魔族種の王VS人造魔法師篇
第170話 魔族種の王VS人造魔法師篇① Hey,shall we dance?〜いいえ、彼女はもう踊れません
「非道いです隊長!」
現地時間12月26日 午後18時00分
【ホワイトハウス内、大統領執務室、通称オーバルオフィス】
ネクタイを頭に巻き付けた赤ら顔のスミスに対して、コードオータム――秋月楓は憤懣やるかたないといった様子で抗議した。
今の楓は顔の半分も隠すバイザーにアクアリキッド・スーツの上からウインドブレーカーを着用している。彼女にしては珍しく肩を怒らせて身を乗り出し、唇を尖らせている。擬音をつけるなら『プンプン!』といった風情だった。
「いやいや、なかなか器用なものだったではありませんか。あなたは十分に役目を果たしてくれましたよ」
スミスは不遜にも、大統領専用の椅子にふんぞり返って、ゆらゆらと身体を揺らしていた。入室前から赤ら顔であり、吐き出す呼気やスーツからもアルコールの匂いが立ち昇っている。
「最初はテロリストの凶弾から守るだけだって言ってたのに、あんなパフォーマンスまでさせて! 暗くて狭いコックピットでずーっと斜め七十七度の状態でシートに磔にされながら待機してた私の気持ちがわかりますかあ――!?」
「いやあ、あれはドキドキでしたね。いくら泳がせていたテロリストとはいえ、いつ、どのタイミングで来るのかはかなりシビアでしたからねえ。ところで、支援者のトレースはどうなっていますか?」
「とっくに確保してますよ。やっぱりロマリー派の息がかかっていたようです」
ロマリーとは現在の大統領と激闘を演じた大統領候補のひとりである。元々、様々な黒い勢力との繋がりが噂されていた。
それがまさかあんな短絡的なテロという手段で報復に出てくるとは。少々テンプレ過ぎてガッカリではあったが、それだけロマリーも追い詰められていたのだろう。
「学生時代の彼女はそれはもう美しく聡明な女性だったのに。時の流れとは残酷ですねえ」
どれだけタガが外れているのか、スミスはドッカと机の上に脚を乗っけている。大統領の執務机は室内の壁紙も含めて、就任の際に模様替えするのが慣習となっている。
今回の大統領も自分の好みに部屋を一新しており、その執務机も、歴史と伝統のある『リゾルート・デスク』になっている。
だが、スミスの年齢からすれば、南北統一時代からこの国と共にあるのだから、あまりそういうことは気にしてないのだろう。
楓は純粋に行儀悪いなーと思いつつ「対応はどうしますか?」と尋ねる。
「なにも」
「は?」
「何もしてあげません」
「それは――、いえ、了解しました」
テロリストは捕縛され、徹底的にその背後関係を洗われる。
今頃ロマリーは震え上がっていることだろう。
そして証拠を掴みながらなにもしてこない大統領に対して疑問と恐怖を抱くはずだ。これで今後、彼女の妨害工作はだいぶ鳴りを潜めることが予想される。
「まあまあ、もうそんな瑣末ごとはいいじゃないですか。私たちにとって記念すべき今日の良き日を祝いましょう」
「祝うと言うのならなぜこちらに? 祝賀会場では主役が居なくなって大騒ぎになってるはずですよ?」
現在、ホワイトハウスのエグゼクティヴ・レジデンス――大統領の公邸内ではささやかパーティが開かれていた。
ささやかとは言っても参加者は本当に国の中枢に身を置く大人物たちばかりであり、政治家や軍高官も参加している。
ロアシ連邦大統領はつい先程ホクホク顔で専用機――通称『空飛ぶクレムリン』に乗って帰途についた。
今会場にいるお歴々は、それこそ幼少期、学生時代、入隊時、初当選時、任官時などなど……。様々なシーンでスミスと交友を温めた既知の者たちばかりであり、現在の大統領の場合は一時期、スミスと合同で商売をしていた間柄だったりするのだ。
皆、いつの日かスミスが立ち上がり、表舞台で活躍することを待ち望んでいた者たちばかりであり、彼らの人生の一定期間には必ず『アダム・スミス』という男との思い出が大きなウェイトを占めていた。
