人理に背きしもの篇

第164話 人理に背きしもの篇① 僕が初めてヒトを殺したワケ〜暴走する水の精霊娘

 *



 12月25日 午前3時50分

【首都近郊、人工知能進化研究所職員用仮眠室】


「まだ……生きてる、のか?」


 マリアのつぶやきは見知らぬ天井へと吸い込まれた。

 腕を持ち上げる。痛み……ちゃんとついてる。

 脚を触る。痛み……ちゃんとある。

 両手で己が顔に触れる。


「はあ……」


 大きなため息。

 自分が五体満足であることを確認して一気に安堵感が押し寄せる。


「いや、違う――あたしは!」


 勢い良くシーツをはねのける。

 そして――


「くっ、あッ……!」


 激痛。

 全身の筋肉が張り詰め、筋繊維同士が綱引きをしているようだ。

 薄暗い室内で、マリア自身を抱いて必死に痛みに耐える。


「はっ、はっ、はっ……! ふうっ、はあああああぁ…………!」


 浅い呼気で痛みを逃しながら深呼吸する。

 そうするとわずか、腹の底が熱くなってくる。


 搾りかすのような魔力――あの八首ドラゴンの魔法に比べれば泣くたくなるほどのしょぼい魔力が、回復のために循環しているのだ。生きている何よりの証拠に安堵しかけたとき、寸断していたマリアの記憶が唐突に蘇る。


「セ――……っ!」


 ……レスティアという言葉は再びの痛みに塗りつぶされた。

 パクパクと喘いでいると、そこでようやくマリアは自分の傍らに愛しい重みが乗っかっていることに気づく。


 薄闇の中、精緻な金細工が寝息を立てている。

 それこそが求めてやまなかった相手だと気づき、マリアは手を伸ばしかけ、ピタリと止める。


 正気も理性も記憶も失い、破壊の限りを尽くさんとするそんな彼女と対峙し、その恐ろしさを十二分すぎるほどに味わった。


 あんな思いは二度とゴメンだ、と思いつつその張本人がいま自分の眼の前にいる。

 目を覚ました彼女が、あの冷血の水精魔法使いのままでない保証がどこにある。

 でも――


(その時は、あたしを殺すなり好きにすればいい――!)


