第155話 聖夜の動乱篇2③ VS水精魔法使い~父と娘と精霊の神名(中編)
*
12月24日 午後19時00分
【秋葉原広場、陸橋前交差点付近】
「もう、何がどうなっちゃってるのよ!」
荷物に囲まれたイリーナは、アウラをおぶったまま身動きが取れないでいた。
先程までアウラと手を繋いでいたのだが、こっくりと船を漕ぎ始め、今では背中で静かな寝息を立てている。
アウラは見た目よりもずっと軽いので疲れることはないのだが、とにかく。タケルたちが消えていったフリーマーケットの方角から、何やら人々の悲鳴のようなものが聞こえてくるのは気のせいだろうか……?
「タケルのやつ、私もそうだけどアウラちゃんをずっと放っておくなんて許せない。帰ってきたらとっちめてやるんだから……ってあれ?」
なんだか背中が熱いような気がする。
まさか――そう思って振り返ってみると、アウラの呼吸が乱れていた。
「どうしたのアウラちゃん、大丈夫?」
イリーナが呼びかけると、「うう」と幼子が苦しそうに身じろぎする。
ちょっとちょっと、これってかなりヤバイんじゃ……!?
イリーナはもういっそ人垣を突っ切ってタケルを呼びに行こうかと考える。
と、その時『ピリリ、ピリリ』と首からぶら下げていたスマホが着信し、独りでにしゃべり始めた。
『――右方向に絶賛変身中の藤岡弘が!』
「えッ! 技の1号!? どこどこ!?」
スッとイリーナが移動した次の瞬間――ドカンッ! と地面が弾けた。
「はい――?」
たった今までイリーナが立っていた場所に乗用車のフロントが突き刺さり、荷物を巻き添えにしながらアスファルトの上を転がっていったのだ。途端巻き起こる人々の悲鳴。周囲は阿鼻叫喚の地獄と化した。
「いやあああああああッ!」
当然イリーナも叫んだ。
「どこにも1号ライダーいないじゃない! ちょっと真希奈ちゃんどういうこと!? 乙女の純情を弄んだのね!?」
アウラをよいっしょっとおぶり直しながら、イリーナは胸元のスマホに向けて怒鳴り散らした。
『……イーニャさんは大物ですねえ』
「そんなの当たり前でしょ、私はパーパとマーマの子供なんだから――って、ああっ!!」
車が地面に突き刺さった場所には変わり果てた姿のイリーナの買い物袋があった。百理の邸宅のさらに自分の部屋までタケルに運ばせ、なんなら開封作業&セットアップまで手伝わせようかと思っていたのに、それらは全てぺしゃんこになっていた。
「買ったばかりの『マックブックプロ』と『サーフェイススタジオ2』がぁ!」
顔を覆って悲しみに暮れたいのに、アウラをおぶっていてはそれもままならない。結局イリーナは思いっきり渋面を作って「おおーん」天に悲哀を叫ぶのだった。
『イーニャさんイーニャさん、そんなこと言ってる場合ではありません! 早くこの場から逃げてください!』
「逃げるって、向こうで一体何が起こってるっていうの?」
『戦闘です! タケル様と乳デカ女が敵対的な魔法師と戦闘状態に入りました! 私がナビゲートしますからアウラを連れて安全圏まで離脱してくださ――あっ」
「あ? あ、って何? なんかすごく嫌な予感が……」
『逃げて! 今すぐ後ろに向かって全力で走ってください!』
「ちょっとそんないきなり――えっ!?」
今度は軽自動車、ワゴン車、そして四トントラックが炎を纏い、次々と道路を転がってきたではないか――!
