第154話 聖夜の動乱篇2② 裏切りの声~父と娘と精霊の神名(前編)

 *


 12月24日 午後18時45分

【千代田区秋葉原、秋葉広場前】


 目まぐるしく様相を変える状況に、人々の困惑は極まりつつあった。

 最初はコスプレイヤーの女の子と外国人の女性が地味な少年を取り合っているだけだと思った。間に挟まれた男があまりにも不釣合いで、つい足を止めてニヤニヤと見物していた。


 そのうち、コスプレ少女が発した言葉によって、全身の倦怠と失語が襲いかかり、体の自由が奪われた。なんだこれは……もしかしてここは危険な場所なのか。


 そして極めつけは、頭上から飛び降りてきた金髪の美女である。

 最初はクリスマスイルミネーションにふさわしい美しい女性だと思った。

 だが、彼女が腕を振るった瞬間、凄まじい轟音とともに衝撃が周囲に叩きつけられた。


 見れば衝撃の中心にいた少年の足はアスファルトに埋まり、その頭上には何やら青色に煌めく巨大な生物の影が見える。目を凝らせばそれは表面に生々しい鱗を持つ、大木のような大きさの蛇だった。


 ようやく――誰かかが悲鳴を上げた。

 静寂は破られ、堰を切ったように人々は逃げ出した。


 あれは人間が関わっていいものではない。

 この場に居ては殺される。

 あの尋常ならざるモノに巻き込まれてただ無意味な死を迎えてしまうだろう。

 その事実だけが人々を突き動かし、暴徒へと成さしめた。



 *



「うあああああッ――お母様を返せええええええええええええええええ!」


 絶叫とともに振り下ろされる右腕。

 水精の大蛇を纏ったセレスティアの腕は、凄まじい質量を伴って僕へと襲いかかった。


「ぐッ、うおおッ!?」


 それは例えるなら――冗談でも何でもなく、最高時速に達した新幹線を正面から受け止めるのに等しい衝撃だった。


 僕は石畳を削りながらはるか後方へと吹き飛ばされ、車道を走行していた小豆色のタクシーの横っ腹へと突き刺さった。


 一瞬浮き上がった車体が地面をバウンドし、全ての窓ガラスが破砕する。

 後続車が次々停止し、あたりにはけたたましいクラクションが鳴り響いた。


「くっ――真希奈! 現在の僕のステイタスを教えてくれ!」


 ベコン、と半ばまで埋まったタクシーから這い出す。

 病み上がりだろうとなんだろうと今は戦うしかない。

 決して加減などできる相手ではないのだ彼女は。


『現在のタケル様の回復度合いは四割程度です。ビート・サイクルレベルは4~5、最大でも6が限界と思われます!』


「わかった。ここは街中だ、魔法は一切使わない。その代わり魔力の全ては身体能力の強化に使ってくれ!」


『諒解しました。鎧の補助がないため防御力を重視します。魔力殻パワーシェルで身体全体を覆い擬似的な鎧を形成――完了。タケル様はご自由に動いてください。魔力の攻防過多はすべて真希奈がコントロールします!』


 打てば響くような答え。

 本当に真希奈は優秀な子だ。

 僕がしたいことより以上を簡単に実現してくれる。

 ホントこの子に肉体があったら目一杯抱きしめてやるのだが――


「に、兄ちゃん、何やってんだ? 大丈夫なのか……?」


 フレームが歪んでしまったタクシーからようやく這い出し、運転手のおじさんが至極理性的な気遣いをしてくれる。だが、それに対する僕の答えはひとつだった。


「おっさん、今すぐ逃げろ!」


「へ――うわわっ!?」


 頭上に影。

 水精の大蛇がチロチロと舌を出しながら僕を見下ろしている。


 キュウっと、その瞳が縦に細まった。

 来る――!

 僕は再び両の腕をクロスさせ、大蛇の猛撃を受け止めた。


 ピシャッ――!


 まるで稲妻が空気を切り裂くような音とともに凄まじい衝撃が全身を貫く。

 足元が放射状にはじけ飛び、余波だけで背後のタクシーはV字にへし折れた。


『今の攻撃は初撃から算出した想定値の400%に相当します』


「マジか――洒落にならないぞ!?」


「あわわわわ……!」


 おっさんは潰れたカエルのように地面に這いつくばって頭を抱えだした。

 ――バカ、さっさと逃げてくれ!


