばかりだった。


「マサルは高校生だったか。卒業したら漁師になるのか?」


「ああ、まあね。年貢の納め時ってヤツかな」


「それはどういう意味だ?」


「どうって……」


 マサルははたと隣――父のいる操舵室の方を見た。

 ベゴニアは目を丸くしてキョトンとしている。

 うーん、とバリバリ頭を掻く。


「俺さ、散々遊び倒してきてさ、全然勉強しなかったから」


「うん、それで?」


「だから、漁師になるしかないじゃん」


「いやいや、間が飛んだぞ。勉強しなかったら何故漁師なんだ?」


 マサル少年は「いや、わかるでしょ」と言いながら再び操舵室の方を見る。

 親父に聞かれてないだろうな……。


「だってさ、漁師って誰でもできる仕事じゃん。勉強しなくてもなれるし。遊んでた俺にはもうここしかないでしょ」


「ほうほう。マサルよ」


「え」


 ズイッとベゴニアが近づいてきて手が伸ばされる。細くて長い指がマサルの頬に触れる。女の子とまともに付き合ったことのないマサル少年は胸がドキドキするのを感じた。


「てい」


「あばァ!!」


 ミシっと頭蓋骨が軋んだ。

 ベゴニアの放ったデコピンにより、マサル少年はデッキの上をのたうちまわった。


「な、なにを……いてて、何すん――」


 マサルは言葉を引っ込めた。

 ベゴニアの見下すような冷たい目を見てしまったからだ。


「マサルよ、おまえの今の発言は漁師という職業に従事するもの全てを馬鹿にしている。少なくともこれから同じ職業を目指すものが口にしていい言葉ではない」


 マサルは全身から汗が吹き出しているのに、身体の芯が冷えていくという初めての経験を味わっていた。はっきり言って超恐い。自分より年上――それでも25歳までは行っていないであろう女性の放つオーラに圧倒されていた。


「す、すみません」


「私に謝ってどうする。海に謝れ」


「はあ? なんで海?」


「海に謝罪すれば、日本全国の漁師に謝ったのと同じことになる」


「そうなの? いやならねーよ!」


「もう一度泳ぐか?」


「すんませんでしたーッ!!」


 叫んだ。力の限り。目の前の大海原に向かって今までで一番気持ちを込めて謝った。操舵室の方から父が胡散臭そうに顔を覗かせたが、ベゴニアがにこやかに手を振るとあっさり引っ込んだ。


「うむ。いい謝罪だ。誠に勝手ながら私の一存でお前を許そう」


「そりゃどーも……」


 はあ、と再び腰を下ろすマサル少年。

 未だにズキズキとする額を擦りながらブスッ垂れて呟く。


「じゃあ、どーすりゃいいってんだよ。せっかく漁師になるつもりだったのに、こんなんじゃ……」


 色々未練が出てきちまうじゃんかよ……と。

 続きは言わなくとも、恐らくそんな言葉が続いたのだろう。

 ベゴニアもまたマサルの隣に腰を下ろしながら口を開いた。


「いいのではないか。少なくとも諦めやウソで自分を偽ったまま漁師になるのはやめた方がいい」


「なんでさ?」


「専業漁師と雇われ漁師。おまえは前者だ。後者はバイトや派遣だ。いつでもやめられる。私がこれだな。だが専業は違う。一生かけてその仕事と向き合って行かなければならない。途中で辞めることは、会社でいうところの倒産を意味する」


「倒産って。そんな大げさな」


 へっ、と鼻で嗤うマサル少年に、ベゴニアはやれやれとため息をついた。


「おまえな。自分の家のことはちゃんと理解しておけ。この船の横に『あいざわ漁業』と書いてあったぞ。おまえの親父さんは漁師という仕事で法人化している。『あいざわ漁業』の社長だぞ」


「ええ?」


 マサルは腰を浮かせて膝立ちになると、船体の縁に捕まって首を伸ばした。波に見え隠れする船の脇っちょには、確かに『(株)あいざわ漁業』と書いてあった。


「マジかよ、俺、社長の息子!?」


「名目上はそのとおりだ」


「すげえじゃん俺!」


「お前はすごくない。親父さんが社長で恐らくお母さんが専務だ。ふたりだけの法人役員だな。で、おまえが漁師になれば、雇われ社員ということで入社することになる」


「社員? 正社員?」


「そうだな。正社員だ。法人だから厚生年金と社会保険に加入するぞ」


「おお、それっていっぱいお金がもらえる年金だろ? なんだ俺、勝ち組?」


「まあ、売上げ次第だが、そうなるな」


 普通漁師はある程度収入が増えれば法人化をする。様々な法律の適用がなされ、税金を取られてしまうが、基本的に給料は会社からもらうことになるし、余ったお金は会社の利益として税務署に申告。残りはプールしたり、他への投資――新たな事業を立ち上げたり、株式投資で運用したりする。


