第161話 聖夜の動乱篇2⑨ エピローグ 諦めきれない幼馴染様~そしてやっぱり僕は世界の敵に

 *



 アクア・ブラッド・ドームの内部は深い海の底のように静謐としていた。

 あらゆる生命活動が停止し、動くものもおらず、光も届かない。

 そんな最中に、僕は心深とふたりっきりだった。


 正確には真希奈もいるのだが、極力僕の負担を減らすためにスリープモードに入っている。いつもなら僕との会話を至上の喜びとしてくれる愛娘の声はなく、あるのは気まずい沈黙だけだった。


 エアリスが作った風の結界の中は、淡い緑光に包まれていて、広さもそこそこあり、元ニートの僕としてはなかなか快適な空間だった。結界は五メートルほどの球体状で、底部に座っても心深とは十分な距離を取ることができる。風の魔素のおかげか、内部は微妙な浮力が働いており、身体を動かす負担が少ないのはありがたいことだった。


 僕は今、球体の底部で仰向けになり、静かに身体を休めている最中だ。

 だがふと視線、というかプレッシャーのようなものを感じて目を開く。

 ジトっと睨めつけるような半眼が僕を見つめていた。


「なんだよ」


 心深だった。

 膝を抱えたまま、何をするでもなく、至近から僕を見つめている。

 正直落ち着かないことこの上もない。


「別に」


 心深は見るからに、腹の中に一物がありそうな表情だった。

 ブスッたれているようでもあり、拗ねているようでもあり、バツが悪そうでもある。


 そして彼女は何故か今、僕の顔のすぐ隣に座り込んで膝を抱えている。

 抱えた膝の上に顎を乗せ、横目でジーっと僕を見下ろしているのだ。


「なあ、近くないか?」


「そう?」


 いや近いよ。

 目をつぶってても息遣いが聞こえるんだぞ。


「別にいいでしょ近くたって。あとここ微妙に寒いし」


 いや、メイド・イン・エアリスの結界内はびっくりするくらい恒常性ホメオスタシスが保たれているので、暑くなりすぎず寒くなりすぎずちょうどいい感じなのだが。でも女性は男性より体温が低いから寒く感じるのかも……?


「いや、でもなあ……」


 チラっと隣を見る。

 ドンって感じで心深のお尻が鎮座している。

 拳ひとつ分もないほどの距離だ。


 ちなみに今の彼女は例のボディスーツを着用している。もう機能はしていないのか、魔素による輝きはなく、本当にただのスーツと化しているようだ。つまり、何が言いたいのかと言うと……。


「何見てんのよ、スケベ」


 ギュッと膝を抱き寄せながら、蔑みも顕に心深が吐き捨てる。


 そうなのだ。このスーツは体のアウトラインにピッチリ浮き出るので、この微妙な暗さの空間内でうっかり心のフィルターを通してみると、まるで裸で横に座られているような気になってしまうのだ。ゲフンゲフン。


「見られたくないなら離れてくれ」


「やだ」


 何なんですか一体。

 僕は疲れてるんだ。

 この上SAN値までゴリゴリ削ってくれるなよ。


「ねえ、私寒いって言ったわよね。上着貸しなさいよ」


 うわあ。なんつーわがまま発言。


「だが断る」


 だが? と心深は首を傾げた。

 ち。通じないのかよ。

 まあ心深の提案は魅力的でもなんでもないしな。


「じゃああんたが温めて」


「嫌だ」


「……けちんぼ」


 はあ。本当にどうしちまったんだこいつは。

 これじゃあまるで小学生のときのような会話じゃないか。


 そういや微妙に言葉からも険が取れている気がする。

『心深』じゃなくて『ここちゃん』か。


 僕は彼女に背を向けて目をつぶる。

 もういい加減寝てしまおう。


「ねえ」


 無視無視。


「四回目よね」


 無視……なんの話だ?


「さっきの。エアリス先輩とのキス」


 ――ブッ!


