第160話 聖夜の動乱篇2⑧ 高次元情報生命量子結合体〜母と娘と精霊の唄・その四

 *



 事件の中心となっている秋葉原。

 そこからたった一駅しか離れていない御茶ノ水界隈。


 事件の当事者たちと深い関わりを持つイリーナも、タケルやエアリス、真希奈を心配しながら、人の流れに従って秋葉原とは逆方向へと移動していた。


 焦りを隠せない警察官から拡声器を通した声がとどろき、とにかく水道橋方面へと移動しろとの一点張りが続く。それもそのはず。ネットに溢れる秋葉原関連動画を見れば一目瞭然だった。


 あの巨大な蛇が、口から何かを吐き出し続けているのだ。

 今はまだ拡散していないようだが、人体に有害なガスかもしれない。

 人々は誰もが手元のスマホや家族と連絡を取り合いながら、警察の誘導に従い粛々と外堀通りを移動していた。


 イリーナはそんな集団から外れ、ひとり目についた公園へと入っていく。

「あら、あなた大丈夫? お父さんとお母さんは?」と先程から声をかけられ続けているためだ。


 もう傍からも誤魔化しきれないほど、背中のアウラが発する熱量はただごとではなくなっていた。真冬だというのに汗だくになったイリーナは、公園の冷たいベンチの上にアウラを横たわらせる。


 今はもう、苦しそうな様子はない。

 その寝顔は穏やかそのもので。

 でも体温だけは生物が発する熱量の限界を超えている。


「そもそもアウラちゃんは精霊だけど……でもまさか、エアリスちゃんになにかあった?」


 アウラはエアリスを守護する風の精霊なのだという。

 ふたりは密接に繋がっており、切っても切り離せない一心同体の間柄らしい。


 とにかく。

 人間ではないアウラを医者に見せるわけにもいかず、かと言って人混みの中にあっては目立つとして、イリーナはこんな人気のない夜の公園に足を運んだのだった。


「でも、なんだろうコレ……危険な状態っていうよりなにか……」


 アウラの寝顔を見つめていると、知らず胸の奥が高揚していく。

 なにかこれからすごいことが起こるような……。


 だがそれと同時にそれが起こってしまったら、もう二度とアウラとは会えなくなるような――そんな不安も感じる。


「ダメだよ、ひとりでどっか行っちゃ嫌だからね、アウラちゃん」


 つぶやく。

 イリーナが声をそっとかけた途端――光が爆発した。


「な、何っ――!?」


 強い光量を放ちながらも決して目を焼くことのない光。

 風の精霊が発する深緑の輝きが無人の公園を照らしあげる。


 光の中、アウラのが小さな身体ががふわりと浮かび上がった。

 まるで綿毛が風に飛び立つような軽やかさ。

 薄っすらと目を開けたアウラは首を巡らせ、イリーナを見下ろす。


「アウラちゃん!」


 堪らずイリーナは叫んでいた。

 アウラは空中でクルリと反転。

 振り返りながらニコッと微笑むと、やがて光の粒子になって解けて消えた。


「…………アウラちゃん」


 静寂が戻ってくる。

 イリーナは再び秋葉原の方角を見上げ、そして確信する。

 何かが始まり、何かが終わる。

 その時は近い――と。



 *



(ちくしょう。あたしはノーマルだったはずなのに……)


 破壊され尽くしたコックピットの中、マリアは胸中で毒付いていた。


 全身を這い回る水精の蛇。

 それはまるで触手のようにマリアの全身を絡め取り、身動きを封じていく。

 ゆっくりと、セレスティアが騎乗するオロチが迫る。


 相も変わらずいい女だ。

 もしあたしが男だったらこんなに楽なことはない。


 全部が全部委ねてしまえばいい。

 例え死に際が搾りかすのような有様になったとしても、こんな美女の糧になるのなら本望ではないか。そんな風にさえ思えてくる。


『――教官、識別コードが途切れました! 状況を知らせてください! もし機体が損傷しているのであれば脱出を――』


 心配する工藤の声だけが、今やマリアの正気をつなぐ気付けになっていた。その声もすぐに聞こえなくなる。アクア・リキッドで満たされたヘルメットが小さな蛇たちによって剥ぎ取られたからだ。


