第163話 番外編2 博士と助手の終末的考察〜inスーパー銭湯

 *



「なんかごめんねー、あんなセクハラしちゃて。お詫びにほら、飲んで飲んで。ここは全部おごっちゃうからさ」


「ありがたいですが、私はこれだけで……」


 休憩ルーム。浴衣姿に着替えたふたりは乾杯していた。

 マッサージチェアで挟んだテーブルの上に並ぶのは、生中ジョッキと大盛りのジャンクフードである。ポテト、唐揚げ、枝豆とクラッカーに各種ディップ。そうそうたるカロリー・カーニバルだった。


 楓は笑顔を引きつらせながらチビリとジョッキを傾ける。

「ほお? へんりょひなくていいわよ」などと唐揚げを頬張りながら安倍川マキはビールを浴びるように飲んでいた。


 現在深夜一時である。

 この時間にこの量のカロリー摂取は、女性にとっては自殺行為にほかならない。

 だと言うのに安倍川マキの食欲は止まらないようだった。


「ひゃーっ、やっぱうめー! 深夜の間食最高っっ!」


「間食……?」


 この油ギトギト添加物満載フードを間食と言える神経が信じられない。

 これまたトラウマの一種だが、楓は冬眠体質である。

 一般的な冬季うつ病の冬眠ではなく、春を待つ方の冬眠である。


 それは少ない食事で栄養を逃がさないようにするため、基礎代謝が常人より低くなっている。したがって楓は常日頃から節制を怠らない。常人並みに食べてしまえばあっという間に太ってしまうし、極端に痩せにくいのがわかっているからだ。


 こっちの気も知らないでバクバク食べる人間が嫌い――ではるのだが、食の喜びは誰にでも享受できるものだ。安倍川マキの情け容赦ない食べっぷりは、見ていて憎らしくもあり、気持ちのいいものでもあった。


「あー、先月はずっと徹夜ばっかりしてたから、久しぶりなのよこれ。いやあ、参っちゃうね、突然棚ボタ的にあんなおもしろい研究対象が転がってくるもんだからさあ!」


 もっちゃもっちゃ、ゴッゴッゴッ! くっちゃくっちゃ、グビグビ!

 喋るか食べるかどっちかにしてほしい。だが、今人研内を騒がせている研究対象には楓も大いに興味がある。もちろん、スパイ的な意味ではあるが。


「それってやっぱりタケルさんのことですか?」


「おー、もちのロンよ」


 微妙に古いなあ、レッツラゴーといい……などと思いつつ、楓は質問を続ける。


「私、未だに信じられません。魔族種でしたっけ。そんなありえないような存在が現実にいるだなんて……」


 しれっと、安倍川マキよりもそれらを理解しているであろう楓は、やや演技も交えつつ深刻な雰囲気で言った。


「つってもさー、現実にいるんだし、この間の計測実験で、彼の力は証明されちゃったわけじゃん。そこを否定しても始まらないよね。まずはどんな馬鹿馬鹿しいことでも受け入れてから、実験と証明を重ねていくしかないよ」


 それは、とても科学者らしい意見だった。

 常に仮説を組み立て、実験によって証明をしていく。

 まさに現代科学と文明はそれの繰り返しによって成り立っているのだ。


 通常、従来の法則や理論では説明できない事柄、観測結果が得られたとき、それを受けた側の反応はふたつに分類される。


 その理論や観測結果を否定して、新たな概念を構築するパターン。

 天動説から地動説が構築されたのがこのパターンにあたる。

 もうひとつは、まだ見つけていない新たな発見があるはずだ、と模索するパターンである。


 天文学者のユルバン・ルヴェリエは、ニュートンの重力理論に従って、天王星の外側にもうひとつ別の惑星があるはずだとして海王星の存在を予言した。そして実際にヨハン・ガレが海王星を発見するに至った。


 理論的な予測が観測によって証明されると、その理論はより強固なものとして認められるのだ。


 魔族種というありえない存在の実存証明が、先に行われた『高エネルギー物理計測実験』であり、その結果を見る限り、超越存在という漫画やゲームの中でしか見たことのないファンタジーな存在が『タケル・エンペドクレス』であることは間違いないのだった。


