追いすがる過去と今編
第126話 追いすがる過去と今① 心深、こころの向こうに~拝啓成華タケル様・前編
* * *
突然ですがみなさん、少しだけ私の話しを聞いて下さい。お願いします……!
……………………。
ありがとうございます。
こういうところでお話するのは初めてなので、実際は何か失礼なことを言ってしまうかもしれません。
だから最初に謝っておきます。
ごめんなさい。
まず名前、自己紹介をさせてください。
私の名前は
綾瀬川ってこれ、実は母方の姓なんです。
お父さんは婿養子です。
なんでかって言うと、お母さんがお父さんにプロポーズされたとき、あなたの姓になると自分の名前の響きが悪くなるわ、なんて言っちゃったらしいです。
お父さんの苗字は田畠です。
たばた、じゃないんです。たばたけ。
お母さんの名前は
私はそんな悪くないと思うんですけど、お母さんは嫌だったみたいです。
そんなの絶対にからかわれる! とか言っちゃって。
ガーデニングも趣味でやってる私が田畠なんてイヤって(全国の田畠さんごめんなさい)。
それでお母さんにベタ惚れしてたお父さんが折れちゃって、あっさり婿養子になっちゃいました。
まあそんなクセの強いお母さんと、温和で滅多に怒らないお父さんとの間に生まれたのが私です。あと少し歳の離れたお姉ちゃんがひとりいます。
現在は豊葦原学院高等部の1年生で、成績はそこそこ。
出席日数がいつもギリギリで、テストで良い点数を取らないと進級も危ないっていわれてます。
ああいえ、素行不良とかそういうんじゃなくて。
ちょっと言うのは恥ずかしいですけど、お仕事をさせてもらってるんです。
はい、あの……声優っていう声でお芝居をする仕事をしています
私ってば、子供の頃から声が特徴的な子だったんです。
そのくせ怒りっぽい性格だから――ああ今は違いますよ、子供の頃の話です。
それで怒りっぽくて、よく大きな声で怒鳴っては、その度に自分の喉を潰してしまうような子供でした。
それでついたあだ名が『怪音波女』とか『ギャオス』って……。
みなさんは『ギャオス』って知ってますか?
私が生まれるずっと前に流行った有名な特撮映画で出てくる怪獣なんですって。
口から超音波の光線を出すそうです。上手いこと言いますよね。
まあ私の声が周りにはどんな印象で見られていたか――聞かれていたかってことだと思います。
私は正直、自分の性格もそうだけど、この声がずっと嫌いでした。
なんでこんなキンキンとした声なんだろう。
私が喋る度に、同級生の男の子なんか耳を塞ぐフリをしたりして。
私にわざと大きな声を出させて喉を潰してやろうとからかってきたり、みんなの前であからさまな悪口を言ってきたり。
ようするにイジめられていたんですね私。
本当に小学校に行くのが嫌で嫌で、仮病を使ってはよくズル休みをしてました。
でも、そんな時に幼なじみだったある男の子が言ってくれたんです。
「キミの声はとっても綺麗なんだから、それを活かせばいいと思うよ」って。
いえ、すみません。ちょっと美化してました。
正確には――
「おまえの声自体はいいんだから、きつい性格をまず直した方がいいよ」と。
うーん。改めて思い出してみると非道いですね。
イジメられてヘコんでる女の子に性格がきついんだよとか普通言いませんよね。
でも、この時の私は前半部分の「声がいい」って言われたことに過剰反応していたんです。生まれて始めて自分の声を他人に認められて、それで嬉しくなっちゃったんです。
それから私は『声 性格 なおす』と、お父さんのパソコンでネット検索してみて、検索結果のひとつに『声優』という、声でお芝居をする職業があって、その人達が声を出すための訓練をしている動画を見つけました。
これだ、と思いました。
このヒトたちのように、発声をするトレーニングをして、自分自身の声をコントロールすることができれば、もうイジメられることもなくなるかもしれない。
早速お母さんに相談してみると、私が見ていた動画を見て、突然お母さんの眼の色が変わるのがわかりました。「あんた、こういうのやりたいの?」と、怖いくらい真剣な顔で聞いてきたので「うん」とだけ頷きました。
様子の変わったお母さんに、私はただただ戸惑っていたのですが、ここでひとつの行き違いが生まれます。
私がやってみたい、そう言ったのはあくまで『声優』のお仕事でした。
私のコンプレックスとイジメの原因は『声』だったのですから、それを扱う『声優』になれば自分も変えていける、そう思っての相談でした。
でもお母さんの受け止め方は違ったのです。
翌日、リビングのテーブルに広げられたのは隣町にある、とある劇団のパンフレットでした。
あれ、なんか違う?
