第150話 聖夜の動乱篇⑪ イブデートin御茶ノ水〜失墜する水の精霊様

 *



「当時はあたしももっとずっとガキだったから気づかなかった。自分が敵だと噛みついてた大人たちに陰ながら助けられてたことに」


 マリアは母の教育のおかげでかなり英語が達者だった。やがて彼女は資格を取り、研修実績を積み、インターネットを通じた英語教師の仕事をするようになる。その際にも観光協会のオヤジや、先生にかなり世話になった。


 決してマリアひとりだけの力で生きてきたわけではない。助けてくれた大人たちに今度はマリアの方から恩返しをしようと考えたが、自分のような子供(彼らからすれば)から素直に謝礼を受け取るとも思えない。ならやっぱり、自分が受けた恩は、次の世代の子供たちへと返していくしかない――


「……そんなことして、マリアは怖くないの?」


 溶けたアイスでベタベタになった手を一振り。アクア・ブラッドによる効果なのか、セレスティアの掌は、しっとりと冷たいだけで、汚れなどキレイさっぱりと消えていた。


「怖いって何がだ?」


 セレスティアは、元気をすべて取り払った、しょんぼりとした様子でマリアを見上げる。そうしていると不思議なもので、セレスティアが本当に小さな子どものように見えてきてしまう。


 年の頃は小学校低学年くらい。一生懸命大人ぶりながら、両手を広げて大切なものを守っている、そんなイメージ。


「優しくしたら優しくされるわけじゃないんだよ。こっちが好きでもあっちは違ったら嫌だもん」


「ああ、そういうことか」


 いつでも善意に善意が帰ってくるとは限らない。自分から優しくすることは怖いことなのだ。


「確かに、あたしが勝手にしてるだけで、相手にしたら迷惑なこともあるかもな」


「そうだよ、一方通行は嫌だもん。こっちはどんなに相手を想っても、全然応えてくれないのは、辛いもん……」


 それはアリスト=セレスのこと。そしてあの男のことを言っているのか。


 肉体崩壊から守るため、アクア・ブラッドの中で時を停めている母は何も答えてくれず。そんな母を救ってくれるはずのタケル・エンペドクレスは十年もの間現れなかった。セレスティアの心の余裕はつい最近まで、いや実は今でもギリギリのところにあるのかもしれない。


「でもやっぱり、他人に優しくすることは恐れちゃいけない。やめちゃいけないと思う。たくさんいい子にして、そんで母ちゃんが目覚めたとき、頑張ったねって褒めてもらえたら嬉しいだろう?」


「え――お母様が目覚める?」


 セレスティアが驚いた様子で顔を上げる。何を驚くことがある。あの男の出現によって今までずっと停まっていたセレスティアの時間が動き始めたのは明らかではないか。


「いろいろ事情は聞いたって言っただろ。お前の母ちゃんはスミスの糞野郎が無理やりこっちの世界に連れてきちまったから弱ってるって。そしてお前はそんな母ちゃんを助けながらずっと待ってたんだろう……父ちゃんがくるのをさ」


「父、ちゃん……お父様?」


「タケル・エンペドクレスだっけか。あくまで精霊であるお前をアリスト=セレスの娘とした場合、その母ちゃんと恋仲同士のタケル・エンペドクレスって父ちゃんって言い方できないか……?」


「え――ええ?」


 お、初めて見る表情だ、とマリアは思った。眉根を寄せて険しい眼差しなのに、視線は空を切り、口元はだらしなく半開きだ。


 見た目だけなら極上美女であるセレスティアがしてはいけない表情である。先ほどからこちらの様子を遠目に伺っている学生たちには、申し訳ないがガンを飛ばしてけん制しておく。


「お、お母様が目覚める? え、あれ、でも今目覚めたらまた肉体の崩壊が始まって……!」


「おいおい、父ちゃんが地球に現れたってことは、ちゃんと帰れる手段があるってことだろ。なら一度母ちゃんを連れて帰れば身体は大丈夫になるんじゃないのか?」


「そう、なの……?」


「お前マジか。それ考えてなかったのかよ」


 幼くて拙い、というレベルの話ではない。セレスティアは子供だが非常に頭のいい子だ。だがよくよく考えてみれば、あのシリアでの一件もおかしくはないだろうか。


 確かにセレスティアにとっては十年もの間、自分と母を待たせていた許せない男だろう。だがタケル・エンペドクレスはそれほど時間を置かずに地球へとやってきたと――現実に長い時間が流れてしまったのはセレスティアの方だと、スミスは言っていなかったか。


