第139話 追いすがる過去と今⑭ お泊りと不純異性交遊〜さらば幼なじみ様

 *



「へえ、こんな風になってるんだラブホテルの中って……!」


 国境の長いトンネルを抜けると雪国だった、という文章があるけど、それは暗闇という無刺激な風景が突然開けて、まるで別世界に来たみたいだという、日常から非日常へのギャップと驚きを表した言葉でもあると思う。


 もちろん僕は、それよりも遥かに刺激的な、目を覚ましたら魔法の存在する世界だったという実体験を持っているけど、ちょっと悔しいことにそれと同じくらい部屋の内装には、別世界へやってきたときのような驚きを禁じ得ない。


 でもそれは真っ白な雪原を前にしたときのような清廉な気持ちなどではなく、悪魔城を見つけてしまった時のような戦慄に近いものだ。心深の指運が選んだ部屋は、たまさかそんな悪趣味極まりないものだった。


 基本的にすべての内装が暖色系で統一されている。パターン柄の真っ赤な絨毯に、壁には中華系の双喜紋が金色で張り巡らされ、さらには鳳凰をあしらったレリーフが掲げられていたり、窓には猪鹿蝶を表現したガラスがはめ込まれている。


 ベッドのフレームが赤色なのはもちろん、頭上には金閣寺か! みたいな天蓋があって、間接照明がやったらめったら妖艶極まりない雰囲気を醸し出していた。


 とても高校生のカップルが初体験を迎えるのに相応しい部屋とは思えない。

 いや、断じて僕らはそんなことするつもりはないんだけれども……。


「あはは、すごい部屋選んじゃったね。写メ撮っておこっか」


 先程まであれほどダークサイドなオーラを纏っていた心深がクスクスと笑っていた。さらには「ここ暖房効きすぎ」などと言いながらコートを脱ぎ、ベッドの上に無造作に放り投げる。


「あんた入り口に突っ立ったまま何してん。ずっとそこにいるつもり? こっち来なさいよ」


「いや、来いって言われても……なんか、ねえ?」


 僕はちょっと情けないことに、この部屋の内装が醸し出す雰囲気に二の足を踏んでいた。今まで生きてきた中で最低最悪のセンスの部屋である。


「もしかしてこういうところに来るの初めて?」


「当たり前だろ。僕もおまえも経験があったらヤバイぞこれは」


 僕は居心地が悪そうに周囲を警戒しながら、おっかなびっくりベッド前のソファに腰掛ける。


「ふーん。エアリス先輩とは来たことないんだ、こういうところ」


「悪かったな」


「じゃあ、そのもうひとりの好きって女の子は?」


「あるわけないだろ!」


 心深はふかふかのベッドに腰を降ろして寄っかかり、爪先をブラブラと動かしている。上はコートを着たりカーディガンを羽織ったりと厚着なのに、どうして女子高生の下半身は短いスカートにナマ足がデフォルトなのだろう。


 実際心深も、ひざ上スカートで寒そうな格好である。

 脚を動かす度に、ふわふわと裾がめくれて非常に目のやり場に困る。


「名前」


「ん?」


「教えなさいよ、その本命の子」


「……セーレス」


「どこの国のヒトよそれ!」


 心深はケラケラと笑った。

 なんかホテルに入ってから急にテンション高くなってない?


「本名じゃないよ。アリスト=セレスって呼びづらいから僕がそう呼んでるだけ」


「ほーん。もしかしてエアリス先輩も?」


「そう。エアスト=リアス」


「ますますわかんない。どこの国から来たヒトなの?」


「言ってもわかんないくらい、ずっとずっと遠いとこだよ」


 そう。彼女たちの故郷は地球上には存在しない。

 宇宙空間に断絶された遥か彼方の別の星にあるのだ。


「あんたさ、なんでさっさとそのセーレスって子に告白しないのよ」


「それができたら苦労はしないよ」


「なんで? フラれるのが怖いの?」


「別にそういうんじゃなくて――って、さっきから何の話をしてるんだよ?」


 ふたりきりになった途端、心深はいつもの調子を取り戻したようだ。


 そういえば、こんな感じに会話のキャッチボールが続くなんて小学生のとき以来かもしれない。中学の時は毎朝彼女が一方的にしゃべり続けて、僕は曖昧に頷いていただけだ。会話の内容こそ違うけど、明るい雰囲気は小学生の時のままだった。