 思わず吹き出してしまった。

 突然何を言い出すんだこの子は。

 というか――


「な、なんでそんな回数とか知ってるんだよ!?」


「本人から聞いた。ううん、自白させたの」


 自白って。――『言霊の魔法』か。

 精霊魔法使いであるエアリスに魔力を通すってマジで凄いな。


「最初は先輩から。次は先輩を助けるために。三度目はなんか、どっかに行くための景気づけだって?」


「やめてくれ……」


 顔が熱い。

 なんでそんなこと赤裸々に言ってくるの?

 青くなっていたはずの顔から火が出そうだよ。

 とにもかくにも今は――


「わかった。上着でもなんでもやる。もう静かにしててくれ」


 身を起こし、パーカーの上を脱いで差し出す。

 犯人に告げる。要求は飲んだ。僕の安眠という人質を解放しろ。

 だというのに……。


「もういらない」


 なんでやねん!

 わけがわからないよ心深さん!


「じゃあせめてもうちょっと離れてくれないか」


「いやよ、あんたが離れなさいよ」


 くそ。なんて横柄な。

 だがその方が早いだろう。

 僕はよっこらしょっと、立ち上がる。


「じじくさ」


 言いながら心深も立ち上がる。

 僕が座り直すと心深もまた真横を占領する。

 実は三度目なんだけどねこのやり取り。


「……着ろ。もう何も言わないから着てくれ」


「ふん。見たいなら素直に見ればいいじゃない。ムッツリおっぱいマニ――ぶっ」


 言わせないよ、とばかりにパーカーを投げつける。

「汗臭いわよ!」などと言いながらも心深はもそもそとそれを広げた。


「ちょっとなによこれ?」


 ぺろーんと、薄暗い結界のなか、パーカーを掲げてみせる。

 真ん中には引き裂かれたような大穴があって、背中にも同様に穴が開いてる。


「あちこちボロボロ。あと何? この匂い。汗だけじゃない、なんか鉄臭い?」


「悪い、な。我慢、してくれよ……」


「あんた、どうして息切らしてるの?」


 さすがにそろそろ、誤魔化すのも限界か……。


「あとで、相手してやるから、ちょっと休ませて……くれ」


「ちょっと、もしかして、そんな酷い怪我してるのあんた――!?」


 心深がこちらを覗き込んでくる。

 僕はもう喋る気力すら失っていた。

 結界の維持に魔力を回しているのだ。

 つまり、セレスティアとの戦闘で負った傷は放置状態である。


 本来こんな時のためにカーミラと肉体的、精神的に繋がったはずだが、この異界は神祖とのリンクすら遮断するらしい。


 従って僕を今生かしているのは、今朝方ようやく回復したばかりの僕の魔力であり、戦闘でさんざん消費し、先程異界に穴を開けるために無茶をした上、結界の維持に回した残りは、痛み止めにすらならないほどの搾りカスしか残っていなかった。


 エアリスが「取っておけ」と言ってくれなければ、実は結界の維持もヤバかったかもしれない。


「なに、なんなのよこれ……」


 何なんでしょうね。

 ニヘラっと気持ち悪く笑った僕の胸に、心深は問答無用で手を置いた。


「これ、全部血……?」


 ダーク系のアンダーシャツがぐっしょりと。

 心深の手が触れているはずなのに感覚がない。

 その手を持ち上げ、付着した血のりに彼女は青ざめたようだった。


「脱がすわよ」


 いや、やめて乱暴しないで――などと冗談を飛ばそうとする試みは「うぅあ」という呻き声に変換される。


 新米看護師が慎重に慎重を期すような緩慢さでシャツが脱がされる。

 僅かに、心深が息を呑むのが伝わってきた。

 彼女の目の前にはあのホテルの夜と同じく、醜い僕の身体が横たわっている。


 グズグズのボロボロ。

 おまけに焼き固めたみたいに凸凹で。

 そしてそこには真新しく刻まれたばかりの切創が。

 その傷を中心にしてクモの巣状の裂け目が大きく広がっていた。


「なんで、どうやったらこんな傷が出来上がるのよ……!?」


 それだけあの水精剣が凄まじい威力を持っていたということだ。

 いくら魔力防御をしても、今の僕では完全に防ぎきれるものではなかった。


「馬鹿、ホントに大馬鹿なんだから」


 心深は顔をクシャクシャにして僕を罵った。


「なんで、どうしてなの?」


 ぼんやりと天井を見つめ続ける僕を覗き込み、心深はずっと胸に溜めていたであろう、その疑問をぶつけてきた。


「春くらいまで――たった9ヶ月前まで普通だったじゃない。それがなんでこんな大怪我こさえて、それを必死に我慢できるようになっちゃうのよ。そんなの絶対おかしいよ……!」