でも時既に遅しです。
お母さんは来月に開催される劇団の入団オーディションに向けて練習をしましょうと言ってきました。練習とはもちろん『お芝居』の練習です。
そして私は一月ほど母のつきっきりで、演劇の勉強をすることになります。
後に知ることになるのですが、何を隠そうお母さんは、その劇団のOGでした。
お母さんが言うには、私は私、子供は子供。
決して強要などさせたくなかったが、中学に上がる頃にはそれとなく、お芝居に興味がないかどうか水を向けてみようと思っていたそうです。
でも私の方から興味を持ってくれて嬉しい。流石は私の娘だ。
まだ早いと思っていたが、今から受かるように練習しよう。
そんな認識のズレから、私は声優ではなく、劇団の幼年部に入ってお芝居をすることになりました。どちらにしろ発声練習は当然のようにあるので、「まあ、いいかな」と私はその劇団に無事入団することになりました。
*
隣町にある劇団は、かなり有名な劇団のようでした。
成年部と幼年部に分かれて普段は別々に活動をし、年に何度かある合同公演の際には、一ヶ月ほど前から大人も子供も関係なく厳しい稽古に明け暮れます。
入団したての私は、当然来る日も来る日も基礎の体力作りと発声練習ばかりしていました。二ヶ月も経った頃、ようやく自分の声がコントロールでき始めたかな、と私が実感し始めたその矢先のことです。
なんと私は、劇団主催の成年部と幼年部を合わせた合同定期公演に端役として出演することになってしまったのです。
セリフなど一言二言しかない、名前すらないような役でしたが、私はその公演を通して、初めて厳しい大人の世界を目の当たりにしました。
舞台の上は、徹底した実力主義の世界で、相手が子供だからといって妥協や容赦を一切くれません。実力が伴わなければ、端役とはいえ役を降ろされ、周りの子たちに出番を奪われてしまいます。
こんな厳しい世界があったのか、と思いました。
もうこの時点で私は、小学校で受けていたイジメのことなんて、舞台の上のプレッシャーに比べたら全然大したことないな、と実感するようになっていました。
そして私は多くの子供と大人たちに混ざって懸命に稽古に励みました。正直内心は不安でいっぱいです。入団したての私が役をもらえただけでも幸運なのに、舞台の上でお芝居なんてできるのかと、自分の出番がやってくるのが怖くてたまりませんでした。
でもその時、私はお母さんの言葉を思い出していました。
入団するにあたってひとつだけ、私は約束をさせられていたのです。
それは『逃げない』こと。
実力が伴わず失敗するのはいいが、自ら挑戦もせずに逃げることだけは許さないと言われていたのです。
当時の私にとっては、見ず知らずの大人の世界よりも、家に帰ったときの母の方がずっとずっと怖かったのです。でも、その言葉があったおかげで、私はなんとか役者としての片鱗を周りに示すことができました。
いずれ声優の仕事を紹介される時も、母の言葉が私自身の背中を押す切っ掛けになるとは、その時は思いもしませんでした。
*
それは小学校六年生に進級したばかりの春休みのことでした。
「心深ちゃん、声優に興味ない?」
明日の天気を聞くような軽さで私にそう聞いてきたのは、劇団の人事担当のヒトでした。どうやら急遽子役の声優を探しているプロダクションがあり、伝手のあるウチに声をかけてきたようでした。
「心深ちゃんの声は実に声優映えすると思ってたのよね」
その時の私は小学生ながら、学校生活と劇団のレッスンを両立させるために多忙な日々を送っていました。ですが、例の「逃げるな」という母の呪いの言葉により、やるだけはやってみることになってしまったのです。
劇団までは母が毎日送り迎えをしてくれていましたが、都内にある声優事務所にはひとりで行くことになりました。駅に到着すると、事務所のマネージャーさんが迎えに来てくれていました。「期待してるからね」なんてプレッシャーを与えられて、私は内心ビビりました。ひええ。あんまり期待しないでー。