「まあいいわ。あんたの好きな子とか、もうそんなの関係ないしね」


「なんだって?」


「別に~」などと言いながら心深は立ち上がり、自分の通学鞄を漁る。クリーム色の可愛らしい長財布から1万円札をペロリと取り出すと、それをひらひらさせながら、玄関脇にある精算機へと入れた。


「話に聞いてたとおり簡単ね。誰にも会わなくて済むし、出入りだけ気をつければ何度でもこられそう」


 こんなところに何度も来てたまるか。

 また来たいならお一人でどうぞ。


「――っておい、それって!」


「なによ?」


 心深の手にはおつりの千円札が三枚握られていた。休憩じゃなく宿泊料金を払ったのか。


「あいつらがいつまで粘るかわからないもの。こうなったら籠城戦よ。幸い軍資金は結構あるしね。お腹が空いたらルームサービスだってここから受け取れるみたい」


 心深が指さすのは玄関に取り付けられたポストならぬ受け取り口。お金の支払はおろか食べ物の配膳も全て、誰にも顔を合わせずに完結してしまうようだ。


 心深は「お腹すいてる?」などと聞いてくる。僕はもちろん腹ペコだったが、とてもではないが食事をする気分にはなれない。口をへの字にして首を振った。


「あっそ。お腹減ったら好きに使っていいから」


 ソファとベッドの間にあるテーブルに現金が置かれる。ぱっと見ても十万円近くある。これが心深のいう軍資金なのか。仕事をしているだけあって、そんじょそこらの女子高生を凌駕するお金を持ってるようだ。


 そうして心深は小さなポシェットを持って鼻歌混じりにバスルームへと向かう。

 僕は我慢できずに立ち上がって声をかけていた。


「おい、ちょっと待て!」


「なによ、大きな声出して」


「なんでお前風呂に入ろうとしてるんだよっ!?」


「そこにバスルームがあるからよ」


「アルピニストみたいな言い方するな!」


 心深は唇を尖らせブーたれながら言った。


「さっきまでずっと走り回ってて汗っぽいし、ただでさえ今朝遅刻したからシャワー浴びてないし。そもそもお金払ってるのは私なんだから文句言われる筋合いなんてないんですけど?」


「いや、でもだからって……!」


「なんなら一緒に入る?」


 クイッと心深は親指でバスルームの方をさした。

 こいつ……もしかして酔っ払ってるのか?


「はあ……誰が入るか。さっさと一人で行けよ」


「ふん。意気地なし」


 知るか。こんなところで発揮する意気地なんて無くて結構だよ。

 バン、バダンッ、と強めにドアが閉まる。


 やがて静かになると、僕の常人離れした聴覚はなんとなくシャワーの音を拾い始めやがったので慌ててテレビを付ける。


『OH~YES! COME ON!!』


 ですよね~。

 速攻消した。


「参ったな」


 そわそわと落ち着かない。なんとなく部屋を物色しようと思いたち、引き出しを開けると個梱包された『大人のおもちゃ』がズラっと入っていやがった。


「…………」


 パタンと引き出しを閉じると、僕は両耳を抑えたままソファにダイブした。

 人間怖い。人間嫌い。わーっ!