 痺れが残る手を伸ばし、金細工のような髪に触れる。

 持ち上げると指の間を心地よく滑り落ちていく。


 今度は大胆に手のひらいっぱいに持ち上げてみる。

 長く軽い。そしてひんやりとした手触り。別に蛇になったりはしない。

 ほっと一息ついていると「んん……」とセレスティアが身じろぎした。


「う〜ん、……あれ、マリア?」


「おう。おはよう」


「うん、おはよー」


 ぽわぽわとした声。

 出向中の習志野駐屯地――特に男性自衛官たちの前では、絶対やめろと言ってる寝ぼけ顔。それそのままセレスティアは大口を開けて伸びをしたあと「はっ」とマリアを見た。


「マリアっ!」


「ああ、だから――うおッ!?」


 衝撃。痛み。歓喜。

 次の瞬間にはそれらがいっぺんに襲いかかり、マリアは再び言葉を失った。


 抱きすくめてくるセレスティアの重み、暖かさ。そしてやっぱり痛みと痛み。

 それらがすべて幸福感へと変換されていく。


「マリア、マリア、マリアぁ……よかっだ、ほんどによがっだぁ……!」


「いて、いてて。はあ……この大馬鹿娘が。心配かけさせやがって。あたしがどれだけ苦労したと思って……なあ、なあってば! やっぱいてえから離れてくれ!」


「いやあ! マリア、離れろなんて言わないで! 私のこと嫌いにならないでぇ!」


 きいちゃいねえ。

 セレスティアは涙と鼻水まみれになりながら「ごめんなさい」を連呼し続ける。


「ならねえ、嫌いになんてならねえからっ! あ、背骨から変な音が……! ああああっ、締め付けるな、ちょっとは加減しろバカ娘ぇ……!」


 よかった。万事元通りのセレスティアだ。

 いいのだ、諸々問題があろうとも、自分の知っているセレスティアが帰ってきてくれたのなら。


 今問題があるとすれば、すがりついたまま手加減を忘れた彼女により、割りと本気で死に近づいている自分の身体のことだろうか――


「セレスティア、落ち着けって。目が覚めてからまた治療するんだろう?」


 聞き慣れない声に顔を上げる。

 セレスティアの背後に見たことのない男――いや、少年が立っていた。


「お父様っ!」


 弾かれたようにセレスティアが離れていく。

 何? 今なんて言った? オトウサマ?


「謝るのはあと。早く彼女の怪我も治さないと。な?」


「は、はい、そうします! セレスティアはいい子です!」


 頬を染めながら両手のひらに仄かな藍色を湛えた水球を纏う。

 それがマリアへの胸へと充てがわれると、嘘のように痛みが引いていく。


「ごめんね、相手が気を失ってると、どこまで回復していいかわからなかったから。痛いのがなくなったら言ってねマリア。――マリア?」


 全身が心地よい熱で満たされていくのとは裏腹に、マリアは己の胸の奥が冷たいもので支配されていくのを感じていた。


 気づきたくもなかった。

 この醜い感情。

 これの名前はなんだ?


(知ってるぞ。ジェラシーってやつだ……!)


 この極上美女の(実質)父親にして、あの眠れる氷の美少女であるセーレスの想い人。つまるところのタケル・エンペドクレスは――


「えっと、なんでしょう……マリア、さん?」


 どこからどうみてもごく普通の――、あえて言えば年下にしか見えない超冴えないティーンの子供だった。


 セレスティアの治療中、マリアはずーっとタケルを親の仇のように睨み続けるのだった。



 *



 12月25日 5時50分

【人研正面玄関前ロビー】


「10年、だって……!?」


「15のガキだぁ……!?」


 ようやく自力で歩けるようにまで回復したマリアを引き連れ、打ち合わせやディスカッション用のソファセットがあるロビーまでやってきたタケルたち。


 その目的は、お互いの情報を持ち寄り、今回の『秋葉原事件』の真相を解明すること。今回の事件はあまりに不鮮明。関わった当事者たちの背景――組織、団体、所属、立場などなどがあまりにも多岐に及ぶため、互いが相克を乗り越え協力し合うことは必須であり、事件の当事者として当然の義務と言えた。


 だが、お互い立場の違いを越えるためには、圧倒的に信頼関係が足りない。

 足りない上に、マリア・スウ・ズムウォルトは明らかにタケルに対して強い敵愾心を抱いているのだった。



 *



 12月25日 0時01分

【外堀通り・元町公園】


 すべてが終わったあと。

 秋葉原を支配していた八岐の大蛇が空へと帰り、閉じ込められていた人々も解放されたばかりの頃。ひとり、公園に取り残されたままだったイリーナを迎えに行ったのはエアリスだった。


 未だ混乱を極める外神田界隈で、外堀通り沿いの公園で夜を明かしていたイリーナ。ベンチで膝を抱えて寒さに耐える彼女に、エアリスは暖かな癒やしの風を送りながら静かに声をかけた。