 おっさんだけじゃない、急停車した車から次々とドライバーたちが降りてこちらの様子を伺っている。


「不味いぞ……真希奈、周囲に避難を促して――」


『水の魔素、急速増大――タケル様、もう一匹来ます!』


 真希奈が警告すると、今僕が受け止めている大蛇とは別の一匹が頭上からニュウっと姿を現した。


 獲物である僕を威嚇するように、グバぁっと鋭い牙が生えた大口を開け放つ。途端、ドライバーたちは蛇を見上げたまま固まってしまった。最悪すぎるっ!


 ――ズシンっ!


 一匹目に覆いかぶさるよう、二匹目の頭部が叩きつけられる。

 それはまさに鋭いムチのような一撃。藍色の体表面が本物の蛇のように蠢動し、繰り出された力が、長い胴を伝達加速。頭部先端で最大の威力を発揮するように振り下ろされたのだ。


「ぐっ――このっ!」


 僕は全身を硬直させ、蛇二匹分の超重量に必死に耐え続ける。

 大木のような太さと長さとは言え、大蛇の質量は見た目より遥かに重い。


 この躰の中に一体どれほどの量――数トン、いや下手をすれば数十トン単位で魔素を含んだ水が詰まってるのか。


 だが、一匹目を受け止めたときより、足場はずっと強固になっている。

 真希奈が魔力フィールドを展開してくれてるのか――?


『タケル様!』


 真希奈の焦り声。ついに三匹目のご登場だった。

 一匹目と二匹目が花道を譲るように脇に退け、間髪入れずに三匹目が振り下ろされる――!


「おおおっ!」


 そこからはもう水精の蛇による三重奏。

 逃げる隙などありはしない。

 ストンピングのように、三匹が代わる代わる執拗に頭部を叩きつけてくる。


 蛇が叩きつけられるたび、凄まじい轟音と衝撃が辺りに撒き散らされている。

 果たしてその光景は、周囲の立ち尽くす人々にはどう映っているのか。


 映画の撮影か、はたまた特撮の特殊効果か何かだとでも思っているのか。

 なまじ僕のような子供がひとり、攻撃に晒されている姿が、何かのジョークのように見えるのかもしれない。


 人々は未だ困惑気味に顔を引きつらせ、手持ちのスマホでのんきに撮影などをしていた。


「真希、奈っ! 周りの野次馬をなんとかしてくれ!」


『――現在千代田区役所、並びに神田消防署のコントロールサーバにハッキングしています。防災無線を鳴らして避難を――』


 などと話をしていると不意に攻撃が止んだ。

 これ幸いにとアスファルトから足を引っこ抜いた瞬間――


「おいおいマジかよ」


 三匹の水精の大蛇がそれぞれの口に咥えているもの。

 路上に停まっていた自動車である。

 軽自動車、大型ワゴン、そして四トントラック。


 強靭なアギトに挟み込まれ、まるでおもちゃのように牽引されるその様を見て、人々はようやく悲鳴を上げて逃げ始める。


 僕のすぐ後ろで攻撃に晒されていたおっさんは……頭を抱えて震えたままだった。


「僕が移動した方が早い――!」


 とにかくもっと広いところ――この辺りだとガンダムカフェ前の広場か?

 ええい、とにかく今日はどこに行っても人、人、人で嫌になる――!


「うおっ!?」


 走り出した僕の行く手を塞ぐよう、軽自動車が突き刺さる。

 フロント部分が見事にひしゃげ、漏れ出したガソリンに引火。すぐさま大爆発を起こした。


 熱波に炙られながら転がるように逃れると、待ってましたばかりに今度はワゴン車が降ってくる。


「くそ、いいように遊ばれてる――!」


『タケル様、正面来ます!』


「こなくそ!」


 まるで振り子のように迫る四トントラック。

 悪態をつきながらもとっさに魔力を込めた腕で受け止めるべく構えを取ると――


「なにぃ!?」


 僕の見ている前でトラックがまっぷたつに引き裂かれ、その奥から大口を開けた大蛇が現れる。強靭なあぎとが僕の胴体にかぶりついてきた!


