聖夜の動乱篇2

第153話 聖夜の動乱篇2① アキハバラ会戦〜帰ってきた幼馴染様

 *



 12月24日 午後16:30

【千代田区神田、聖橋付近】


「くそっ、何処に行っちまったんだセレスティア!」


 それは時間にしてわずか30分前のこと。医科歯科大学のキャンパスを抜け、本郷通りに出たマリアとセレスティアは、その日最後の締めとなる神田明神の境内にいたはずだった。


 気持ちも新たにマリアは、セレスティアの健やかな成長と幸福な未来を願い、セレスティアはただ一心に、母の無事を願って祈りを捧げていた。


 軽くお辞儀をして賽銭を入れる。

 ガランガランと鈴を鳴らして、深くお辞儀。もう一度お辞儀。

 そして柏手を二回。


「ねえマリア、なんでこんなことするの?」


 見よう見まねで手をたたき終わると、セレスティアが疑問の声を上げた。


「これが神様にお願いするための挨拶なんだと」


「へえ~」


 そうしてふたりは神前に祈りを捧げる。

 マリアはちらりとセレスティアの方を見た。


 手を合わせ、じっとこうべを垂れる姿は美しかった。

 神聖で犯しがたい雰囲気がにじみ出ていた。そんな彼女の姿を瞼の裏に焼き付けて、マリアもまた目をつぶり祈りを捧げる。


 どうかこの身体ばかりがデカくて小さな子供に幸せな未来を。

 母と父に囲まれた笑いあえる未来を与えてやってください。

 そしてどうかそれまで自分に、人一倍さびしがり屋な彼女の手助けをさせてください、と。


 ふと思う。

 自分がセレスティアに抱くこの感情はなんというのだろう。


 娘に向ける感情とは違う。

 妹、に向けるものとも似ているが肉親に向ける感情とはやや趣が異なる。

 年下の小さな子供をどうしても放っておけないこの気持ちはまるで。


(そうだな、あたしは……)


 教師になりたかった、とマリアは思った。


 たまさか歩兵拡張装甲なんかと出会ってしまったがため、戦場に身を投じることとなってしまったが、おそらくスミスにスカウトされていなかったら、金をためてジャワ島あたりの大学に行き、そこで教員免許を取って教師をしていたかもしれない。


 数年は島を出て海外で教師をしながら経験を積み、メルパカンに戻って高等教育学校を開こう。その頃には恩師の先生もいい年だろうから手助けにもなる。ちょうどいいじゃないか。


 それは、本来あったかもしれない未来。

 でももう無いであろう未来。


 教師になれなかった自分が、今では何の因果か教導官などをしている。

 まったく人生というのは面白いものだ。


「ん? セレスティア?」


 晴れ晴れとした表情で目を開けるマリア。

 ふと目を向けると隣に居たはずのセレスティアが消えていた。


 祈りを捧げていたのはほんの十秒ほど。

 僅かな時間、思考に没頭していただけなのに、彼女の姿は影も形もない。


 振り返る。

 鳥居へと続く石畳の上は無人だった。

 さあ――っとマリアの血の気が引いた。


 駆け出す。

 飛び出す勢いで道路まで戻る。

 右を見ても左を見てもセレスティの姿はなかった。


「おいおい、マジかよ……!」


 背筋が泡立つ感覚。なぜかはわからない。だが自分の一瞬の気の緩みのせいで取り返しのつかないことになったと確信する。夕闇が迫る神田川の沿道を走り、御茶ノ水駅周辺を虱潰しに探していく。


「セレスティア……! どこだ……!」


 息が上がる。

 今日はアクア・リキッドスーツも着込んできていない。

 普通に遊びに来ただけなのだ、そんなものは必要ないと思っていた。


 だがこうも思う。

 セレスティアは確かに子供ではあるが、自分ではどうあがいても太刀打ちできない生粋の魔法使いなのだ。彼女が本気で魔法を使用すれば、自分では止めることは絶対にできない。


