地球英雄篇

第176話 地球英雄篇① 地球最後の木曜日〜戦場へと向かう者共・前編

 宇宙空間が静謐だと誰が決めた。

 真空空間では音を介するものがないだけで、もし万が一、宇宙にも空気が存在していたとしたら、さぞやかましい空間だったことだろう。


 例えばジオスペース宙域、放射線ヴァン・アレン帯。

 ここでは太陽風に伴う宇宙嵐が常に発生している。


 現在の地球はスイス、ジュネーブ郊外、欧州原子力機構――通称CERNセルンが所有するラージハドロンコライダー(L.H.C)と呼ばれる衝突型円形加速器において、陽子ビームを最大14エレクトロンボルトまで加速させての衝突実験が繰り返されている。


 この陽子ビームは全部で320兆にも上る複合的な粒子でできており、その総エネルギーは362メガジュールにも及ぶ。例えば半トン近い銅を溶解させて余りあるエネルギー量と言えば想像ができるだろうか。


 円形の加速器は山手線に匹敵する大きさがあり、その内部では光速の99.999999%まで加速された素粒子同士がぶつかり合うことで新たな素粒子の発見や消失のメカニズムの研究がなされている。これによって2013年、ヒッグス粒子が発見されたことは記憶に新しい。


 このように人類の英知と国家予算並みの巨額を投資して行われている実験だがその実、放射線帯ヴァン・アレン帯ではごく日常的に発生していることを極めて小規模で再現している――いわばミニチュア実験でしかないのだ。


『実は宇宙はうるさい』というユーモア溢れる見出しで、NASAが宇宙空間に満ちる騒音を公開したこともあるほど、宇宙とは騒音に満ちた世界なのだ。


 だが、それ・・に限って言えば、本当に何の予兆もなく、音もなく静かに現れたと――そう言えるだろう。


 なんの変哲もない宇宙空間の只中に、突然黒い孔・・・が口を開けた。

 360度、いずれの角度から見ても同じように見える孔である。


 ただし、その孔の周辺は極端に空間が歪められ、孔を通して背後の星々を見れば、光さえも歪められているのがわかるだろう。


 現出したあなは瞬く間にその規模を拡大し、さらに何かを吐き出し始めた。


 汚穢なる爪。汚穢なる牙。汚穢なる触覚。そして穢れたツバサ

 瞬く星々をも凌駕する規模でヤツらは現出した。


 目指すのは青く輝く生命の惑星。

 無限の物量たちが我先にと行進を始め、さながらその様は巨大な腕が差し伸ばされる様に似ていた。


 母なる星を我が物にせんと、ヤツらは三度、地球に降り立った。



 * * *



「What's that――!?」


 浜辺から大海原を指差し、誰かが言った。

 口に出さずとも、それはその場にいる全員の共通認識であり、誰もが胸に抱いた疑義でもあった。


 12月28日 午後13時14分

【ハワイ州オワフ島、ワイメア・ビーチ】


 日本からの観光客が旅行会社のツアー日程に海水浴を選択すれば、ほぼ100%の確率で選ばれる有名なビーチ、それがオワフ島のワイキキビーチだとするなら、サーフボードを携えたサーファーたちが訪れるのは、ここノース・ショアのワイメア・ビーチしかない。


 ワイキキビーチから車に乗り、ルナリロ・フリーウェイを北へ小一時間ほど。

 白く美しい砂浜に、なんとも厳つい岩山が鎮座するそここそが、有名なワイメア・ベイである。


 春夏は波が穏やかで多くの海水浴客で賑わうのに対して、冬場は荒々しいビッグウェーブが押し寄せるため、絶好のサーフスポットに変貌するのだ。


 そんなサーファーたちが異常事態に気づいた。

 海で事故が遭った場合、サーファーたちの連帯感は凄まじい。

 見ず知らずの者同士でもこぞって声を掛け合い、救助へと向かう。


 彼らは今多くの呼びかけによって、波に乗るという至高の快感を打ち捨て、浜辺へと戻ってきていた。


 遥か沖合い、白波が湧き立つ向こうに真っ黒い雲が見える。

 それが水平線いっぱいに広がり、なんとこちらへと押し寄せてくるではないか。


 やがて、原因不明の黒い波ブラック・ウェーブは、ワイメアどころかハワイ全土を瞬く間に覆い尽くした。



 * * *



 それから約一時間後、オワフ島ヒッカム空軍基地の通信が絶たれてから三十分後のこと――アメリカ海軍第7艦隊潜水艦部隊が所有するロサンゼルス級原子力潜水艦【キー・ウェスト】によって、史上初めてとなる自国領の殲滅作戦が行われた。