「お父様と帰る……? だってお父様が私とお母様を助けてくれないのは、ずっと放っておかれてるからだって。私やお母様のことが嫌いになったからだって思って、だから『第七剣王異界セブンスキングダム』奪えばいいって」


「なんだと……?」


 マリアに話して聞かせた事実と、セレスティアへ与えられた情報に明らかな齟齬がある。そもそもアリスト=セレスやセレスティアを嫌ってるならタケル・エンペドクレスが地球に来るはずがないではないか。


「なあ、そのセブンなんたらってのを奪えばいいって、おまえにそう言ったのは誰なんだ?」


「え…………スミスだよ?」


 あいつ――どういうつもりだ!?

 ただでさえ心に余裕のないセレスティアを焚き付けて、追いつめて、しかも自分の父親を殺させるような真似をさせて、一体何がしたいんだあの男は!?


「あれ、じゃあ私がお父様にしたことは……? 全然見当違いの悪いこと……? 私、悪い子になっちゃったの……?」


 セレスティアは顔面蒼白なっていた。自分が取り返しのつかないことをしたと本気で思い込んでいる。マズイ、最近でこそ安定してきたが、セレスティアが心に爆弾を抱えているのは紛れもない事実だ。何とかフォローしないと。


「だ、大丈夫だ! あれだ、おまえの父ちゃんは魔族種ってなんかすげー存在なんだってさ。だからちょっとやそっとじゃ死んだりしないだろ。きっと生きてるって」


「ホント……? でも私、きっと嫌われちゃった……、あんな非道いことして、お父様絶対怒ってる……!?」


 セレスティアは涙は決壊寸前になっていた。

 今にも零れ落ちそうな大粒の涙を目端に溜めながら彼女は震えていた。


「そ、それも大丈夫だ。ちゃんと事情を説明しよう。なんならあたしから説明してもいい。セレスティアはずっとひとりで頑張ってたんだって、スミスって悪い男が嘘を教えたんだって。そんできちんと謝ればきっと許してくれるさ!」


「う、うえっ、マリア、私……! ちゃんと謝る、いっぱいごめんなさいする! もし許してくれなくても、お母様だけでも助けてくださいってお願いする……!」


「バカ、おまえ……!」


 鼻のてっぺんを真っ赤にして、グズグズとセレスティアはしゃくりあげる。抱きしめてやる以外にマリアができることはない。頭を撫で、耳元で「大丈夫、大丈夫だ」と呪文のように唱えてやる。


 そうだ、こいつは本来泣き虫なのだ。精一杯強がってはいるが、実際は驚くほど脆い。そう思うと同時に、マリアの腹の中はグラグラと煮えたぎるマグマのような怒りで満たされていく。


(スミスの野郎……、どういうつもりだっ!?)


 ヤツの掲げる大きな目的。世界を救うこと。それなのに何故セレスティアをタケル・エンペドクレスに差し向けるような真似をした。父娘の仲を引き裂くように仕向けておいて、さらにセレスティアの心を不安定にさせて。ちょっとやそっとの言い訳じゃ収まらないぞ……!