事務所内で挨拶を済ませると、早速近所にあるスタジオに向かいます。
そこは、これまた舞台の上とは違ったTHE大人の世界でした。
私は正直、台本の読み込みと芝居の練習しかしておらず、声優としての現場の作法や用語などまったくわかっていませんでした。とにかく本番中にミスをするくらいならと自らを奮い立たせ、分からないことを必死に周りの大人達に聞いていきました。
子供心にもわかります。なんでこんな素人がいるんだと。自分たちプロの間に、こんな右も左もわからない子供を連れてくるなんて何を考えているんだと。
口ではどんなに優しい言葉で接してくれようとも、大人たちが心の奥底で思っていることが、なんとなくわかってしまいました。
正直泣きそうでした。
ここまで私を連れて来てくれたマネージャーさんも、今は収録ブースの外にいて、たったドア一枚の隔たりなのに、私は別世界に放り出されたような孤独感を味わっていました。
でも、そこで私は改めて自分の役割を思い出します。
私はこの場に声と演技を求められてきているのだと。
素人らしい素人や、子供らしい子供など、この場所には不要だ。
悪意を持たれているからといって、それが仕事にまで影響してしまっては元も子もないと。
一度腹をくくってしまえば、あとは簡単でした。
自分でもびっくりするくらい、その後は演技に集中できたのです。
どうやら私には、ある瞬間から入るスイッチのようなものがあって、それが一度入ってしまえば、緊張も恐怖も羞恥もどこかへと消えてしまうようでした。
そうなった時の私は、こう身体の奥が無性に熱くなってしまって、口から言葉とともにマグマのようなものが吹き出しそうになってしまいます。
思えば昔の私は、そのマグマのようなものを激情のままに垂れ流していたから『怪音波女』などと言われる原因になっていたように思います。
でも今は違います。
私はその激情を理性で押さえつけ、力のある声として発する術を身につけました。
するとどうでしょう。
プロフェッショナルな大人たちはすぐ気づいてくれます。
私を訝しげな目で見ていた先輩たちや音響さん、そしてマネージャーさんまでもが「ほう」と認めてくれるのです。
この時の感覚をなんというのでしょう。
まさに『世界が開ける』と言うべきものであり、私は今日この瞬間、マイクを前にして一度生まれ変わったように感じました。
名前のない女の子の役で声優デビューを果たした私は、その後、事務所の養成所で改めて声優になるためのレッスンを受け、すぐさまオーディションを受けさせられました。
端役ですが、名前付きの役で合格の通知が来たのは翌日のことでした。
また再び、自分の世界が音を立てて広がっていくのを感じました。誰もが私をひとりの演者として認め、収録中は年下として気を使ってくれながら、対等の扱いをしてくれるのです。
この世界を知ってしまった同じ頃、私は学校でもイジメられることがなくなっていました。そしてなんとなくですが、私が演技の仕事をしているということも伝わっているようで、クラスの子たちが声をかけてくれるようになりました。
またある時は学校の先生からの依頼で、運動会の放送係をしてくれないかと頼まれたこともありました。私は二つ返事で了承し、お仕事で台本を読み込むように、本気で運動会のプログラムを暗記し、見事に勤めを果たしました。
私は手に入れたのです。
私を必要とし、私を認めてくれる世界を。
これは大げさでもなんでもなく、俯いていた私の人生に明確な光が当たった瞬間でした。
だからこそ、私は思いました。私に一番最初に小さな灯火を与えてくれた幼なじみの男の子にそのことを伝えたい。アイツにも、この気持を理解して欲しいと。そう強く思ったのです。
*
こんなに悲しいことってありません。
ネットゲームって!
そして登校拒否って!
何をしてるんでしょうあいつは!