「ぐああああっ!」


 僕の胴体をガッチリと挟み込み、大蛇の頭部はアスファルトを削ったあと、ガラス張りのビルの一階――カフェレストラン内へと突入した。


 大蛇は僕を咥えたまま、店内で縦横無尽に暴れ回る。

 カウンターを破壊し、厨房でのたうち回ったあと、冷凍庫をなぎ倒して一瞬停止。不意にグンっと上に登り始めた。


「がッ、くっ、こ、この!」


 絶え間ない激痛が僕を襲う。分厚いフロアコンクリートが次々とブチ抜かれ、ビル内部を上階へと運ばれていく。


「いい加減に――離せッッ!」


 僕は少しでも状況を打開するため、渾身の力で大蛇を殴りつけた。

 凄まじい強度を誇る蛇も、魔力の篭った拳打を厭うたのか、身を捩りながら停止する。


 もう一息か――そう思い、再び拳を振りかぶった瞬間だった。


「――えっ!?」


 突然の浮遊感。

 僕の身体は窓ガラスを突き破り、高層ビルの上階から外へ放り出されていた。


 ゾクリとした恐怖に全身が支配される。

 摩天楼のような高層ビルが急速に遠ざかっていき、僕は真っ逆さまに落ちて地面へと叩きつけられるのだった。



 *



「タケル――!」


 突如として現れたあの女。

 遠い異国の戦場でタケルに瀕死の重傷を負わせた憎むべき敵。

 水の精霊セレスティア。


 問答無用の攻撃を繰り出し、タケルは人混みを飛び越え、はるか彼方へとすっ飛ばされていく。そんな主に加勢するべく、エアリスもまた駆け出そうとした。だがその時、エアリスを制する鋭い声が響き渡った。


「どこに行こうっていうのよ、【止まりなさい!】」


「く――、煩わしい。いい加減無駄だということがまだわからぬか!」


 心深の言葉には魔力が籠められており、それを耳にした魔力抵抗のない人間の生理機能、そして精神を直接的に支配する力を有している。


 彼女が着込んでいる水の魔素を湛えたスーツのせいだろう、数日前ではなんら痛痒を感じなかったその言葉に、エアリスは確かな拘束力を覚えていた。


 具体的には自らの意志に反して全身に倦怠感が襲いかかり、膝から力が抜けていく感覚だ。努めて慌てず、心静かに呼吸を整え風の魔素たちへと語りかける。


「風よ――我が身を縛る不浄の魔力を打ち払えっ!」


 夜気を跳ね除けながら暖かな風が駆け抜ける。

 それだけで身体には活力が戻り、エアリスはしっかりとした足取りで地面に立つ。

 そして彼女は怒りと侮蔑を込めた視線で背後を振り返った。


 相も変わらず心深は涼しげで、少しもこたえた様子がない薄っぺい笑みを浮かべながらエアリスの視線を受け止めていた。


「どこに行こうっていうんですかエアリス先輩。まだお話は終わってませんよ」


「今の貴様とは話しをするだけ無駄な気がするがな。いや――」


 エアリスは周囲をグルリと見渡した。

 顎をそらし、数瞬虚空を見つめたあと、改めて心深を見据える。


「まあいい。今は貴様を放って置くほうが危険か」


「あれれ、タケルを助けに行かなくていいんですか?」


 ニヤニヤとした嫌らしい笑み。

 エアリスが何よりタケルを心配していることを知った上で挑発しているのだ。


「我が主を侮るなよ。いかな不調を抱えているとはいえ、易易とやられることなどありえない。それよりも貴様には訊きたいことがある」


「訊きたいこと? もしかして、タケルがちっちゃい頃の話でも聞きたいんですか?」


「な――」


 エアリスは驚愕に目を見開いた。

 そうしてぐっと眉間にシワを寄せ、口を思いっきりへの字に曲げると、唸るように絞り出した。


「そ、そんなくだらない戯言など、聞いている暇はない……!」


 嘘だった。本当はメチャクチャ聞きたかった。

 アウラを授かって以来、幼い子供とは何と可愛いのだろうと、エアリスは町中で見かける親子連れや学校帰りの小学校低学年の子供達にも優しい目を向けるようになっていた。


 そしてタケルの子供時代とは一体どれほどの愛らしさだったのだろうかと、想像をすることもままあった。きっとものすごく偏屈で小生意気な子供だったろう。なんて可愛い……。