 就任以来初となる軍事命令がまさか自分の領土を地球から消し去ることになるなど思いもしなかった――と、晩年の回顧録で大統領は語った。


 大陸間弾道ミサイルICBMに搭載されたその特殊弾頭は、核弾頭に匹敵する認証セキリティを有し、大統領の号令により粛々とハワイ州へと撃ち込まれた。


 特殊弾頭の名前は【パラチオン特殊弾頭弾】

 人体に極めて有害であり、土壌汚染と海洋汚染を誘発させる【サランガ】専用の殲滅化学兵器である。


 その日、常夏の楽園は、一切の生物の存在を許さない地獄の島へと変貌した――



 * * *



 12月29日 午前11時30分

【東京都新宿区新宿御苑地下】


 東京新宿御苑。その地下には、決して一般人には関知することのできない、バケモノたち専用の幽閉所が存在する。


 通称【封滅の間】とも呼ばれるその牢獄に入ったが最後、如何な強力無比なバケモノであろうと、己が力を封じられるため観念する他ない。


 だが御堂が裏の世界でバケモノの全国統一を果たし、天下泰平の世が訪れると、もはやその【封滅の間】も使われることはなくなった。


 一時は解体して埋めてしまったり、商業施設に転用できないかとの案もでたが、結局どちらもなされなかった。


 幾年もの月日を経て、数々のバケモノたちを封じ、あるいは滅してきた牢獄は、もはやヒトに扱える代物ではなくなくなっていた。


 バケモノたちの怨念が染み込み、あるいは地歴に連なるヒトの怨念までも吸収し、蠱毒の様相になってしまっていたからだ。


 だが御堂は敢えて大都市の最中に呪いのホットスポットを置き、それらを厳格に管理することで都市の霊的防衛に利用していた。


 美しい公園の地下に下水道が広がっているのと同じ理屈である。綺麗と汚いは常に表裏一体なのだ。


 そんな地下の牢獄にバケモノの末席にありながら、プリズンブレイクに挑むうつけ者がいた。


 人工知能進化研究所所長、安倍川マキ博士から「地球がヤバイ」との報せを携えた目玉のバケモノ、百々目鬼どどめきであった。


「こ、こちらもダメ……くうう、さすがは御堂が誇る幽閉所。至る所に結界が……!」


 内部へと至る水路や空気穴には恐ろしく厳重な霊力殺しの符が貼ってある。

 百々目鬼は小さなカラダを活かして潜り抜けられる箇所がないかを虱潰しにアタック&ゴー……というよりトライ&エラーを繰り返していた。


「しかしこの暗闇……影女は置いてきて正解だった……!」


 首都近郊の人研から首都の中心地まで【影渡り】を連続で使用した影女は著しく消耗していた。


【影渡り】とは、自分の欠片を潜ませた影から影へと瞬時に移動する術である。そして、影女は光源を遮ることで作られる影の中にしか存在できない。光源が存在しない本物の虚無に長時間いれば自我が消滅して闇に還ってしまうからだ。


