第141話 聖夜の動乱篇② 笑う蛇の誘い〜ふたりは怪しいエージェント
*
12月24日。午前9時50分。
クリスマス・イブ。
都内某アニメ収録スタジオ。
「私の方がずっとずっと昔からあんたのことが好きだったのに……その女、殺してやるから……!!」
黒い感情に突き動かされるがまま、マイク前に立つ綾瀬川心深はそのセリフを口にした。
途端、ブース内の空気が凍りつく。
同じくヒロイン役の先輩声優がギョッとした目で見つめてくる。
壁際で自分の出番を待っていた他の演者たちが、たまらず息を呑んだ。
『はいカット――こ、心深ちゃんってばアドリブ効きすぎ~、最後のセリフ違うからね。ちょっと気持ち入りすぎちゃったかな?』
「は~い、すみませーん」
ドッと、ブース内に笑いが溢れる。
何でも無い風を装いながらも、心深は音響監督に救われたのを自覚した。
そのまま、「ちょっと頭冷やしてきていいですか?」と告げると、ブースからもミキサー室からも一切の異論は出なかった。
『じゃあちょっと心深ちゃんは休憩ってことで、他のシーンを先に録りまーす』
心深は入り口の前で一礼すると足早にブースを後にした。
*
自動販売機で水を買い、小脇のベンチに腰掛ける。
しくじった。演者としてやってはいけないことをしてしまった。
それこそ買った水を今すぐ頭からかぶりたい気分だった。
演技に感情を込めることは肯定されるが、演技に私情を挟んではけ口にすることは許されない。
たまたま、今日収録の作品が学園モノで、心深の役は主人公の幼なじみという間柄。主人公の男の子は、新しくやってきた留学生のブロンド美女にドキドキしてしまい、ヒロインはそれに嫉妬を抱くという……なんともベタベタなものだった。
心深は、普段ならば例え自分の役どころが、主人公にセクハラされるだけのものであっても、母親に台本読みを付き合ってもらったら「あんたね、こういう役はちょっとは考えなさいよ」と呆れられてしまうようなイヤらしい描写の多い作品であっても、仕事は仕事として割りきって演技に集中することができる。
だが、今回ばかりはそれができなかった。昨夜、部屋でひとり台本を読みから、あまりにも今の自分と似通ったシチュエーションにモヤモヤしてしまった。そのモヤモヤを制御出来ないまま仕事場まできてしまい、盛大にやらかしてしまったのだ。
音響監督がとっさにフォローを入れてくれて笑い話にしたからよかったものの、――いや、そうであってもあのときの自分は普通に危ない奴だった。
最後のセリフは「ちゃんと私を見なさいよ」というものだった。
それが「その女、殺してやる」はない。そればっかりはいただけない。
「はあ……収録、戻りたくないな」
つい、弱音が口を出てしまう。
本日はクリスマス・イブである。
どこもかしこも世間も世界も、みんなが浮かれ幸せな時間を謳歌する日。
学生は冬休みに突入し、勉強やアルバイトに勤しんだり、恋人同士なら当然のようにデートに繰り出すはず。手を繋いで歩いたり、腕を組んだり、肩を抱き合ったり、お互いに見つめ合ってキスをしたり……。
そう。キスだけはできたのだ心深も。
生まれて始めての唇をずっと好きだった男の子へと捧げることが叶った。
そのことに関しては神様に感謝してもいい。でもその後に心深は、本当に奈落の底に叩き落とされることになってしまった……。
「エアスト=リアス……!」
心深の憎悪の対象は、今やエアリスへと移っていた。収録中に暴走した原因でもある。
幼なじみの男の子、成華タケルは変わり果てていた。もう本当に、見た目も中身も自分の知っている彼ではなくなってしまっていた。
一体、彼の身に何があったのか。
一体、どのような目に遭えばあれほどまでにボロボロの身体になれるのか。
わからない。日本の一般家庭で幸せに暮らしてきた心深には想像すらできない。
だがあの女はそれをすべてわかっている。彼の身に起きたことの何もかも全部を。
自分の知らないタケルを知っている。そして自分では受け入れられなかったものを彼女は受け入れている。その敗北感と劣等感が憎悪となって、激しく心深の内側で燃え盛っていた。
ギリっと、握りしめた台本とペットボトルがきしみを上げる。