 そして彼女は消えてしまった。

 取り越し苦労であって欲しいと思う。

 だが、先ほどから嫌な予感が止まらない。

 ポジティブなビジョンがまるで見えず、焦燥に駆られながらマリアは叫んだ。


「くそッ、ちくしょう、どうせその辺にいるんだろッ、出てこいよ工藤ぉ!」


「――はい!」


 マリアは硬直した。

 セレスティアを見つけられない苛立ちから、苦し紛れの叫びだったのだが、本当に近くの路地から工藤がひょっこりと現れた。


 やっぱり濡れ鼠は気持ち悪かったのだろう、今の彼はそのへんの量販店で買ってきたイモジャージの上下姿であった。マリアはすかさず工藤へと詰め寄る。


「お、おまえいつからだ? いつからあたしらをつけていやがった!?」


「教官とは違い、人前で飲食するのが恥ずかしくて、真っ赤になって項垂れるセレスティアさん――大変可愛らしゅうございました!」


「この野郎ッ――」


 やはり侮れない。流石はエリート自衛官である。

 魔力を使わない状態のマリアとでは軍人としての格が違う。


 このストーカー野郎――と拳を振り上げたマリアだったが、それが振り下ろされることはなかった。今はそんなことをしている場合ではないのだ。


「工藤、セレスティアが居なくなった。アイツは目を離すと……ちょっとヤバイんだ。頼む、探すのを手伝ってくれ」


「もちろんであります! 既に他の仲間たちが捜索に当たっています!」


「すまねえ……」


 冬の夕暮れは瞬く間に暗くなっていく。

 ビルとビルの間に落ちていく太陽は、腐り落ちる寸前の果実を思わせるほど、毒々しい赤色をしていた。



 *



 夢を、夢を見ている。

 これは自分の夢?

 それとも誰か別の?


 どこまでが自分で、どこからが他人なのか。

 すべての境界が曖昧になってしまった幽玄の世界。

 セレスティアはそこで夢を見続けていた。


 幼い頃、セレスティア・・・・・・は両親の離婚を機に祖父母の元へと預けられた。


 都心から何時間も離れた田舎町への転入だった。

 東京ものとバカにされ、クラスではイジメられたが、今思えばそれはまだ幸せな時期だった。


 数年後、ようやく落ち着いたからと母、セーレス・・・・から連絡があったとき、セレスティアは喜んで東京にある自分の生家へと戻った。


 彼女を出迎えたのは、慎ましくも思い出の詰まった我が家などではなく、ボロボロで今にも朽ち果てそうな、木造二階建てのアパートの一室だった。


 セーレスは再婚をしたと言った。

 初耳だった。そうして義父となったのが、母よりも一回り以上年下の父タケル・・・だった。


 幼いセレスティアから見ても、フェアな夫婦関係とは言い難い生活が始まった。


 タケルは働かなかった。

 毎日昼過ぎに起きてきては、ギャンプルへと出かけ、勝てば飲んだくれて深夜に帰宅。負けたら酒を買い込んで夕方前から酒盛りをする始末。一切の遊興費は、セーレスのパート代から賄われていた。