 ……結局ふて寝することにした。



 *



 食べ物の匂いで目が覚める。


 ソファから起き上がると、テーブルの上には熱々のマルゲリータピザが置いてあった。


 心深はバスローブ一枚の格好でベッドに腰掛け、ピザを1ピース片手に、もう片方でスマホをイジっていた。


「ツイキャス実況まで始めてるし……」と舌打ちしているので、まだまだ籠城は続くのだろう。


「ねえ、あんたなに寝てんの? 女の子放っておいて一人で寝るって最低だからね」


 ピザを齧りながら心深は僕をキッと睨みつけてきた。


「男の前で平気でシャワー浴びる女に言われたくないよ」


 嫌味がてらそう言うと「別に平気じゃないもん」と心深は呟いた。

 じゃあなんで浴びたんだよ。まあいい。


 それを追求するよりも、今の僕は目の前のピザに夢中だった。

 少しだけ仮眠を取って気持ちが落ち着いたからか、ムクムクと食欲が湧いてくるのを感じる。


「もらうぞ」


「ちょっと、これ私の!」


 抗議を無視して1ピースを舐めるようにぺろりと食べる。

 そのまま2ピース目、3ピース目をごっくんする。


「なにそれ。ちゃんと噛んで食べなさいよ」


「幸い絶対に消化不良にはならないんでね」


 経口摂取した食べ物は100%肉体の回復にまわされる。

 ピザなんて何十枚食べても足りやしない。


 慌てた心深がもう1ピース確保して、残りは全部僕が平らげた。

 むう。全然どこにも足りないけど少しは空腹が紛れるか。


「お腹膨れた?」


「まあな」


「そう。じゃあシャワー浴びてきて」


「断る。てか無理だろ」


 包帯だらけだぞ。気軽に言うな。


「そ。じゃあそのままでもいいわ」


 スマホをベッドに放り投げ、指先についたソースを心深はペロっと舐めとる。

 ぴちゃぴちゃっと水音が響いて、彼女は指を舐める間もずっと僕を見つめ続ける。

 その瞳はまるで獲物を狙う肉食獣のようにギラついていた。


 照明の反射じゃなく、彼女の顔は赤く上気している。

 目もトロンと潤んでいて、興奮状態にあるようだ。


 よくよく見てみれば、ベッドの下に幾つもの空き缶・・・が転がっている。

 こいつ――勢いづけにアルコールこんなにものまで……!

 

 立ち上がった心深がテーブルを乗り越えてきた。

 ソファに片膝を着いて、そのまま僕の首に両腕を回してくる。


「わ、私ちゃんと初めてだから……キスだってしたことないし、正真正銘のヴァージン。あんたは?」


「ある」


 ギュッと首にかかる腕に力が込められる。


「どっちと……?」


「どっちでもない」


 ものすごい形相で睨まれた。でも視線は外さない。

 やがて観念したように「はあ」とトマト臭い息が吐きかけられる。


「じゃあせめてリードして。優しくしてよ」


「悪いけどそれは保証できない」


 なにせ僕の初体験は気づいたときには全部終わっていて、当時は理性も記憶もないのだ。


「情けないの。じゃあせめて安心させてよ。『大丈夫だよ、全部僕にまかせて』くらい言えないのあんたは?」


「こんな時に嘘なんかついてどうするんだよ」


「それもそっか。痛いのはヤダなあ」


「今ならまだ間に合う。やめとけ」


「それはもっとイヤ」


「ん」


 トマトとバジルソース、そしてチーズの味が改めて広がる。

 本当に初めてなのだろう、心深の唇は小さく震えていた。


 僕が彼女を押し戻そうとすると、それを厭うようズルリと舌が侵入してくる。

 前歯の間を刺し貫いて、口内に心深の熱い舌先が入ってくる。


 それは程なく僕の上顎をねぶりながら、対になる存在を求めて口の中を彷徨い続けた。


 やがて僕が目一杯舌を引っ込めているのに気づいたのか、心深が更に身を乗り出して唇を押し付けてくる。ガチっと前歯と前歯がぶつかり、ついに僕の舌が絡め取られる。そこからはもう一方的な、凌辱という名のワンサイドゲームが始まった。


 酒精でタガが外れているのか。それともネット文化によって性知識を常に仕入れている今時の女子高生だからか。とても初めてとは思えない舌技が繰り出され、「ふっ、んうっ、んんんっ」と、心深はひとり盛り上がり始めた。


