第115話 プルートーの鎧② 妖甲装着完了~力なき者の叫び

 *



 一週間前、非政府系医療組織グローバル・ドクターズ――通称『G.D.S』が医療支援のため、紛争が続くシリアへと向かい、活動を開始した。


 日本はとりわけ中東支援に積極的な姿勢を維持してきたが、難民への対策は非協力的であると国連やユーロ圏から非難されることも多かった。


 地理的に国境を面していない島国故に対岸の炎として静観していたのだが、このたび積極的な医療支援を行うとの国連の決定にしたがい、日本国内の医療団体から希望者を募り、『G.D.S』への出向というかたちで協力姿勢を示したのだ。


 その医療スタッフの拠出が御堂財閥が支援する病院、医療団体から行われ、百理もまた自ら壮行式に立ち会い、彼ら彼女たちを送り出した。


 そしてわずか三時間前――動画投稿サイトに英語字幕付きで投稿されたのが邦人を含む『G.D.S』メンバーたちが拘束された姿だった。


 医療スタッフの周りを取り囲んでいるのは、覆面やターバンを顔に巻いた男たち――その手には全員、銃火器を持っている。


 誘拐をほのめかすその動画やキャプチャは、ツイッターやフェイスブック、あらゆるメディアを通じてあっという間に拡散していった。


 官邸内では年末の空気も吹き飛び、すぐさま政府与党が対策本部を設置した。

 現在は在シリア日本大使館とホットラインを通じて連絡を取り合いながら、現地政府とも協力し情報収集を行っている最中だった。



 *



 12月16日 午後21時31分

【総理官邸、シリア国内邦人医療スタッフ人質事件対策室】


「失礼」


 怒号が飛び交う騒然とした会議室に鈴の音に似た声が響いた。

 その場にいた全員が一瞬我を忘れる。あまりに場違い。そして現れた人物の容姿がこの場に於いては非現実的だったためだ。


「誰でも構いません。現在までにわかっている状況の説明をお願いします」


 百理だった。

 人研から車をすっ飛ばし、官邸内へと続く秘密の地下道を通り、突如として現れたのだ。


 常ならば相手が誰であろうと、柔らかな物腰でこうべを垂れる百理が決然とした表情で命令する。真っ先に反応したのは年若い外務官僚だった。


「な――誰だキミは! 何故キミのような子供がこんな場所に――!」


 今まさに居並ぶ重鎮たち――総理を始め官房長官、外務大臣、防衛省、警察庁、自衛隊幹部へと説明を始めようとしていた彼は、闖入者によって出鼻をくじかれ激憤した。


「お待ちしておりました御堂百理様。若い者が失礼しました。平にご容赦を」


「いえ、気にしておりません」


 官房長官自らが彼女を出迎え、奥の席へと導く。

 少女の登場にまったく動揺していない重鎮連中の様子に外務官僚は目を白黒させた。


「あ、え……御堂って、本当にあの御堂? でもなんであんな子供が……?」


「いい機会だ。キミもそろそろこの国の裏側を知っておいた方がいい」


 外務大臣に肩を叩かれ、戸惑いと疑問に顔を歪ませたままの文官から説明が行われる。


 シリア国内で人質となっているのは非政府系医療組織グローバル・ドクターズ、通称『G.D.S』のメンバーたち。


 あらゆる国境を越え、政治的主張を持たず、ただ人を生かし、人を救うという信念を全うするために結成された崇高な組織である。


『G.D.S』はシリア紛争の犠牲となっている一般市民を助けるべく、シリア協力員と共に野戦病院で活動中、現地の武装勢力に拘束されたのだ。


『G.D.S』を人質にしたのは『クリムゾン・ジハード』。動画の中で自ら名乗っていた名前だ。


 比較的近年になって活動を始めたイスラム原理主義過激派集団である『クリムゾン・ジハード』は、野心的で大胆な戦術を取ることですでに国際的な認知をされている。


 そして彼らの捕虜の扱いは決していいとは言えない。他者の生命をまるでゴミのようにしか思っておらず、よしんば生き残れたとしても、本物の奴隷として酷使される運命が待ち受けているからだ。


 人質となっているのは28名。その内約12名が邦人医療スタッフである。

 それ以外はアメリカ人、ドイツ人、フランス人が数名ずつといった構成だ。


「――動画内で『クリムゾン・ジハード』は、あらゆる外国人は即刻シリア国内から退去しろと通告しています。そして現在拘束されている人質に対しては……、一人頭200万ドルの身代金を要求しています」