 疲労と三次元機動酔いで呆然とする中、肉眼で直接目にするセレスティアの裸体はあまりに蠱惑的過ぎた。――本当に男だったらどんだけ楽だったろう。チクショウ。


「怯えてるの? 可愛いねマリアは。大丈夫、多分だけど痛くはないよ。そうだね、どうせなら気持ちよくしてあげようか。人間の身体に作用するようにって私のアクア・ブラッドで色々研究もしてたんだよ大人たちは。あいつらは大嫌いだったけど、確か脳内麻薬みたいな効果も出せたはず――」


 マリアの目の前に一際長い牙を持った蛇が鎌首をもたげる。「シャー」っと口を開くと、毒々しい藍色をした液体が牙の先端から滴り落ちた。


「お、おまひぇは――ぐぅ」


 噛んだ。

 文字通りマリアは自分の舌を噛んで正気を保つ。


「なんで世界を壊すなんて言うんだ。この世界はおまえの母ちゃんっだっているんだぞ、それなのに――!」


「ヤダなあ、何言ってるのマリア。私にお母様なんていないよ? もう死んじゃったんだ、ずっと前に」


「な――!?」


 そうか。

 そうなのか。

 コイツはアリスト=セレスが居なくなるとこうなってしまうのか。


 たったひとりこの世界に生きていくためには、この世界で安住を得るためには、すべてを殺戮しないことには気がすまないのか――


「バイバイ、マリア。大好きだったよ」


 セレスティアがコックピットに乗り込んでくる。

 もうダメだ……。

 マリアが覚悟を決めた次の瞬間――


「セレスティアァァァァ――!」


 暴風が爆発した。

 マリアの顔面に風圧が叩きつけられ、目に見えるほどの風の魔素の塊が、オロチごとセレスティアを弾き飛ばす。


 マリアの目の前にはエアリスの背中があった。

 あれほど恐ろしいと感じた魔法使いが、今ではこんなにも頼もしい。


 他人にケツを持ってもらうのは癪だったが、今はしょうがないか……とマリアはシートに脱力した。



 *



「このぉ――貴様、いい加減正気に戻らぬかセレスティア!」


「うん? あなたは――えっと誰だっけ?」


 オロチの上で小首をかしげ、セレスティアはあさっての方を見た。

 そしてそのままグルリと周囲を見渡し「へえ」と声を漏らす。


「私のアクア・ブラッド・ブレスが外に漏れないよう、ずっと循環流動させてるの? これだけの規模の魔法を維持しながら、さっきはすごい威力の風の塊を叩きつけてきたんだ。すごいのねあなた」


「嫌味、ではないのだろうな。今の貴様にとっては」


 数万人からを腹に収めるアクア・ブラッド・ドーム。

 その上に君臨する八首の巨大オロチ。

 そしてさらなる被害を齎さんとするアクア・ブラッド・ブレス。


 これだけの魔法を同時に展開するセレスティアの方こそが賞賛に値する魔法使いなのだ。子供のような笑顔でそんなことを言われては調子が狂ってしまう。


(いや、惑わされている場合ではない)


 エアリスは焦っていた。

 浄化しようとしてもしきれないあの水魔法の霧――アクア・ブラッドというらしい。結局は広範囲に風を循環させて地上に拡散しないようにするしか対処ができない。今こうしている間にもエアリスの魔力は刻一刻と消費され続けていく。


 口惜しいことだが、魔法師としての才能、潜在能力に於いては『セーレス殿』の方が一枚上手のようだ。


 タケルの話では人類種神聖教会アークマインの聖騎士部隊に遅れを取ったそうだが、それもタケルが人質になっていたことと、本来争いを好まない本人の優しい性格が災いとなったのだろう。


「無駄だとは思うが言わせてもらう。セレスティア、貴様は敵の奸計に陥って正気を失っている。こんなことはもうやめよ。貴様の腹の中には我が主――貴様の父親であるタケル・エンペドクレスもいるのだぞ!?」


「うーん、父親って誰のこと?」


「貴様――!」


 やはり無駄か。

 知恵も口も回るくせに肝心なこと――世界を壊すのに都合の悪いことだけは完全に忘却させられている。


 心深の魔法とは使い方次第でこれほどまでに精霊を狂わせてしまうのか。いや、タケルが唱える情報生命という存在にとっては天敵とも言えるだろう。


「ならば、荒療治になるぞ! 覚悟せよ!」


 始めから短期決戦しか勝ち目はない。

 全力を持ってしてセレスティアを止める。

 止めてみせる――!


