第133話 追いすがる過去と今⑧ 愛妻弁当とあーん・平和なランチタイムの終焉
*
「ごっついで……」
星崎くんの呟きはその場にの全員の心の声だと思う。
甘粕くんも針生くんも驚愕の表情で僕の手元に目を落としている。
「私はこれだけもらえばいい」
小さな皿におにぎり一個、おかずを少量ずつ取り分けるエアリス。
「あとは存分に食すがいい。怪我を治すには身体に栄養が必要だからな」
「う、うん、ありがとう」
僕の目の前にはいつもの三倍の量の重箱弁当が置かれていた。
即ち、おにぎりやサンドイッチの主食のお重がみっつ。
唐揚げ、タコさんウインナー、玉子焼き、お煮しめやらのおかず類がみっつ。
そしてフルーツ盛り合わせなどのお重もドンとみっつ。
それをテーブルの上に広々と並べている。
改めて見てもすごい量と迫力だ。
今はお昼休み。
僕らは食堂内の窓際の一角を陣取り、昼食を摂ることになった。
僕の隣には当然のようにエアリスが座り、向かい合うようにして対面には星崎くん、針生くん、甘粕くんが座っている。
このお弁当のおかげで、教室の机では狭いな、と感じた僕は、転入して以来初めてとなる学生食堂を利用することにした。
全校生徒教職員を合わせて500人からが利用する食堂は圧巻の広さで、そこら中から美味しそうな匂いが漂ってくる。和食から洋食、中華まで網羅する学生食堂は、リーズナブルな値段の割に量が多くまた美味しいと評判だ。
ちなみに星崎くんが頼んだきつねうどん(大)は290円らしい。
窓の向こうには中庭に面したテラス席もあるが、今の時期にそこで食事をする生徒はいない。早々に食事を終えた一部の男子生徒がゴムボールでキャッチボールをしているくらいだ。
「とても普通の人間の食う量じゃねえぜ」
そう呟く針生くんの手元には特大サイズの弁当箱――と言っても僕の重箱弁当に比べれば実に慎ましやかな量のお弁当が置かれている。
ちなみに甘粕くんは甘党なのだろう、菓子パンばかりが三袋と因縁のシリーズ『果実いちごアボカドフレーバー』なる異次元ジュースがあった。
「うん、なんか怪我してから異様にお腹が空いちゃってさ。はは」
これも吸血鬼になってしまった弊害である。
陽の光や聖水、にんにくや十字架は平気でも、内側から湧き上がってくる衝動だけはどうにもならない。それのひとつが異常なまでの食欲の増大だった。
食べても食べても、まるでブラックホールのように胃袋に吸い込まれ、満たされない空腹感だけが浮き彫りになるこの感覚。正直、授業中も耐え難い腹の虫を必死に押さえつけていたのだ。
「む。人間の食べる量じゃない、だと……?」
「いただきまーすッ!」
甘粕くんの勘が働く前に僕は強引に食事を開始する。
この僕が人間ですらないことが、いつか甘粕くんにはバレそうで超怖かった。
早速お箸、は無理なのでフォークに手を伸ばす。
と、すかさず横から手が出てきて、フォークを掻っ攫われてしまった。
「何をしている貴様」
「え、いや、エアリスさんがせっかく作ってくれた美味そうなお弁当をガツガツいただこうかと?」
「そうではなく、左手では食べづらいだろう。私が介添えをする」
「なんやてッ!?」
ガダン、と立ち上がったのはエアリスの真向かいにいる星崎くんだ。
ああ、彼が大きな声を上げたせいでみんなの視線がこっちに。
「いや、もうだいぶ身体も自由に動くようになったし、そこまでしてもらう必要もないかなーなんて思うんですけど」
「何を遠慮している。今朝も私が作った食事を手ずから食べさせたではないか。朝が良くて今がダメな理由は何だ?」
みんなの前だからだよ。
などと言ってもエアリスさんは関係ないと切り捨てるんだろうなあ。
日本の生活にもかなり慣れてきた彼女だが、こういう機微はまだまだわかっていないようだ。
というかこういうのって日本とか魔法世界とか関係ないよね。
ひとえにディーオがエアリスさんの教育をサボってきた結果ではないだろうかと思う。
「最初はどれにする? 本日はこのホウレンソウの和え物が我ながら会心の作だ。あとはこちらの『ささみのしそ巻き揚げ』というものを初めて作ってみたのだがかなり上手にできたと思う。まあ無難にサンドイッチから食べるか?」
「い、いや……」
ジーっと星崎くん以下針生くんと甘粕くんの視線が突き刺さる。
なんなら食堂にいる他の生徒の視線も突き刺さっている。
みんな自分の箸を止めて僕とエアリスに注目している。
「量が量だからな。長い休憩時間とはいえ、のんびりしている暇はないぞ」
全員の手前、エアリスはいつもの無表情を装っているが僕にはわかる。
微妙に、本当に至近から注意してみないとわからない程度に口元に笑みを浮かべていらっしゃる。
女性は好いた男に食事の世話をするのに無常の喜びを感じる、とは耳にしたことがあるが、エアリスもご多分に漏れず僕の食事を最優先に考えてくれている。この豪勢極まりない重箱弁当もそうだし、自宅での食事も今すごいことになっている。
「どうした、いい加減に観念して口を開けぬか」
小さな微笑を湛えていた口元がついっと尖った。
ざわ――っと食堂内が揺れる。
星崎くんが拳を握りしめてブルブルと震えている。
「拗ねた」「拗ねたぞ」とどこからか聞こえてきた。
エアリスが人前でこんなにわかりやすい抗議をするなんて初めてである。
ズイッとサンドイッチが差し出される。