「しっかし、一体どんな子なんだろうねー?」


「はい? すみません、聞いてませんでした。なんのお話でしょう?」


「んぐっんぐっんぐっ……ぷは。何ってあれさね、彼がこっちにきた切っ掛け。なんか恋人が攫われちゃったんでしょう。それを取り戻しにきたっていうじゃない」


「はあ」


 食いつくことも気のない返事もできず、楓は曖昧に頷いておく。

 その攫った張本人の右腕が目の前にいるとは、神様も安倍川マキも思っていないだろう。


「実験してるときからなんかもーずっと焦ってるっていうか、どっか悲壮な感じしてたからなんかあるのかなーとは思ってたけど。まあ世界を渡ってきたこともそうだし、命を張る理由としては妥当なのかね?」


「所長は、どう思ってるんですか?」


「うん?」


 あんなに山盛りになっていた唐揚げがもう残りわずかだ。

 ギトギトの衣にレモンをたっぷり絞ってビールで流し込んで、エナメル質の歯が溶けてしまいそうだった。


「彼のこと、自分の恋人を助け出すために違う世界からやってきたヒーロー、って感じで見てるんですか?」


 彼がヒーローだとすれば、さしずめアダム・スミスは悪の親玉といったところか。

 確かに傍から見ればタケルは一方的な被害者だろう。

 無辜にも奪い去られてしまったヒロインを助ける役どころがふさわしい。


 でも。

 楓にとってそれは大事の前の小事・・・・・・・でしかない。

 アダム・スミスは今も昔もそしてこれからも――地球人類のために戦う。

 アリスト=セレスを地球に招聘・・したのだって、それが必要だったからだ。


 事情も知らずにただ奪われたから取り戻そうなどと。

 所詮タケル・エンペドクレスは子供の理屈と感情で動いている。

 利己的で我がまま。人類世界への奉仕を続けるアダム・スミスとは比べ物にならない。


(ああ……どうして)


 どうしてこの世の不条理はなくならない。


 タケル・エンペドクレスのような子供になぜ、神はあのような能力を与え給うた。あの力がそのままアダム・スミスのものだったら、彼はあんなに苦労しなくて済むのに。そもそも前提が崩れるが、アリスト=セレスを拐かす必要などなかったはずだ。


「んー、そうだねえ」


 最後の唐揚げをビールで流し込み、安倍川はワシっと手づかみしたポテトフライを頬張る。わかっている。事情を知っている楓だからこそアダム・スミスの味方をすることができるのだ。それを知らない他の者達は、皆タケルを支持している。この国の重鎮である人外ふたりと、そしてあの風魔法の使い手エアスト=リアスもそうだ。彼に関わった者たちで、彼に味方しないものはいないのだ。


 だが、安倍川マキはどうやら例外のようだった。


「まあ、好きにすればって感じ?」


「それだけですか?」


「うん。研究対象には感情移入しないことにしてるし」


 クピピっと残り少ないビールを啜る。


「意外です。所長は彼に随分と執心されているようでしたので」


「彼自身に夢中になってるのはうちのスポンサー様だよ。私の興味は彼の魔力とか、人工精霊の真希奈ちゃんとかの方かな。まあ、他人の色恋には興味ないけど、でもちょっと考えたら面白いよね?」


「な、なにがですか?」


 にしし、と邪悪な笑みを浮かべた安倍川マキは、テーブルに身を乗り出して、楓に顔を寄せた。


「そのさ、攫われたっていう意中の子を助け出したとしてさ、今一緒にいるあのエアリスちゃんってどうなっちゃうんだろうね。なんかさ、自分たちの子供扱いしてる精霊の女の子までいるじゃない。自分が攫われてる間に正妻の座を奪われたと知ったら――おっほ。修羅場よ修羅場!」