『走って、早く!』
「わわわわ、なんなのよもー!」
叫びながらイリーナは必死に疾走った。周りには同じくパニックを起こして逃げ惑う人々が居たが、真希奈のナビがあれば逃げ切ることができるだろう。ただ一つ問題なのは――
「わ、私は頭脳労働専門……っ! 走ったことなんて一度もないのにーっ!」
運動会はおろか徒競走の経験もない超インドア派なイリーナは、早くも体力の底が見えつつあるのだった。
*
『――
「平気、だ……!」
僕は今、ビルとビルとの間、間隔で言えば5メートルほどの小さな芝生スペースに転がっていた。水精の大蛇に咥えられたままビル天井を突き破り、さらに窓から放り投げられたのだ。
見上げれば、はるかな高みからキラキラとガラス片が降り注いでいる。あの短時間で一体何階層分運ばれたのか。おそらく三十メートル以上の高みからの自由落下。僅かに腹の中がジクジクと痛んだ。
『――ひっ! 臓器内に微量の内出血を確認――魔力による修復を試みます!』
「ああ、頼む……!」
シリアのときは超音速飛行の最中に虚空心臓からの魔力供給が停止。約2万フィートの上空からハードクラッシュした。そのときも無事には済まなかったが、今回もなかなか厳しい状況だ。
それでも真希奈はよくやってくれている。僕は感謝を口には出さず、自分の胸を撫でながら、それでも今最優先で聞かなければならないことを問うた。
「真希奈、セレスティアがたった今、僕に襲いかかった時に言っていた言葉をもう一度教えてくれ」
『ライブラリより抜粋。【お母様はどこ?】【お母様を返せ】。要約すればこの二点になります。あ、もっと撫でててください……』
起き上がるために胸から手を離そうとすると真希奈がそう抗議をしてくる。アウラも大概だが、真希奈も甘ったれなところがあるなあ。
「今度はシリアでセレスティアが僕に言っていた言葉を教えてくれ」
『ライブラリより抜粋。【ようやく逢えた、タケル・エンペドクレス】【お前のせいでお母様は】【セブンス・キングダムを出せ】以上になります』
僕はその時、重症を負って意識を失っていた。
後日、分析をするために何度も聞いた言葉だが、改めて先程の発言と比べてみる。
「まさか――セレスティアの保護下にあったセーレスが行方不明になったのか!?」
『その可能性は70%、それ以外が30%』
「それ以外とは?」
『精霊セレスティアは情緒が不安定です。アウラや私に比べ稚拙な情動が散見されます。彼女自身の誤解や記憶違い、もしくは第三者の奸計に陥っている可能性を排除できません』
精霊とは、いわゆるおとぎ話にでてくるような精霊や妖精などの類とは違い、僕は高次元の情報生命体と定義している。
たとえ見た目が幼くとも、真希奈のように大人びた子もいれば、その逆もまたあり得る。どこからどう見ても成人した美女にしか見えないセレスティアも、その中身はまだ子供なのかもしれない、ということか……。
「そうだとしてもやっぱり彼女とは話し合わなければならない。真希奈、セレスティアを封殺することは可能か?」
『ネガティブ。現在のタケル様の魔力出力ではあの水精の大蛇が纏う魔力フィールドを突破できません』
「あの蛇は何なんだ? かつてセーレスも似たような魔法を使っていたが、威力が桁違い過ぎる」
あの時、あの魔法があれば、彼女がアークマインの
『あの蛇は高密度に結晶化した水の魔素であり、彼女自身の分身とも言えます。液体である故に無形であり、個体、液体、気体の状態にも変化可能と推察されます』
「気体? ッ、――龍慧眼!」
僕はすぐさま龍神族に備わる特別な目を発動させる。
そして映し出された周囲の光景に愕然とする。
「辺り一帯に霧状の水の魔素が――これが全部セレスティアの支配下にあるのか!?」
つまりは僕の
今の僕らの居場所も会話も、セレスティアにはバレバレのはずだ。