年齢も、出身も、立場も、性別も、人種も違う彼ら彼女らは、共通の話題である『アダム・スミス』という神に選ばれたと嘯く親友の話で大いに盛り上がっている。
その様はまるで同窓会のようであり、スミスは終始、彼らの思い出話しの傍らに付き添い、時折り歯抜けになっている前後の辻褄を、まるで昨日の出来事のように補足してやるだけで、誰もが笑い上機嫌になった。中には涙を浮かべて昔日を懐かしむ者まで居るほどだった。
「なんですか、もしかして彼らに妬いてるのですか。あなたの知らない私の思い出話を自慢げに話す彼らが許せないと?」
「そ、そんなことありません」
楓はサッと顔をそらした。バイザーでその表情は見えるはずがないのに、明らかに動揺が声に出ていた。
「彼ら彼女らはどうせあと十年前後の付き合いになるはずです。それどころかこれから数年以内に第一線を退いていく者たちばかり。あなたとは今後五十年は付き合ってもらうことになるでしょう。まあ、あなたの方から私に嫌気が刺さなければ、のお話ですが」
「そんなことは……!」
あり得るはずがない。自分がこの男に捨てられることはあっても、楓の方からスミスの傍らを離れることは絶対にない。
だがそれを伝えることは何もかも全て自分の心の裡を曝け出すに等しい。
これから表舞台へ羽ばたく彼の邪魔はしたくない。枷にはなりたくないのだ……。
そんなことを思っていると、スミスは赤ら顔でニヤニヤと楓を見つめていた。
全部見透かされている。まるで勝てない。恋の駆け引きでは。
それもそのはず、相手はこれまでに数万人の女性を好きになってきたという筋金入りのプレイボーイ。楓ごときの拙い好意など、手に取るようにわかるのだろう。
楓は俯いた。その視線に耐えられず目を背けた。バイザーの下の顔は真っ赤になっていた。そんな彼女に、スミスは優しく声をかける。
「楓さん、踊りませんか?」
唐突な申し出に顔を上げる。
途端スミスと目が合い、楓はサッと再び目を逸らす。
「な、ななな、何を言ってるんですか、突然!?」
「私が突然で唐突なのはいつものことじゃないですか」
「自覚があるなら改善してください。巻き込まれる私たちは大変なんですよ?」
「今はそんな堅い話は置いておいて、ね?」
しーっとスミスが人差し指を顔の前に立てると、祝賀会場の方からかすかなワルツが聞こえてきた。どうやら入念なボディチェックで遅れに遅れていた奏者たちが間に合ったようだ。
スミスは酔っているとは思えない優雅な足運びで楓に近づくと、彼女の目の前で片膝を立てて跪いた。
まるで美姫に忠義を誓う騎士のように胸に手を当て頭を垂れている。そうして、下から真摯な表情で見上げながら「踊っていただけませんか」と手を差し出した。
「ズルいなあ……、いつもはあんなにボケボケした顔しか見せてくれないのに」
「はは。本気で心を許した女性の前でしかしません。かなりレアですよ今の私は」
「そんなこと言って。同じセリフで何人の女性を口説いてきたんですか?」
「今はあなたにだけです。ホントですよ?」
「はあ……。足踏んでも知りませんから」
「構いません。あなたなら、いくらでも」
本当にズルい。
そう思いながら楓はスミスの手を取った。
スッと立ち上がった彼が優しく腰に手を回してくる。
「おっと、いけません。今だけは任務は忘れてください」
「あ」
バイザーグラスを奪われ、素顔を晒した楓は、途端気弱なハの字眉になった。
「か、返してください。今は任務中で、ノーメイクだから」
「十分綺麗です。気にしないで」
体と体が密着する。
ゆらゆらとスローテンポでリズムを刻みながら、ふたりはワルツを踊り始めた。
楓のダンスはお世辞にも決して上手いとは言えないものだったが、何故か妙に似合いのふたりなのだった。
(ああ……。この時間が永遠に続けばいいのに……)
楓は思う。自分なぞ彼にとってはただの駒だ。だがそれでも幸せだった。
使役されること、駒であること。それの何が不幸なのか。ポーンにはクイーンやキングに動かされる喜びがあるのだ。
間違いなく、今のスミスの瞳には自分だけしか写っていない。その事実だけで十分だった。