 そのような家庭環境に置かれたセレスティアが、新しい学校に馴染めるはずもなかった。


 さらに中学に上がるころになると、セーレスが家を空けることが多くなった。

 ようやく帰ってきた母を捕まえ事情を聞いてみても、「お義父さんの言うことを聞いていい子にしてて」の一点張り。


 そしてついに、セーレスは帰ってこなくなった。

 でもその代り、何故かタケルの金回りがよくなった。


 セレスティアは生活費も小遣いももらえず、タケルの食べ残しや、すでに支払い済みの給食で糊口をしのいだ。


 ほどなくして限界が来た。

 タケルが何日もいなくなり、お金も食べ物もなくなり、セレスティアは数日間、部屋の中で水ばかりを口にしていた。もうダメだと覚悟したとき、ようやくタケルが帰ってきた。


 帰ってきたタケルは、今まで見せたこともない笑みを浮かべて、セレスティアに食事をさせてくれた。


 たかがコンビニのお弁当が、セレスティアにはごちそうだった。

 ようやく人心地がついたと思った矢先、セレスティアは襲われた。


 最初は暴力を振るわれていると思った。

 だがようやく理解が追いついたとき、もっとおぞましいことをされていると気づいた。


 行為は一晩中続いた。

 タケルがシャワーを浴びに行って、ようやく解放されたのだとわかった。

 入れ替わりでセレスティアがシャワーを浴びて戻ると、新しいごはんが用意されていた。


 ああ、今日からこれが私の糧になるんだ、そう思った。


 それからは学校に行くことを禁じられた。

 横のつながりもないアパートで、セレスティアは食事のために義父タケルの相手を続けた。


 不思議なもので、あれほど嫌悪感にまみれた行為でも慣れてきた。

 中学二年の終わりに遅めの初潮が訪れた。

 タケルは容赦などしてくれなかった。


 程なくしてつわりが始まった。

 タケルは容赦などしてくれなかった。


 法的に過失が生まれる前に堕ろされた。

 一日とおかず、タケルはセレスティアを弄んだ。


 しばらくすると、再びタケルの金回りが悪くなった。

 コンビニのお弁当がカップ麺になった。

 一日二食が一食になった。


 次の日から、部屋に知らない人がやってきた。

 まるまると太っていて脂ぎった男だった。


 その男の後ろで、タケルがお金を握りしめていた。

 相手が変わっただけで、やることはみんな同じだった。


 その頃にはもう、セレスティアの心は壊れかけていた。

 それでも彼女が正気を保っていられたのは、母の存在があったからだ。


 お母さんに逢いたい。

 それだけが、セレスティアに残された唯一の感情だった。


 そしてふと思う。

 もし母もまた、自分と同じ責め苦を受けているのだとしたら……?


「あ――れ?」


 セレスティアの上に伸し掛かっていた男が死んでいた。

 頭蓋が割れ、グズグズの眼窩から水精の蛇が顔を覗かせている。

 そうだ、こんなの簡単なことだった。


 自分が持つこのチカラは特別なのだ。

 どんなに相手の体格が勝ろうが、複数人だろうが関係ない。

 指先一本で、いともたやすく壊すことができる。


 なぜ忘れていた。

 なぜ我慢していた。

 このチカラがあれば母を救える。

 義父タケルを殺すことができる。


『――とにかく約束だ、セレスティア』


「う”る”さ”い”――!」


 大好きになると。

 約束を守れば好きな気持ちがもっと大きくなると。

 そう言ってくれたのは一体誰だったか。


 思い出せない。

 セレスティアの心は固く冷たい殻の中に閉じ込められていた。

 無垢である故、純粋である故、闇色に染まったときの落差は苛烈なももだった。


「私とお母様に非道いことするお父様なんて――大嫌いっっ!」


 金色の髪を逆立て、全身に水精の大蛇を纏い、セレスティアはビル・・の上から真下へと飛び降りた――



 *



 12月24日 18:30

【秋葉原UDX前秋葉広場】


「こ、心深……!」


 呟きは重く、誰の耳にも届かず、秋葉原の喧騒にかき消された。


 だが心深は笑った。

 僕に名を呼ばれたからか。

 今まで見たことのない嫣然とした笑みを浮かべていた。


 ――僕の唇の動きを読んだのか?


 思えば彼女が僕の一挙手一投足、言葉の一つ一つを見逃すはずがない。

 自惚れなどではなく事実として。それは僕に課せられた心深という名の枷だった。


 彼女の僕への妄執はこの間のホテルで味わったばかりだ。

 幼くて拙くて、そして甘美で激しいものだった。


 明確に、今の本当の姿を見せつけることで、彼女が幼馴染として知っている僕はもう居ないんだと思い知らせたはずだった。


 また再びこうして現れたということは、彼女の想いは断ち切れなかったと判断するべきか。いや、むしろもっと苛烈なものになっている可能性すらある。


 それにしても……今の心深の格好はある意味クリスマスらしいというか、でも冗長がすぎるというか……。


 祭服、とでもいうのだろうか。

 まるで教会の神父様が着ているような服だ。


 円形に繋いだマントの中心から頭だけ出して、光沢を放つ真紅のサテン生地が心深の体のラインに添ってなだからかな凹凸を描いている。


 本日のみに限って街中で見かけるのならば許容できるが、それでもこの電気街で着こなすにはやはり場違いとしか言いようがない。


「メリークリスマス」


 美しい声だった。

 騒がしい雑踏の中であっても凛と響く声音。

 大した声量ではないのに周囲の人々が思わず足を止めて振り返る。

 その声には、そうさせるだけの確かな魔力・・が込められていた。


「おまえ、それ……!」


 今までにない精強な本物の魔力。

 学校にいたときよりも、先日の彼女の自宅前で感じたものよりずっとずっと強くて禍々しい魔力だった。


 心深は僕の見ている前で可愛らしく小首を傾げた。

 サラリと黒髪が一房、祭服の胸元にこぼれ落ちる。


「ねえ、私達が生まれてこの方、クリスマスがホワイトクリスマスになったことなんて一度もないわよね?」


「は?」


 なんだ、唐突に?