「待たせたイーニャ。すべて終わったぞ」


「エアリスちゃん!」


 うつらうつらとしてた少女は雷に打たれたように覚醒し、そして次の瞬間にはずっと心に溜めていたであろう質問を投げかけてきた。


「アウラちゃんは!? 私の前から突然消えちゃって、多分エアリスちゃんのところに行ったんだと思って、でも――」


「落ち着け。アウラなら、ほら」


「え」


 イリーナの首元に心地のいい風がまとわり付く。

 決して一処にジッとしていない、やんちゃで暖かな風は、やがて人の形となり、イリーナの首っ玉に抱きついていた。


「アウラちゃん! よかった!」


「いーにゃ……」


 ニコ、ニコニコっ、と。別れる前と何も変わらない無垢な笑顔。

 イリーナは感動のあまり滂沱の涙を流しながらしっかとアウラを抱き返した。


「さあ、ここは冷えただろう、一旦戻ろうか」


「ねえ、みんな無事なの? 一体何が起こったの?」


「うむ。それもこれも移動しながら話そう。む――これは?」


「わあ」


 イリーナは感嘆の声を上げた。

 先程まで曇天が支配していた夜空は、今は満天の星空に彩られ、そして散り散りになった雲間から細かな白い結晶が降り注いできたからだ。


「メリークリスマス、エアリスちゃん、アウラちゃん!」


「めりーくりすます? 呪文かなにかか?」


「お祝いの言葉。めでたい呪文だよ」


「そうか。めりーくりすます、イーニャ」


「うん!」



 *



 場所は再び人研内のロビー。

 そこには当事者となったタケル、エアリス、真希奈、セレスティア。そして人間でありながら地球側の魔法師として軍籍に身を置くマリア・スウ・ズムウォルトがいた。


 何を隠そう、気を失ったマリアを人研へと連れてきたのはエアリスだった。

 彼女はマリアと肩を並べて戦い、その人となりとセレスティアへの想いを知っているが故に、正気に帰ったばかりのセレスティアにはマリアの安否が必要だと判断したのだった。


 その読みは正解で、目を覚ましたセレスティアは何よりもまず、マリアのことを心配し、未だ意識の戻らぬ彼女にすがって泣き叫び、疲れ果てて寝落ちしてしまうほどだった。


 タケルはそんなセレスティアを見守り、マリアの意識の回復を待ち、お互いの情報をすり合わせようと考えていた。


 そうして、ようやく日も昇り始めた聖なる祭日の朝、全員が一堂に会するときが来たのだった。



 *



「舐めるんじゃねえぞ。あたしはこう見えても軍人だ。助けてくれたことには礼を言うが、馴れ合うつもりはねえ。特にてめえとはな」


 タケルが自己紹介をし、そして自分たちの知っているタイムラインをすり合わせようと提案したとき、マリアは決然と、そして相変わらず敵意の篭った視線をタケルに注ぎながら、そう言い放つのだった。