 悶えるように身体を震わせ、崩れるように密着してくる。

 僕の膝の上に跨がり、ズリッと生まれたままの股間が押し付けられる。


 やがて完全にピザっぽさが消え、純粋に心深自身を味わえるようになった頃、ようやく彼女は唇を離した。つうっと唾液が糸を引いて、僕らの間に滴り落ちた。


「しちゃった……。告白するとね、ずっとずっと小学生の頃からあんたとこんなことしてみたかったの」


「…………マジかよ」


 心深は恥ずかしそうにコクリと頷いた。


「お父さんのパソコン、履歴がそのままだったんだもん。エッチな動画を見て、ずっとあんたとこうするの想像してたんだ」


 衝撃の告白だった。

 まさかその頃からロックオンされていたとは。

 僕がなんとなく心深を忌避していたのはある意味当然の防衛本能だったのか。


「ねえ、もう冬休みだよ。年が明けるまでさ、私とここでずっとエッチしてよう。ごはんのときもお風呂のときもずーっとくっついていたいの。もう何もかもどうでもいいからさ。学校もお仕事も、あんたとこうしていられるなら他に何もいらない。必要なお金は全部出してあげるし、欲しいものがあったらなんでも買ってあげるから。ね、いいでしょう?」


 凄まじい殺し文句だった。

 普通の高校生男子がこんなことを言われたら即陥落だろう。

 でも幸いというか、僕は普通の高校生ではないのだった。


「なあ」


「はあ、んん……なに?」


 酔いが回っているのか、心深の顔はどんどん朱色に染まっていく。

 鼻にかかった甘え声を上げながら、疼くのだろう、僕に身体をこすりつけてくる。

 だが、そんなことは知らないとでも言うように、僕はごくごくフラットに告げた。


「僕はさ、ひとつだけおまえに感謝していることがあるんだ」


「は? いきなりどうしたの?」


 再びキスをしようと心深が顔を近づけてくる。

 接触の直前、首を背けると唇の端にキスされる。

 そのまま彼女は舌先を押し付けて「チュー」と吸い付いてくるが、僕は構わず続けた。


「僕は聖剣を使って地球へ帰還するとき、お前という一個人を見つけることでこの場所に帰ってくることができた。子供の頃からお前がずっと僕を想い続けてくれたこと、そして傍らにずっとい続けてくれたこと、今ではとても感謝しているんだ。そのお蔭で僕は、自分の帰るべき場所に――自分の故郷を見失わずに済んだから」


 宇宙はあまりにも広大すぎた。その中から地球を探すのではなく、唯一無二の一個人である心深を探し当てることで、彼女のいる星こそが自分の住んでいた地球なのだと確信を得ることができた。そうしなければ僕は今頃ここにはいなかっただろう。