 ザワッ――と室内がどよめいた。

 現在のドル円相場に換算して約2億1千万円。

 とても正気の沙汰とは思えない金額だった。


「御堂が出しましょう」


 真っ先に発言したのは百理だった。

 居並ぶ重鎮たちの視線が一斉に集まる。

 百理は席を立ちながら全員を見渡した。


「まずは人質全員の安全を確保します。国籍に寄らず全員です。その上で救出チームの派遣を希望します」


 見せ金をチラつかせれば、ある程度相手側をコントロールすることができる。

 向こうも身代金を強気で主張しているのだから金が欲しいのは本当だろう。

 金で動く人間の行動や思考は予想しやすいものなのだ。


「自衛隊、警察庁から救出チームの選出をして下さい。かかる費用の一切はこちらが持ちます。夜明けまでに選抜を終え、交渉チームとともに現地に入って下さい。なんなら御堂が所有する兵力を投入しても構いませ――」


「百理様」


 壮年の大男が立ち上がっていた。

 階級章から自衛隊の一等陸佐だと知れる。

 その一等陸佐が、巌のような顔に亀裂のような皺を刻み、苦々しく口を開いた。


「今回、自衛隊からの救出チームの派遣はいたしません」


「なッ――!?」


「百理様、警察庁からもTRT《国際テロ緊急展開チーム》の適用を見送らせてもらいます」


 同じく立ち上がった次官が目を伏せ、俯きながら絞りだした。


「あ――あなた達は、自分が何を言っているのか理解しているのですか。自国民を救わずしてあなた達は何のための警察、自衛隊なのか――!」


「彼らを責めないで下さい百理様」


 口を開いたのは時の内閣総理大臣だった。


「自衛隊はそもそも専守防衛。海外での実力行使は許されません。そして地方警察を取りまとめる警察庁のTRTは、国外のテロ捜査はしていても、人質救出作戦能力はありません」


「ですが、やろうと思えばできるはずです。いかな憲法の縛りがあろうとも、無法にも危険に晒されている日本国民が確かにいるのです。超法規的な措置として――」


「百理様。この度の事件、政府の方針としてはアメリカとの連携の元に人質救出のための交渉を進めて行きます。これは既に決定していることなのです。日本だけが勝手な振舞いはできないのです」


 総理は決然と言い切った。

 すでに百理が来る前に筋書きは決定していたということか。


「それで本当に人質を救うことができるのですか? 私には日本はこの事件を静観すると言っているようにしか聞こえませんが?」


「かと言って、日本が救出チームを派遣しても必ず全員を救えるという保証もありません。その時になってその責任を負うものは誰なのか、あなた様もお分かりでしょう。それは表に立つ我らなのです。影に立つあなたではない」


 苦いものを噛んだような総理の答弁に百理は凍えるような声で言った。


「結局は保身ですか。あなたもまた紛れも無く日本人のひとりでしょう。今回の事件ばかりではありません。過去にも多々自国民を拐かされておきながら、あなた方は手をこまねいてきましたね。いい加減私たちは生まれ変わるべきなのです――!」


「日本は民主主義国家だ。適切な手段を踏まずそれをすることは許されません……!」


 総理はなおも抗弁した。現行憲法で動きようがないのは事実。それを曲げろと要求する百理。話は平行線のまま激しさを増していく。


「では明日にでも総選挙をして全国民に問いますか。そもそも現行憲法に邦人の救出規定がないことは異常であると、私は過去散々に申し上げてきたはずです。いい加減押し付けられた戦後政策は脱却すべきだと――」


「わかっています」と、総理はまるで続きを遮るように声を荒げた。


「私自身、第一次内閣が崩壊したとき、それが必要であると痛感しました。そして努力してきた結果、今ようやく潮目が変わりつつあるのです。ですが少しでも油断をすれば敵味方に足を引っ張られかねない。野党にも与党内にも手ぐすねを引いている者はたくさんいるのです……!」


「だから、人質救出に失敗して世論を敵に回したくないと――あなたは人質を見捨てるというのですか!?」


「何もしないとは言っていません。人質交渉は続けていきます。政府としては次善策としてアメリカが武器拠出をしている隣国の『イラン革命防衛隊』を動かせないかと考えています。できれば百理様にはそちらの方の負担をしていただきたく――」