だが楓の願いも虚しく、幸福な時間は打ち破られる。
無粋なコールが鳴り響き、ふたりは夢から醒めるようにそっと離れ合った。
「隊長、この着信音は」
バイザーをかけ直しながら楓がスミスを見上げる。
「ええ、プライベート端末の方ですね」
それは滅多に着信することのないスミスの携帯端末だった。
画面の表示を見て、スミスは片眉を跳ね上げる。
「おやおや……教えてから一年以上、一度もコールしてこなかったうちのエースからですよ」
「マリアさん、ですか?」
「出ないわけには行きませんね」
スミスは大統領の執務机に尻を引っ掛けながら通話ボタンを押した。
押すと同時にバッ――と手を伸ばし端末から耳を遠ざける。
その途端――
『てめえッッ、どういうつもりだコラァ――――――ッッッ!!』
静かなワルツの旋律をかき消す大怒号がスピーカーから轟いた。
*
12月27日 午前8時15分
【東京、警察庁警備局国際テロリズム対策課取調室】
警視庁公安部外事第三課や各都道府県の国際テロリズム対策室を統括する部署、通称『国テロ対策室』の第一取調室にマリアの姿はあった。
「確認が取れました、大変失礼をしましたマリア・スウ・ズムウォルト中尉!」
昨晩までマリアのことをテロリストの仲間なのではないかと散々に取調べをしていた年かさの刑事が、娘ほども年の離れたマリアに90度のお辞儀をしてみせた。
「ああ、それじゃあもう帰っても問題ないな?」
ふうっと大きなため息。取り調べで疲れている、というより、今の彼女はどこか覇気がないように見える。
ちなみにマリアの格好は手術着、などではなく婦警たちの好意で貸与されたフリースにフリーパンツ姿という簡素なものだった。
「はい、もちろん、あ、いえ――習志野駐屯地の方からお迎えが来るそうですので、少々お待ちになったほうがいいかと」
「……ここで待たせてもらってもいいか?」
「ええ、でもここは取調室ですので、もっと別の客室で――」
「いらねえ。なあ、そこの電話、外に繋がるか?」
「え、ええ。でもここでの通話は盗ちょ、記録されて――」
「構わねえ。大したもんじゃねえから」
「はあ」
彼女は取り調べの最中から口数少なく、最低限のこと以上はしゃべらなかった。それどころか、終始不機嫌な様子であり、全身から立ち上るプレッシャーのようなものは、ベテランであるはずの刑事たちをも竦ませるほどの迫力に満ちていた。
だがそんなことで取り調べの手を緩めるわけにはいかず、何故テロリストと一緒に居たのか、何故全身に怪我を負っていたのか。そのことを追求すると、なんと彼女からは「ドラゴンと戦って怪我をした」というバカみたいな返答をしてきたのだ。
一瞬精神鑑定が先か、薬物検査も一緒にするべきか……などと思いながら話を聞くうちに、とんでもない事実が見えてきた。
彼女はステイツの軍籍に身を置く軍人であり、現在は習志野駐屯地へ教導官として出向中。さらに戦ったドラゴンと言うのが、秋葉原に出現したあの八首の龍だというのだ。
とすればあの漆黒のロボット。
自衛隊で密かに導入していたというロボット部隊の存在が昨夜明るみになった。
不鮮明ながらもテレビ局の報道ヘリからの映像は、テレビでネットで何度も繰り返し流されている。
念のため、防衛省を通して習志野に確認を入れてみると、対応した人事課の職員の声が喜色に弾んだ。そして彼女は無事なのか、怪我はしていないのか、今どこにいるのかとまくしたてられ、ガタガタと大きな物音がしたあと、なんと駐屯地司令を名乗る老齢な声が聞こえてきた。
そこでようやく、「あ、マジなんだ」とマリアの証言の裏が取れたのだった。
それでも刑事たちは何故マリアが人研にいたのか、それだけは問うと「怪我してたから治療してくれたんだろう。気絶してたからそのときの記憶はない」の一点張りだった。
本来ならそこからさらに問い詰めたいところだが、いつまでも『秋葉テロ事件』で活躍した英雄を拘束しておくわけにもいかず、何故かアメリカ大使館からも即時解放の要請がやってきたりした。