「なに、ゲームかなんかの話? やめてよ、あとでいくらでもそういうのにも付き合ってあげるから。それよりも今は……ね?」


 ゲームか。確かにゲームとか漫画の話だよなマジで。


「半年以上もどこで何をしてたのかって聞いてたよな。いいよ、教えてやるよ……」


 僕は左手で首から釣ってるアームホルダーを外す。

 両腕を広げるように胸を突き出し、心深へと差し出してやる。


 彼女は可愛らしく小首を傾げたあと、すぐに意図を察したようだ。

 餌に飛びつく子猫のように喜々としてシャツのボタンを外していく。


 顕になる僕の胸板。

 包帯に包まれたそこに心深は頬を寄せ――固まった。

 バっと顔を上げた彼女は真顔になっていた。


 僕は首元で留められていた包帯を解いていく。

 心深が後ずさる。だがテーブルに阻まれてしまい、結局その上にぺたんと座り込んだ。


 上半身を包んでいた包帯が落ちる。

 目玉がこぼれ落ちるほど、彼女の目が驚愕に見開かれていた。


 そうして心深は、先ほど食べたばかりのピザを、その場にすべて吐き出した。



 *



「うええええ……はあ、はあ、あんた、うっぷ……なによそれ……!」


 心深の前に曝け出した僕の身体。

 彼女の記憶にあるものよりもずっと引き絞られた逞しいものだろう。

 だが今の見てくれは、そんな判別ができるほど真っ当なものではなかった。


 両腕、手首から上にビッシリと刻まれたのは人類種神聖教会アークマインの拷問痕。


 そして新たに刻まれた幾つもの銃創。大きいものから小さいものまで、幾重にも塗りつぶされるように重ねられた傷。疵。瑕。


 そしてもっとも醜いのが、タンデムHEATの直撃を喰らい、肋ごと粉砕された胸部。更にその後は、水精の蛇に執拗に貪られ、ほじくり返された箇所である。そこはまるで焼灼して焼き固めたように凸凹になり、肌の色もどす黒く変色していた。


 心深はまるで長い夢から覚めたようだった。

 あんなに赤く火照っていた顔は、今では真っ青を通り越して白貌と化している。


 16年間、現代日本で普通に生きていれば、一生拝む機会などないほどの傷。

 いや、こんな傷を負って、まともな人間が生きていられるはずがないのだ。


「ぶッ、うええ、はあ、はああ、えええええっ……!」


 吐き出すものが何も無くなっても、心深はずっとえずき続けている。

 目尻から大粒の涙をポロポロこぼし、口の周りを胃液と吐瀉物で汚しながら、それでも彼女は僕に手を伸ばそうとする。


 存外な力強さで、彼女の手が右腕に触れた。

 ギプスで固定されたその腕は実は義手。

 アームバンドを失くしたそれは、ボロリと二の腕からもげ落ちた。


「ひぃいいいい――! なんで、どうして――!? どうなってるのよあんたの身体はっ!?」


 心深は髪を振り乱し、半狂乱になって叫んだ。

 背中からテーブルの向こうに落ちて、床の上をのたうち回っている。


 僕は彼女のバスローブの胸元を掴み、左腕一本で持ち上げる。

 そしてそのまま、色気もクソもなくベッドの上に押し倒した。


「見ろ。ちゃんと目をそらさずに見るんだ。これが今の僕の本当の姿だ」


「ウソッ、いやあ、なんでよ! どうしてこんなことになってるのよあんた……、こんなのまるでゾンビみたいじゃない……!」


 ゾンビか。確かにそのとおりだ。

 一度死んで生まれ変わった僕はゾンビともいえるだろう。


「僕はもうお前の知ってる僕じゃない。お前の知ってる『成華タケル』は一度死んだんだ。でもこうして――」


「いやあああああ――! そんなのウソだああああああああああああああ――!」


 心深はもう、すっかり子供になってしまっていた。


 あまりにも受け入れられない現実を目の当たりにし、幼児退行してしまったようだった。ヒックヒックとしゃくりあげながら、ベッドの上で身体を丸めてガタガタと震えている。


 かつて無い罪悪感が僕にのしかかってくる。

 でも、こうでもしないと彼女は僕の現実を認めてはくれないだろう。

 これは必要な儀式でありケジメなのだと自分に言い聞かせる。


「エアリス、頼む」


 僕は上着から取り出したスマホで、ずっと僕らを監視して・・・・・・・・・・いた・・エアリスに連絡を入れる。


 次の瞬間、格子を嵌められた窓が壁ごと切断された。


 風を纏って現れたのは制服姿のエアリス。

 そしてその首に下げられたガラケーから真希奈が叫んだ。


『タケル様!』


「――タケル、もういいのか?」


「ああ。付き合わせて悪かった。真希奈」


『はい!』


「周囲500メートル圏内でスマートホンによる記録、動画配信をしている者の通信回線を遮断。サーバとログからツイートを削除。検索キーワード『綾瀬川心深』に該当する二次データ、魚拓も全部だ。個人端末からも過去三時間分に渡ってすべて消去しろ」