「はああああァ――はッ!」


 エアリスの手の中に風が凝縮し、それを気合とともに撃ち放つ。

 炸裂すれば小型台風ほどの威力にもなるだろう風の塊、『エアー・ボム』はしかし――


「なッ――!?」


 切り裂かれた。

 セレスティアの前に突如として現れた水の刃が一閃。

 空気が抜ける音とともに風が霧散し、不発に終わる。


 彼女の周りには、数えるのも馬鹿馬鹿しいほど、無数の蛇が揺蕩っていた。そのすべての頭部が鋭い半月状の刃へと変貌する。


 リイィィィィイィィィ――っと、金属同士をこすり合わせるような不協和音が木霊し、水の魔素が超高速で流動しているのだとエアリスは看破した。


「ならば――!」


 エアリスは自身の周囲に風の結界を展開する。

 その表面に張り巡らせるのは『ホロウ・ストリングス』だ。


 分子切断という絶対の切れ味を誇る風の魔法を格子状に編み合わせ、毛糸玉のように幾重にも纏う。


「征くぞセレスティア――!」


 触れれば何物をも切り裂く風魔法を武器にエアリスは突撃する。

 それを迎え撃つのはおびただしい数の水の刃。


 分子切断とアブレシブ・ジェットがぶつかり合う。

 瞬間――周囲にはとてつもない衝撃波が撒き散らされた。


 目には見えない。

 音も聞こえない。

 人間の可聴域を越えた衝撃。


 ドームの周囲、半径一キロ圏内のビルや民家の窓ガラスがすべて砕け散る。

 秋葉原の光景を収めていた報道ヘリも衝撃の煽りを受けてフラフラと墜落していった。



 *



「くっ、あ……!」


 激痛とともに苦悶の声を漏らす。


(私、は――)