そしてこのフィールド内であれば、彼女の水精魔法は絶対無敵の威力を発揮する。かつてないほど強大で厄介な相手と言えた。
「とにかく今は――」
移動しよう。そしてなるべくヒトの少ないところに行かなければ。
痛みがマシになった腹を擦り、僕は跳ね起きる。
ビルの陰から出ると、すぐ目の前は駅前広場になっていた。
広場に出た途端、凄まじい喧騒が僕を叩く。
そこには数百人――千人単位の人でごった返していた。
よくよく考えてみれば今はイブのディナータイム。
駅から次々と吐き出された人々は、逃げ惑う野次馬と混ざり合い、駅が機能しなくなるほどの大混乱を齎していた。
少しでも僕とセレスティアの戦闘から逃れようとする人々と、クリスマスを楽しもうと駅から降り立つ人々。その双方が混ざりあったとき、恐怖を帯びた前者の負の感情が伝播し、みんなの足を極端に鈍らせているのだ。
異常を感じ取り、踵を返すのはいい方で。逆に好奇心を刺激され、新たな野次馬になる者も存在する。そんな未だ危機感を持たざる人々が、この駅前に集まった黒山の人だかりなのだった。
命知らずにも僕が破壊してしまったタクシーやカフェレストランの方にも、遠巻きに数多の見物人が出ているようだ。こんな場所で戦闘が始まれば、どれだけの被害がでることか……。
「真希奈、このあたりで広くてヒトが居ない場所はどこだ?」
『検索。ヒット――ここから南東に350メートル先、マンション建設予定地があります。建設資材が搬入されているのみで現在は無人です』
「よし、急いでそこに――」
「ねえねえ、ちょっとちょっと!」
人の流れに逆らい、僕が走り出そうとすると、ファーコートを着たギャル風の女性二人組がおかしなテンションで話しかけてくる。ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべていて、一発で苦手な手合だと思った。
「キミさ、さっき上から落ちてこなかった? マジ大丈夫?」
大丈夫か、と聞きながらなんでそんな喜色満面なんだこいつら。
「平気です、なんともないですから――」
「待って待って、これってさ、キミじゃね?」
差し出されたスマホの画面にはツイッターのタイムラインが。
先程タクシーの横っ腹に衝突したときの僕の画像が映し出されていた。
遠目だし、ハッキリ顔は写ってはいないが、濃紺のGAPパーカーで僕だと思っているようだ。
「そういわれても、なんのことか……」
「いやいや、だからさ――あれ? なんで画面真っ暗なの? ウソ、壊れた!? ありえなくなーい!?」
もちろん犯人は真希奈だ。悪いとは思ったがデータも消去させてもらった。
だが焼け石に水だろう。ラブホテルのときとは比較にならないほど、もうかなりの情報が拡散してしまっているようだった。
スマホの画面をバシバシ叩いているギャルを放っておいて、僕は再び走り出す。
走り出そうとして――ゾクリと全身に悪寒が突き抜けた。
わッ――と、人々が一斉に頭上を指差す。
そこには、まるで聖なる御使いが天から降ってくるかのような光景が。
三匹の大蛇を従えたセレスティアがゆっくりとビルの壁面を伝い、外界へと降臨したのだ。
セレスティアは三匹のうち、中央の大蛇の眉間に腰元まで埋まった格好で、その衣装は先程までの黒衣とは違い、白を基調としたゴシックぽいデザインのものに変わっている。水精の蛇の恐ろしさや異様を差し置いても、彼女の姿はあまりにも神秘的だった。
魔力を帯びた水の魔素は、彼女の周囲を揺蕩う蛍火となり、その蛍火に浮かび上がる美貌と、それ自体が輝いてさえ見える金色の髪。そして服の上からでもわかる完璧なプロポーションと相まって、人々の視線は一瞬で釘付けにされてしまった。
ともすれば聖夜の奇跡と揶揄されるほどの神々しさ。
スマホを手にした人々が一斉にシャッターを切り始める。