そうして今朝方、彼女は晴れて無罪放免の身となったのだった。
仕方がないとはいえ、詰問口調で取り調べをした刑事一同、どんなに年若く見えようとも確たる立場のマリアに対して謝罪をした。だがマリアは、てっきりその件で不機嫌になってるのだとばかり思っていたのに、「別に気にしてない」とあっさりしたものだった。
そんな彼女は今、受話器を手に取ったままボタンの上に指を彷徨わせている。眉間に深いシワを寄せながら「うーん」と唸りだす。そしてブツブツと、「ゼロ、いや、なな、さん、ろく……」などと呟いていた。どうやら番号を思い出しているようだ。
「ちょっとうるさくするけど勘弁な」
「え、ええ、どうぞ」
刑事が見守る中、マリアは叩きつけるような勢いでボタンをプッシュする。先程の迷いがウソのようだ。そうしてから受話器に耳を当て、すうっと深呼吸をした。
受話器の向こうからは『はい、もしもし』っと小さな声。
それが聞こえた瞬間、マリアの上半身が膨れ上がり、刑事は咄嗟の判断で耳を塞ぐことに成功する。
「てめえッッ、どういうつもりだコラァ――――――ッッッ!!」
人から発せられる音波が、皮膚の表面を電流のように駆け抜けることを、年かさの刑事は初めて知った。
そして、その時マリアが発した声は、署内の全員が「テロか!?」と飛び上がるほど凄まじい声量なのだった。
*
「やあ、お疲れ様ですマリアさん。あなたの戦い、私もネットで拝見しましたよ。それはもう八面六臂の大活躍でしたね。まさに『ドラゴンスレイヤー』の称号にふさわしいものです。壊れてしまった機体は気にしないでください。レコーダーは回収済みです。その時の戦闘データを元に、あなたには新しい機体を用意して――」
受話器の向こうから息を吸い込む音がする。
スミスは再び端末から耳を遠ざける。
『てめえ、よくもセレスティアを利用したな! そして今度はあいつを――セレスティアの
まるで火の塊にでもなってしまったかのような、言葉の端々から憤怒がありありと伝わってくる――それほどまでに受話器の向こうのマリアは激怒していた。
「はて、セレスティアの父親とは一体誰のことでしょうか。彼女はずっと
一気にまくし立ててから再び端末を耳から遠ざける。
だが何も聞こえてこない。
「おや?」と様子を伺っていると、ミシッ――ドカンッッッ! という破壊音が聞こえてきた。
「あらら、器物損壊罪ですよマリアさん」
ニヤニヤとしながら髪をかきあげると、非難がましい楓の視線と目が合った。
スミスはニッコリと微笑みながら、再び慎重な様子で端末に耳をそばだてるのだった。
*
「ひぃ――!?」
年かさの刑事は悲鳴を上げた。
娘くらいの少女が突然目の前で、全身を真っ赤にしながら、頑丈な事務机をへし折ったからだ。
拳骨を握りしめながら、机に押し付けた小指球を震わせ、まるで生木を裂くが如く無理やりに押し潰したのだ。
この刑事は元々マル暴にいた経験を持つ。暴力的な光景など日常的に見ていたはずだが、彼女のはそんなものとは決定的に何かが違う。ベテランの勘故かそれだけはわかるのだった。
「てめえ、こんな時までおちょくりやがって。ネタは全部綾瀬川から聞いてるんだ。あいつにアクア・リキッドスーツを与えて、セレスティアを洗脳したんだろう!? 『言霊の魔法』を使ってなあ――!」
『ほう、【言霊の魔法】ですか。それは
受話器の向こうのニヤケ顔が見えるようだ。
マリアの怒りのボルテージは際限なく高まっていく。
「その挙句に全国に指名手配だと? 全部てめえの方から仕掛けやがったくせに、全ての罪を他人に押し付けて、自分はあの会見みたいに美味しいところだけ掻っ攫っていくって訳か。そんなのがおまえの目指していたものなのか!? あたしをスカウトしてまでやりたかったことなのか!?」
先程マリアは、半日遅れでワシントンの会見を見た。日本のテレビ番組や朝刊はその話題で持ちきりだったからだ。
その内容は呆れ返るばかりだった。秋葉原の事件を自ら作り上げ、その犯人をタケルに仕立て、そしてAAT法案の会見で利用する。
(こんなもののために……!)