 もし目の前にそんなタケル(幼児)がいたら、きっと自分は嫌がるのも構わず思い切り胸に抱きしめてしまうに違いない。


「タケルは小学校低学年の頃、今よりずっと活発な男の子で、いつも半袖短パン姿で外を駆け回っていたんですよ」


「な――馬鹿な、あのタケルが活発、だと?」


 腕を組み、顎に人差し指を添えながら心深は余裕の笑みを浮かべている。エアリスの知らないタケルの過去を披露してやるたびに優越感を抱いているのだろう。


 実際エアリスは、今のタケルとその活発だった頃とのギャップに「そ、そんな馬鹿な……!」と、激しく動揺した様子だった。


「当時はまだゲームなんか持ってなかったし、遊ぶのはもっぱら近所の児童公園で。友達も私くらいしかいなかったから、毎日一緒に遊具で遊んだり、ボールで遊んだり、縄跳びをしたり……。まあタケルはベンチで本を読んでることが多かったけど、私が誘えばブツブツ文句を言いながらも一緒に遊んでくれてたんですよね」


「貴様、嘘を申すな! あのタケルが――自分のやりたいことしかしようとしないタケルが、幼少のみぎりとはいえ女子おなご誘いに乗るはずなどない!」


「子供の頃だからですよ。あの頃はまだ素直な部分が残っていたんです。あー、ちっちゃいときのタケルってば可愛かったなあ。私のことなんて『ここちゃん』って呼んでくれてたんですよ。自分のおやつを半分こにして私にくれたり、一緒にお風呂に入って背中の流しっ子したり、一緒のお布団で抱き合いながら寝たり……」


 うっとりと、心深は上気した顔でタケルとの思い出話を語り続ける。

 そうしてから得意げな顔でエアリスを見やる。

 さぞ悔しがっているだろう。羨ましがっているだろう。

 そう期待を込めて見てみたのだが……。


「ふん。こういうとき貴様ら人間はこう言うらしいな。それは『ダウト』だ――と!」


 エアリスによる余裕の嘘つき宣言に心深の顔が引きつる。

 心の余裕はあっさりと剥がれ落ち、鼻白んだ表情で反論する。


「な、何を根拠に私の話が嘘だっていうんですか? 私があなたの知らない頃のタケルと仲良くしていた事実に嫉妬する気持ちはわかりますが、負け惜しみはみっともないですよ――!?」


「負け惜しみ? 貴様のように思い出を美化するどころか捏造するようなウツケに言われたくはないな。タケルは言っていたぞ。両親は幼い頃から不在で、食事の世話は親戚の叔父夫婦がしてくれていたか、あるいは全て自分で用意していたと。おやつなる間食は誰からも貰ったためしがないとな――!」


 エアリスは直接本人から聞いた寂しすぎる事実を心深に突きつけ、それと同時にスンっと僅かに赤くなった鼻をすすった。


 幼少期、周りの子供が普通に与えられていたもの。

 衣食住に加えてゲームなどの嗜好品、おやつ、レジャーなどなど。

 与えられたことがない子供は大きくなってもそのことをずっと覚えているものなのだ。


 タケルよりもずっと貧しい幼少期を送っていたエアリスではあるが、それでも異世界と地球の差異はあれど、子供の頃にタケルが負った心の傷には大いに同情しているのだった。


「ち、違います、おやつくらいちゃんと貰いました! それは私のお母さんがふたりで食べなさいってくれたおやつのことで――」


「貴様の母親とやらは我が子には随分と執心するようだな。だが、タケルは子供心にも自分が邪険にされているのがわかったと言っていたぞ。もちろん食べ物をもらった記憶などなく、貴様の母親が遊び場まで様子を見にやってくると、貴様はタケルの手を引いて一目散に身を隠していたそうだな!」