『なんて失礼な女でしょう! あなたは今、敵の捕虜になったも同然の立場にあるのですよ。大人しく知っている情報をタケル様に差し出しなさい。さもなくば――』


「さもなくばなんだ、スマホ越しにコソコソ喋りやがって。啖呵切るならちゃんとツラくらい見せやがれ。あとジュネーブ協定って知ってるかコラ?」


 バチン、と天井から吊り下げられたロビーの液晶モニターが点灯する。

 そこに写っていたのは、ぱっつん黒髪の真希奈だった。


『――この人工知能進化研究所はある意味治外法権化にあります。あなたの扱いなどどうにでもできるんですよ……?』


「ツラ出せって言ったのに結局はモニター越しかよ。引きこもりかテメーは。しかもまたガキだし。託児所なのかここは。責任者連れてこい責任者。子供じゃ話にならねー」


『誰が子供ですか! 真希奈はタケル様の人工精霊で――』


「いい、真希奈。あとは僕が話す」


 ふてぶてしい態度を取っていたマリアが舌打ちをする。

 彼女は今、全身包帯まみれの有様に病衣を羽織っただけの格好だが、背格好はタケルより頭半分以上も上。そして実年齢も年上だ。


 真希奈に対していたときよりも、さらに態度を硬化させながら、マリアはタケルへと噛み付いた。


「聞こえなかったか。あたしはまともな大人を連れてこいって言ったんだぞ。おまえみたいなガキはお呼びじゃねえんだよ」


『あなたは――!』


「真希奈」


『うう……』


 緊迫した三人の様子を見守っているのはエアリスとセレスティアだった。

 イリーナは現在、冷えた身体を暖めるため、職員用の風呂に行っている。

 もちろんアウラも一緒だ。


 明らかにいつもと様子が違うマリアに、セレスティアは涙目になってエアリスへと縋り付いた。


「マリアどうして……なんであんなに怒ってるの? やっぱり私のせいなの?」


「いや、そうではない。おそらくあの者は――全く、果報者だな貴様は」


「かほー? 私、そんなんじゃないよ?」


「いいから黙って見ておけ。貴様の父であるタケル・エンペドクレスをよく見ておくのだ」



 *



「悪いけど、今大人と呼べる人間はこの施設内に一人しかいない。でも彼女は当事者じゃないし、僕らの事情には無関係な人だ。というわけで今のところ、僕がこの中の代表者になる。改めて、タケル・エンペドクレスだ。よろしく、マリアさん」


「日本人はもうちょっと慎み深い民族じゃなかったか。いきなり人をファーストネームで呼びやがって。許可した覚えはねえぞ?」


「うん、でもあなたの正式なファミリーネームはないはずだよね。インドネシアでは名字は名乗らないことが多いし。そして『スウ』は亡くなったあなたのお母さんの名前だ。気安くは呼べないし、あなたの名前ってわけでもない。じゃあ『ズムウォルト』? あなたはお父さんの名前で呼ばれるのは嫌がっていたはず、だよね?」


「て、てめえ……、どこでそれを!?」


「悪いけど、あなたが寝ている間に出来る限りの下調べはさせてもらったよ。うちの真希奈は優秀なんだ。なんなら、あなたのお父さんとお母さんが袂を分かった諸事情も教えてあげようか?」


「このガキ、人のプライベートを土足で!」


 マリアはソファから猛然と立ち上がった。

 そのまま、椅子に座ったままのタケルを見下ろした。

 眉を顰め、目を見開き、犬歯をむき出しにした、今にも襲いかからんばかりの形相だ。


「15のガキの分際でしゃしゃってくれるなおい。あたしはこう見えて軍人だって言っただろう。人間のひとりやふたり、殺したことだってある。なんなら素手で殺すくらい訳ないんだぞ……?」


「アメリカの軍人らしからぬ脅し方だね。殺した数の自慢がしたいならマフィアにでもなればいい。でも奇遇だね、こう見えて僕も殺しの経験はあるんだ――」


 伏目がちだったタケルの目が見上げてくる。

 妖しい金色の虹彩が真っ直ぐにマリアを写していた。

 その奥に、計り知れない闇が広がっている気がして、マリアは身震いする。


「そ、その年で、しかも軍人でもないくせに殺しの経験があるだと? それこそてめえがまともじゃない証拠じゃねえか! そんなやつがセレスティアの父親だなんて、あたしは絶対認めねえぞ!」


 マリアは内心の怯えを悟られないよう、ことさら理不尽に畳み掛ける。

 自分は軍人だ。軍法の元に行動し、一般の刑法とは違う裁かれ方をする。


 つまり、人殺しという行為そのものが、任務に必要ならば、是とされる立場なのだ。それがなければ、国民と国土を、そして国益を守る軍人などできはしない。


 逆を言えば、そのような立場にないものが行う殺人など、人間の法と理りを外れた単なる外道の所業でしかないのだ。そんな奴がヒトの親――大事な大事なセレスティアの父親であるなど、許せるはずがなかった。


 上から見下ろしてくるマリアの視線を真っ直ぐに受け止めると、タケルはため息をひとつ、唐突に語りだした。


「僕が初めてヒトを殺したのは、セーレスの義理の姉だった」


「え」


 声を上げたのはセレスティアだった。

 マリアも驚愕に目を見開き、タケルを見つめている。


「どんな理屈かは知らない。でも僕はある時、地球とは明らかに違う別の世界で目を覚ました。闇雲に歩き回り、ただでさえ少ない体力をすり減らし、最後は恐ろしい獣に殺されかかった。でもその時、僕を助けてくれたのがアリスト=セレス……セーレスだった」