こんな茶番のためにマリアは必死に訓練を積んできたのではない。
今までしてきたことがこの男の花道を飾るためだけの添え物であったなど、断じて認めるわけにはいかなかった。
『マリアさん、誤解なきよう。私は常に
「てめえ、ヌケヌケとよくも……! どうやってそれを信じろっていうんだ。おまえはそうして、自分以外のすべてを利用して、旨味がなくなったら捨てていくんだろう――セレスティアのように!」
彼女はある意味最大の功労者だ。
セレスティアがもたらした魔法や魔力に関するデータ。
そして『アクア・ブラッド』。
特にアクア・ブラッドを流用して作られた『アクア・リキッド』の功績は計り知れない。現在は魔力に耐性がある人間だけでなく、更に改良希釈して普通の人間にも安全に使用できないか研究が進められている。
そんなセレスティアを、仲間を、簡単に切れる男なのだアダム・スミスという男は。マリアの激情に従い、彼女の魔力が全身を駆け巡る。服の下は未だに包帯だらけなのに、もう痛みは感じなくなりつつあった。
だが、受話器の向こうで、スミスはのうのうと言ってのける。
『それで、彼女が幸せになれるのならよいではないですか』
「なにぃ……?」
切り捨てたセレスティアの幸せ……?
思いもしなかった言葉を耳にし、一瞬マリアは虚を突かれた顔になった。
『珍しく感情的になっているようですね。あなたらしくもない。まさかそれほどまでにセレスティアに情が移っていたとは。ええ、あなたの気持ちを推し量れなかったことは私の落ち度でしょう。ですが、彼女は私達といるよりも父とも言うべき存在である彼と共にいた方が幸せになれるとは思いませんか?』
「そ、それは……」
『確かに私はセレスティアを切りました。ですがただ切るのではなく、対価も与えたつもりです。父との劇的な再会という相応のものです。彼女の境遇を慮れば、あなたも背中を押してやるべきなのではないですか?』
「そんなこと分かってる、でも――!」
『それに忘れてはなりません。彼女は人間ではなく【精霊】なのです。所詮私達とは寿命は愚か、存在の概念すら隔絶されている。寄り添うことなど人間には不可能です。同じく超越存在である彼としか、彼女は共に歩めない。もう彼女を彼に返してあげましょう。ねえ、マリアさん?』
「うぅ、くう……!」
マリアが懸命に飲み込んでいたもの。心の内側が無残にも暴かれていく。
それを認めてしまうのが悔しくて惨めで、マリアは必死に歯を食いしばり、絞り出すように反論する。
「セレスティアに関しては確かにそうかもしれねえ。あたしが今抱えてるこの感情も自分で落とし所を見つけなくちゃいけない。そんなことはわかってんだ――!」
言いたかったのはそんなことではない。スミスはなおも『そうですか。それを聞いて安心しました』とどこまでも鼻につく口調をやめない。
「セレスティアをあいつの元に返す。それはいい。じゃあどうしてお前はセレスティアの母親――アリスト=セレスを未だに解放しねえんだ!? 基地の地下病棟から移動させたのはわかってるんだ! まるで人質に取るような真似をしやがって!」
アリスト=セレス――セーレスは未だに眠っている。肉体の崩壊から守るため、セレスティアが作り出したアクア・ブラッドの中に封印されているのだ。
そしてそのアクア・ブラッドはセレスティアの分身のような存在であり、例え地球の裏側に居たとしても、その存在を感じることができるという。
だが、人研を脱出する間際にはそれが感じられなくなってしまった、とセレスティアは言った。
常に母の存在と居場所を追跡しているセレスティアを躱すため、スミスが仕掛けたのだろうとマリアは予想していた。そして、それはどうやら正しかったようだ。
『もちろん、アリスト=セレスは未だに私にとって最重要な手駒です。そうそう手放すわけにはいきません。セレスティアには父との再会という対価を与えましたが、それよりも先に
「約束、だと? それを果たせば、アリスト=セレスは解放するのか?」
受話器の向こう――スミスは押し黙った。
重い沈黙に耐えきれずマリアは「おいッ!」と声を荒げた。
『それは彼次第です。いえ、私が望む結末では、決してそうはならないでしょう』
「なっ――! おまえがやってることはメチャクチャだ――! 一体おまえは何がしたいんだ!?」
マリアはもう半狂乱になって叫んでいた。
スミスは、先ほどと少しも変わらないトーンで、確固たる決意を感じさせながら言い切った。
『マリアさん、私には目的があります。それは人類を救うということです。彼にはそのための礎になってもらいます。世界が一丸となり、私の元に集い、やがて訪れる大きな戦いのために。彼には――死んでもらうことになるでしょう』
スミスから告げられた言葉。できるできないではない。それはただの彼の行動の帰結。必ずそうなるという予言。マリアは、あの成華タケルの太陽のような魔力を感じながらも、スミスには勝てないかもしれない、そう感じたことを思い出し、苦しげに胸元を握りしめた。
「おまえは、セレスティアから母親だけでなく、父親も奪うつもりなのか!?」
『そういうことになるでしょう。そのために必要な次の手も、既にして打ってあります。私は人類を救うためなら、鬼にでも悪魔でも――そして英雄にだってなってみせます』
英雄?