見下ろすセレスティアの表情は俺への憤怒に彩られていた。
大蛇が地に降り立つと同時、セレスティアもまた蛇の眉間からふわりと浮かび上がり、音もなく地面へと降り立つ。おおっ――と数百人からのため息が僕の背中を叩いた。
セレスティアが僕を見つめる。
セーレスと同じ顔で、同じ瞳で。
かつてセーレスが僕に見せてくれた表情。
戸惑い。憂い。悲しみ。そして笑顔。
そのどれとも違う怒りの表情を湛えたまま、セレスティアは重く重く口を開いた。
「ケダモノめ……」
美しい声音に乗せた呪詛のような呟き。
ザワッと、周囲が息を呑んだ。
「私は――穢れてしまった。他でもないあなた自身の手によって」
しなやかなその指先が自らを掻き抱く。
小刻みに震えるその肩を抑えるように。
耐え難きを耐え、僕というケダモノと対峙するために。
「あなたを殺してお母様を取り戻す。あなたなんて、もういらない――」
「待ってくれ」
やにわに膨れ上がる魔力。
僕はそれを制しながら、懸命に彼女を説得にかかった。
「キミは自分の矛盾に気づいてるのか? シリアで僕に言った言葉と、今キミ自身が言った言葉が全く食い違っていることをちゃんと理解しているのか!?」
「なん、ですって……?」
柳眉に亀裂のようなシワが刻まれる。
僕は睨みつける彼女に構わず続ける。
「僕はセーレスを探している。ここに来てからずっとだ。ましてやキミから奪ってなどいない。思い出すんだ、本当のことを。そして頼む、セーレスの居場所を教えてくれ!」
地球に来てようやく見つかったセーレスへの手がかり。ここでセレスティアを説得することができれば、一気に彼女のもとへとたどり着くことができるはずだ。
だが、彼女から出たのは、またしても埒外の拒絶の言葉だった。
「違う――あなたが連れて行ったんだ! お母様の優しさに漬け込んで無理やり! そして口にするのもはばかられるほどの非道い扱いをした! それだけでは飽き足らず、あなたは私の
なんてことだ。
彼女が口にしているのは一体誰のストーリーだ?
セーレスを彼女から引き剥がしたのも、セレスティア自身に非道いことをしたのも、あのアダム・スミスや名前も聞いたことのない第三者だと言うのなら僕だって激怒していただろう。
だが彼女の話は穴だらけであり、そしてその犯人が僕だというのだ。
僕がセーレスと出会ったのが9ヶ月ほど前。
そして地球に帰還したのが3ヶ月と少し前。
セレスティアと初めて邂逅したのがわずか一週間前である。
僕が犯人であるはずがない。ないのだが――
「さいてー」
そんな声とともにパシャっと生ぬるい液体がかけられた。
額を伝った黒い雫が足元に落ちる。
コーヒー?
振り返れば、壊れたスマホを持った先程のギャルが汚物を見るような目で僕を見ていた。どうやら持っていたスタバのトールカップを投げつけたらしい。
カンッ、と、今度は足元でアルミ缶が弾ける。
中から飛び出したジュースがズボンを汚した。
およそ見える範囲、すべての人々が僕に敵意を向けていた。
そしてその中から決して少なくない人数が、ささやかな、けれども悪意のこもった攻撃を投げかけてくる。
飲みかけのコーヒー、ジュースが入った缶やカップ、ペットボトル。
メイド喫茶のチラシや販促用のポケットティッシュ、果てはレシートを丸めたものや、花壇や植え込みにある玉砂利に至るまで。それらが無数の礫となって僕に降り注いでくる。
セレスティアと僕。
客観的に判断すれば、どちらの言動がより信用に値するかなど決まっている。
大衆は信じたい方を信じ、好ましい方に耳を傾ける。
再び魔力を滾らせ始めたセレスティアから視線を外すことなどできない。
僕はされるがまま、人々の悪意を一身に受け止め続ける。
そして、そんな状況に僕より以上に我慢のならないやつが、ついにブチ切れた。