 逆に法人化しなかった場合はすべて自営業扱いとなり、経費を差し引いた残りの全てが自分の利益になる。その反面、儲かったら儲かった分だけ税金も高額になってしまうのだ。あと自営業は個人事業なので加入できるのは国民年金だけだったりする。


「やった! なんか俄然やる気がでてきた!」


 隣でガッツポーズをするマサルにやれやれとベゴニアはため息をついた。


「現金なやつだな。まあ給料や待遇は大事なことだし、それをモチベーションにするのは悪いことではないが……だがわかっているのか。いずれお前は二代目社長になるんだぞ?」


「え、ああ、そっか……そういう日もくるのか?」


 父の引退。即ち代替わり。会社の資産だった船や社名も全てマサルが継がなくてはならない。父が引退となれば母も引退するだろう。事務仕事をする人間が居なくなるのでヒトを雇ったりしなければならない。それもすべて社長となったマサルが自分で決めなければならないのだ。


「はあ、そっか。……親父、海に出ながら組合とも付き合って、そんで社長の仕事もこなしてたのか。おふくろも、家のことやりながらそれをずっと手伝ってたのか」


 しみじみとした声だった。

 今まで18年間一度も知ることのなかった家業を顧みて、少年は少しだけ大人に近づいたようだった。


「そうだ。その上お前という子育てもしていたぞ。これがどれだけ大変なことだったか、少しは理解できるだろう?」


「う。まあ、ちょっとは」


「それで、お前は何をしていたって?」


「遊んで回ってました……」


 地元の悪いヤツらとつるんで毎日毎晩遊び呆けて、勉強もまともにせず、家にもろくに帰らない時期もあった。


 たまに帰っても親父もおふくろもうるさいばかりで、まともに話を聞くこともなかった。何か問題を起こせば当たり前ように両親に面倒をかけていた。


 だがそんな毎日にも終わりがきた。

 つるんでいたヤツらは夢から覚めたように現実へと帰っていった。

 就職、進学、予備校、留年、フェードアウト……。

 昨日まではあんなに一緒に遊んでいたのに。


 マサルはひとり取り残され、そうしてようやく諦めがついたのだ。

 俺は漁師になるしかない。馬鹿だから。頭が悪いから。

 もうこれ以外に未来がないんだと。そう思い込んで自らを納得させていた。


「漁師は命がけの仕事だ。今のお前のような心構えではいつか生命を落とす。そして決してバカには務まらない仕事でもある。もう一度よく考えてみてもいいのではないか?」


「考えるって……じゃあもし俺が漁師をしたくないって言ったら?」


「それをそのまま親父さんに伝えてみればいい」


「嫌だよ、絶対ぶっ殺されるじゃん!」


「それはお前が仕事もせずフラフラしていた場合だ。漁師の仕事をしないのなら、他の仕事を探してもいい。なんなら進学したっていいだろう」


「それこそ無理だよ……俺の頭で今から進学なんて」


「今からでは無理だろうな。だが受験は毎年やってるんだぞ。今年は無理でも一年間勉強すれば、来年は受かるかもしれないだろう?」


「そりゃそうかもだけど、でも今さらそんなこと……」


「マサル。何事も始めるのに遅いということはない。それに今のお前の年齢なら一年の浪人くらいあとで十分取り戻せる。お前が思っているより未来の選択肢はたくさんあるんだぞ。自分で自分の可能性を狭めるな。焦らなくていい。今の自分に足りないもを見つけたなら、それから目を逸らすな。きちんと真正面から向き合い、そして少しずつでいい、身につけていく努力をするんだ」


 厳しい眼差し。でもそれは水平線の彼方を睨んでいたときのような怖いものではない。厳しさの中にもどこか優しさが滲み出る暖かな眼差しだった。


 マサル少年は俯き、自分の手元を見つめたあと、もう一度顔を上げてから迷い迷いベゴニアへと告げた。


「うーん……わかった。親父の手伝いを続けながらちょっと頑張ってみるわ」


「そうか。偉いぞ。よく言った」


 ベゴニアは揺れるデッキの上にすっくと立ち上ると、海水でゴワゴワになったマサルの頭をガシガシと撫でた。


「やめろよ!」と突っぱねる彼は顔が真っ赤だった。そうしてからベゴニアは自分とマサル用に飲み物を頂戴しようとクーラーボックスのある船尾へと向かう。操舵室の横を通る際、マサルの父がボソッと呟いた。