「セレスティア、お参りに行こう」


「お参り……?」


「そうだ、すぐ近くに日本の神社があるんだ。そこでお願いしよう。な?」


「うん……する……」


 フラフラと立ち上がったセレスティアを支えながら、マリアはキャンパスの中を本郷通りへと歩いていく。裏門を出て右に緩やかな坂を下って行けば神田明神の大鳥居がすぐ見えてきた。


 今日日外国人観光客が珍しくなくなったとはいえ、ふたりは目立つ。容姿だけではなく、その参拝への真摯で張り詰めた雰囲気が他を圧倒していると言った方が正確か。


 マリアは以前ネットで見たことがある作法を思い出しながら、セレスティアも見よう見まねで祈りを捧げる。母へ、そして父へ。その無事と穏やかなる未来を願いながら手を合わせる。


 時刻は夕方。

 斜陽に包まれる境内。

 ふと、ヒトの気配が消え失せた。


 ――セレスティア……


 ――セレスティア……


 ――セレスティア……


「うん? マリア――」


 手を合わせ、目をつぶり、祈りを捧げ終わったとき、セレスティアは自分が埒外の場所に立っていることに気づいた。


「えー、マリアぁ……ここどこぉ……?」



 *



 12月24日。午後16時00分~、ニコライ堂前


 神田明神にいたはずなのに、気がつけばセレスティアは見ず知らずの教会の前に立っていた。


 慌てて辺りを見渡す。マリアの姿はどこにもない。

 自分がどのようにしてこの場所にやってきたのか、まるで記憶にない。

 ただ、呼ばれたのだ。誰かの声に導かれ、誘われたのは覚えている。


「誰……?」


 キィっと鉄門扉を開け放ち、敷地内へと入る。

 聖堂へと繋がる扉が大きく開いている。

 そしてその奥から美しい歌声が聞こえてきた。


 ステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光に照らされた聖堂内は数多の燭台に炎が揺らめいており、一種幻想的な雰囲気を醸し出している。


 暖かな光だった。冷え切ったセレスティアの心は自然とその暖かさを求めていた。

 導かれるまま、呼ばれるまま、何の疑問も抱かず、彼女は室内へと進んでいく。


「わあ……」


 真っ赤な絨毯に傅かれた祭壇に一人の女の子がいる。真っ白い祭服に身を包み、美しい黒髪を揺らしながら、高らかに聖歌を謳い上げていた。


 純粋なセレスティアはその歌声に酔いしれ、しばしときを忘れた。

 気がつけば聖歌は終わり、歌い手の少女がこちらを見つめていた。


「こんばんは、セレスティアさん。そこは寒いでしょう。もっとこちらへいらっしゃいな……」


「うん」


 確かにそうだ。今自分の心はかつてないほど冷え切っている。母を救えず、父を傷つけ、悪い子になってしまった。誰かが懸命に、そんなことはないよと言ってくれたような気がするが……ダメだ、思い出せない。


「初めまして。私の名前はね、綾瀬川心深っていうの……」


「ここみ……」


 セレスティアが歩み寄ると、ハラリと心深の祭服が落ちる。その中から出てきたのは、青白い輝きを放つ、アクア・リキッドスーツだった。ピッタリとした身体のラインが顕になったスーツ姿のまま心深は両手を広げる。