『――ふざけんじゃねーですよ、このバカちんどもがあああああああああっ!!』
とんでもない不協和音だった。
なぜならすべての人々のスマホ、ガラケー、タブレット、さらには駅構内や広場に設置された防災スピーカー。それらから同時に発せられた音割れ必至の大怒号だったからだ。
さらに僕はギョッとした。UDXビルの超巨大モニターに真希奈が丸写しになっている。カーミラたちにお披露目したときと同じ、十歳くらいの黒髪ぱっつん娘が眉を逆立てて激おこの様子だった。
『言うに事欠いてタケル様があなたを襲ったですって!? バカも休み休み言いなさい! タケル様はついこの間まで童貞でした! それがどうしてあなたなんかを手篭めにできるというのですか――!』
バレてーら。
僕は脱力し、その場に膝をついた。
虚空心臓が停止し、回復が見込めなかった僕は吸血鬼であるカーミラに命を救われた。具体的には今僕の中には虚空心臓とは別に、吸血鬼の因子が埋め込まれている。
カーミラと肉体的・精神的なつながりを持つことによって、彼女から流入する吸血鬼の神祖としての力が僕を生きながらえさせているのだ。まあ、そうさせている具体的な方法とはつまるところ性交渉による肉体と精神の繋がりなのだが。
あの時、真希奈の本体はメンテナンス中で、僕とは物理的に切り離されていたはずだ。それなのに、おそらく人研内のあらゆる機器を通じて彼女は僕を監視していたのだ。
これは治療行為であると自分に言い聞かせながら、必死に自分を騙し騙し僕を見守っていたのか。――ハッキリ言おう。超怖いよ真希奈!
『あなたとタケル様が初めて出会ったのがわずか一週間前。その時の映像がこれです! 目ン玉ひん剥いてよく見なさい!』
540インチの大画面に映し出される主観映像。
白いゴシック衣装に身を包んだ金髪の美女が映っている。燃え盛るテクニカルトラック、血風渦巻く戦場の荒野を背景に、水精の蛇を纏うのは紛れもないセレスティア本人だった。
その場の全員が混乱していた。突如謎の少女による潔白証明に、目を白黒させながらも食い入るようにモニターを見つめている。そして再び顔を真っ赤にした真希奈が大写しになった。
『タケル様の行動はおはようからおやすみまで、真希奈が全て記録させていただいています! あなたが言うようなことなど、時間的にも物理的にも絶対にありえません、不可能です! 妄想癖もいい加減にしてください!』
証明完了! とばかりに真希奈が腕を組んで顎をそらす。途端、ブツンと画面が暗転した。人々は絶句していた。僕も絶句していた。不意に後ろから肩に手を置かれた。さっきのギャルだった。
「ごめん。マジで」
「いや、いいけど別に……」
怖い! ストーカー怖い!
僕は自分専用の人工精霊を生み出すつもりが、全く違うモンスターを創り上げてしまったのかもしれない。
と、とにかく。何故か僕ばかりがダメージを受ける結果になってしまったがとにかく――
「これでわかってもらえただろう、今のキミはちょっと錯乱? してるんだ。だから――」
「いやっ、来ないで!」
本気の怯え。そして威嚇。
三匹の大蛇の頭部がグバァっと二股に分かれ、二匹の蛇に分裂した。
合計六匹が、まるで彼女を守るように「シャー」っと牙をむき出しに吼える。
彼女の中にはもう、僕を拒絶する感情しかないのか。
怯えは恐怖を呼び、恐怖は彼女に攻撃的な自衛行動をとらせる。
「もうイジめないで……痛いのはもう嫌なの。私に優しくないお父様なんて嫌い。お願い、もう消えて……!」
スラリと、彼女の手の中に藍色の剣が握られる。
鍔も柄もないむき身の刀身。
藍の光を湛えた透明な刃が僕へと差し向けられる。
『警告。刃の表面に超高速度の流体加速を確認。アブレシブ・ジェットの一種であると推察されます』
「――嘘だろ、そんなこともできるのかっ!?」