『了解。――該当者128名をリストアップ。そのうち最優先消去対象者を三名に絞りました。削除を実行します』


 これでツイッターで実況中継していたヤツらは全滅のはずだ。


「エアリス、悪いがこいつの身支度を頼む。僕は荷物をまとめる。できるだけ早くな」


「わかった」


 エアリスが問答無用で心深のバスローブを剥ぎとった。

 一瞬だけ見えた下着も何も身に着けていない、生まれたままの心深の裸体が目に飛び込んでくる。


 だが、綺麗だな、などと思う感情は僕にはなかった。

 まるで着せ替え人形のように、心深は手足を投げ出したまま、エアリスに下着や制服を着せられていく。彼女をそんな風にしてしまった僕は、ただただ心の中で懺悔し続けていた。


 心深の荷物を彼女の鞄に詰め込み、僕自身も上着を羽織る。

 おざなりに右腕の義手を取り付け、包帯は無理やりポケットにねじ込んだ。


 食べ散らかしはもう放っておくしかない。それ以外に証拠になりそうなものはできるだけ持っていく。この間僅か3分ほど。もう階下が騒然とし始めた。


『かなりの野次馬が集まっているようですが、一帯に通信妨害を実行しています。電子機器による記録や通信は一切できません』


 大昔なら証言や口コミはそのまま人づてを介してのみ伝わっていったものだが、現代に於いては口コミでさえもデジタルソースを必要とする。


 どんなに野次馬が居ても、スマホで撮影した動画や写真が添付されなければ「釣り乙」と言われて信用などされないだろう。


「心深」


 身なりだけはキチンと整えられた彼女に手を伸ばす。


「ひぃッ――……あ、違う、違うの、今のはそういうんじゃなくて……!」


 怯えた表情で弁解をする彼女を無視し、左腕に抱え込む。


「エアリス」


「ああ」


 心深を抱えた僕をエアリスはさらに抱き上げる。すでにして風の魔素が僕らを重力の枷から解き放ち、床の上にふわりと浮かび上がっていた。


「消えるぞ」


 エアリスが言うが早いか、近くの姿見から僕らの姿は掻き消えていた。

 そのまま、切り崩された壁から夜の街へと飛び出していく。


 冬の冷たい空気に一気に目が覚める。

 眼下には既に黒山の人だかりができていた。


 ――何なんだよおい、スマホ繋がんねーじゃん!


 ――ウソ、カメラアプリ起動しない!


 ――あれ、データ消えてる!?