「どうしてそれを――!?」


 顔面蒼白になる心深。

 対して論破を仕掛けるエアリスの頬には、一筋の憐憫の涙が伝っていた。


「だからタケルが貴様の家に遊びに行ったことは一度としてなく、逆に貴様はしきりにタケルの家に遊びに行きたがった。口うるさい母親の目が届かない場所でふたりきりになりたかったからだ。タケルはそれがわかっていたからこそ、決して貴様を自宅には招かなかった。故に屋外の公園で仕方なく貴様に付き合っていた、というのが真相ではないのか?」


「で、デタラメよ、小さい頃の話だもの、タケルだって記憶が曖昧になって勘違いしていることだってあるはずだわ。私の中には確かにタケルと遊んだ記憶があるもの!」


 心深は眦を吊り上げて叫んだ。

 断じてこの女に言い負けるわけにはいかない。

 魔法で敵わず、タケルへの想いでも互角なら、あとはもう思い出で勝つしかないではないか――


「ああ、確かに全てが嘘とは私も言わない。だが貴様が先ほど言った言葉は全て捏造だとわかる。タケルの家に招かれた経験がない貴様が混浴? あまつさえ同衾だと? バカも休み休み言うがいい。そんなものは今の貴様のさもしい妄想が生み出した偽りの思い出に過ぎないのだ!」


 バーン、と効果音でも聞こえてきそうなほどのドヤ顔でエアリスは宣言した。

 悔しいがそのとおりだ、と心深は思った。認めてしまった。


 なぜそんな自分さえ騙しきれない嘘をついたのだろう。

 いや、数瞬前まで確かに心深の記憶には幼いタケルとの暖かな思い出があった。

 今なら夢幻ゆめまぼろしとわかるそれを、心深は本物の記憶として信じ切っていたのだ。


「くっ――!?」


 一瞬睡魔のようなものが心深を襲う。

 今日の昼間、彼ら・・と会ってから時折襲ってくる感覚だ。

 あれ、彼らって一体誰のことだっけ……?


「そも、混浴と同衾なら私も経験があるしな」


「え”――?」


 覚えていた睡魔も忘れ、心深は真顔になった。

 しーん……と、痛いほどの沈黙が降りる。

 遠くから爆発音と人々の逃げ惑う悲鳴が聞こえてきた。


「だ、誰と……?」


「無論タケルだ。他の男になど興味はない」


 エアリスは腕を組み、誇らしげに宣う。


「こ、子供の頃の話よね……?」


「私がタケルと出会ったのはつい半年前だ」


「うそ、ウソうそ嘘言うそ――!?」


「ああ、そうだな。混浴は一度切りだ。たまにそれとなく誘ってみるのだが、自宅の風呂は狭くてな。すげなく断られてしまうのだ」


「な――、誘ってる、ですって……!?」


「うむ」とエアリスは鷹揚に頷いた。


「アウラと三人で小さな湯船にギュウギュウと入るのも悪くないと思うのだが、どうにもタケルは私の身体つきが苦手らしい。そもタケルと出会ってから胸周りや尻がますます大きくなってしまったようでな。時々タケルがしかつめらしい表情で私の胸元や尻をジッと見つめてくることがあるのだ。少しは私も『だいえっと』とやらをせねばと思っているのだが……どうした心深とやら?」


 水を向けられたとはいえ、よせばいいのにエアリスはバカ正直だった。

 いや、心深からタケルとの思い出を披露され、多少の意趣返しがあったと言うべきか。


 今や心深の瞳からは光が失われ、引きつった口元からは乾いた笑いが漏れるばかりだった。


「は、はは……、じゃあ、ねえ……同衾は?」


「川の字、というのだったか。風呂も狭ければ部屋も手狭でな。寝るときは必然そうなる。昨夜はアウラを右隣に、反対側のタケルとは布団越しに手を繋いで――」


「うああああああああああああああああああッ――!」


 心深が爆発した。

 それも仕方のないことだった。


 タケルという突っ込み役が居ないため、つい致命傷になるまでエアリスは心深を追い詰めてしまっていた。


「で、【出てきなさいあんた達!】」


 心深が【言霊】を言い放つ。すると路地の裏や、植え込みの陰、雑居ビルの階段から複数人の男たちが現れた。誰も彼も目の焦点が合わず、心深に操られているのがわかった。


 エアリスは知る由もない。彼らは秋葉原に巣食うサブカルチャーが生み出した申し子たち。クリスマスを家族と過ごせば針のむしろで、デートに誘える恋人もいない。互いに寂しく身を寄せ合って酒を酌み交わすことしかできない哀れな無産階級者プロレタリアだった。