「何年か前に都内でクリスマスに雪が降ったらしいけど、厳密には積雪がないとホワイトクリスマスとはいえないんですって。知ってた?」


「…………」


 僕は何も言えないでいた。

 それは、突然フランクに話しかけてきた彼女に呆れていたからではなく、むしろ怖気を感じたからだ。


 まるであの頃――中学生時代に毎朝話しかけてきたときのように、心深は無邪気に僕へと同意を求めている。


 初めから僕の答えなど期待していない、彼女からの一方通行だったその会話。その時と同じように、小首を傾げながら僕の顔色を伺っている彼女の様子に、正直寒気が止まらなかった。


 不意に、心深の視線が隣――エアリスへと移る。

 初めて、心深の笑みが歪んだ。

 眉間にしわを寄せ、犬歯を覗かせる。

 忌々しく舌打ちでもしそうな、そんな醜い表情だった。


「それってもしかして……指輪?」


 心深の視線を細分化するなら、その先には確かに僕がエアリスへと贈ったばかりのシルバーアクセ……指輪があった。


 なんの飾り気もない銀色の指輪は、胸の前でぎゅっと握り込まれたエアリスの左の薬指でイルミネーションの光を鈍く反射していた。


「へえ、素敵な指輪ね?」


 心深が一歩を踏み出す。

 エアリスは警戒するように身を引いた。


「これみよがしに左の薬指になんてハメちゃってさあ、それってやっぱりそういう意味? 婚約指輪のつもりなの? それとも単なるクリスマスプレゼント? ダメじゃない、クリスマスにそんな意味深なものあげたりしたらさ、女の子はみんな勘違いしちゃうでしょ……?」


 心深が両手を広げる。

 すると真紅の祭服も大きく広がった。

 胸に抱かれた十字架が、まるで断罪を迫るように僕とエアリスへと近づいてくる。


「でも……ねえ、先輩にはそんなのあげちゃうんだ。あんたって昔から私にはプレゼントのひとつも、髪留めのひとつもくれたことないのに、エアリス先輩には指輪なんてあげちゃうんだ、へえそうなんだ……」


 心深の手が祭服に触れた途端、襟元のボタンが弾けた。

 長い黒髪をたわませ、ずり落ちた祭服の下から現れたのは、見たこともない漆黒のスーツだった。


 漆黒、というのは正確ではない。

 黒地のタイトなスーツの表面は、青白い輝きで満たされており、彼女の呼吸に合わせて、各所に描かれた藍色のラインが流動と明滅を繰り返している。


 そして全身の青白い輝きが強まれば強まるほど、心深から発せられる魔力は強まっているように見えた。


「私も欲しいなあ指輪。エアリス先輩だけになんてズルいよ。そこに売ってる安物で許してあげるからさあ、あんたが私にハメてよ。直接この薬指に……」


 そう言いながら心深は、青白い光を湛えた左手を掲げる。

 今や彼女の口元は、切り取られた三日月のようで。嫉妬や憎悪や妬み、それらを超えたもっと恐ろしい悪感情が瞳には宿っていた。


「――ひッ」


 僕の右隣、エアリスよりもさらに向こうから声がした。

 シルバーアクセを出店してたお姉さんだ。


 無理もない。彼女は紛れもなくただの一般人であり、異常な雰囲気と正体不明の圧力を発散させる心深に恐れをなしたのだ。


 可哀想に、お姉さんは震えながら後ずさる。

 心深の目が鋭く細められた。


「ちょっと、なに逃げようとしてるの。今から買い物するんだから。【ちゃんとそこに居なさいよ】」


「――あ」


 小さな悲鳴。

 お姉さんは驚愕の表情のまま、目だけをせわしなく彷徨わせている。


 動かないのだ身体が。

 両足は地面に縫い付けられたように釘付けになり、身じろぎ一つできないのだ。


「エアリス――!」


「風よ!」


 途端、エアリスから発せられる清廉なる息吹。

 深緑の魔素を含んだ風が、優しいかいなとなってお姉さんを包み込む。


「はッ――カハッ! はあはあ……!」


 身体の自由を取り戻した途端、お姉さんはその場に尻もちを着いた。

 真っ青な顔で小刻みに震えながら己自身を掻き抱いている。


「あれ? やっぱりエアリス先輩の魔法ってすごいなあ。こんなにあっさり跳ね除けられちゃうなんて」


「おい、おまえ今――」


 魔法、と言ったか。

 自分がお姉さんを縛り付けたもの。

 そしてその拘束を跳ね除けたもの。

 その両方を指して『魔法』と言ったのか。


「なによ、魔法でしょう? 私は『声』を。エアリス先輩は『風』を。あんたは――正直よくわかんないけど。でも魔法が使えるんでしょう?」


「どうしておまえがそれを知っている――!?」


 僅か二日前まで、心深は魔法の魔の字も知らず、無自覚に『言霊』を振りかざしているだけの素人だった。それがこの短期間で僕とそしてエアリスが魔法を使えることまで承知しているなんて――