 そうか、負けたのか。

 エアリスは今、アクア・ブラッド・ドームの天井に倒れ伏していた。


 その姿は見るも無残なボロ雑巾のような有様だった。

 タケルから贈ってもらったスカジャンは塵と消え、全身が切り裂かれ、血に濡れていた。


 本来なら分子切断が負けるはずはなかった。

 だがあの水刃に使われていたのはアクア・ブラッドなのだ。

 エアリスの魔法ですら干渉できない固有魔法。

 切断し、押し切る前に力負けしてしまった。


 そして今も。このドーム――水の異界に触れているだけでどんどん魔力が奪われているのがわかる。力がまったく入らない。


 そんな半死半生のエアリスのもとに、ゆっくりと近づいてくる者。それは――


「セ、レスティア……」


 かすれた声を絞り出す。

 ジッと、八匹のオロチがエアリスを取り囲むように見下ろしていた。


「すごかったねさっきの。びっくりしちゃった。あと少しで負けてたかも」


 勝者の余裕、というわけではないのだろう。

 今のセレスティアには打算もお世辞もない。

 心から思ったことを口にしている。

 ただそれだけだった。


「でも、もうおしまい、ね?」


 ズズズっとセレスティアの足元が波紋を立て、一振りの剣がせり出してくる。

 藍色に輝く剥き身の刀身。それを恭しく引き抜くと、切っ先をエアリスへと向けてくる。


「じゃあね、バイバイ」


 セレスティアが剣を振り下ろさんとしたその時――


「おおおおッ――!」


 頭上から舞い降りてくる影。マリアだ。

 ビルに磔にされたブラック・ウィドウのコックピットから這い出してきたのだ。

 裸身を晒すセレスティアに背後から抱きつき、渾身の力で羽交い締めにする。


「セレスティア……捕まえたぞこの馬鹿娘が!」


「マリア……ダメだよ」


「うっ、あ――!」


 ブワッと広がったセレスティアの金髪にマリアが絡め取られる。

 綺麗ななグラデーションを描いたその髪先は、細かな藍色の蛇に変化していた。


「悪い子だねマリアは。いつかの時みたいにほら、そんなちっぽけなアクア・ブラッドなんて全部剥ぎ取っちゃうんだから」


「ぐああああッ!」


 急速に光を失うマリアのアクア・リキッドスーツ。

 セレスティアの髪に拘束されたまま、マリアはがくりと気を失う。

 そしてそのまま足元に無造作に転がされた。


 マリアに冷たい一瞥を投げたあと、セレスティアは興味も失せたとばかりに背を向ける。再びエアリスにトドメを刺すべく歩きだそうとして、ガシっと足首を掴まれた。


 マリアが、正真正銘最後の力を振り絞り、懸命に彼女を止めようとしていた。


「ダメだ、させねえ……させたくねえ! あたしはおまえを絶対に諦めねえ――!」


 セレスティアはため息をひとつ。

 今度はマリアに向けて剣を振りかぶる

 その刹那、エアリスは奮い立ち、駆け出していた。


 あのヒト種族を殺させてはならない。

 それをさせてしまえば、決定的な何かが終わってしまう。

 そんな予感がした。


 だがエアリスとてまともに動ける状態ではない。

 かろうじてできることといえば、セレスティアとマリアの間に身を投げ出すことだけだった。


(タケル――すまない)


 最愛の主との約束を果たせなかった。

 終わりのときはすぐに訪れるだろう。

 セレスティアの剣なら何の抵抗もなく身体を貫かれて終わるはず。

 だが――


(なんだ……?)


 いつまでたっても、そのときは訪れなかった。

 何故? エアリスが顔をあげる。

 そこには――想像を絶する光景があった。



 *



「あ、ああああ……!!」


 マリアを庇い、折り重なるように見上げたその先で、エアリスは戦慄の光景を目の当たりにしていた。


「ア、ウラ?」


 小さな背中が見える。

 その背中から、剣が生えていた。


「なに、この子?」


 セレスティアが無感動に剣を払う。

 小さな身体はまるで重みを感じさせず無造作に転がった。


「アウラ――!!」


 全身を激痛が駆け抜ける。

 だがそんなものは関係ない。

 エアリスは力なく横たわるアウラを抱き上げた。


「マ、ママ……」


 ニッコリと満面の笑みを浮かべると、アウラの身体が光の粒子となって消えていく。


「アウラッ、待て、逝くな、アウラ――!!!」


 悲痛な叫びも虚しくアウラは消滅した。

 数瞬、呆然と虚空を見つめ、光の軌跡を追っていたエアリスは、糸が切れた人形のように深く深く項垂れた。


「悲しくなんてないよ。あなたもすぐ同じようにしてあげる」


 無慈悲に剣が振り下ろされる。

 エアリスは反応しない。無防備なその背中が切り裂かれ、夥しい血しぶきが上がる――はずだった。


「――ッ!?」


 剣が動かない。

 否、受け止められていた。

 エアリスにではない。


「何、コレ……?」


 手だ。

 小さな手が剣を止めている。

 光に包まれた小さな手が、項垂れるエアリスの背中を守っていた。

 セレスティアは驚愕もあらわに引き下がる。


 何ものをも切り裂くはずの水精剣。

 それなのにアレはなに?

 何が起こっているの――!?