「うわあ」


 興味がないと言いながら、なんて悪意満面にしゃべるのだろう。

 安倍川マキは「あー、他人の修羅場で酒がススムわー」とビールを飲み干した。

 まあ、こんな人間だからこそ、中立中道を歩めるのか。


「所長、グラス空っぽですよ。買ってきますね」


「え、いや悪いよ。自分で買ってくるから」


「いえいえ、あとなんかおつまみも追加してきますから」


「なんだなんだ、急にどしたの? やっぱ楓ちゃんもお腹すいた?」


「いえ、所長を太らせてから食べちゃおっかなーって」


「おお……!」


 浴衣着姿で肩越しに振り返る楓。

 結い上げた髪。しっとりと火照ったうなじ。

 思わず安倍川マキは生唾を飲み込んだ。

 楓は、「なんて冗談ですけどー」と笑いながらフード自販機へと向かうのだった。


「エッロぉ。なんで? あんな細っこい身体つきなのに私と何が違うんだろうなー?」


 指についたレモン汁をチュパチュパしつつ、こんな仕草も楓がやったらとんでもないんだろうなあ、などと安倍川マキは思うのだった。



 *



「はい? 『滅びの日』は本当にくるのか、ですって?」


「ええ、所長の率直な意見を聞いてみたくて」


 平日の深夜ともなれば、24時間営業とはいえ銭湯はガラガラになる。

 周りに人がいないことも手伝って、ふたりはディープな話題にまで及んでいた。


「まあ、専門家の端くれとして言わせてもらえば、現時点ではその可能性は低いわよね。地球規模のカタストロフなんてさ」


 楓がごちそうしてくれた大ジョッキビールで顔を真赤にした安倍川マキは、ハフハフと、これまた楓が買ってきてくれたたこ焼きを頬張った。


「まあ確かにここ近年地球環境が新しい過渡期シーズンに入った感はあるけどさ」


 それは、今まではありえないとされた地域での台風や地震の群発。

 日本で記憶に新しいのは熊本での震災か。東海地震を超える超東海地震なるものの発生も予測されている。だがそれはあくまで地域災害であり、地球全体にまで被害が及ぶ事態とまでは到底言えない。


「地球規模の……じゃあ、大質量の隕石の衝突などは考えられませんか?」


 ほんのりと頬を染めた様子の楓が、今日日三文SF小説でも題材にしなさそうな内容に言及する。


「はっはっは。楓ちゃんってばおもしろいこというわね。ツングースカを超える隕石なんて億万年に一度と言われてるのよ。流星になって地表まで到達する規模のちっちゃい隕石なら、それこそ毎日のように世界のどっかに落ちてるしねー。まあ、ジャンアントインパクトの線はほぼ無いと言っていいわねえ」


 口の周りにはソースとマヨネーズ。前歯には青のりをくっつけた残念な様子の安倍川マキが大口を開けて否定する。それでも「ほぼ」と可能性を1%でも残すあたりは、科学者らしい言い方といえた。


「じゃあ、その毎日地球のどこかに落ちている小さな隕石が、人類を滅ぼす可能性はどうですか?」


「んん? それは――小規模の隕石がカプセルのような役割を果たして、そこから人類にとって有害な物質、例えば微生物やウィルスみたいなものが、人間以外の動物などを媒介にして広まる可能性があるってこと?」


「はい。SARSサーズは中国のハクビシンが、AIDSエイズはアフリカのミドリザルがキャリアーであったと言われています。ですが、そのふたつの哺乳動物が『いつ』『どこで』『どのようにして』それらのウィルスに感染したのかはわかっていません。本当にある日突然現れたとしか言いようがないと言われています」


「なるほどね、『ウィルス進化論』ならぬ、『ウィルス絶滅論』ってわけか」


 ウィルス進化論とは、ウィルスは遺伝子を運ぶ道具と考える説である。種類が異なる動物の遺伝子がウィルスによって運ばれ、それが結果として生物の多様性をうながし、急激な進化を引き起こしたと考えられているのだ。


 ヒトと猿の共通の祖先であるプロコンスルから、人類は分岐したと考えられているが、プロコンスルからアウストラロピテクスに至るまでには、なんと1000万年もの空白期間が存在しているのだ。そしてその間の進化を示す化石は未だに発見されていない。