 マリアはもちろんだが、それより以上に食いついているのがセレスティアだった。

 エアリスの腕をギュウっと抱きしめながら、身を乗り出すようにタケルの方を伺っている。


 それも当然。自分の父と母のことなのだ。子供なら聞く権利はあるし、その当時はまだセレスティアとしての形を得る前の、母親の胎内に抱かれていた頃のエピソード。それは彼女にとって、正しく父と母の馴れ初めの話だった。


「彼女に助けられた僕は、ふたりで慎ましく平和に暮らしていた。そんな僕らを引き裂いた張本人、それがセーレスの父亡き後、新しい領主となった腹違いの姉、リゾーマタ・バガンダだった。己が欲望と立身出世のため、セーレスを供物として『人類種神聖教会』――『アークマインへ』と差し出そうと、僕らに襲いかかってきた」


「そ、それで、どうなったんだ……?」


 知らず、マリアは拳を握りしめ聞き返していた。

 決して馴れ合うわけにはいかない男の話。だがそれでも、聞かずにはいられない何かが、タケルからはヒシヒシと伝わってきた。


「もちろん捕まったよ。大勢の魔法師に囲まれ、家に火を放たれて。いや、セーレスひとりだったら戦うこともできたし、逃げることも簡単だったろう。結局僕が足手まといになって、ふたりとも拘束されてしまった。捕まったあと、彼女はすぐさま『人類種神聖教会アークマイン』の総本山である聖都へと送られたみたいだ」


「お父様は、お父様はどうなったの?」


 セレスティアの純粋な問い。

 タケルは少し困った顔をしたあと、なんでもないように言った。


「僕は死んだ。人類種神聖教会アークマインの教示によれば、ヒト以外の種族は悪。それに加担するものも同罪だったからね。異端審問という名の拷問にかけられたよ」


 タケルは苦笑した。

 だがマリアは鼻白んだ顔をした。

 死んだはずの男から死の告白。

 これほどマヌケな矛盾もない。


「フカシこくんじゃねえ――! じゃあ今ここにいるてめえはなんなんだ!? まさか死んで生き返ったとでも言うのかよ!?」


「うん、そのまさかなんだ」


 やれやれと肩をすくめながら、タケルは襟元のボタンを外し、シャツの胸元を軽く開いた。


「――ッッッ!?」


「ひっ」


 マリアは息を飲み、セレスティアは小さく悲鳴を上げた。

 首から下には、あまりに醜い傷跡があったからだ。


 マフィア者や喧嘩自慢が、見るものを威圧するためにわざと目立つ傷を自分で刻むことがある。だがその傷跡は、そんな生易しいものではない。一つ一つが間違いなく、死に至る傷だとわかった。


 まあ、そのうちの何割かは、セレスティアがつけたのだが、ここは言わぬが花だろう。


「僕は死ぬはずだった。でも、ディーオ・エンペドクレスが僕に力を与えてくれた。自らの力の全てを他者に『譲位』することでしか死を迎えられない彼は、死に場所を求めていた。僕はセーレスを助けるために彼の力を欲した。生きたいのに死にかけていた僕と、死にたいのに死ねない彼の事情が合致したとも言えるね」


 タケルはちらりとエアリスを見た。

 もう彼女の心はそんなことではゆらぎもしないのか。

 目が合うと、クシャっと顔をしかめてあさって向く。

 タケルも「ふっ」と少しだけ息を吐いたのみだった。


「魔族種龍神族として蘇った僕は、そこで初めてヒトを殺した。いや、殺したんじゃない。魔族種の力を使い、相手を『発狂』させ、死へと追いやった。できるだけ惨たらしく、できるだけ苦痛に塗れるように。利己心のためにセーレスを犠牲にできるバガンダが、ヒトではないバケモノにしか見えなかったから。だからそれにふさわしい死を与えた……」