「何故魔法の事知ってる? 一体誰から聞いたんだ――!?」


「うん? なに、そんなに知りたいの?」


 僕が厳しく詰め寄ると、心深は目を細めながらニィっと笑った。

 イタズラを思いついた子供のような表情で続ける。


「そうね……、今この場で思いっきり情熱的なキスをしてくれたら、そしたら教えてあげてもいいわよ?」


「――なっ!?」


「突然何を言い出すか痴れ者め!」


 吠えたのはエアリスだった。

 まるで僕を庇うように前へと出る。


「幼少のみぎりからの知り合いかなにかは知らないが、現在のタケルは我が主である! ただのヒト種族の小娘の出る幕ではない! イタズラに魔法を振りかざすのを止め、疾く母の待つ家に帰るがいい!」


 なんかいつもより上ずった声だった。

 もうすっかり日も落ちて薄闇の中だけど、顔が赤くなってませんかエアリスさん?


「は――? なに正妻気取りで命令してんの? あなたなんか単なる飯炊き係のダッチワイフじゃない。タケルの身の回りの世話をするためだけの存在のくせに、偉そうにしてんじゃないわよ!」


「だっち……? とはどういう意味だタケル?」


「キミはしらなくていい単語だ!」


 初めて耳にする単語にエアリスがキョトン顔で聞いてくる。

 いくら質問されても男の子には決して口にしてはならない言葉があるのだ。


『ダッチワイフとは主に男性が擬似性交をするための人形のことです。この言葉を一個人に特定して使う場合は、女性としての人格を認めない、第三者の所有物であり、奴隷のような立場である、との意味を含みます。まさにあなたにピッタリの比喩ですね』


「真希奈!?」


 懇切丁寧。これ以上ない満点回答だった。

 幼馴染の女の子からそんな単語が飛び出したのもショックなら、愛娘である真希波が仔細に意味を把握しているのもショックだった。


 僕が固まっていると、隣のエアリスは「ふ――」と余裕の笑みを浮かべて高らかに宣言した。


「ならば問題ない。なぜならこの身も心もすでにしてタケルのものであるのは周知の事実。『だっちわいふ』上等であるっ!」


 それはもう選手宣誓のような堂々としたものだった。

 徐々に数を増やしつつある野次馬からは「おお~!」とどよめきと拍手が沸き起こる。


 それと同時にヒソヒソとしたささやき声も僕の耳には届いた。

 ダッチ……奴隷って。

 最近の若い子は。

 まだ子供なのに。

 あの男最低だな。

 などなど。

 僕、泣いていいかな?


「じゃあ、その指輪……たかが飯炊き奴隷ごときには過ぎた代物でしょう。今すぐ私によこしなさいよ」


「ふざけるな。これはタケルが従僕である私に下賜したものだ。これをつけていれば私という所有物の帰属がタケルにあると一目瞭然である。他者に渡すことなど以ての外である」


「ムカつく……あなたがそんなものを身に着けてること自体分不相応なのよ。いいからよこしなさいよ!」


「断る! なんと言われようとこれは私がタケルに貰ったものだ! しつこいぞ!」


 お互い顔を突き出し、肩を怒らせて「寄越せ」「嫌だ」と舌戦を繰り返す。

 これってば完全に痴話喧嘩に見られてるんだろうなあ周りからは……とほほ。


「ううううっ、――タケルっ!」


「タケルよっ!」


『タケル様!』


「うええ、なんで僕!? てか真希奈も!?」


 心深とエアリスが爛々と血走った目でこっちを振り返る。超怖い。

 そんな二人にプラスアルファで真希奈も参戦している。何故に?