「な、なんだ貴様らは!? どこから湧いて出た!?」


「そんなの私が姿をあらわす前に仕込んでたに決まってるじゃないですか……」


 心深は酷薄な笑みを湛えたままエアリスの全身を舐め回すように見た。

 そして男たちに【言霊】で告げる。【あの女を取り押さえなさい】と。


「舐めるな! たかがヒト種族ごときに遅れを取る私では――」


「あんたは動くなああああああああああああ――!!」


「ッッッ――!?」


 途轍もない衝撃がエアリスを貫いた。

 それは心深の『怪音波』だった。

 一瞬鼓膜が破れてしまったかと思う程の大音量だった。


 魔力が込められた【言霊】ならまだ防ぎようもある。

 だが今心深が放ったのは純粋な大きな声。

 相手の脳髄を打ち据える、破滅的なソニックウェーブだった。


 声優・綾瀬川心深が鍛えに鍛えた喉と肺活量。そのすべてを声帯に通すことで初めて可能となる、魔法に依らない本物の音波攻撃。奇しくもアクア・リキッドスーツによる身体強化も手伝い、その威力は本物の兵器レベルに達していた。


「こ、こんな……!」


 エアリスは三半規管を揺さぶられ平衡感覚を失った。

 フラフラと足元がおぼつかない彼女の手足を、虚ろな目をした男たちが雁字搦めにする。


「くッこの、離せ、ヒト種族風情が私に触れるな、私に触れていいのはタケルだけだ――」


 エアリスは男たちを振り払おうとした。

 だが次の瞬間、「すう――」と目の前で吸気の音がする。

 そして――


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――!!!」


 先を凌駕する『怪音波』だった。

 頭の内側で盛大にシンバルが鳴り響き、目の中にチカチカと星が散る。

 とても立っていることができず、エアリスはガックリと項垂れた。


「はあ、はあ、はあ……なあんだ、魔法なんかなくても、全然、簡単じゃない……!」


 今の『怪音波』でどれほどの体力を消耗したのか。

 心深は肩で息をしながらエアリスへと手を伸ばす。

 首を振って意識を繋ぎ止めようとする彼女の前髪をぐわっと掴み上げた。


「ねえ……、はあ、教えてよ……。タケルと、キスはした……?」


「う、あ……そ、れは……」


「言いなさいよおおおおおおおおおおおおおおおッ――!!」


「ぐううっ――!」


 脳みそが掻き回される程の衝撃。

 今度は耳元に直接『怪音波』を叩き込まれ、エアリスの視界がグニャリと歪んだ。


「だ、誰が貴様なぞに……」


「……なんですって?」


 ギリっと前髪を締め上げる。


「したのはわかってるのよ。あなたに拒否権なんてないんだからさっさと言いなさいよ」


「この、クドい……!」


「【教えなさい】」


「あ」


 意識が半分飛んだ状態でようやく。

 心深の全力の【言霊】が効果を発揮した。


 エアリスの思考力と判断力が急速に失われ、まるで自白剤でも打たれたように、心深の質問に諾々と答え始めた。


「一度目、は……ミュー山脈を望む山奥の湯治場……」


「湯治場って温泉ってこと?」


「然り。初めての告白……私から口づけを。でも、タケルはそれを拒絶してひとりで行ってしまった……悲しかった……惨め、だった」


「はっ。なんだ、あなただって振られてるんじゃないのよ。ざまあないわね。それで他は?」


 額と額がゴン、とぶつかり合う。

 心深はエアリスの琥珀色の瞳を睨めつけながら答えを待った。


「あ、二度目は、聖剣の祠……王都の魔法師軍団、数多の攻撃が……」


「わけわかんないわよ、要点だけ言いなさいよ!」


 ガンっゴっガンっ!