 マリアは言葉を失っていた。

 今の話が与太話ではないと本能が悟っていた。


 メルパカンにいた頃も、俺は殺しだってしたんだぜ、というガラの悪い観光客を数多く見てきた。大体がフェイクだとすぐにわかった。なぜなら彼らは己を鼓舞して、興奮しながら話すからだ。


 だが本当にやったことがある奴は・・・・・・・・・・言葉にしなくても、纏う空気が違う。


 興奮も昂揚も誇張もない。彼らは殺人を決して自慢しないし、誇りもしない。ただ殺しを己の手段として肯定しているだけだ。そこには、ヒトの世界にいながら、ヒトの理を外れてしまった者特有の、どこか隔絶した雰囲気がにじみ出ているものだ。


 話している最中のタケルは、ヒトを殺した事実を淡々と語りながら、嫌悪も罪悪感もなく、それを肯定していた。ただ静かに厳然たる事実を話しているだけなのだ。


 それはもう彼にとっては終わったことであり、今更後悔するでもなく、覚悟を決めて行ったことの証左だった。


 軍法に守られ、立場に守られ、国籍に守られたうえでなければそれらを行えないマリアとは、何か決定的な一線を画していると言えた。


「お父様は悪くない……!」


 いつの間にか、セレスティアがタケルの目の前にいた。

 エアリスのぬくもりを振り払い、顔を真赤にし、ほっぺを膨らませながら、これでもかと肩を怒らせている。


「最初に酷いことしてきたのはそいつらなんでしょう!? ならお父様は悪くないもん! お父様のその疵痕だって、私がひとつ残らず治して見せるから!」


「え、いや――」


 拒否する暇などありはしない。

 セレスティアはタケルの両肩を掴んでソファに押し倒すと、そのまま馬乗りになり、上着を剥ぎ取った。ブチブチっとボタンがはじけ飛び、タケルは小声で「あーれー」と呟いた。


「――すべての源たる水の魔素よ。生命を司る藍の魔素よ。お願い、お父様を癒やして――」


 かつてない規模で収束した魔力が水球を形作る。

 溢れんばかりの輝きを内包した球体は、セレスティアの両手の間でバスケットボール大から野球ボールほどのサイズにギュッと凝縮される。まばゆいばかりの藍光がロビーを照らしあげた。


「あっつ――!」


 その水球はとてつもない熱量を持っていた。

 だが触れる前は火傷しそうなほど熱いのに、触れた瞬間には熱などなく、逆に触れた患部はひやりと冷たかった。


 その代わり、皮膚の一枚下からマグマのような熱さが湧き出てくる。そのマグマは全身にくまなく広がり、タケルに残っていた痛みを迅速に消していく。だが――


「どうして、どうして消えないの――!?」


 痛みはなくなり、傷は癒えても、『疵痕』だけは消えてくれない。

 龍神族となってしまったが最後、不滅の肉体は決して覆りはしない。


 だが死に直結しない疵痕などは、これまでも消えることはなかった。

 原子分解されても、その疵痕も含めてタケルの身体は何度も再生される。

 そして再生力が減退した今では、疵痕は増えていくばかりなのだった。


「お父様はなんにも悪くないのに、どうしてこんなに痛い思いをしなきゃならないの!? どうして、どうしてなの――!?」


「セレスティア」


 痛い。

 傷の痛みよりも、この子を泣かせている事実に胸が痛む。

 ポロポロと涙を流しながら、治療を続けるセレスティアの頭をタケルは撫でた。


「ありがとうな、もう十分だから」


「ごめんなさい、ごめんなさい」


「なんでおまえが謝るんだよ」


「…………」


 そんなふたりの様子を見つめながら、マリアはひとり、違う胸の痛みを感じていた。


(あーあ。取られちまったな、あいつの隣……)