 などなどの声が僕の耳に届く。

 多分エアリスが気を利かせてくれたのだろう。


「タケル、どこに行けばいい?」


「真希奈、これから僕が言う住所までエアリスをナビゲートしてくれ」


『かしこまりました』


 こうして僕らは極彩色に塗られた夜の街を行く。

 風を切る音と、心深のすすり泣く声だけがもの悲しく響いていた。



 *



 ピンポーン、と呼び鈴を鳴らす。

 時刻は21時を少し過ぎたくらい。

 女子高生の帰宅時間としてはまあ及第点だろう。


『どなた?』と記憶にあるとおりの声がスピーカから聞こえた。

 僕は「心深さんのクラスメイトのものです」とだけ告げた。


「はい」


 ガチャと、ドアが開く。現れたのは、やや小さくなったかなという印象の、でも相変わらずキツそうなイメージが拭えない心深のお母さんだった。


「ん? あなたは確か……あれ?」


「夜分遅くに申し訳ありません。心深さんの気分が優れないようでしたので、こちらまでお送りしました」


 一瞬僕の顔を見たお母さんが眉間にシワを寄せるが、分厚い眼鏡と前髪に隠れて判別はできないようだ。


 まあ顔を合わせていたのは小学生のときまでだったので、今の僕の顔なんてわからないだろう。


 僕が脇にのけると、本人をお姫様抱っこしたエアリスが前に出る。

「心深! あんたどうしたの!?」と目を見開いたお母さんが、我が子へと駆け寄った。


 いくら身なりを整えても、乱れた髪と真っ赤に腫らした瞼、そして憔悴しきった表情からなにかとんでもないことがあったのだと察したようだ。


 僕はそれ以上多くを語らず、ふたりに一礼してから背中を向けた。


「待って!」


 お母さんに支えられながら、フラフラとした足取りの心深が、嘔吐でガラガラになった声で呼び止めてくる。


「ねえ、待ってよ。さっきのは違うの。突然だったからちょっとビックリして。その、ごめんなさい……。気持ち悪いとか全然、そんなこと思ってないから、だからまた……!」


 僕は、ゆっくりと振り返ると眼鏡を取り払った。

 薄暗い門柱灯を受けて金の虹彩がタペタムのように光る。

 心深が「う」、母親が「あ」と声を上げた。


 心深はもうそれ以上、何も言うことができなくなっていた。

 それでもおぼつかない歩みで僕へと近づいてくる。

 彼女の行く手を遮ったのは誰であろうエアリスだった。


「どいて……邪魔しないでよッッッ!」


 久しぶりに耳にする心深の『怪音波』だった。

 甲高く鋭く、玄関ドアにはめられた分厚い曇りガラスに「ビシっ」とヒビが入る。


 声優となって以來、おそらく初めて発する金切り声だろう。

 人間としては破格の魔力が宿ったその声に、お母さんはヘタっとその場に尻もちをついた。


「そうか、あんたが……、あんたのせいであいつははあんなにボロボロになったのね……?」


 心深は再び仄暗い色を瞳に宿し、行き場のない怒りと悲しみをエアリスにぶつけようとしていた。僕が否定するより早く、エアリスが口を開く。


「そうだ。私は主であるタケルの意思を尊重する。タケルがすることを私は決して邪魔しない。例え死地に赴こうともその意思と行動を妨げることだけは絶対にしないのだ」


「なんで……、あいつが危ない目に遭ってたら止めなさいよ。そんなんでどうして従者だなんて言えるのよ……!」


「決まっている」


 エアリスはブワッと瞬時にして風の魔素を纏う。

 心深が驚きに目を見開く。綺羅びやかなエメラルドグリーンの風が膨大な魔力を伴って周囲を駆け抜ける。


「はっ――あ」と、心深の放つ魔力のプレッシャーから解放され、お母さんが荒い呼吸を繰り返した。


「私は――タケルを信じているからだ。まだまだ危なっかしいところはあるが、彼の者は紛れもなく最強の存在である。そしてタケルは己の信念に従い、力に溺れることなく、ただ純粋な願いのためにその力を行使する」


「純粋な願いって――」


「セーレスを取り戻す。この地球のどこかに攫われた彼の者を救い出すことだ」


 心深が目を見開く。

 セーレスの名前は彼女にも聞かせていた。

「それができたら苦労はしないよ」と告白したくてもできないのだと。


「そしてタケルは他者のためにこそ傷つき、戦う男なのだと私は知っている。ならばこそ、私が成すべきはタケルを抑制することではなく、存分に羽ばたけるようその背中を守ることである」


 エアリスの言葉に心深は言葉をなくしていた。

 ついでに僕も絶句していた。


 エアリスは「何を呆けている」と言いながら僕を抱き寄せると、一瞬で風景に同化した。僕らを見失っているはずの心深は、それでも瞳を燃やしながらこちらを見つめ続けてた。


「認めない、そんなの絶対認めないから――! 絶対絶対あんたなんかに……うう、タケルのバカぁ……!」


 子供が駄々を捏ねるように、心深は顔をクシャクシャにして泣き崩れた。

 僕はそんな幼なじみの姿に目を伏せた。見ていられなかった。


「帰ろうタケル」


「ああ……そうだな」


 ふわりとが浮き上がる感覚。大空たいくうへと躍り出た僕らは、住宅街の慎ましい明かりを見下ろしながらようやく帰途につくのだった。


 優しく、だがしっかりとこちらを抱きとめてくれるエアリスの腕に触れながら、僕は自然「ありがとな」と呟く。


 エアリスは「当然のことだ」耳元で囁くのだった。


【追いすがる過去と今編】了。

 次回【聖夜の動乱篇】に続く。

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