「ああ、そうか」


 呟きながらエアリスが立ち上がる。

 ふらりと、おぼつかない足取り。

 彼女はセレスティアの方は見ずに、空を仰ぎながら白い息を吐き出した。


「おまえは、最初からずっとずっと、私と共にあったのだな……」


「何を、言っているの――!?」


 セレスティアは明らかに恐怖していた。

 そして危機感に突き動かされるまま、再びエアリスへと斬りかかった。


「なッ――どこ!?」


 だがエアリスの姿はなかった。

 見失った? そんな馬鹿な。

 確実に捉えたはずなのに――


「――私はずっと勘違いしていた」


 背後から聞こえた声にセレスティアは急ぎ振り返る。


「――精霊とは、死の概念すら超越した存在」


 左から声が聞こえる。


「――アウラのあの姿は、私の願望を現していたものだったのか」


 今度は右から。


「――お前はどこにもいない。そしてどこにでもいる」


 左右前後から。そして――


「「「「――そうか、精霊とはこういうことなのか」」」」


 その声は空間全体から同時に聞こえた。


「な――なにがッ、なんでッ、どうして……!?」


 セレスティアの前にエアリスが立っている。

 右にも、左にも、後ろにも。

 複数のエアリスが彼女を取り囲んでいた。


 セレスティアは混乱した。

 そしてすべてのエアリスを殺すことにした。


「うわああああああああああッ――!」


 水精剣を纏った幾本もの蛇が、セレスティアを中心に全方位に襲いかかる。

 すべてのエアリスは貫かれ、引き裂かれ、光の粒子となって消えた。


「やった、の……?」


 辺りには誰もいない。

 終わったのか。ジャマをするものは誰もいなくなったのか。

 ならいい。自分は世界を壊すだけだ。


 このまま、腹の中に収めている仮死状態の人間たちから生命エネルギーを絞り尽くし、どんどん規模を拡大し続け、その度に人間を取り込み、地上のすべてを自分自身で覆い尽くす。


 この星の全てがセレスティアになったとき。初めて自分は安心して眠ることができるだろう。


「え……?」


 不意に、セレスティアは空を見上げた。

 曇天のベールが覆う闇夜の中。

 ひとつのが綺羅びやかに瞬いた。



 *



『何ものも求めない者はすべてを得、自我を捨てると宇宙が自我になる』


 こういうことか――とエアリスは思った。

 遥か眼下に、龍の形をした島国が見える。


 先ほどまで自分は、あの分厚い雲の下、人工の灯りが一際集中した大都市に居たはずだ。


 だが気がついたときにはこのような空の高みにいた。

 今のエアリスには物理法則や肉体的な縛りなどは意味のないことだった。


 アウラが――討たれたとき。

 自分の中に多くの感情が押し寄せてきた。


 痛み、悲しみ、恨み、憎悪……。


 だが同時にわかった。

 アウラは死んだわけではない。

 ただ自分の中に還っただけなのだと。


 アウラはこの身の断片。

 これまで歩んできた、いつかの自分の欠片なのだ。


 タケルと周囲への嫉妬に狂いそうになっていたとき、素直に気持ちを吐き出したかった無邪気の化身。ただ恋に飢えていただけの心の発露。


 その結晶に名を与え、可愛がることは、自身を慰める行為と同じなのか――


 否。


 精霊とは自分の分身でありながら、決して同じものではない。

『愛の意志』を注ぎ続けて真希奈が誕生したように。

 アウラもまた、『愛の意志』を注ぎ続けることで孵化したのだ。


 そして――


「自分を殺しに来た者とも友になる、か。ああ、そうだな――」


 その場に静止していたエアリスは、まるで断崖絶壁から飛び降りるように一歩を踏み出した。途端、星の重力が問答無用でエアリスを引き寄せる。


 だが恐れることはない。

 この星のすべての大気がエアリスを優しく包んでくれている。

 ならばこそ――


「私に敵などいない」


 胸が。

 胸の奥が熱い。

 自分は今ひとつだ。

 アウラとも。

 この星のすべての風とも。


 光が――

 深緑の光が溢れる。

 ボロボロだった衣類が解け、エアリスは生まれたままの姿で地表を目指す。


 その様はさながら箒星のように。

 長く長く光の尾を描きながら。

 エアリスは秋葉原の上空で停止した。


 セレスティアが、驚愕に目を見開くのが見えた。 

 エアリスは自身の姿を見下ろす。

 いつの間にか裸ではなくなっていた。


 白い。

 見たこともない純白の衣を纏っている。


 いつか見た、この国の民族衣装に少し似ているだろうか。

 だが細部は地球のものとも魔法世界の衣装とも判別できない不思議な衣だった。


 着る――というより、何かとてつもない力を内包した存在に包まれている、そんな気がした。


 そしてエアリスの地肌には今、深緑の光を湛えた幾何学的な紋様パターンが描かれている。心深が着ていたあの衣装と同じように、エアリスの呼吸に合わせてまばゆく明滅と流動を繰り返している。


 精霊アウラを娘とし、精霊アウラを慈しみ、精霊アウラに愛情を注いできたエアリスには、今自分が完全に精霊とひとつ・・・・・・・・・になっている・・・・・・のがわかった。