「この――、なんと情けない! 結局は責任も救出も他人任せか! 恥を知りなさいッ!」


 百理はそう吐き捨てると足早に出口を目指した。

 総理はその背を呼び止める。


「百理様、どうされるおつもりですか!?」


「あなた方に動くつもりがないというのなら、御堂の隠密隊を動かします」


「いけません、おやめください! それだけはいけません! あなた様だけではない、日本の立場がマズいことになります。例え人命を救えたとしても後に禍根が残ることになる。あなた様はご自分の身内を救うために日本を境地に陥れるおつもりですか!?」


 その言葉に振り返った百理の顔は真っ白になっていた。怒りの表情がありありと浮かんでいた。


「身内びいきで私が暴走しているとでも言いたいのですか……? 人質は全員助けます。国籍など関係ありません。ただのひとりとして見捨てたりはしません」


「時代は変わったのです百理様。日本は世界の一員として他に規範を示していかなければなりません。私達も高度な政治的判断をしているのです。何卒ご自重ください」


「そうしてむざむざ人質を――日本人を殺され、また同じことが繰り返される。その度にあなた達は同胞を見捨てるのですか。これまでも、これからも。断固とした姿勢で臨まなければこの負の楔を断ち切ることは叶わないというのに……!」


 静かな、だが激しい怒りを湛えた百理が見渡せば、総理以外誰ひとりとして視線を合わせなかった。忸怩たる思いがあるのか、全員俯いていた。


「政府の方針はお伝えしたとおりです。変更はありません。くれぐれも勝手な振舞いはおやめ下さい」


 その言葉を聞き終えると同時、百理は対策室を後にした。

 これ以上何を話し合っても無駄だ。


 彼らはこれから人質を救出する相談ではなく、国内向けの記者会見の内容を相談するのだろう。


 百理はうっすらと蒼い炎を纏ったまま、官邸内の廊下を行く。

 彼女を知っている大臣クラスは問答無用で廊下の脇に仰け反り、彼女を知らない官僚や秘書たちは純粋にその異常な雰囲気に腰を抜かしていた。


 惨めだった。情けなかった。

 日本はいつからこのような国になってしまったのか。


 いや、それすらもいい訳だ。

 決めたはずだ、この日の本は『人間自身』の力で自立させるべきだと。


 人外として百理はいつでも手を添えることはあっても、決して彼らの歩みを妨げないように一歩を引いてきたはずだ。


 そしてたどり着いたのが今の日本なのだ。

 彼ら自身が選び、そしてあるいはこれから変えていかなければならないことなのだ。


 現行憲法に他国に奪われた国民を取り戻す条文がないことも。

 表向き、日本には軍隊が無いことになっていることも。

 自治警察だけで、戦前にはあった国家警察を持つことができないのも。

 他国の侵略に備えるために、有事法制や安保法制を作っただけで戦争法と揶揄され非難されるのも。


 子どもたち自身の手で少しずつ、正道を歩みながら変えていく必要があるのだ。


 総理が言っていた『世界の一員として』という言葉――

 それは奇しくもタケルが言ったのと同じ言葉だ。

 タケルは日本を救うためにこそ、世界の一員として世界に目を向けろと言っていた。


 だが先ほど総理が言っていた言葉はどうか。

 世界のために犠牲にされる人命。

 彼の言う日本のためという言葉の中には、もはや人質の命は入っていないのだ。

 世界の奴隷と化した彼らに人質を救うことは決してできないだろう。


 歯がゆい。自分の立場も無力さも。

 そして思う。力が欲しいと。

 理不尽をねじ伏せ、すべてを救うことができる力が。


「そんな都合のいい力などあるはずが――」


 いや、でももしかしたら彼なら……。

 一瞬だけ頭に浮かんだ考えを百理は必死に振り払った。