アブレシブ・ジェットとは、つまりウォーターカッターのことだ。
純粋な水流と水圧だけでなく、わざと研磨剤や不純物を混ぜて対象を切断する。ダイヤモンドの加工などに使われたりする技術だ。
「はああっ――!」
気合とともにセレスティアが駆ける。大上段から振り下ろされた水刃を、僕は正面から受け止めることはせず、
「おい、今の音って!?」
『
「厄介過ぎるぞ……!」
だが不幸中の幸いというか、今の一撃でセレスティアが剣の素人であることがわかった。闇雲に剣を振り回しているだけなら、普段ベゴニアの動きを見慣れた僕にも対処はできる。ただし、それは一対一の場合の話だった。
「くッ――この!」
僕が大きく距離を置こうとするの許さず、横合いから一匹の蛇が襲いかかる。
それを躱しながら見やれば、セレスティアは余裕の所作で立ち上がり、再び剣を上段へと掲げた。素人剣術を補って余りある魔法の補助。今の彼女に死角は存在しない。
(それに、ここは不味すぎる――)
周囲は相も変わらず騒然としていた。
数百人の衆人環視の中、突如として戦闘を始めた僕達らから一定の距離を置き、みんながみんな動けないままでいる。怖いもの見たさ半分、そして防衛本能半分。下手に動けば巻き添えになると半ば硬直しているのだ。
僕は危険を承知でセレスティアに背を向け、野次馬の中に突入する。「キャアアアー!」という悲鳴。だが構わない。猛然と駆け抜け、その先にあったビル壁を背にして振り返る。
「ダメ。逃がさない」
人混みを飛び越えたセレスティアが、落下の勢いそのままに水精剣を突き出す。
反射的に僕の体が逃げに入る。だがそれを押し殺し、ギリギリまで引きつける。
水刃が頬をかすめていく。
まったくなんの抵抗もなく、刀身は深々と壁に突き刺さった。
「――ッ!?」
セレスティアは止まらない。
脇に避けた僕を目端で追い――今度は剣を横薙ぎに切り払った。
ビシャ――!
不思議な音だった。
水精剣が鉄骨ごと壁を寸断した音だ。
まるで水をたっぷりと含んだ豆腐でも切るような音だった。
僕は体制を大きく崩しながらもそれを躱す。
だが避けた先には進路を塞ぐよう水精の蛇が大口を開けて迫っていた!
「くっ――!」
間一髪。僕はすっ転ぶ勢いで身体を投げ出し――
『タケル様、足元!』
「あいよ!」
ハンドスプリングで飛び起きた途端、ゴオっと蛇が真下を通過していく。
僕は行き掛けの駄賃とばかりに無防備なその背なを殴りつける。
ガインッ、と金属でも殴ったような感触。痛っ……超硬い!
だが効果はあったようだ。
先程まではびくともしなかった蛇の胴体がたわみ、地面を削りながら停止したのだ。
これは……!
僕は背後から襲い来たもう一匹に、振り向きざま渾身の右ストレートを見舞う。ブシャア――と、自身の構成要素である水の魔素を撒き散らして蛇は大きく仰け反った。間違いない。利いてる!
『現在のタケル様のパンチ力が約3トン。有効な攻撃力として蛇の推定質量を逆算。一匹あたりの質量は約5トン弱と推定――』
「二又に別れる前の大蛇は10トンもあったのかよ!」
そんな蛇を手足のように操るなど、セレスティアの魔法はもはや神域のレベルと言っても過言ではない。それもおそらく、周囲に張り巡らせた濃密な水の魔素による補助効果もあるのだろう。
とにかく。僕を逃さないために頭数を増やしたつもりだろうが、それは失策と言わざるをえない。多少強引でも水精の蛇の包囲を突破し、もっと広い場所に移動しなければ――
「ダメッ――動かないでっ!」
「なッ――!?」
逃げ回る僕にしびれを切らしたのか、子供の癇癪のように叫びながらセレスティアが再び全身に魔力をたぎらせる。
龍慧眼で確かめるまでもなく、周辺の水の魔素がより濃密になっていく。
二又の蛇はさらに細分化され、倍の倍――合計24匹の蛇が姿を現した。
どういうつもりだ?