 迷える幼子を受け入れるため、優しくその身を抱きとめるために――


「セレスティア、いい子ね。疲れたでしょう。お休みなさい。そして夢を見なさい」


「夢……、暖かい……」


 跪いたセレスティアの頭を優しく抱きとめながら心深は囁く。アクア・リキッドスーツによって魔力がブーストされたその声音で、脳髄がしびれるほど甘く切なく囁来続ける。



 *



 セレスティアが目を開けると、今度は真っ暗闇が広がっていた。

 暗く冷たく、自分がまるごと消えてしまいそうな漆黒の世界。

 不意に生まれた気配に彼女は振り返った。


「あ――お、お父様……?」


 自分よりも幼い顔立ちをしたひとりの少年が立っていた。

 素顔すら見たことのない父を何故そうだと確信できたのか。

 わからない。だが確かに見覚えがあるのだ。


 それはまだセレスティアがセレスティアという形を手に入れる以前。

 アリスト=セレスの内側で、彼女の見聞きするものを夢現のように感じていたときか。


 幼い少年は裸体を晒したまま、優しい笑みを浮かべてセレスティアへと近づく。

 差し伸ばされる手。それがセレスティアの頬に触れる。瞬間――


「ヒ――!?」


 ゾッとする程の冷たさだった。

 よく見てみれば、少年らしい瑞々しい肌艶は影も形もなく、ボロボロに擦り切れ、爛れて汚れた死人のような裸身があるだけだった。


「お、お父様――その身体は……!?」


 セレスティアの問いに、父は口を開いた。

 喉の奥から漏れ出る空気が確かに告げていた。

「これはおまえがやったんだ」と――


「ぎッ――ああっ!」


 突然の激痛に悲鳴を上げる。

 氷のような手がセレスティアの髪を掴み上げてきたのだ。


 ブチブチっと金糸の髪が抜けるほどの力。

 涙を浮かべながら顔を上げた瞬間ガンっ、と目の中に消えない星が散った。


「あ……、痛い、痛いよう」


 強かに頬を打たれたと理解すると同時鈍い痛みが襲ってくる。

 張られた部分が熱を持ち始め、初めてとなるその痛みに、セレスティアの心はあっさりとへし折れた。


「イヤぁ、ごめんなさい、ごめんなさいぃ――!」


 引き倒され地面を転がる。馬乗りになった父がセレスティアの上着に手をかける。


「ダメ、やめて――イヤだああああッ!」


 闇に輝く白磁の肌をさらけ出したかと思えば、セレスティアは生まれたままの姿にされていた。己を掻き抱き、必死に身体を丸めようとする試みは、だがしかし父の拳によって遮られる。


「ぐっ! がっ! うぐ! うあっ、あああ……ああああッ!」


 折れた心をさらに踏みつけるように執拗に振るわれる暴力は、セレスティアに抵抗させることを速やかに諦めさせた。


 どうしてお父様はこんなことをするのだろう。

 それは決まっている。セレスティアが悪い子だからだ。

 これはお仕置きなのだ。甘んじて受け入れなければいつまでも赦してはもらえない。


 そしてなにより、死相の張り付いた父の昏い瞳が、セレスティアを金縛りにする。

 この闇色の瞳に映る自分自身を見ていると……どうしようもなく死んでしまいたくなる。


「お、お父様……?」


 暴力が止んだ。

 赦してもらえたのか。

 一縷の希望を抱いた瞬間――


「がァ、ああああああああああああああああああ――!!」


 セレスティアの身体を真っ二つに引き裂くほどの激痛が襲いかかった。

 半狂乱になって泣き叫ぶも、痛みと股間の異物感・・・はなくならない。


 大きく開かれたセレスティアの両脚の付け根に父の腰が深々と埋まっていた。

 その正体に気づいたとき、ついにセレスティアの心は壊れた。



 *



「ああ……あああ……、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いよぉ……!!」


「気持ち悪いって非道いですね。全部私が実際に体験したことですよこれ」


 アクア・リキッドスーツを着込んだ心深の膝の上、苦悶の表情で悪夢を見続けているのはセレスティアだった。


 上から覆いかぶさった心深がブツブツと囁き続けるその言葉の調べに乗り、同じくアクア・リキッドスーツを着込んだオータム――秋月楓の凄惨な記憶がアクア・リキッドを通じて共鳴作用を起こしているのだ。


「一体私の父を誰に置き換えてヨガってるのか知りませんけど、こんなのまだまだ序の口ですからねー」


 楓はかつて地獄の日々を送っていた。常態化する父からの暴力に性的なものが含まれるようになったのは、楓が初潮を迎えてすぐのことだった。それからの数年間は一片の光さえ見えない暗黒の時代だった。スミスという希望の光が現れるまで、楓はずっと生きながら死んでいたのだ。


「あーあ、ここらが限界ですかね。このあとさらに『売り』と『乱交』と『堕胎』があるんですけど、そこまで見せたら使い物にならなくなっちゃいますねー」


 燦々と聖なる光が降り注ぐ大聖堂の中でセレスティアはひとり、寄る辺ない無明の大海に放り出され、覚めることのない悪夢を見続ける。


「私達が知る限り、最高にして最強の精霊セレスティア。完全無欠の力を振るうあなたに弱点があるとすればその心――精神的な脆さを突くしかない。あのヒトの計画のためにせいぜい踊って下さいな」


 次の瞬間、聖堂内に聖なる精霊の絶叫が轟いた。


【聖夜の動乱篇】了。

 次回【聖夜の動乱篇2】に続く。

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