ああ、たまごフィリングがたっぷりと挟まれていて超美味そうだ。
今朝も早くから、朝食の準備と並行して大量の弁当をこさえてくれていたもんな。
地球に来てからエアリスには世話になりっぱなしだ。
僕の最大目標、セーレスを救い出すため、文句一つ言わずに手伝ってくれている。
いいんじゃないか。僕がちょっと恥ずかしい思いをするくらいで、彼女の心が満たされるなら。
男子から嫉妬の目を向けられて針のむしろになるくらいは甘んじて受け入れるべきではないのか……。
ざわッ――と一際大きく食堂内がどよめいた。
星崎くんが戦慄く人差し指を突き付け、血の涙を流している。
針生くんと甘粕くんが自前のスマホで懸命にシャッターを切っているような気がしないでもなかったが放置した。
ガブリと、エアリスさんの手を丸呑みしそうなほどの大口を開けて、僕はたまごサンドを頬張る。
「どうだ、美味いか?」
「大変おいしゅうございます」
「なんだそのしゃべり方は? おかしなヤツだな」
エアリスさんのお顔には、微かどころではなく、周りにもそれとわかるほどの笑みが湛えられている。
とても穏やかで綺麗な笑顔だ。これはすごい。僕の前では時折見せてくれる表情だが、初めて目にする生徒たちにはとんでもない衝撃だろう。実際「はあ……なんて綺麗なのエアリス様」という感嘆の声がそこかしこで囁かれている。
エアリスは親指についてしまったフィリングをこれみよがし、というわけではないのだろうが、何の気なしに舐めとる。そしてその舐めとった指のまま次のサンドイッチをつまみ上げ、僕の口元へと運んでくる。それを拒むことは、もう僕にはできなくなっていた。
「いただきます」
ふむ、ツナサンドですな。うまうま。細かく刻んだオニオンの食感がいいね。
おお、BLTサンドはマスタードを混ぜたマーガリンが塗られていていいアクセントになっている。レタスもシャキシャキとした歯ざわりが最高。
蒸鶏の照り焼きソースサンド、っていうのかな、これもガツッとした食べごたえがあっていい。
うわ、これ以上嬉しいことせんといて欲しいわ、かつサンドですよ。甘辛ソースがたっぷり塗られているし、厚めの衣をザクっと噛みきれば肉汁が口いっぱいに広がってくるじゃないですか。
ああ、止まらない。止まりませんとも。
「すごい食欲だな。そんなに腹が減っていたのか。ほら、慌てて食べるから口の周りが……」
エアリスが指の腹で僕の口の端を拭う。かつサンドのソースを拭き取ってくれたようだ。そして彼女はそれを自分の口元へ近づけ――
星崎くんが口をあんぐりと開けるのが分かった。針生くんと甘粕くんのスマホをを支える手に緊張が疾走った、ような気がする。
『ちゅぱ』
その擬音はひどく官能的な響きだった。
刀折れ矢が尽きたとばかりに星崎くんは席に腰をおろし、テーブルに突っ伏してすすり泣き始めた。「さて、いいもん見たわ」と針生くんと甘粕くんも自分の食事に手をつけ始める。
僕は、ただひたすらエアリスが差し出してくる食事を胃袋の中に収め続けた。
ああ……それにしてもなんて嬉しそうな顔をするんだエアリスさん。
今の僕たちの姿が、親鳥が雛にせっせと餌を与えている風味なのを差し置いても、実に幸せそうな表情をしてらっしゃる。
というか僕もだんだん慣れてきたな。
事実エアリスの手料理は美味いし。
そうして、停まっていた時間が動き出す。
食堂内には喧騒が戻り、僕とエアリスもその中に埋もれていく。
そんな極々普通のかけがえのない時間は唐突に終わりを告げることとなる。
「さて、次は握り飯にするか。色々と中に入れる具を工夫してみたのだが――む?」
三角おむすびを手にとったエアリスが眉をひそめた。
僕の頭越しに誰か別の人物を見ている。周りの生徒は僕達に気を使ってくれて、ゆったりと距離を置いてくれているはずなのだが――
「ふがっ!?」
口をもぐもぐとさせながら振り返れば、驚くほどの至近距離にひとりの女子生徒が立っていた。
黒髪ロングヘアにスラっとしたスレンダー体型。
やや釣り眼気味の大きな瞳をこれでもかと見開き、じいっと僕の顔を覗き込んでいる。
エアリスが警戒心を強める。
温かな暖房の風が支配する食堂内で、清廉で涼しげな風が生まれたからだ。
だが、女子生徒の動きの方が早かった。
誰が何かを言うより早く、彼女は僕の顔へと手を伸ばし、パッと眼鏡を取り去った。
あ――と、みんなの声が聞こえた。
分厚い瓶底眼鏡の奥に隠れた、金の虹彩をした瞳が顕になる。
どんなに前髪で隠していても、この怪しい瞳の存在感は消せないものがある。
だからこそ度なしのフェイク眼鏡をしていたのだが……。
「あんた、何してんの……?」
内なる怒気を感じさせる声だった。
久しぶりに聞く美声でもある。
僕の幼なじみである少女が怒気をにじませながら僕を睨みつけていた。
「いや、誰かと勘違いしてませんか?」
「は――?」
次の瞬間、目の中に星が散った。
殴られたのだと、そう気づいた時には遅かった。
ゴウ――と、嵐が巻き起こる。
突然の強風に、食堂内はパニックに陥る。
目の前で僕に暴力を振るわれてエアリスが黙っているはずがないのだ。
「貴様……!」
台風の目と化したエアリスは、本気の怒りを湛え、綾瀬川心深を睨みつけていた。
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