「だが一刻の猶予もないのも事実。例えこの身が滅びようと、その前にしらせさえ届けてしまえば――」


 本懐である。そう思い、結界符を越えて行こうとする刹那、百々目鬼の脳裏(脳などないが)にはマキ博士との『約束』が過ぎった。


 お互い生き残れたら――


「……厄介な。人間と約束などするものではないな」


 不満げに言いながらも特攻はやめておく。

 よくよく考えれば自滅覚悟で挑んでも、百理にたどり着けなければ意味がない。

 この身が先に滅んでしまってはそれこそ犬死にである。

 思考にワンクッション置くことでようやくそのことに思い至る。


「違う違う。約束などではない。ただあの獺祭だっさいで満たした器にダイブするという贅沢に浴することが楽しみだから……うん、それで行こう」


 再会したときに馴れ馴れしくされては困る。

 人間は人間、バケモノはバケモノ。

 いまのうちから言いきかせておかなければ。


「だがせめてもう少しギリギリまで……!」


 諦めないこと。投げやりにならないこと。そして逃げ出さないこと。そんな姿勢が一筋の光明を齎した。


 百々目鬼は極端に霊力が枯渇した地下用水路の先に、なにかとてつもなく強力な霊力の存在を感知する。


 霊力殺しの符が反応し、火花を散らしながら蒸発を始めるも、それに抗うように尚もこちらに近づいてくる何か・・である。


「こ、これは、この気配は……お頭様!」


 紛れもなく彼らの頂点に立つ最強の存在。

 御堂百理の霊力――それを宿す真っ赤な生き血がツツツと近づきつつあった。



 * * *



「くぅ……まだ、もう少し……!」


 母、命理との会話からまる三日。

 ついに百理は行動を開始した。


 あれ以来、定期的に御堂の隠密隊のものが食事を届けに来るも、母への反抗心からそれらには一切手を付けていない。


 そして、牢内で唯一の近代らしい設備である小型モニターは、AAT法案の会見を映して以来、一度も反応していなかった。


 ここには時計がない。テレビも新聞もなく、外部刺激が一切ないため、時間の感覚がすでにして曖昧になりつつある。


 三日と言ったのは百理のおおよその感覚であり、とても信用できるものではなかった。


 真正面の格子には霊力散らしの符が貼られ、床も天井も壁も分厚いコンクリートで覆われている。


 逃げることは絶対不可能。だが百理はなんとか外部と連絡を取るための手段を模索し続けていた。


 そして思いついたのだ。

 彼女の最大の目の上のたんこぶ。

 カーミラ・カーネーション・フォマルハウト。

 あの女と同じことが自分にもできないか――と。


 カーミラは吸血鬼の特性を活かし、自らの血液に気を宿らせ、様々な形にして操るすべに長けている。そしてそれと同じようなことは、百理にも可能なはずである。そう思い至ったのだ。


 百理の比類なき霊力が宿った血液をここ――部屋の片隅の小さな排水口から流す。

 そしてなんとしても地上を目指す。


 このような緊急事態に陥った場合、連絡役である百々目鬼と影女には特に厳格に言い含めてある。安倍川マキに接触しろ。危急があれば必ず自分に報せろ、と。


 あの妖怪コンビが母ではなく、まだ自分の命令に従ってくれているのなら、希望の芽はある。


「はあはあ、もう意識が……! こんなことなら、なんの味がしなくともきちんと食事をしておくべきでした……血が、足りない……!」


 格子の方から見えないよう背を向け、百理は今髪飾りにしている蝶の螺鈿細工、その鋭く尖った羽の尖端部分で己の左手首を深々と抉っていた。


 手首から下は真っ赤。

 そして今まで流れ出た血液は相当の量になっている。


 出来る限り遠くまで届くように細く長く伸ばしていく。

 血液量=霊力量である。あまり細くしすぎると百理の意識を離れて、ただの血になってしまい、二度と操れなくなる。


「あの女、こんな気の遠くなるような術をあれ程自由自在に……!」


 百理の戦闘スタイルは陰陽道と鬼道をミックスさせたオリジナルの『召喚術』である。特殊な符を依代に百理の霊力を餌にして、より高次元の鬼や魔を降霊させる術である。


 なので基本的に召喚後の百理の霊力は命令をするときだけ、あとは常時手綱を握る程度の霊力が必要となる。


 最初に降霊に必要な霊力が莫大であればあるほど、対価として強力な鬼神や天魔を降ろせるが、それ以外はそれほど霊力を消費しないのだ。


「ですが、この血流操作は凄まじい燃費の悪さですね……!」


 自分の体内から出た霊力は通常すぐに拡散消滅する。

 そうなる前に依代に封じたり、術に変換する必要がある。


 血液が外気と触れているだけで、ズンズン霊力が減っていくのだ。

 ましてやあのような美しいシンメトリーを描く羽を作り出すなど――


「まさか、カッコつけるために?」


 カーミラ自身が言っていたではないか。

 長年のたゆまぬ努力によってあの力を手に入れたと。


 見栄を張るため、格好をつけるため、それだけのためにこんなことを常日頃から繰り返しているあの女は本当に馬鹿としか言いようがない――


「ふふ……って、私は何を笑って!?」


 あの女は憎き恋敵。

 タケルの命を救うというお題目の元、彼自身を奪った卑怯な女狐。

 だがわかっているはずだ。そんなこととは裏腹に、自分はあの女が昔から大嫌いだったはず。


 あの女は常に自分の前にいた。

 母、命理だけではない。

 御堂に連なる者たちも、心の中では自分とあの女とを比べている。

 そして私の方が劣っていると思っているはずだ。


 ――経営者の器としては負けている。

 ――商品開発や発想力、営業力では降参するしかない。

 ――女をめぐる戦いも、かなり旗色が悪い。


 戦闘力は――せめて戦いだけはと思い、強引に戦いを挑んだ。

 結果はタケルの仲裁が入り、引き分けに終わってしまった。


 もしお互い最後に放った技――あの死出の羽衣を纏った紅蝶と、自分の冥界の炎とがぶつかり合っていたら、果たして勝ったのはどちらだったろうか。


「例え双方相打ちになったとしても、私は御堂の名を汚さぬよう、この生命に代えても――」


 そこまで言いかけてやめる。

 御堂の名を汚さぬため?