「私は一度死んだ……、タケルが魔力を注いで、蘇らせて……」


「注ぐって、魔力を口から……? そんなのノーカンでしょ。次は?」


「う、あ……タケルがまた無茶を……尋常ならざる死地に赴こうとして、『おまえは僕の帰る場所だ』と……」


「なんですって?」


 先日のラブホテルで衝撃とともに目撃したタケルの裸体。

 全身が醜い傷と痣と火傷で覆い尽くされていた。

 その原因のひとつとなったであろう出来事を、エアリスは見送ったというのか。

 いや、それよりも『帰る場所』だと?


「やっぱりおまえのせいか――、『タケルの帰る場所』は私の隣だったはずなのに! おまえが奪ったのか――!」


 心深の目に憤怒が宿る。自分の居場所を奪ったばかりでなく、タケルを容易に死地に送り出してしまうエアリスにも怒りが湧いてくる。


 心深は激情の赴くまま、特に目障りだったエアリスの乳房を鷲掴みにした。

 グニュウっと、片手ではとても収まりきれない。

 服と下着越しであっても指の間から肉叢ししむらが零れてくる。


「これか、このだらしない胸でタケルを籠絡したのね!? どうなのよ、答えなさいよ!」


 潰れるほどの力で乳房を握り締めながら、ガンっゴンっ、と頭突きをかます。

 すると「ふ――はは」と笑い声がした。

 エアリスは額から血を流しながら、乾いた笑みを浮かべていた。


「何が、おかしいのよ」


「道化め」


「は……? 道化? 私が?」


 ゆるゆるとエアリスが首を振る。


「貴様も、私も、道化だ」


 エアリスは心深を見上げ嘲笑った。

 それは多分、己自身にも向けられた蔑みだった。


「タケルの行動原理は単純で純粋なものだ。ただ好いた女を取り戻したい。それだけ。そしてその相手とは私でも――ましてや貴様でもない」


「はあ? あ、あいつってば、あなたみたいなのを侍らせておいて、この上まだ他に本命がいるっていうの――!?」


「愚か者め。本命などもとよりたったひとりだ。私がタケルに女を求められたことなど一度としてない。タケルは無辜にも奪われてしまったセーレス殿を取り戻すため、今もなお戦い続けている」


「セーレス……」


 ――なんで告白しないのよ。


 ――それができたら苦労はしないよ。


 思い出した。

 ホテルでタケルが言っていた名前だ。

 何故それを今まで忘れていたのか。


「そしてそのセーレス殿への手がかりとなるあの女――セレスティアと貴様は一緒に現れた。それは何故だと問う前に……時に心深とやらよ、もしや今酷く気分が悪かったりはしないか?」


「え――!?」


 ガクリ、と心深はその場に膝をついた。

 まるで酸欠にでもなったかのように息が苦しい。

 動悸が激しくなり、心深は己が胸を押さえつける。

 パクパクと喘ぎながらエアリスを見上げた。


「何を、したの……!?」


「私は何もしてはいない」


 ブワッと風が溢れ、エアリスを拘束していた男たちが吹き飛ばされる。

 軽く頭を振りながらエアリスは戦闘音が続く方角――タケルとセレスティアが戦っている方向を見やった。


「特異な魔法が使えると言っても所詮は素人か。貴様にもわかりやすくいうと、今この辺り一帯は膨大で濃密な水の魔素が満ち満ちている。魔力抵抗のないヒト種族にはもちろん危険な代物だが、貴様にとっても『魔素酔い』を起こすほど異常な濃度になっているのだ」


「魔素、酔い?」


「見たところ、貴様のその格好は水の魔素を基礎としている。周囲に魔力を帯びた水の魔素が過剰に溢れている場合、親和性が高いそれら取り込み続け、やがては貴様自身にも牙を剥く」


 エアリスは額の血を袖口で拭いながら、心深を見下ろし続ける。

 その瞳には蔑みも憐れみもない。ただ悲しみだけがあった。


 やめろ、そんな目で見るな。

 心深は精一杯の強がりでエアリスを睨み返す。

 ふと、エアリスが口を開いた。


「貴様が不用意に近づいてくれたおかげでようやく黒幕・・である声の主がわかった。聞こえているな?」


「は? 何を言って――」


『ああ、バレちゃいましたか』


「――ッッ!?」


 その声は心深のすぐ後ろで聞こえた。

 慌てて振り返るがもちろん誰もいない。


『それも魔法ですか? これ水の魔素で体内の水分に波紋を起こして脳に直接指令を出す技術なんですよ。こんな極小の振動も拾っちゃうなんて、エアリスさんは地獄耳ですねえ』