 だが、これでいいのだ。

 セレスティアは精霊。人間の世界でずっと孤独に過ごしてきた彼女は、ようやく自分を理解し、包み込んでくれる家族と出会えたのだ。これでいい。いいのだ……。


「大丈夫か?」


 エアリスが、そっとマリアの肩に手をおいた。

 こいつもこいつで、セレスティアとは違うベクトルでトンデモねえな、とマリアは思った。


「なんだよ、あんたに心配される覚えはないぞ」


「うむ、そのとおりだ。だがまあ、なんというかな、私からも礼を言わせてくれ」


「礼?」


「先程の横柄な態度はわざとなのだろう、我が主を見極めるための。そなたはよほどセレスティアを心配していると見える」


「……そこまで計算なんかしてねえよ。ほとんど本気だ。あんたには悪いが、あたしはあの男をどうにも好きになれそうにない」


「好きになってもらっては困る。あの男の真の良さを知れば、惚れずにはいられないからな」


 どいつもこいつも……。

 あんなガキのどこがいいんだか。

 マリアは苦いものを噛んだような顔にんだった。


「――たくっ、堂々と惚気けやがって。それよりいいのかよ、セレスティアに取られちまうぜ、あんた主様が」


「うむ」


 タケルの上でベソをかき続けるセレスティアと、それを優しく慰め続けるタケル。

 傍から見れば釣り合いの取れない男女の睦み合いに見えなくもないが、そんな無粋な感情を差し挟むまでもなく、あれは長い間引き離されていた父と娘の確かな語り合いだった。


「タケルの想い人は今も昔もセーレス殿だ。そのような邪推は野暮というもの。それにな、私は今嬉しいのだ。あのふたりの姿を見て、今とても嬉しいと感じているのだ……」


「大概だなアンタも」


 マリアは吹き出した。

 エアリスも笑った。


 冬の朝、人研のロビーには暖かな空気が充満していた。

 絶望の長き夜を越え、こうして笑い合えるときが来たのなら、恐らくこの瞬間こそが、聖夜の齎したもうひとつの奇蹟といえるだろう。


 だが、そんな空気を切り裂くような悲鳴が上がった。

 タケルがあられもない悲鳴を上げていた。


「ちょ、ちょっとセレスティア、何してんのさッ!?」


「ぐす、ぐすっ、ごめんなさいお父様……。お父様の痛い痛い疵痕も消せないなんて……、でもこうしたら、もしかして消えるかもしれないからジッとしてて……」


「違う、なんか絶対違うからそれッ! やだ、やめてぇ!」


 上半身裸のタケルに跨ったまま、セレスティアはその胸の疵痕をペロペロと舐めていた。まるで愛玩動物がご主人様にじゃれつくように、唾液に塗れた舌で、疵痕を丁寧になぞり続けていた。


 セレスティアは水の精霊。その全身には余すことなく水の魔素が満ち溢れ、全ての体液が癒やしの魔法に転化可能である。だが、これは――


『あわわわわ、タケル様、タケル様が襲われる! やめなさいセレスティア! 嗚呼、肉体がないから見ていることしかできない自分が憎い! これがNTR――!?』


「えぬてぃーあーる? なにそれ? あん、お父様、暴れちゃダメ……乳首舐められないでしょ?」


「いや、やめてッ、パパのそんなところ舐めないで! もう十分だから!」


「いけないんだ、大人しくしないならこうしちゃうから」


 先が水精の蛇に変化したセレスティアの金髪が、問答無用でタケルの両手足を拘束する。セレスティアはいつの間にか顔を上気させ、「はあはあ」と息を荒くしていた。


「私どうしちゃったんだろう、お父様を押さえつけてると、なんだか身体の奥が熱くなってくるの。あむ、んん、んあ……これがお父様の味。ちょっとしょっぱいけど、癖になる味、かも。ねえお父様、もっとちょうだい?」


「趣旨変わってる――!?」


『ち、乳デカ、乳デカ女――! は、早くタケル様を助けなさい! お願いします!』


 言われるまでもなく。

 マリアは鬼のような形相で。

 エアリスは笑顔に青筋を立てながら。

 暴走するセレスティアに拳骨を振り下ろすのだった。

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