 彼には彼の戦いがある。

 自分の都合でたった一人の少年に日本の責務を押し付けてはいけない。


「頼ることなどできません……」


 百理は官邸を後にした。



 *



 秘密の地下道を通り、日比谷公園公会堂の関係者入り口から出る。

 既にして官邸前は報道関係者が押しかけて騒然としているのにこの場所は静かなものだった。


 冬の冷たい夜気が漂い、吐き出した息を白く彩る。


「百理」


 立ち尽くす百理の目の前にタケルが立っていた。


「タケル様……、なぜここに?」


 彼の後ろ、遠目にカーミラとベゴニアの姿が見えた。

 そうか。彼女ならばこの入口を知っていても不思議ではない。


「申し訳ありませんタケル様、本日は少々疲れました。何か御用があるのでしたら、また後日にしていただけませんか」


 普段よりも血の気を失った白い顔で薄っすらと笑みを作る。

 少年はそんな百理に向かって決然と言い放った。


「百理、僕を使ってくれ」


「何ですって……?」


 一瞬にして笑みが消える。

 白貌の百理ははたとタケルを見上げた。


「僕は戸籍上は死んでることになっている。特定の国家が武力介入すれば問題になるだろうが、僕ひとりが独自に動くなら問題ないはずだ」


「そういうわけにはいきません。確かにあなた様は法の括りから外れた存在かもしれませんが、あなた様を巻き込むわけにはいかないのです」


「どうしてだ? 僕の力は僕だけじゃ手に入れることはできなかった。百理やカーミラがくれたものだ。こういう時こそ役立てたい」


 百理の口元が知らず引きつる。

 彼女は聞き分けのない子供をあやすように言った。


「あなた様のお力はどうぞご自身の目的のためにお使い下さい。そして来るべき厄災に備えるためにこそ私も協力をしたのです。今回の事件はあくまで外交交渉で決着をつけることになるでしょう。今下手に相手を刺激しては、却って人質を危険にさらす可能性があります。堪えて下さい」


「でもそれは普通の人間が動いた場合だろう。僕ならきっとそれらとは違うことができる。必ず人質を救い出すことができるはずだ」


「タケル様」


「だから――」


「あまり私を困らせないで下さい」


 タケルには決して見せなかった顔。

 百理はかつてのカーミラを相手にしていたときのような冷酷な表情を浮かべていた。


「失礼を承知で言わせてもらえれば、あなた様はまだまだ子供です。大人の世界は色々と複雑なのです。お願いですからあまり聞き分けのないことを言わないで下さい」


 言いながら百理の胸中は嫌悪感でいっぱいになる。

 先ほど総理に言われたことをそのままタケルにぶつけている。


 なんて卑怯。彼を諌める言葉すら自分の中から出てこない。

 借り物の論理で、自身すら納得できていない理屈で、彼の心遣いを煙に巻こうとしている。


「確かにそうだな。僕の中身は全然ガキだ。百理やカーミラから言わせれば未熟もいいところだろう。実際、今どんなしがらみから百理が嘘を言っているのか僕にはわからない」


「――ッ、それは……!」


 バレている。自分自身の言葉で彼を拒絶しているのではないと。

 本心を、本当の気持ちをひた隠しにしているのだと。


「でもだからこそ僕の持つ力を百理のために使いたい。百理のような自分のためではなく自分以外の者のことを考えられるヤツのために使って欲しい。国家、人種、宗教を越えて動くことができる世界唯一の魔法師として、僕というイレギュラーを利用して欲しい」


「タケル様……」


「何より僕自身が百理のために何かしたいんだ。異世界から地球に、日本に帰って来られて、今はよかったと思える。そう思えるようになったのは、百理やカーミラたちのおかげなんだ。だから一言でいい。言ってくれ……!」