 まただ。

 心深の後ろ。頭の後ろ。頭のの後ろの方から声がした。


「なに、なんなのこの声は――!?」


 耳を塞いでいるのに声が消えない。

 心深は混乱して髪を振り乱し、全力でイヤイヤをした。


「どうやら貴様はずっと正気ではなかったらしい。いや、元々そうなるだけの素地はあったのだろう。だが、今はどうでもいい。――楓よ、まさか貴様が裏切っていたとはな」


『心外ですね。私は最初から最後まであのヒトだけの味方です。何も裏切ってはいません。あなたが勝手に仲間意識を持っただけでしょう?」


 心深の頭の中の声。ごく最近、どこかで聞いたことがある。

 それはどこだった? 私は一体何を忘れているんだ?


 それでもなお、声は心深の頭で喋り続ける。

「でも、そうですね」と第三者の息遣いさえ感じ取ることができて頭がおかしくなりそうだった。


『もう二度とあなた達・・・・と女子会はできそうにありません――』


 決然とした声だった。

 告げた瞬間、あれほど沸き立っていた湖面が鏡のように静まるような。

 揺らがぬ決意と不退転の覚悟が伝わってきた。


「そうか――残念だ」


 それだけを言うと、エアリスは手のひらに高密度の風の魔素を集中させた。

 深緑の光が溢れ出し、台風並みの暴風が撒き散らされる。


「心深よ、いま解放してやる。だが少々乱暴になるぞ――!」


「え、ちょっと――」


『ああ、もう最後は結局力技ですか。ならしょうがないですね、予定を繰り上げましょう。心深さん、最後のお仕事ですよ――』


「ひッ――!」


 抗いがたい強制力が心深をスックと立ち上がらせた。

 まるで自分の身体が自分のものではないようだった。


 そして心深の身体――アクア・リキッドスーツが藍色の輝きを放つ。

 それは一瞬とはいえ、エアリスの深緑をかき消すほどの光量。

 ロウソクの炎が燃え尽きる寸前の最後の煌めきだった。


『あなたの最愛のヒトを奪ったこの世界に、ありったけの憎悪をぶつけましょう。セレスティアに破滅のトリガーを引かせるのです――!』


「楓――貴様!!」


 エアリスが心深を封殺しようと風を繰り出す。

 だがそれより一瞬早く、心深は【言霊】を解き放っていた。


「あ――ああああッ、【お願いセレスティア――何もかも全部壊して!】」


「な――ッ!?」


 エアリスはとっさに、かき集めた風の魔素を自身の防御に変換した。

 そうしなければ巻き込まれる――そう確信するほどの『憎』の意志力。

 心深の中にそれほどの憎悪がなぜ――?


 元々、心深の心には希望と絶望が同居していた。

 それはタケルが消えた日からずっとだ。


 必ず帰ってくると信じながらも、もう二度と帰ってはこないとも恐れていた。

 タケルの居ない世界に生きていく意味を見いだせない……。


 なら、いっそ壊れてしまえばいい。

 あのブラックホールの祭日と呼ばれる厄災のときも、心の奥底では破滅を願っていたのだ。


 だから厄災を解き放つ。

 セレスティアという爆弾を引火させるため。

 ありったけの憎悪というトリガーを引き絞る。


 ――エアリスが守りの風を解いたとき、心深のアクア・リキッドスーツからは輝きが消え失せ、ただの黒いタイトスーツへと変貌していた。


 膝から崩れそうになる心深を慌ててエアリスが抱きとめる。

 すると――


「まさかっ!?」


 背後を振り返る。

 不夜城のようにライトアップされた大型家電量販店の方角で、巨大な水柱が立ち上がった。


 やがてそれは怒髪天を衝くように大きく伸び、太く広がっていく。

 ザザザ――っと、都心のど真ん中で大津波が発生していた。


 続く。

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