「色々ありがとうよ。あんたもしかして学校の先生かなんかなのかね?」


「まさか。私は主に仕える執事だ」


「は? 執事?」


 ベゴニアは大きくたくましい胸を張って「うむ」と頷くのだった。



 * * *



 港に戻ると、案の定とんでもない騒ぎになった。

 地元の漁師たちですら滅多にお目にかかれない人食いザメを引っさげて相沢親子が凱旋したからだ。


 早速地元の新聞社と犬吠埼マリンパークに連絡をしよう。

 写真も撮影して組合のホームページにもアップしなければ。

 もしかしたらキー局からテレビの取材も来るかもしれない。

 いやあ大したもんだ、とみんな子供のように大はしゃぎだった。


 マサルの父は諸々の手続きや水揚げ用クレーンの手配に奔走している。

 一番の功労者であるベゴニアはそんな漁師たちの輪から外れ、ひとり背を向けて歩き始めた。


「ちょい待ち、あんたどこに行く気だよ!?」


 ベゴニアを引き止めたのはマサル少年だった。


「うむ、一宿一飯の恩義は果たしたと思ってな」


「いや、十分すぎてお釣りがくる程だけど。これで黙って居なくなるのはナシだろ。今晩は漁協の寄り合い所で大宴会だぜ。主役がいなくちゃ始まらないだろう」


「それは大変魅力的な提案だな。だが今の私は一処ひとところに長居出来ない身分でな。残念だ……」


「なんだそれ? そういえばベゴニアさんって普段一体なにをして――」


「おい、なんだアレ!?」


 誰かが悲鳴を上げた。

 ホオジロザメに沸き立っていた漁師たちが戸惑いの声を上げている。

 みんな岸壁に並び、全員が同じ方向――灯台の向こう、水平線のさらに先を指さしている。


「な、なんだありゃあ!?」


 大きな――あまりに大きな黒い雲海のような――一見すれば腕のようにも見えるものが空から堕ちてきていた。


 空のてっぺんから雲を割り、大海原目指して降下している。

 速度は緩慢に見えるが違う。あれはとんでもない大きさだ。

 緩慢に見えて、その実とてつもない速度で進行しているのだ。


 そして人々はさらにとびっきりの異常を発見する。

 空の彼方――清廉なる太陽の直ぐ側にもう一つ、汚穢なる太陽が鎮座しているのを。


「なんだあれ、黒い――太陽?」


 マサルが呟いた瞬間、辺り一帯に防災無線が轟いた。

 他の漁師たちの持つスマホからも緊急避難警報が鳴り響いている。


「マサル、お前は家まで走り、お母さんと一緒に近くの避難所に行け」


「ベ、ベゴニアさんは!? あんたも一緒に行こう!」


「私にはやるべきことがある」


「何だよそれ! なんかよくわかんねえけど、アレはすげえヤバイって! なあ、一緒に避難しようよ!」


「マサルよ」


 不意に大きなベゴニアの身体が覆いかぶさってきてマサルは押し黙った。

 抱きしめられている。大きくな手、太い腕、そして分厚い身体。

 ベゴニアの身体は力強さと熱に満ちていた。


 そう、海水に浸かったはずの彼女のスーツがもう乾燥している。

 そして布一枚隔てたその奥は、まるで灼熱の鉄板のようだと彼は思った。


「このあたりで海に近くて広い場所はあるか?」


「あ、あっちの、灯台に行く途中に海水浴場と公園があるけど、でも……!」


 ミリミリミリっと灼熱の鉄板が膨張していく。

 いまやベゴニアの筋肉はスーツもはち切れんばかりに肥大化していた。


 こ、恐い……。

 さっきまであんなに優しかったのに、今はベゴニアが恐ろしくてしかたない。

 なのに、耳朶を打つ声だけはどこまでも慈愛に溢れていた。


「お前は何でもできる。何者にもなれる。家族を大切にしろ。好きな女ができたら全力で守れ。子供が生まれたら慈しめ。それだけで人生は輝く。あの――」


 スッとベゴニアの指先が天を指し示す。


「あの汚穢なる漆黒の太陽などではない。燦然と生命を照らす母なる太陽のように、お前もなれるはずだ」


「ベゴニアさん、あんたは――!」


「さらばだ」


 ボンッ、とコンクリートでできた岸壁が爆発する。

 とっさに顔を伏せたマサルが目を開いたときには、もう彼女の背中は豆粒ほどの大きさになっていた。


 たっぷりとそれを見送ってから、ハッとマサルは彼女の言葉を思い出す。


「母ちゃん――急がねえとっ!」


 自宅へ母を迎えに行くため、マサル少年は全力で走り出すのだった。

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