 ウィルスとは病気の原因となるだけでなく、実は他生物の遺伝子を運んで、新たな進化をもたらす可能性もあるのだ。


「絶滅論は進化論の逆。地球の生態系を脅かしかねない、破壊的なウィルスによって進化の果てである『死』へと導かれてしまうと。そんで、その原因となるウィルスは地球外からやってきた隕石に入ってるってこと?」


「はい。別に隕石に限ったことではありません。すでに国際宇宙ステーションの実験で、宇宙空間を漂う粒子や微細な隕石をエアロゲルで捕獲し、有機化合物が含まれないかの調査が行われています」


「うん、『たんぽぽ計画』でしょ。でもその手の実験はもう、イギリスのミルトン教授がやっちゃってたよね。気象観測気球に採集袋くっつけて成層圏まで飛ばして。でも確かに回収した袋には、地球由来じゃない微生物が付着してたってさ」


「その実験に限って言えば、地球上から上昇気流や、例えば火山噴火によって、微生物が舞い上がったとは考えられないんですか?」


「高度2万7000メートルの上空だからね。その可能性は低いよ。世間じゃ眉唾扱いであんまり騒がれてなかったけど、これって結構衝撃だよねえ」


 大ジョッキの中身は早くも半分を切っていた。

 つまみの類もあらかた食べつくされ、流しっぱなしのテレビからは、軽快なトーク番組が流れ続ける。「ま、とにかく」と安倍川は再び話し始めた。


「たんぽぽ、もしくは播種はしゅ、種まき……。今から40億年前の地球。ようやく大気の温度が安定し、地表のほとんどが海ばっかりだったその中に、突如として現れた原始生命。実はその起源は隕石によって地球外からもたらされたものだった。地球の最初の生命はどこからやってきたとも知れない、未知の生命だった、と」


「パンスペルミア説ですね」


「そそ。スヴァンテ・アレニウスが100年以上も前に唱えた説だよ。『地球生命の起源は地球ではなく宇宙にあった』ってね。他の惑星で発生した微生物の芽胞がほうが隕石や彗星に付着して、それが最初に地球に降り立った生命だったっていう説だね」


「私が聞いたのは、もっとSFチックな内容だったのですが……。なんでも高度に進化した地球外生物が生命の種子を意図的に他の惑星に送り込んでいるっていう……」


「ははあ、それはフランシス・クリックが唱えた『意図的なパンスペルミア』というやつだね。でも私はそうは呼ばない。『シードマスター仮説』って呼んでるよ」


「シードマスター、ですか」


「この宇宙はねとてつもなく広い。未だに膨張を続けている。そして人類が用いることができる観測方法には限界がある。一般相対性理論では光より速いものはこの宇宙には存在しない。つまり、138億年前に誕生した宇宙、そこで発生したであろう最初の光は、未だに138億年の向こう側には行けていない」


「とてつもなく、気が遠くなるようなお話ですね」


「うん、それで私たちは、ほんの片隅の、ちっぽけなちっぽけな銀河のさらに端っこの小さなところにいるわけだ。そんで、この宇宙はもしかして、誰だかさんの、ちっぽけなのか、でっかいのかは知らないが、『箱庭』なのかもしれない」


「箱庭……」


「言葉を飾りすぎたね。『実験場』って言ったほうがいいかも。それこそ神様でもお釈迦様でもって感じで、意図的に種をばら撒いて、有機生命体がどんな進化を遂げるのかつぶさに観察してる奴がいるのかも」


 大ジョッキの最後の一口を流し込み、安倍川は「あ”」とゲップをした。「失礼」と小声で呟くも咎めるものは誰もいない。楓は真剣な面持ちで、疑問を呈した。


「では、その観察している神様の気分次第で、私達は滅ぼされることもあるってことですか」


「まあねえ、こんなこと科学者がおいそれと言っていいもんじゃないと思うけど、過去にもあったんじゃないかなあ。恐竜が絶滅した原因も、案外神様がしかけたことなのかもね。『なんじゃー、これじゃ知的生命体ができん! リセットしたるー』って」