結局心深は収録スタジオに戻ることも出来ず、廊下の隅っこで負のオーラを撒き散らし続ける。と、その時だった。
「相変わらずすごいねキミは。演技だけで現場の空気を変えてしまうなんて。今回は悪い方に舵を切ったようだけど……」
「え」
突然の声に顔を上げる。一瞬の逆光に目を細めるも、その声には覚えがあった。
「か、監督? どうしてここに……?」
白髪交じりの薄い髪に、太い黒縁眼鏡、無精髭もそのままでヨレヨレのスーツ姿。心深の貴重な夏休みを奪い、そして二学期を丸ごと買い取ったはずの世界的に高名なアニメ監督である。
その本人が今心深の目の前に立っていた。
「キミにちょっと用があってね。事務所に連絡したらここだっていうから。そしたらなんか収録中にやらかしちゃったらしいじゃない?」
「そ、それでわざわざ私の様子を見に来てくれたんですか?」
「いや別に。僕の作品に出てるときはもちろん気も使うけど、他の作品に出てるキミには興味ないし」
相変わらずムカつく。今日は特に輪をかけて腹が立つ。
こういう歯に衣着せぬ態度や言動をしても許されるほどの実績を持つ人だとわかってはいるが、今はタイミングが悪すぎる。事務所的にも世話にはなってるし、感謝もしているが、できれば今すぐ消えてほしい。
「おお、ほほっ! わかる、わかるよ綾瀬川くん。今キミ超怒ってるでしょ!? うはは、正直背中にビリビリきてて逃げ出したいくらいだもの! これだよこれ、キミは周りの空気を変えられる! キミをヒロインに選んだ一番大きな理由がこれだよ! いやあ、こわいねえ、おそろしいねえ!」
白髪交じりの頭を振り回して、監督は己を抱いて身悶えた。何やら声優冥利に尽きるというか、滅多なことでは他人を褒めない監督が、心深をヒロインに起用した理由を話していたが、そんなことは関係ない。とにもかくにも目障りでしょうがなかった。
今朝もそうだ。何事か口を開きかけた母親を無言のプレッシャーで封殺してきた。それよりもはるかに腹が据わっている――というか心臓に毛が生えているこの監督だって回れ右させてやる。こっちだって仕事意外であんたに気を使う必要なんてないんだから――!
そうして心深が本気で睨みつけてやろうと立ち上がりかけたそのときだった。
「相変わらずですねえあなた。気の強い女性に罵倒してもらうがためにわざと相手を怒らせる。悪いくせですよツトム?」
絶妙なタイミングで機先を制された。張りつめていた心深の緊張が切れる。我が身を抱いて鼻息を荒くしていた監督の背後から現れたのは、ピシッと折り目正しくスーツを着た外国人男性だった。
「おいおいスミス。いいところで邪魔するなよ。しかも僕の性癖をこんな若い子にまでバラすんじゃないよ」
「キミは未だに自分の嗜好がバレてないとでも思っているのかい? 海外のアニメファンの間ではキミが幼女愛好家でドMなんじゃないかって噂になってるんだぜ?」
「マジかよ! 外国ですらそうなら日本じゃほぼバレか? まあいいや、そんなんで今さら僕の名声は揺るがないし」
「その通り。実に憎たらしいけどね」
――はっはっはっ!
心深は絶句して立ち尽くしていた。
あの監督が――もはや七十の老境に差し掛かろうという監督と、一見若そうに見える外国人男性とが肩を組んで笑いあっている。親子ほども歳が離れているように見えるのに、ふたりはまるで無二の親友のような雰囲気だった。
「ああ、綾瀬川くん、今日来た理由がこいつ。キミのファンなんだってさ。紹介するよ」
「初めまして綾瀬川心深さん。あなたの出演作品はもれなくチェックしています。私はアダム・スミスといいます。どうぞよろしく」
二ヘラっと笑いながら手を差し出す男――アダム・スミス。
それを握り返すのは当然の礼儀なのだろうが、心深は一瞬躊躇った。
男の笑みがどこか浮世離れしているような、ここに居ながらここではない別の何処かにいるような、そんな不思議な違和感を感じ取ったからだ。
おずおずと手を差し出すと、スミスは喜色満面の笑顔で握り返してきた。その瞬間、心深は少しだけ悲鳴を上げそうになった。
若くて線が細そうに見える男なのに、その手の厚みは尋常ではなかった。まるで野球のグローブ越しに握手しているような感触だ。表面は細かいキズで埋め尽くされており、皮膚はヤスリのようにザラザラしていた。