……ああ、すみません。
なんの話かっていうと、例の私の幼なじみの男の子のことです。
私は中学生になっていました。
私が声優としての実力をつけるために、放課後は毎日のようにレッスンに明け暮れていた頃、なんと彼はネットゲームにのめり込み、学校にも全然通わなくなってしまっていました。
そういえば最近学校で見かけないな、違うクラスだからたまたまかな、などと思っていたら、そんなことになっていたとは……。
しかも頭の痛いことに、そのことを教えてきたのが私のお母さんだったのです。
「あんたはこんなに頑張ってるのにねえ。あんな子に気を使って足引っ張られないようにね」
ショックです。
自分の母親から、彼のことをそんな風に言われるなんて。
でもなんにも言い返せない自分が一番ショックでした。
私は決意しました。
彼を更生させようと。
彼は――その幼なじみの男の子は、ご両親がずっと家にいらっしゃらなくて、小さな時から一人でいることが多い子でした。
いつだったか、私と彼がもっと小さかった時に聞いてみたことがあります。
「お父さんとお母さんが帰ってこなくて寂しくない?」と。
彼は本当に平気そうな顔をして首を横に振っていました。
幼かった私は家に帰ってきたときに、お母さんがいなくて、夜になっても帰ってこなくて、お父さんもずっと家に居ないなんて、想像しただけで泣きそうになってしまいました。
冷静な彼を見て、その時はすごいなあとしか思えませんでした。
でも今考えてみれば、それは大きな誤解でした。
彼は、『寂しい』と思う心すら、わからなかったのだと思います。
あまりにもご両親がいないことが当たり前になりすぎて、自分がどれだけ普通とはかけ離れた家庭環境に置かれているのか理解していなかったのです。
翌朝。
さっそく私は近所にある彼の家に行きました。
当然、玄関には鍵がかかっていました。
インターホンを押しても無反応。
失礼だと思ったけど家の敷地内をグルリと回ってみました。
庭草が恐ろしいほどにボーボーで、変な生態系が構築されている風でした。
勝手口に電気メーターが見えます。
グルグルぐ~るぐ~る。
居るじゃん!
バリバリ電気使ってるよ!
ということはわざと居留守を使っているのか。
今もずっとゲームをしている最中なのか。
学校にも行かずに、近所で噂になるくらい。
これはいけない。私がなんとかしなければ。
使命感を胸に燃やし、私はひとまず学校へダッシュしました。
*
放課後、私は学校の職員室へ行きました。
彼の担任は自分のクラスに登校拒否児童がいるというのに脳天気なものでした。
私は彼と住まいが近所であり、子供の頃から親同士の付き合いがあると。
そして現在彼の両親は不在なので、緊急連絡先はどこになっていますか、と問いただしました。
最初は「そんなこと聞いてどうするんだおまえ」なんて言っていた担任ですが、私がもう一度しっかりお腹と目に力を込めて『お願い』をすると、とてもあっさりと教えてくれました。
やっぱり。現在、学校に届けられている彼の緊急連絡先は、市内にある親戚の家になっていました。
彼が居留守を使っている以上、もうここに乗り込むしかない。
私は最近買ってもらったスマホで事務所に連絡を取り、レッスンに一時間ほど遅れると伝えました。
バスを乗り継いで三十分ほど。
閑静な住宅街の一角に彼の叔父さん夫婦は住んでいました。
インターホンを押すと白髪が混じった叔母さんが現れました。
年の頃はウチのお母さんと同じくらいなのに、まったく印象が違います。
なんというか物腰がすごく柔らかい。
私のお母さんはいつでもメイクバッチリで、よく年齢より若く見られるけれど、このヒトは全然そんなことなくて、お化粧も最低限です。でもそれがすごく似合っているというか、ごくごく自然体というか……。
「可愛らしいお嬢さん、うちになにか御用かしら?」
ハッとして、私は慌てて頭を下げます。
そうして名乗りを上げたあとに、彼のことで話があります、というと叔母さんは少し真剣な表情になったあと「どうぞ」と家の中に通してくれました。