 恐竜の絶滅の原因で最も有名な説が、大質量隕石の地球衝突だ。

 それに伴い舞い上がった粉塵により太陽光が遮られ、地球が寒冷化。

 結果、恐竜たちは絶滅したと考えられている。


「隕石の衝突……ウィルス程度では、人類を滅ぼすには足りないと?」


「宇宙のスケールから見ればちっぽけだけど、地球ってのはそれだけ深い懐を持ってる。ウイルスだろうが放射性物質だろうが、必ず浄化作用が働くようになってるんだよ」


 それは、楓にも覚えがある話だった。

 魔法世界からやってきたセーレス。

 彼女は死に瀕していたという。


 それは地球規模の修正力――矛盾を許さぬ自然の摂理に殺されかかっていたのだと、アダム・スミスは言っていた。


「だから、地球を壊滅させるにはウィルスだけじゃ足りない。それこそ大質量隕石か、宇宙人とかが攻めてこないと」


「う、宇宙人、ですか?」


「そうよー。ある日突然、空を覆い尽くさんばかりの円盤型UFOが襲来し、人類破壊光線を振り撒いたら――さすがの地球もお陀仏かも……あー、だいぶ酒回っちゃってるなあ私」


 普段なら絶対口にしないようなアホなことばかり口にしている。

 その自覚があるのだろう、安倍川マキはパタパタと手で顔を仰ぎ、熱を冷まそうとする。


「宇宙人、かどうかはわかりませんが……似たような存在は、もうすでにこの地球上にいるかもしれませんよ。先程のパンスペルミアによって送り込まれるのは、なにも微生物の芽胞だけでなく、『生物の卵』だとされる説もあったはずです」


「おお、よく知ってるね。あれでしょ、ヴィクラマ・シン教授の、昆虫は宇宙からやってきたって説」


「そうです。地球上に70万種以上いるとされている昆虫たちは、躰の作りからして化石になりやすいにもかかわらず、祖先を断定できる化石は未だに見つかっていません」


「ある日突然地球に現れた、と」


「はい。さらに先程の『ウィルス絶滅論』の運び手として、昆虫ほど最適な生物はいません。先程所長がおっしゃった『シードマスター』が意図的に地球に送り込んだとすれば、いま地球上にいる昆虫たちこそが、人類を破滅へと導く使者なのではないでしょうか?」


 楓は真剣な表情で安倍川マキを見た。

 彼女も赤ら顔のままキリリと眉を吊り上げ、それを見返す。


「楓ちゃん」


 ダンッ、とテーブルの上に空っぽの大ジョッキを置き、安倍川マキは楓の瞳を覗き込む。楓もまた、己の正しさを証明するように、絶対に視線は逸らさなかった。


「それを本気で言ってるなら、楓ちゃんはラノベ作家になったほうがいいかもしれないよ?」


「……やっぱり、そう思います?」


 ぷっ――と、ふたりは吹き出した。


「いやあ、私も途中から楽しくなって乗っかっちゃったけどさあ、楓ちゃんも大概だねえ。こんな冗談言える子だったんだね。愉快愉快っ!」


「ごめんなさい、私も止め時がわからなくなっちゃって。所長があんまりにも真面目に受け答えしてくれるからつい」


 無人の休憩室に、かしましい声が響く。

 ふたりは遠慮も容赦もなく少しの間、笑い合うのだった。


「あー、いい気分だわ。あと、なんか今強烈に眠くなって来ちゃったなあ……」


「私、毛布借り来てきますね」


「メンゴねえ、よろしくぅ〜……」


 席を立った楓が厚手の毛布を持って帰ってくる頃には、安倍川マキは爆睡していた。彼女の乱れた浴衣を直し、肌が露出しないよう、すっぽり毛布をかぶせると、そっとメガネを外して、テーブルの上に置いてやる。