まるで長い年月、たったひとつのことに心血を注いできた職人のような、目の前の巨匠と呼ばれる監督よりもさらに長い歴史を感じさせる手だった。
さらに驚いたのがスミスの容姿だ。
くすんだ金髪に細面。真面目にしていればそこそこ格好もいいだろう。でも、締りのない笑顔が全てを台無しにしている。極めつけが、左右で虹彩の異なる瞳だ。その瞳の奥は軽薄な雰囲気とは違い、怪しく鈍い光を湛えていて、ずっと見つめていると不安になってきてしまうほどだった。
「あの、それでですね、ちょっとよろしいですか心深さん?」
「は、はい……?」
握手をした状態のまま、不意に笑みを引っ込めたスミスがじいっと見つめてくる。監督が隣にいなければ、今すぐ悲鳴を上げて逃げ出したいほどだった。
「ここでお会いできたのもなにかのご縁ですし……サイン、サインもらってもいいですか? 今ってなんの作品の収録だったんですかね? 後で私もスタジオを見学してもいいですか? それから不躾で申し訳ないんですが、『
「…………」
スミスは普通のオタクだった。
自分の直感など全然当てにならない。
心深は脱力とともにそう思った。
*
「いやあ、サインありがとうございます。一生の宝にしますね」
「別に大したものではないと思いますが」
「とんでもない。日本の有名なボイスアクトレスのサインなのです。チャップリンのサインと一緒に額縁に飾らせてもらいますよ」
「は、はあ……?」
スミスは心深からもらったサイン色紙を大事そうに抱えて上機嫌だった。頬が零れ落ちそうなほどニコニコ顔であり、見ていてちょっと気持ち悪い。
リアクションも素直というか、オーバーな男であり、彼がリクエストしたセリフも一通り披露してやると、いきなり絶叫し、天を仰いで泣きはじめた。
ホントにそういう風にしていると、いつも心深のイベントにやってくる熱心なファンのヒトたちとなんら変わらないように見えるのだった。
今ふたりは、スタジオがあるビルの中を歩いている。
「ほんじゃ僕は帰るから。年明けの舞台挨拶とかよろしくね」と言い残して監督はさっさと帰ってしまった。
収録に戻ろうとブースに足を伸ばせば、不用意に扉を開けることすらできないほど全員が集中しており、そんな現場の空気を壊してしまうのが躊躇われた心深は、現場にそっと背を向けた。
意外なことに、そんな収録風景が見たいと言っていたスミスは、心深を気遣っているのか、やたらめったら話しかけてくる。
その内容は心深が過去に出演した作品への質問だったり、アレがよかったコレがすごかったという、普通のアニメファンと変わらぬ感想の類だったが、間断なく彼のトークは続いた。
「――え、あれ?」
そうこうしているうちに心深はエレベーターに乗せられ、自身でも立ち入ったことのないフロアへと誘導されているのに気づいた。
収録用のブースは一階から地下にかけて設置されていて、そこから上は直接心深ら演者には関係のない、別会社などのオフィスがテナントとして入っており、さらに上階にいけば大きな会議室などがあるだけだった。
スミスは勝手知ったるなんとやらで、まるで自宅のようにビル内を歩き、最上階に近いフロアの一室へと心深を誘導していた。スミスと歩調を合わせているだけでいつの間にこんなところまで……。
終始おどけたりふざけた言動を繰り返すスミスに警戒心が緩んでいた。この男は監督の知り合いということを除けば、心深にとっては全く初対面の妖しい男のはずなのに。
軽薄なのに重厚。
明るいのにどこか暗い。
誠実なのに不誠実。
優しいのに怖い。
スミスを改めて観察した心深はそのようなものを感じ取った。
だが、言葉巧みに誘導され、気がつけば人気のないフロアの廊下で二人きり。
不味い……かつてない危機感に心深の心臓は早鐘を打っていた。
「おや、綾瀬川さん……もしかして緊張されてますか。大丈夫ですよ、別にとって食べたりなんてしませんから」
「えっと、まだ何か私に用があるんでしょうか。ここまで来ておいてなんですけど、私もう戻らなくちゃいけなくて」
「戻ったところで今のあなたの状態でお仕事が務まるとは思えませんねえ」
「え、それはどういう……?」
何を言ってるんだこの男は。
もしかして心深が収録中にやらかしてしまったのも見ていたのか?