 言われてみれば本当に不思議だった。

 僕が人間であった頃の証明が、今目の前にいる綾瀬川心深なのだ。

 その彼女がおかしいというのだから、やっぱり僕は変わってしまったのだろう。


 いくら魔族種になったとはいえ、今の僕は聖剣のせいで魔力的なハンデを背負い、かつてのような不死身とは言い難い状況になってしまっている。今感じている痛みは、人間であったときでは耐えられなかったほどの激痛なのだ。


 何故だろう――人間であったときと魔族種になった僕が、感じる痛みにここまで耐えられるようになるほどの、そんな大きな変化とはなんだろうか。


「は――ふふっ」


「なによ、いきなり笑いだして?」


 心深が怪訝な顔する。

 かつての僕と今の僕の一番の違いなんて決まってる。

 魔族種としての誇りとか、アビリティなんて関係ない。


 セーレスやエアリス。

 アウラとかセレスティア。

 真希奈やイリーナも。


 僕の中に彼女たちがいる。

 理由はそれだけで十分だ。

 カッコつけて、やせ我慢だってしたくなる。

 僕も一応男だしな。


「何ニヤニヤしてるのよ……気持ち悪い」


 そう言いながらも心深は悲しそうだった。

 少しだけ俯き、前髪に表情が隠れたまま、そそっと四つん這いで近づいてくる。

 まるで赤子を取り扱うように、僕の頭がふわっと両手で持ち上げられる。


 膝枕だった。

 崩した太ももの上に後頭部が載せられる。

 感覚が失せてるのが非常に残念でならない。


 心深は僕を見下ろし、脂汗で張り付いた前髪を梳いてくる。

 そしてポツリポツリと呟いた。


「痛いの痛いの飛んでいけ……痛くない……痛くない……あんたは強い子男の子……痛いの痛いの消えていけ――」


 何だそれ、と思う暇もなく。

 僅かばかり、全身を駆け抜けていた電流のような痛みが和らいだ。


 心深が着込む漆黒のスーツの表面が、少しだけ青い色を帯びていた。

 目を凝らさなければ見えないほど、電池が切れる直前のランプのような弱々しさ。

 でも確かにその『言霊の魔法』は僕から無視できないほどの痛みを奪い去っていく。


 なんという優しさ。

 なんという労り。

 なんという仁愛。


 これが彼女が持つ『言霊の魔法』の本来の使い方なのか。

 矮小な魔力だというのに、全身に余すことなく『愛』の意志力が染み込んでくる。


 痛みとともに息苦しさが楽になると、途端に睡魔が襲ってきた。

 僕は心深の膝枕の中でかつてないほどの安心感を覚え、意識を手放していく。


 眠りにつく直前――


「真希奈ちゃん、だっけ。ごめんね……私、やっぱりまだ――」


 そんな声が降りかかり――


「ん……」


 感覚の無いはずの身体に熱を感じた。

 唇だけが焼けるように熱かった。



 *



 体感時間にすればそれからわずか数分後。

 突如として暗幕が払われる。

 僕らは秋葉原の街中にいた。


 すべてが終わったのだとそう確信した。


 風の結界を維持する必要もなくなり。

 僕らはその場をあとにすることにした。


 そして――



 *



『本日未明、公安調査庁は外神田で起きた一連のテロ事件の実行犯として、国際テロリスト【タケル・エンペドクレス】に逮捕状を取り、全国に指名手配しました。また事件と関連してテロ幇助の疑いがあるとして【カーミラ・カーネーション】容疑者にも逮捕状を取り、取り調べをしています。こちらのカーミラ容疑者は、株式会社カーネーショングループの会長として辣腕を振るい、世界各国に支店を持つブランドとして――』


 アダム・スミスとの戦いは、まだ始まったばかりだった。


【聖夜の動乱篇2】了。

 次回【番外編2】及び【人理に背きしもの篇】に続く。

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