 精霊魔法使いは、ただ精霊に守られてさえいればいい。

 魔法使いは魔力を提供し、精霊はそれを対価に力を貸すだけの存在。

 魔法世界に居たときのエアリスなら、それが正しい在り方だと信じて疑わなかっただろう。


 だがタケルから切っ掛けを与えられたことで、いつしか持ちつ持たれつの主従関係を超えて、本当の母子として精霊アウラと向き合ってきた。


 それは自分と向き合い、許し、受け入れ、共に乗り越えてきた証。


 ならばこの姿は祝福。

 娘から母へ。

 そして母から娘への。

 聖なる夜に精霊が齎した福音なのだ。


 全身の紋様が輝く度、この星を満たす風の魔素がとてつもない規模で流れ込んでくるのがわかる。


 それは今、眼下にある矮小・・な水の魔素とは比べるべくもない。


「さあ、夢から覚める時間だ。終わりにしようセレスティア――」


 夕餉の時間に我が子を迎えに来た母親のように。

 恐れも憎しみもなく。

 エアリスは終息を宣言した。



 *



「ふ――ふざけないで! 私は世界を壊すんだから! 絶対絶対壊すんだからぁ!」


 八首の大蛇が牙を露わにし、エアリスに襲いかかる。

 だがその牙がエアリスに届くことはなかった。


「それは貴様の本当の望みではない」


「――ッ!?」


 息がかかるほどの間近にエアリスの顔があった。

 琥珀色に輝く両の眼がセレスティアを写している。


「思い出せ。貴様が慕う者の名を。貴様を愛する者の名を。その者が住まうこの世界を手にかけることなど、決してあってはならない。いや、私がさせない――」


 エアリスが右手を差し出す。

 その指先に不意に力が込められる。

 ピンと張り詰めた五指が、グッと握り込まれた。


「な――、ウソ!?」


 セレスティアの叫びをかき消し、凄まじい上昇気流が巻き起こった。

 アクア・ブラッド・ドームをまるごと飲み込むほどの大風。

 だが驚いたことに、隣接するビルではガラスの破片すら舞い上がっていない。

 完全にセレスティアのみに作用する超大型の竜巻だった。


「そ、そんなことしても無駄なんだから。私のアクア・ブラッドが負けるはずが――」


 ブシュ、ブシャっと、してはならない音がして、セレスティアは目を見開いた。

 アクア・ブラッドで構成されたオロチたちが解けてきている。

 末端から少しずつ、その形が崩れ始めていた。


 アクア・ブラッドとは分子間運動を極限まで停滞させ、ゲージ粒子である重力子の伝達をも阻害する究極の魔法である。


 液体であるが故に形は自在に変えられるし、高出力の魔力で通り道を作ることは可能だが、アクア・ブラッドそのものを分解・・することは絶対不可能――なはずだった。


 とすればエアリスの魔法による竜巻は、アクア・ブラッドとはまったく逆の性質。

 分子間をさらに細分化した、原子核を強固に結びつけている『強い核力』。

 それを伝達させるグルーオンに作用する超対称性粒子・グルイーノを含むフェルミ粒子をも内包している――


「ウソだ、私のアクア・ブラッドが――! やめて、これがないと私は……!」


 世界を壊せない。

 願われたのだ。

 誰かに祈りを託されたのだ。

 それなのに――


「もういい。もういいんだセレスティア。たったひとりでよく頑張った。貴様のその無垢なる心を、黒く染め上げる憎悪は私が浄化しよう。だからもう休むといい……」


 エアリスの両手がセレスティアを優しく包み込む。

 豊満な肉体同士が密着し歪むほど、強く強く抱きしめる。


「ああ……」


 あったかい。

 これはまるで――


「お母様みたい……」


 生まれてこの方。

 母のぬくもりなど知らぬはずなのに。

 この体温を通じて、仁愛の心が流れ込んでくる。

 腹の底に溜まったよどみのようなものが消えていく。

 知らず、セレスティアの頬を一筋の涙が伝っていた。


 ――直後、アクア・ブラッド・ドームが砕ける。

 藍色の光を孕んだ水の粒子が、幾億、幾兆もの流星となって空へと昇っていく。


 その様は咲き誇る大輪のように美しく。

 衛星軌道から観測できるほど大規模なものだった。


 人々は見た。

 聖夜の奇跡を。

 肉眼で。ネットで。


 日本中の――それこそ世界中の人々が、息を呑んでその光景を見守り続けるのだった。

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