「ごめんなさい所長。でも必要なことなんです」


 安倍川マキに奢った大ジョッキの中に、楓は睡眠薬を仕込んでいた。

 体質によるものなのか、効き目が訪れるまでずいぶんとかかってしまった。

 楓は時間稼ぎも兼ねて、あのようなとんでも議論を持ちかけたのだった。


「所長のことは私が守ります。いえ、所長だけでなく、この日本も――地球だって守ってみせる。あの人ならそれができる……!」


『滅びの日』はやってくる。

 楓はそれを知っている。


 なぜならアダム・スミスがすでに決戦の準備をしているからだ。

 未来からやってきた男が心血を注いで、今も戦い続けているのだ。


 御堂がどのようなロジックで『滅びの日』を知ることができたのかはわからない。だが必ずくるものと予想しているのなら是非もない。大いにその計画を利用し、少しでも人類の生存率を上げるための下ごしらえをしなければ――


「そのためには『犠牲』が必要なんです。人類が一丸となるためには、どうしても『生贄』がいるんです……!」


 楓はぐーすかとイビキをかく安倍川マキを置いて、ひとり更衣室で私服に着替える。無人の階段を降り、フロントでふたり分の精算を行い、朝には起こすように頼んでおく。


 外に出ると、思いの外冷たい風が彼女を迎えた。

 丑三つ時。草木も眠り、星すらも曇天が覆い隠し、常よりもさらに暗い道を楓は進む。


 進むしかない。先は見えなくとも、手探りであっても、最良の未来にたどり着くために、歩み続けるしかないのだ。


「タケルさん、あなたに恨みはありません。ですが、人類のためなんです……!」


 人種の壁。

 宗教の壁。

 民族の壁。


 目には見えない国境は国と地域を隔て、異なる言語は人々の意思疎通を妨げ続ける。


 人類は未だにバラバラのままだ。

 こんなことでは『奴ら』には対抗できない。

 共通の敵を作らなければならないのだ。


 たったひとりにすべての罪と罰を押し付け、70億人でやり玉に上げることで、それを成し遂げる。


「ふ――ふふっ」


 ゾクリとした寒気に足を取られ、楓は思わず肩を抱いて立ち止まった。

 電信柱のたもとに注ぐ頼りない灯りに照らされながら、身震いが収まるまでジッとしている。


 憎悪。70億人分の、とてつもない規模の悪感情。

 想像しただけで寒気が止まらない。希望に燃え、愛を取り戻すため、きっと彼は私達の罠にハマってくれることだろう。


 インターネットの普及した現代で、逃げも隠れもできない状況に追い詰められ、そしてあの人の前に屈服するであろう、タケル・エンペドクレスの姿を想像する。


「完璧だ」


 人類はアダム・スミスを『英雄』と称えるだろう。

 地球意志の奴隷である彼が、人類の頂点に立ち、来るべき戦いを完璧な状態で迎える。そのためには――


「許してください所長。この世界は、私とあの人が必ず守りますから――」


 正門ゲートをIDカードでパスし、楓は無人の人研内を進む。

 安倍川の執務室にたどり着くと、端末の電源を入れ、いっそ清々しい程にデータを盗み出す。


 夜明けを待たず、楓は『高エネルギー物理計測実験』のデータとダマスカスでの戦闘データをアダム・スミスの元へと送った。


 おそらくそのデータを元にタケル・エンペドクレスの戦闘力は数値化され、それを超えるためにあらゆる対抗措置が取られるはずだ。


 現在スリーマイルで建設中のバトルフィールドも改良が加えられるだろう。

 建設中の巨大歩兵拡張装甲・・・・・・・・もさらなる仕様変更がされるかもしれない。


「タケルさん、今はいい夢を見続けてください。愛するものを取り戻すため、仲間を集め、せいぜい強くなってください。ですが、あの人はそんなあなたを必ず倒すでしょう。そのために、今はまだいくらでも協力してあげますよ……!」


 人類救済という大義名分の元、神の力をその身に宿した少年を生贄へと捧げる。

 そんな戦いは、もうすぐそこまで迫っているのだった。


 続く。


【番外編2】了。

 次回、【人理に背きしもの篇】に続く。

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