叔父さんが不在だったのは残念でしたが(まだ夕方の時刻です。普通にお仕事だと思います)、却って叔母さんだけでよかったのかも知れません。私は時間も惜しいとばかりに、早速用件を伝えました。
彼の近況を聞くなり、叔母さんはみるみるしょんぼりした顔になっていきました。
叔母さんが悪いわけじゃないのに、なんだかすごく申し訳ない気持ちになります。
でも、彼の今の状況を変えるために、言うべきことは言わなければなりません。
「ごめんなさいね、あの子は悪い子じゃないんだけど難しい子で。私達は大分嫌われてるみたいなの」
どうやら叔母さんの方も彼が今どんなことになっているのか知らなかったようです。
小学生の時はこちらの住まいで預かるということを何度も打診していたらしいのですが、その度に彼は頑なにあの家に居たがったそうです。そのくせ自分たちが訪ねて行くと、今朝の私のように居留守を使われ門前払いされていたそうです。
毎月の口座から光熱費や食費が引き落とされているのは確認していたから、生きてはいるのだろうと。よくないとは思いつつも、学校に行きつつ自炊して生活しているのならと様子を見守っていたそうです。
私は失礼ながら言わせてもらいました。
さすがに今の状況はいけない。
せめて学校には行くように働きかけるべきだと。
そしてその役割は『私がやる』と宣言しました。
「あの、あなたは彼のお友達、なのかしら?」
「幼馴染です。幼稚園の頃からずっと一緒です」
「まあ、そうなの。えっと、心深ちゃんだっけ? 大丈夫なの? 迷惑じゃない?」
「とんでもないです。彼があんな風になってしまった原因は私にもありますので」
「どういうことかしから?」
私は少し恥ずかしかったけど、正直に話しました。
ここ数年劇団や声優のレッスンが忙しくて彼との交流がぷっつりと途切れてしまっていたこと。そうして母から彼が引きこもりになっていることを聞いてショックを受けたことを。
「私がもっとちゃんと彼を見ていればこんなことにはならなかったはずです。なのでこれは私の責任です」
叔母さんは目を丸くして「まあ……まあまあまあ」なんて口元を抑えながら何故かニヤニヤとしました。なんだろう、嫌な感じ……。
結果から言うと、叔母さんは私に彼の家の合鍵を渡してくれました。その際に、私の手をしっかりと握りながらこういいました。
「ごめんなさい。ウチのヒトにもあなたのことは伝えておくわ。どうか末永くあの子のことをよろしくね」
末永くって……。
いえ、細かいことはどうでもいいです。
私は頷き、頭を下げると暇を告げました。
結局レッスンには遅刻してしまいました。
でもその日は何故か調子がよくて、指導の先生に褒められちゃいました。
私の胸の奥にはカッカッと熱く燻ぶる炎のようなものが灯っています。
レッスン後、家に帰ってご飯を食べてお風呂に入って。学校の宿題を済ませてベッドに入ったあともその熱が冷めることはありませんでした。
やってやる。私が彼を必ずまっとうな道へと引き戻してみせる。
お母さんや周りにも絶対文句なんて言わせない。
レッスンや仕事にも絶対に穴は開けない。
今まで以上に忙しくなるけど、私の心は充実していました。
*
翌朝、いつもより早めに起きた私は「まだ朝ごはん用意してないわよ」というお母さんに「日直だから先に行くね。ごはんは途中で買うから」などと適当に嘘をついて彼の家に行きました。
まだ通勤ラッシュには早い時間です。
人気のない近所の道を足早に進んだ私は、今度はインターホンを鳴らさず、彼の家の玄関前に立ちました。
彼の家に行ったのは劇団のオーディションを受ける直前、小学校二年生の時が最後です。
その後は彼が私と遊びたがらなかったのと、母が彼のことをよく思っていないこと、そして私自身が忙しくなってしまったことで、すっかり足が遠のいてしまっていたのです。
スカートのポッケからお気に入りのキーストラップをつけた合鍵を取り出し、ドアを開けます。ガチャリと、思いの外大きな音を立てて扉は開きました。
玄関には踵を潰した彼のスニーカーと、埃の積もった靴棚が。