「今のあなたは精神的にとても不安定です。そんな状態のあなたを放っておくことは大変危険なのです。こちらの都合もあって、あなたを保護しなければなりません」
「な、何をおっしゃっているのかわかりません。これ以上はお付き合いできません。失礼します――」
心深は踵を返してエレベーターの方へと向かう。
その後ろ手をスミスがガッチリと掴んでいた。
「やれやれ、日本の女子高生はせっかちですね。申し訳ありませんが、私の用事はまだ何一つ終わっていません。もう少々お付き合いいただきますよ」
「いやッ、
一瞬掴まれた腕が解けかけるが、再び万力のような力で拘束される。そう、スミスは見た目にそぐわずとてつもない膂力を有していた。いかな心深が暴れてみせようとも、掴まれた腕に力を入れられるだけで、悲鳴さえ出せなくなってしまう。
「これは思ったよりも深刻ですね。是が非でもついてきてもらいますよ」
「痛っ、は、離して、やめて――誰かっ!」
心深は買って買ってと強請る子供が母親に引きずられていくように、強制的に大きな会議室のドアの前まで連れてこられる。
スミスの張り付けたようなニヤケ顔が恐ろしい。
そして心深の見ている前で、扉はゆっくりと開かれていき――
「へぶしッ!」
「え?」
涙目になった心深が驚きの声を上げる。
扉の中から現れた人物が、容赦なくスミスの顔面を殴りつけたからだ。
すんなりと拘束を解かれた心深はキョトンとするしかない。
「あなたってヒトは――無駄に年ばっかり食ってるくせに、女の子ひとりエスコートすることもできないんですか!」
「ヒィ、すみません! いえね、思ったより彼女が危険な状態にあることがわかったものですから、早急に対処しようと多少強引にですね……!」
「それで相手に暴力振るってたらますます精神的に追い詰めることになるでしょう! あなたについてるその壊れた蛇口みたいなお口が役に立たないというなら、今すぐ私が縫い付けてあげましょうか!?」
「すみませーん、堪忍ですー、拳骨のマジ殴りはもう勘弁して下さいー!」
「謝るの私じゃなくて綾瀬川さんに!」
「大変申し訳ありませんでした綾瀬川さんー。私の方も少々慌てていたというかー、いえそれであなたに暴力的なことをしていい理由にはならないんですが、とにかくごめんなさいー!」
心深は呆然としていた。
スミスの纏っていた正体不明の怪しい空気が消え失せ、今では母親に叱られた子供のように腰を折って頭を下げている。
などと思っていたら「頭が高い!」と怒鳴られ、そのまま土下座し、さらに五体投地の体制になってしまった。床に口をつけたまま、もごもごと謝罪の言葉を垂れ流しにしている。
「本当に大変申し訳ありませんでした綾瀬川心深さん。この、どこからどう見ても不審者の塊のようにしか見えない男ですが、実は決して素性の怪しくないものでして、その点は私の方で保証させていただきますので、取りあえずお話だけでも……あの、どこか痛いところはありませんか、腕を掴まれていたようですがお怪我などはしていませんか!?」
「あ、いえ、特に問題はないと思います。えっとあなたは……?」
心深が呆気にとらていたのは、スミスの情けない有様もそうだが、自分を助けてくれた女性の格好にも面食らっていたからだ。
見た目はごくごく普通のビジネスウーマンと言った風情。仕立てのいいテーラードジャケットにパンツルックという出で立ち。正直ビシっとキマっていて格好いい。
ところが目元には顔が半分以上も隠れるバイザーのようなものを装着していて、怪しさで言ったらスミスといい勝負なのだった。
「あらやだ、私ったら気が動転してて」
そう言いながらあっさりとバイザーを外す女性。
その下から出てきたのは、柔和な笑みを湛えた若く美しい日本人特有の顔立ちだった。
「申し遅れました。私、
「え――!?」
バイザーを取り払った秋月楓なる女性は、懐から黒いパスケースを取り出すと上下に開いて心深へと見せつけてきた。
「ユーエス、セントラル、インテリジェンス、エージェンシー……?」
「はい。アメリカの中央情報局、CIAって映画とかで聞いたことありませんか? 実に信じがたいでしょうが、這いつくばってるこの変態ニヤケ男が私の上司なんですよ」
「ええ……?」
未だ念仏のように謝罪の言葉を履き続けるスミスを冷たく見下ろし、秋月楓はニッコリと微笑みかけてくる。
たかだか日本の女子高生ひとりに何故CIAを名乗るエージェントが接触してくるのか。というかそもそも監督を伴ってサインを強請ってくる必要があったのかどうか。
心深にはさっぱり、皆目見当もつかないのだった。
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