 深い懊悩。

 大都会に切り取られた公園の中、街のすべての喧騒が遠ざかる。


 固く瞑られた瞼。

 引き結ばれた口元。


 百理は絞りだすように、ともすれば吐息にすら消えてしまいそうなほど、小さな救いの叫び・・・・・・・・を囁いた。


「………………………………………………どうか皆を助けて下さいまし。タケル様」


「わかった」


 タケルは踵を返す。

 百理はその背を見送る。


 背中に、期待と不安の混じった視線をタケルは感じていた。

 その目に恥じない戦いをしなければ――


「聞いてのとおりだ真希奈。いきなりの実戦だ。できるな?」


『もちろんです。真希奈はミスをしません。そしてタケル様は必ずや望む結果を得られることでしょう』


「ああ、もちろんそのつもりだ」


『それからタケル様、ひとつだけよろしいでしょうか』


「なんだ?」


『先程のタケル様、超カッコ良かったです! 108回ほど惚れなおしましたー!』


「……煩悩丸出しじゃん。この娘っ子は……」


『ああ、他所の女にかけた言葉なのはいただけませんが、それを差し置いても最高です。先ほどの凛々しいお姿、録画したので後でこっそり見返します』


「ねえ、もうちょっと緊張感持とう?」


 公園の外――日比谷通りに面した日比谷通りには大型トラックが停まっていた。

 タケルは後ろのコンテナハッチを開き、貨物室に入る。

 そこにはマキ博士とイリーナの姿があった。


「イリーナ、ついて来てたのか。迎えが来て帰ったんじゃなかったのか?」


「帰れるわけないじゃん。百理ちゃんが大変なんでしょ。私だけ呑気にしてらんないわよ」


 イリーナはウィダーインゼリーを咥えたままラップトップを高速タイピングしている。チューっと一息にすすり上げ、ゴックンしてからこちらを見る。


「えっと改めて真希奈ちゃん。タケル専用のオペレーションシステムなんだって?」


 冬の森の館で自己紹介は済ませていたが、イリーナは改めて真希奈に問う。


『如何にも。真希奈はタケル様専用の、タケル様だけのオペレーションシステムですが何か?』


「おお、私のPCから声が。にしても『タケル様の』って嬉しそうな声だねえ。たで食う虫も好き好きっていうんだっけ日本では?」


『失礼な! あなたはタケル様のかっこよさを知らないからそんなことを――』


「はいはい。なんでもいいから今すぐ私のPCとリンクして。情報は暗号化して随時渡していくから。ほら、タケルはさっさとダマスカスに飛ぶ。詳しい地形データとか、対策本部に入ってくる情報で使えそうなのとかは真希奈ちゃんから聞いて頭に叩き込みなさいよね」


「対策本保の情報って……やっぱすごいなお前。ハッキングってやつか?」


「正確にはクラッキングです―。まあなんでもいいけど。……流石にペンタゴンに侵入するのはもう少しかかるから、あんたは先に現地に行った行った。あとちょっとそこのおばさん!」


「は? 私? 今おばさんって言った?」


 突然のおばさん扱いにマキ博士は目玉がこぼれ落ちるほど愕然としていた。


「表の中継アンテナ感度悪いー! 最低限今の回線速度40%アップさせてくんないとやってらんないー。早く何とかしてー」


「か、勝手に付いてきたくせに何仕切ってんのこの子? あとなんで私があんたの小間使いみたいなことをしなきゃならないのよ……。ちょっと天才だからっていい気になるんじゃないわよ……!」


 などとブツブツ言いつつもマキ博士は席を立った。

 結局行くんだ……とタケルは思った。


「あ、その前に鎧を――」


『タケル様、エントリーだけなら博士は不要です。お早く』


「ああそう。じゃあ行くか……!」


 タケルはコンテナの奥、エントリーハンガーへ向かいながら服を脱いでいくと、鎧の装着用に着込んでいたアンダースーツが顕になる。タケルは両手を広げ背中を預けるようにして待機状態の鎧へと倒れ込んだ。