『タケル様! 真希奈もタケル様からの指輪が欲しいです! あの乳デカ女に差し上げるというのなら、生まれながらにしてタケル様に身も心も全てを捧げている真希奈にも当然その権利はあるはずですよね!?』


「ちょ――、頼む、そんな大きな声でやめて! なんか色々噂されてるから、不特定多数の中で僕の評価がどんどん下がっていってるから――!?」


 ジリジリと詰め寄ってくる前門の虎、後門の狼、そして身中の龍。

 さらにその周りには十重二十重と衆人環視の輪ができており、逃げ場などどこにもありはしない。


 あれ、僕さっきまで指輪を贈るという柄にもないことしていて、かなりの幸福感を得ていたはずなのに、どうしてこんなに精神的に追い詰められてるんだろう?


「はいちょっと通して、はいちょっとごめんなさいよ」


 僕が針のむしろに晒されているその時だ、突然人垣を割って警察官が現れた。五十代くらいのガッシリとした体格のお巡りさんである。


 そう、秋葉広場のあるビルの一階には交番が併設されているのだ。

 誰かこの騒ぎを見かねて通報したのかもしれない。


「これはなんの騒ぎかな? お姉ちゃんたち喧嘩? 駄目だよ、こんな往来でみっともないからね」


 何はともあれ助かった。

 警察が介入してくるならごめんなさいして回れ右だ。

 野次馬からも「もう終わりかよ」なんてため息が聞こえてくる。

 だというのに――


「ちょっとそっちのお姉ちゃん、なんて寒そうなカッコしてんの。歩行者天国じゃないんだよここ。路上でのコスプレやパフォーマンスは禁止――」


「【黙れ】」


「――ぐっ」


 ザワッと、小さなどよめきが起きる。

 心深は凍えるような表情でお巡りさんを睨みつけていた。


「いいとこなんだから邪魔しないでよね。【そこでカカシになって見てなさい】」


「ふっ――くっ、かっ!?」


 止める暇などありはしない。

 お巡りさんは突然動けなくなった自分自身に目を見開いて驚愕している。

 額からは脂汗がダラダラと流れ、指一本動かせないまま立ち尽くしている。


 心深の魔法の恐ろしいところはその発動速度にあった。

 僕の魔素分子星雲エレメンタル・ギャラクシーと同等の速度。

 まさに息を吸うが如く最速で魔法を発動できるのだ。


「心深、おまえ何をしてるんだ!」


「何って、このヒト私達の邪魔をしてきたんだから当然でしょう?」


「当然っておまえ――」


「あれれ、よく見たらいつの間にか関係ない人たちがたくさん集まってる。そっか、あんたってば昔から人見知りだったもんね。こんなに騒がしくちゃ落ち着いて話もできないわよね」


 心深は一度グルリと周囲を見渡し、そしてまるでバスの添乗員が出発を告げるように手を上げながら言った。


「【みなさーん、一切しゃべらないでくださーい】」


「なっ――!?」


 音とは空気中を伝わる振動の波だ。

 その速度は秒速340メートル。


 つまり心深の発した声から逃れられる者は皆無。

 週末、クリスマスで賑わう秋葉原に、痛いくらいの静謐が生まれた。


 誰もがうめき声さえ上げられず、急激に冷え込みだした夜の中、白い息だけを吐き出している。お巡りさんとは違って体だけは動くものだから、自分の喉を押さえ、しきりに口をパクパクとさせていた。


「あっはははは! すごいすごい、こんなに簡単に他人を好きにできちゃうなんてもう最高。魔法ってこんなに便利なものだったんだね。見てよ、みんな打ち上げられた魚みたいになってる。あー、おっかしいっ!」


 心深は喜色満面の様子だった。

 僕は自分の顔がみるみるこわばっていくのを自覚した。


 こいつは……本当にあの綾瀬川心深なのか!?

 少なくとも僕が知る彼女は、人間をおもちゃのように扱って笑っていられるようなやつじゃないはずだ。


 魔法のことといい、彼女が着ている珍妙なスーツといい何かがおかしい。

 あのホテルの夜から僅かな時間で、彼女の身に何が重大なことが起こったのだ。

 この変貌ぶりはそうとしか思えない――


「――いい加減にせぬか」


 ぶわっ、と冷たい空気を払いながら、エアリスの風が駆け抜ける。


 まるで春風が花の蜜の香りを運ぶような、そんな暖かくて甘い匂いのする癒やしの風が全周囲に向けて放たれる。


 途端、「あ」とか「う」といった母音が聞こえてくる。ようやく言葉を取り戻した野次馬たちが、しきりに瞬きを繰り返し、そして懐疑と恐怖を合わせた視線を僕らへと差し向けてくる。