ハッキリ言ってこれは悪手だ。
蛇をこのように細く分裂させていしまえば、僕の打撃はもっと有効になる。
多少のダメージを覚悟で脱出することだって叶うだろう。
セレスティアはトーンと背後に跳躍し、僕から一定の距離を空ける。
スッと一本芯が通った美しい立ち方をすると頭上に水精剣を掲げる。この距離ならば剣など振り下ろしたところで当たりはしない。そう思った瞬間だった。
「――ッ!?」
僕の横を何かが通り過ぎた。
セレスティアは剣を振り下ろしている。
さらに返す刀で剣を振り上げた――!
『タケル様ッ!』
真希奈の声に身体をひねる。
だが遅い。
壁にしがみついた僕の脇腹を蛇が削り取っていた。
痛みを感じてる暇なんかない。
セレスティアは正に今、剣を水平に薙ぎ払っている――
「うおおッ!」
受け身は考えず地面を蹴る。
焼けたフライパンの上を跳ねる油ように。
僕は滑稽に無様に、地面の上を転げ回った。
その刹那に垣間見た。
一瞬前、僕がいた空間を水精の蛇が流星のように通過していくのを。
その速度はハッキリ言ってデタラメだ。
まるでレーザー光線のように、気づいたときには僕の体を削り取っている。
セレスティアが剣を振るうたび、その軌跡に合わせて24匹の蛇が、展開された水の魔素の中を瞬時に移動しているのだ。
認識速度を超えた蛇のレーザー。
限られた魔力で防御を担っている真希奈の対処にも限界が訪れる。
「ぐぅ――!」
『タケル様!?』
ついに食らった。
肩口を蛇が貫通したのだ。
ガクリと膝を付く。
不味い。格好の的だ。
この隙を見逃す手はない。
すぐさま残りの蛇が一斉に襲いかかって――こなかった。
「え――?」
見上げれば、セレスティアが僕を見ていた。
剣を肩に担ぎ、今にも振り下ろさんとするその姿勢のまま固まっている。
憎き男に鉄槌を下してやる――などという顔とは正反対の、苦悶と苦痛に満ちた顔面蒼白の表情。
一瞬遅れて、押さえた僕の肩口から鮮血が吹き出す。
血溜まりを作るほどの夥しい量。
それを見た途端、セレスティアは頭を抱えた。
剣は水に解け、彼女は自分の頭と胸を押さえて荒く息を吐いている。
……よくわからないがチャンスだ。
「真希奈、魔力一点集中!」
『りょ、了解!』
立ち上がりざま左拳を振りかぶり、背後のビル壁を粉砕する。
散々セレスティアが切れ込みを入れていた壁は思いのほか簡単に崩れた。
僕はそのままビル内部を突っ切り、さらに通路をまたいで駅前アトレに突入。
血まみれのボロ雑巾みたいな僕の登場に人々は当然のように悲鳴を上げた。
「ごめんなさい通りまーす! あとで必ず弁償しまーす!」
『タケル様、現在までの被害総額を聞きますか?』
「やめて! 全部あとで聞くから今はやめて!」
『タケル様!』
「いや、だからあとにしてってば!」
『違います、追いつかれます!』
真希奈の報告に振り返れば、僕が壊した壁からヌウっと蛇に騎乗したセレスティアが顔を出すのが見えた。アトレのウインドウをぶち破り、猛然と僕を追いかけてくる。ショーケースや陳列棚をなぎ倒し、道なき道を突き進むその姿に、買い物客たちは絶叫してパニックになった。
『タケル様、被害総額が加速度的に増加しています』
「セレスティアが壊した分も僕持ち――!?」
『父親なのでしょう?』
「理不尽すぎる――!!」
僕の涙などつゆ知らず、セレスティアが腕を振るうと、大蛇から分離した一匹の蛇が弾丸の如く撃ち放たれた。サイズにすればセレスティアが騎乗するのと同じ――真希奈算出10トンにもなる超重質量の蛇である。そして僕の背後――ガラスの向こうには通行人で溢れる遊歩道があった。
「この、いい加減人の迷惑も考えろッ――!」
今度は右足に魔力を一点集中。
僕は渾身の力を込めて大蛇の下顎を蹴り上げた。