お父さんとお母さんのものでしょう、革靴とヒールが一足ずつありましたが、手入れをするものがいないため、カサカサになっていました。
でも、埃っぽいだけで、家の中はそれほど雑然とはしていませんでした。
てっきりゴミ屋敷のような有様を想像していたのに、結構しっかりやってるんだ、と思いました。
私は週末に掃除することを誓い、持参したスリッパに履き換えて彼の部屋に向かいました。
「甘かった」
ドキドキしながら二階奥にある彼の部屋に踏み込んだ瞬間、私は唖然としました。
散乱するペットボトルと着替えの山。足の踏み場もないほど敷き詰められたゴミの絨毯に足を取られ一歩も進めません。というか進みたくないです。
幸い想定したような嫌な匂いはしませんでした。
ペットボトルもお茶と水ばかりだからでしょうか。
それに脱ぎ捨てた衣服の匂いも、普通に彼の匂いなので、別にイヤではありませんでした。
ズズズッと足でゴミをどかしながら分け入っていけば、部屋の隅に彼は居ました。机の上でノートパソコンが開きっぱなしになっていて、彼はその前に突っ伏して眠っています。ああ、なんて情けない。
私が声優の仕事をがんばっている間に、あんたはどうしてこんなところで足踏みしているのか。
彼は昔から私なんかよりもずっと頭がよかったのです。私だって学校の成績はいい方ですが、彼の場合はなんというか基本構造が違うのです。ヒトよりもずっと少ない勉強時間で、あっという間に何倍もの量をこなします。
やれば出来る子なのに全然やらない。
彼は自分の努力を他者に見せることを極端に嫌います。
お母さんが昔、「あんな頭の悪い子とは付き合うのをやめなさい」と言ったとき、目の前が真っ赤になって、反論したことがあります。それくらい、彼の頭の良さを知っているのは、本当に私くらいしかいなかったのです。
思えばその時の私も、我が子をかばう母親のような心境でした。
誰も本当の彼を知らない。
彼の凄さに気づいていない。
そのことが悔しくて悔しくて仕方なかったのです。
私は早速彼を叩き起こし、一緒に学校に行くように迫りまりました。
「なんだ、なんだなんだ、何なんだいきなり!?」
突如として現れた私に、彼は大いに戸惑いました。
そして不法侵入だ、と言ってきたので、叔母さんから許可は貰ってる、と合鍵を見せびらかしました。
彼が猛然と立ち上がり、私の手から鍵をひったくろうとします。ですが残念、ピザ屋のチラシに足を取られ、見事にずっこけてしまいました。ばーか。
「ほら立って」
「一緒に学校に行こう」
「制服はどこ?」
「ごはんは途中で買ってあげるから」
「まずは顔を洗ってきて」
私が矢継ぎ早にそう言うと、彼は寝起きのトロンとした目のまま「さあ、制服はどっかその辺」とゴミの山を指さしました。
それらしきものを引っ張りだすと、シワシワのくちゃくちゃ。
ものすんごくかび臭くなっていました。
カバンは? 教科書は?
最悪ジャージ登校でもいいと思ったので、それさえあればと期待を込めます。
するとやはり、どっかその辺、などと宣うのです。
私は本気で彼に説教をしました。
同級生の男の子にこんなに腹を立てたのは初めてです。
そしてヒートアップが過ぎました。
遅刻ギリギリの時間になってしまい、私はまた明日来ると言い残し、彼の家を出ました。
通勤ラッシュも終わって、通学路は閑散としていました。
私は学校までの道を駆けながら久しぶりに会った彼のことを思い出していました。
しばらく会わない内に顔つきが変わって、背が高くなっていました。
声もまだ子供っぽい感じだけど、もう変声期が始まっています。
ふふ。
私の心は萌えていました。
燃えじゃなく、萌えです。
必ず彼を改心させて、学校へと連れて行く。
そしていつか彼の能力を周りに認めさせる。
そうすれば、彼をバカにしていたお母さんも、学校の連中も、きっと一目置くはずです。
うん、絶対そうだ。
私は必ず、そうしなければならないのです。
「よし、がんばるぞ、おー!」
爽やかな朝日を浴びる通学路で、私は一人そう叫ぶのでした。
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