「乱痴気騒ぎはおしまいだ。そこな心深と言ったか。向こうの世界でも、まれに孤児などが自分ひとりで魔法の素養に目覚め、周りに誰も諌めるものがいないまま成長すると、ちょうど今の貴様のような増長した態度を取るようになる。どうやら仕置が必要なようだな……」


 エアリスは深緑の魔素を纏い、銀髪を風に遊ばせながら、ゆっくりとした足取りで心深へと近づく。


 魔法師としての純度はエアリスの方が遥かに格上。

 心深はもちろん僕よりもそうだ。


 そんなエアリスが完全なる戦闘モードで魔素を滾らせる意味。彼女の強力な魔力も、付き従えし魔素も見えているというのなら、心深にも今のエアリスが本気で怒っているということがわかるだろう。


「ふふ」


 だというのに心深の余裕は消えていなかった。

 普通の人間相手ならまだしも、僕はおろかエアリスでさえ、彼女の『言霊の魔法』は通用しない。


 いくら魔力が格段に強くなったとしても、それよりもさらに強い魔力を纏う僕やエアリスには彼女の魔法は効かないのだ。


「偉そうにお仕置きとか言っちゃってさあ、ホント何様って感じ。私が魔法を使うのにどうして誰かに許可を求める必要があるっていうのよ。……そもそもさあ、どうしてあなたなの?」


「どういう意味だ?」


「なんであなたみたいな女がタケルの隣にいるのかって聞いてるのよっ!」


 不意に心深の笑みが消え、醜悪な感情が顕になる。

 般若とは、嫉妬に狂う女性の表情をディフォルメしたものだというが、僕はその時、正真正銘、嫉妬に狂った女の顔が、鬼面に似通うことを知った。


「そこは、その場所は私のもののはずだった。タケルの隣にいるのは私のはずだった。それなのにいつの間にかちゃっかりあなたなんかが居座っちゃって。しかも子供まで……? ふざけるんじゃないわよ――!!」


 心深の悪感情とともに、彼女のスーツが水色の光を放つ。その美しい輝きとは裏腹に、垂れ流される魔力の重苦しさは酷いものだった。抵抗力のある僕でさえ、思わず息を詰めたくなるほど重く苦しい。


 周りの野次馬たちは心深の言霊から解放され、もはやなんの拘束もされていないというのにその場から逃げられずにいた。蛇に睨まれた蛙のように動くことができないのだ。


「子供の頃からずっと好きだった。将来は絶対結婚するんだって、バカみたいだけど小学生のときから意識してた。自分がタケルには釣り合わないと思ったから何か頑張れることを探して、それでやっと胸を張って告白しようと思ったのに、それなのに――」


 ギリリっと、エアリスを見上げる。

 その瞳に宿る情念とは一体何なのか。

 嫉妬? 殺意? 憎悪?

 そんな言葉では括れない、複雑極まる妄執が宿っていた。


「他に好きな女ができただなんて、認められるわけないでしょう? どいつもこいつも、あとからノコノコ出しゃばってきた分際で図々しいのよッ――!」


 自分の居場所を奪ったもの。

 自分がいるべき男の寵愛を受けるもの。

 その全てが理由であり、そしてそれだけではない。


 何者かによって心深は狂わされている。

 それは間違いない。だが、狂うだけの素地は元々の彼女の中に息づいていたのだ。


 ラブホテルのことと合わせて僕は愕然としていた。

 十数年の時を経て僕は今ようやく、綾瀬川心深という女の子のむき出しの心に触れていた。


「なるほど。言いたいことはわかった」


 静かに、心深の思いの丈に耳を傾けていたエアリスが言った。


「貴様が苦労をしたのはわかる。目に見えるようだ。同情の余地もあるだろう」


「だったら――」


「だが、だからと言ってこの場所を譲るつもりなど毛頭ないわ!」


 エアリスはきっぱりとそう言い放った。

 大きな胸を抱えるように腕を組み、顎をそらして決然と言い放つ。


「そもそもこの男が頑固で融通の利かない難物であるのは貴様もわかっていたはずだ。私とて道端でヂル金貨を拾うように易易と今の立場にいるわけではない。――文字通り己が命を賭してここに居るのだッ!!」


 絶対の自信。揺らがぬ信念。出会ってからの時間は短くとも、僕とセーレスの時間がそうであるように、エアリスとの時間もまた濃密なものだ。


「私とてここに至るまで楽な道のりではなかった。一度は憎み、一度は振られ、一度は死にかけた。そうして手に入れたのがタケルという男の隣なのだ。少なくとも、気持ちの上では貴様には絶対負けん――!」