ガインッ、と相変わらずの硬度。骨の芯まで痺れが残る。
だがそのかいあって大蛇の軌道をそらすことに成功する。
人一人を丸呑みできるほどの巨大な頭部がガラスをぶち破り、対面のビルへと突き刺さる。
人々は狐に摘まれたような顔で、突如としてアトレとLABIパソコン館を橋渡ししてしまった大蛇の胴体を見上げている。恐慌一歩手前だった北口に比べ、駅ビルを挟んだ南口はまだ平和なようだった。血まみれで現れた僕よりも大蛇の方に興味津々の様子で、呑気に撮影などを始めている。
「待ちなさい卑怯者め――!」
そんな群衆に冷水を浴びせるような、清廉な声が轟いた。
突き刺さっていた大蛇は雲散霧消し、それと入れ替わるよう、アトレの中からセレスティアが現れる。
再び大蛇の上の屹立した彼女は、僕の前に降り立ち、傲然と言い放った。
「なぜ私から逃げることしかしないの!? いい加減、正々堂々と戦いなさい!」
「違う――! そもそもこんなところで戦おうとするな! すでに大勢が巻き添えになってるんだぞ!?」
「言い訳を――私と向き合うのが怖いんでしょう!? お母様のことを探していたなんてウソ! 本当はあの風の精霊魔法使いとおもしろおかしく暮らしてたんだ! 私の苦労も知らないで、子供まで作って!」
「ん?」
『は?』
僕と真希奈の声がこだました。
セレスティアは先ほとまでの冷血な表情とはまったく違う、不貞腐れた子供のようなふくれっ面で涙を浮かべている。これってまさか――
沸き起こった疑問もそのままに僕は再びセレスティアに背を向けた。
目の前にポッカリと口を開いた中央改札口へと続く連絡通路。
セレスティアもまた僕を追いかけながら悲痛な叫びを上げた。
「私待ってたのに! ひとりぼっちでずっと――! 頑張ってお母様を守っていれば必ず迎えに来てくれるって、そう信じてたのに!」
背後からのその言葉は、今までのどんな蛇の攻撃よりも、一等僕の胸に刺さった。
だが今は立ち止まるわけにはいかない。もっと広い場所。セレスティアと向き合うのに必要なスペースまで走り抜ける――
『タケル様、水精の魔素、急速増大!』
「――ちぃ!」
振り返ればセレスティアが水の蛇を撃ち放とうとしていた。
だが酷く取り乱しているせいか、その狙いは見当違いの方へ向いている。
今すれ違ったばかりのチラシの束を抱えたメイドコスの女の子へと――
「くぅ――この! 僕はここだ、ちゃんと狙え!」
とっさに女の子の前に腕を突き出し蛇を受け止める。
鋭い牙が深々と肉をえぐり血が滴る。
その様を見て、再びセレスティアの言動と表情が変化する。
「ご、ごめんなさい……!」などと真っ青になって謝罪したあと、ハッとして頭を抱えて後ずさった。
「わ、私はなにを……あいつは殺さなくちゃいけないのに……!」
僕を傷つけるたび、セレスティアの心の奥底にある何かが表面化しようとする。
そしてそれをさせまいと、別の何かがせめぎ合い戦っている――ように見えた。
いや、間違いない。疑問は確信へと変わり、僕はひとつの決断を下していた。
「真希奈、試したいことがある!」
『タケル様が傷つくのを真希奈は推奨できません』
「死ぬつもりはないさ。信じてるからな、真希奈」
『――ッ、そこまで言われては仕方がありません。……それと、あとで色々とご褒美を要求します』
「お手柔らかに。あと僕にもプライベートがあってだな……」
『それは存じません』
「ホントいい度胸だな――っと!」
僕は最後の賭け――いや、ここは聖夜の奇跡とでも言っておこう。
その奇跡を起こすために僕は三度走り出した。
セレスティアは
そうだ、ついて来いセレスティア。
何に囚われているのか知らないが、今解放してやるぞ――!
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