 自分は何を言っているのか。

 今自分を縛る枷になっているのがその御堂ではないか。


「違う、御堂ではない……私を縛るのは母、命理……!」


 今こそ乗り越えなければならない。

 そして自分こそが真の御堂なのだと自覚しなければならない。


 古い時代は終わりを告げた。

 今の時代も終わりを告げるかもしれない。


 だからこそ新しい時代を作ろう。

 人間とバケモノが共に歩めるような。

 そんな新時代を――


「あッ、ぐうッ――」


 操っていた血流が新たな結界符に触れた。

 指先を刃物で切りつけられているような痛みが全身を駆け巡る。

 だがここで気を抜くわけにはいかない。

 着物の袖口をギュウっと噛んで耐える。


 一瞬迂回しようかとも思う。

 だがこれで何度目だ。

 ぐるぐる同じところを巡っているだけでは先に進めない。

 今の自分には蛮勇こそが必要だった。


 そう、蛮勇。

 破天荒極まりないあの女のような大胆で無策。

 突き破ってたどり着いた先が泥の沼だとしても。

 泥にまみれながら高笑いをするような――


(――さまっ!)


「――ッ!?」


 今確かに聞こえた。

 無明の大海。

 漕ぎ出した船の上。

 目隠しで釣り糸を垂らしていたその最中。

 ついに大物にぶち当たった――!


(お頭様、私です、百々目鬼です!)


「あ――ッ!」


 嬉しさのあまり悲鳴を上げそうになった。

 だが外にいるであろう見張りの存在を思い出し、慌てて口を塞ぐ。

 そして血脈の枝葉に意識を集中させて会話を試みる。


(お頭様!?)


(なんでもありません。百々目鬼、危険を顧みずよく来てくれました。感謝します)


(なんと! もったいないお言葉です。こちらこそ遅参、申し訳ありません!)


(構いません。ですがあなたが万難を排してここまできたということは――そういうことだと考えてもよろしいのですね……?)


(はは! 人研の安倍川マキに接触をいたしました。重大な言伝を預かっております!)


(心して聞きましょう。申してみなさい)


 一瞬の溜め。

 そして百々目鬼は叫ぶように言った。


(【地球がヤバイ】とのことです! 安倍川マキは咎人の誹りを受けてでも人々のために最善を尽くすと言っていました! お頭様、我らも微力ながら戦います! 共にこの日の本の民を守りましょう!)


 衝撃が。

 百理の全身を貫いた。

 来るべきときがきたのだ。


 何十代も前の御堂が星読みによって告げた【滅びの日】

 それが今まさに迫ってきていると。


 そして少ないが必ず存在する人の世界の『良心』を持つ者たちが敢然と立ち向かおうとしている。安倍川マキ然り、ヒトの世界の裏に巣食う百々目鬼然り。だというのに今の自分はなんという体たらくか。


「霊言急急如律――」


(お頭さ――)


 血流操作を破棄する。

 霊力を失い百理の血はただの液体に戻った。


 貧血。霊力不足。疲労。空腹。倦怠感。

 瞬時にそれらを自覚するが構ってなどいられない。


「天魔神聖にして侵すべからず。迅雷なる裁きを愚者に。怨嗟の鉄槌を咎人に――」


 牢獄の中、百理の霊力が膨れ上がる。

 それと同時に格子に張り巡らされた符がそれを根こそぎ滅殺しようとする。


「何をしているのですか百理様!」


 虚無僧の格好をした見張り役が色を失くして叫んだ。

 そして狼狽のあまり自ら格子に触れてしまい「ぐあっ!」と霊力を奪われその場に昏倒する。それほどまでにこの牢獄は危険なのだ。


歳星もくせい焚惑かせい填星どせい太白きんせい辰星すいせいを廻れ――」


 燃やせ。霊力が足りないのなら生命そのものをべろ。

 そして符が反応するよりも早くこの牢獄を破壊しろ。

 溶かせ、滾れ、燃えて――爆ぜろ。

 手足の一本くらいくれてやる――


「天界神判・白炎羅苦はくえんらく――!」


 封滅の間に、冥界の炎が顕現した。

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