 イブの夜に、その言葉はまるで聖句のように響き渡った。

 エアリスの言葉を耳にし、状況は理解できなくとも、野次馬からは拍手喝采が贈られる。


 僕だってそうだ。ノリや軽い気持ちで、エアリスを地球に連れてきたわけではない。彼女の言うとおり、僕なんかのために命を賭けてくれたからこそ、その想いに応えたくなったのだ。


 セーレスへの気持ちを貫くのなら、それが決して許されることではないのもわかっている。でもあの時あの場所で、仮に彼女を見殺しにしてしまっていたら、僕はもう二度とセーレスの顔をまともに見れない気がした。エアリスも救えない僕が、セーレスを助けられるはずがないと、そう思ったのだ。


『タケル様、嬉しそうですね』


 真希奈からの掣肘。

 確かに、僕の口元は笑っているようだった。

 不満そうな娘を宥めるよう僕は自らの胸を撫でた。


「まあ、すげえこっ恥ずかしいけど、あそこまで言われて悪い気はしない」


『くう~、悔しいです。真希奈だって真希奈だって――!』


「はいはい。大丈夫だよ」


 ざわざわと、再び人々の喧騒が広場を満たしつつあった。

 浄化の風のおかげなのか、それともエアリスの言葉によるものなのか。

 結局若い者同士の痴話喧嘩ということで事態は落ち着きそうだった。


 いやしかし、今の状態の心深を放っておくことはできない。

 これ以上被害が出ないうちに彼女を説得しなくては――


「心深」


 僕に呼ばれ、心深の肩が震える。

 エアリスの決意を聞かされてから俯いていた顔を上げる。


 なんて顔してるんだ、と僕は思った。

 小学生の頃、一緒に遊ぼうと誘いに来て、僕に拒絶されたときの顔そのままだった。


「僕はもうおまえの知ってる僕じゃない。そう言ったはずだ。でももう一度僕の話を聞いてくれないか。僕がおまえの前から消えてから何をしていたのか、全部教えるから。おまえのその魔法ちからのことだって相談に乗れるはずだ。だから――」


「あはっ、あはは、あはははははははっ――!」


 哄笑が……響き渡った。

 もう堪えきれないというように。

 心深が無邪気に腹を抱えて笑っている。


「あーあ、やっぱりダメかぁ。うん、あのヒトの言うとおりだ。じゃあ力づくでやるしかないわね――」


 その言葉に、僕とエアリスの警戒心が膨れ上がる。

 この上まだやり合おうというのか。

 心深の魔法は僕らには通用しないというのに。


(いや、それよりも今あのヒトって・・・・・・――)


『タケル様! 頭上に感あり――魔力をお借りします!』


「な――!?」


 言うが早いか、僕の魔力が両腕に収束する。

 それが頭上に掲げられた瞬間、ズシンッ――と、僕の両足が石畳に埋まった。


「くっ、これは――!?」


 水色を纏った鱗が見える。

 それは馬鹿馬鹿しいほど高密度に結晶化した水の魔素であり、恐ろしいほどの重量と硬度を持った水精の蛇だった。


「キミ、は……セレスティア、なのか?」


 不意打ちを終え、僕の目の前に降り立つ美女。

 黒衣に身を包んだ美貌。


 金色に輝く髪も、翡翠の瞳も、そして特徴的な長耳も。

 見れば見るほど全てが彼女の生き写しである。


 鎧を通さず、こうして生身で対峙して僕は改めて確信する。

 間違いなくセレスティアはセーレスを守護する精霊が顕在化した姿だと。


 シリアでの邂逅のときは、一方的な敵意と暴力を奮ってきたセレスティア。その理由はわからなくとも、彼女が母セーレスのために動いていることはわかった。


 なら話し合いの余地はある。戦う必要などない。

 何故なら僕らは――


「お父様……」


 金糸の前髪の間から、怯えた瞳が覗いている。

 僕は空手を広げながら、怖がらせないよう、笑顔で語りかけた。


「セレスティア……初めまして、僕は――」


「お母様は、どこ?」


「は――?」


「お母様を――」


『水精の魔素、急速増大――タケル様、防御を!』


「返せえええええええ――!!」


 絶叫とともに巨木と見紛う程の大蛇が、僕へと襲いかかった。

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