いや、英雄などではない。
この男はもう修羅の世界にいる。
スミスが人間だと?
違う。コイツも十分に怪物だ。
正気のままでは、とても一緒に歩むことはできない。
「……オータム、いや、秋月楓か。いるか?」
『……はい。本名では初めましてマリアさん』
しばしの沈黙のあと、通話に入ってきたのは、紛れもなくバイザーをかけていた仲間、コード・オータムのものだった。
「アダム・スミスは怪物だ。共に歩むには同じものになる必要がある。おまえにそれができるのか……?」
『もちろんです。私はもう一度
「そうか。弱っちく見えたのに、全然おまえの方が強いや。あたしはダメだ。とてもついていけそうにない……」
『マリアさん……?』
『マリアさん』
珍しく性急な様子で、スミスが会話に割り込んできた。
『マリアさん、私にとってはあなたも手駒のひとつに過ぎません。それは認めます。ですが、私にとってもっとも有能な手駒があなたなのです』
「そんな口説き文句じゃ、楓以外の女は振り向いてもくれねえぞ」
『手厳しいですね。なんですか、私にレディ扱いして欲しかったのですか?』
「突っ込む気力もねえ。もういい、あとは勝手にやってろ……!」
『マリアさん、あなたは――』
「あたしは人間だ。そして軍人だ。だがセレスティアの親友でもある。あいつに恨まれることだけはしたくねえ。かといって人間も裏切れねえ。だから、あたしはここまでだ……」
マリアは消耗していた。心が擦り切れかかっていた。
自分が信じて突き進んできた先に待っているもの――親友の悲劇的な未来。
だがそれは人類にとっての幸福でもあるという。
そんな大きなもの、秤にかけること自体がおかしなことだ。
人間のために尽くせば、親友を裏切り。
親友を取れば、人類に仇なすことになるだろう。
マリアは動けなくなっていた。
がんじがらめでは、もう飛ぶことはできない。
「あばよ」
『マリアさん――予言します。あなたは私を忘れられません。必ず私を頼るはずです。その時はどうか――』
「なんだ?」
『天に向かって《スミス隊長ごめんなさーい!》と叫ん――』
マリアは無言で受話器を握りつぶした。
会話の内容は全然理解できなかったろうが、破壊の限りを尽くしたマリアに、年かさの刑事はすっかり萎縮した様子で、壁際に寄りかかり、青ざめた顔でこちらを見つめていた。
「悪りぃ……。弁償は習志野駐屯地の工藤功につけといてくれ」
それだけを言うと、マリアは入り口のドアへと向かう。
「ああ、この服くれた婦警さんにありがとうって、それだけ……」
振り返ったマリアに、刑事がビクっと肩を震わす。
その様子に、マリアは言葉を飲み込み、目礼だけしてドアを開ける。
廊下を進み、階段を見つけ、一階までたどり着くと、そのままロビーを突っ切り、外へと出た。
「寒いなあ」
容赦なく吹き付ける冷たい風に首を竦ませる。
たちが悪いことに、こんなとき思い出すのはセレスティアのぬくもりだった。
赤子のように体温が高く、あの柔らかくて暖かな感触がひどく懐かしい。
フリースのファスナーをピッチリと締め、ポケットに手を突っ込むと、マリアは歩き出した。クリスマスイルミネーションは終わりを告げ、街はどこも正月の装いをし始めている。
そんなどこか浮ついた空気の中を、マリアは重い足取りで、当て所もなく、何処かへと流れていくのだった。
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