 ――呪いの妖甲が震える。

 待ち望んだ生贄の到着に歓喜しているのだ。


 次の瞬間、鎧が動き出す。まるで口が閉じるようにタケルの身体を飲み込み、牙を立てるように装甲が閉じられていく。


「――ぐッ、つぅ……!」


 さながらタケルは生きながら食べられているような感覚を味わう。

 装甲の裏には万本の針が付いていて、それが皮膚に一斉に突き刺さるかのような無尽蔵の鋭い痛みが全身を灼いていた。


『第一シーケンス完了。全装甲をロック。タケル様、着心地はいかがですか?』


「ああ……痛みが収まってきた。確かに鎧って感じがしないな。まるで何か別の生き物の体内に包まれているみたいだ」


『問題ないようですね。――全感覚神経の同調完了。続いて第二シーケンスに入ります。プルートーシステムの起動準備。タケル様、失礼しますね』


「ああ」


 今のやり取りは虚空心臓の拍動を真希奈が主導で動かすという意味だ。

 虚空心臓が入っている内面世界に真希奈のコアが入っているからこそできる芸当だ。


『虚空心臓始動。魔力精製開始。拍動数上昇中。ビートサイクル・レベル1を確認。拍動数毎分100回を突破。精製魔力量続々増大中……』


 真希奈が虚空心臓のサイクルを完全にコントロールする。

 娘とはいえ自分以外のものが操っているというのにタケルはそれが自然なことのように、まるで違和感を感じていなかった。


『ビートサイクル・レベル2、拍動数毎分200回に到達。プルートーシステムを起動します』


「ぐぅ――ッ!」


 ドスンっ、と心臓の真上に極太の鉄針を打ち込まれる感覚。

 次いですさまじい脱力感。タケルは歯を食いしばって耐える。


『最終シーケンス開始。プルートーシステムによる魔力ドレインを確認。全装甲へ魔力循環中。25、50、80、95、100%――プルートーの鎧、起動しました。おめでとうございますタケル様!』


「ああ、ありがとう……!」


 これが自分がたどり着いた答え。

 今までは膨大過ぎる魔力を持て余し、ピーキーな魔法行使しかできなかったが今は違う。


 自分自身の身体に魔力を循環させるのではなく、生命エネルギーを吸収する鎧を媒介にして身体能力を強化することができる。


 さらには真希奈を介することで今のタケルは、どんな複雑精緻な魔法であっても行使が可能となっている。


 究極の肉体と究極の魔法力。

 そのふたつをタケルはついに手にしていた。


「感じる……今ならなんでもできそうだ」


 世界が妙にクリアだった。

 大気中に満ちる膨大な四大魔素がそうさせるのか、空気さえも色づいて見えるようだった。


「よし真希奈、光学迷彩をかけてくれ」


『了解。魔素選択『シルフ』。ステルスシールドを発動』


 一瞬だけ鬼面の頭部、エアインテークのような切れ込み部分から深緑のフレアがこぼれ出る。


 次の瞬間にはタケルの姿は完全に消えていた。

 頭上のコンテナハッチが開閉し、街灯の光が降り注ぐ。


 タケルは意識せず風の魔素を操ると、ふわりと身体が浮かび上がり、そのままコンテナの上に降り立った。


 大都会の最中であってもこの時間の街は閑散としている。

 今のタケルの姿は僅かな空気の揺らぎに見える程度であり、その姿を認める者は誰もなかった。


「よし、飛ぶぞ」


『了解。いつでもどうぞ』


 そしてタケルはほんの軽くコンテナの天井を蹴った――つもりだった。


「うわっ!」


 ズシンッ、と足元が沈み込み、その反動でタケルの身体は高く宙に舞い上がっていた。遥か眼下に街の光が見える。一飛びで優に周辺のビルを飛び越えてしまったようだ。


『――バッカじゃないのあんた! 私達を殺す気!? 壁に頭打ったわよ! おばさん目を回しちゃったじゃない!』


 鎧に搭載された通信機から怒声が響く。

 どうやらコンテナにいたイリーナたちの被害は甚大なようだ。


「悪い、加減がわからなかった」


『帰ってきたら非道いんだからね!』


「うへえ……」


 イリーナからの罵詈雑言にタケルはげんなりとした。


『タケル様、このまま上昇します』


「ああ」


 全身に風の魔素を纏い、タケルの身体は重力に逆らってぐんぐん夜空を昇っていく。緊急時だというのにタケルの心は高揚していた。


 今までエアリスに抱かれながら空を飛んだ経験はあるものの、自分自身の力で空を飛ぶのはまた違う感覚だったからだ。


『高度1000メートルに到達。魔力フレアによる推進飛行に移行します』


 タケルは空中に直立したまま気をつけの姿勢を取る。

 手足を真っ直ぐに伸ばし、前方へと倒れ込むように姿勢を整えると、すぐ目の前に魔力によって作られた防風殻シェル・プルーフが展開された。


『ビートサイクル・レベル3に到達。防風殻シェル・プルーフで風をかき分けながら超スピードで進みます。進路、シリア・アラブ共和国首都ダマスカス――カウント5から。3、2、1、発進!』


「――ぐうッ!」


 突如として景色が横にすっ飛び、身体の真下に光の河が高速で流れ始める。

 タケルは今、弾丸のように大気を裂きながら流星のごとく空を飛んでいた。


「すごい――! 普通なら身体がバラバラになるような速度なのに……!」


 今のタケルは旅客機並の速度で飛んでいる。

 生身でそんな速度を出せば大怪我では済まないが、タケルには僅かな振動を感じるのみであり、さらにスピードを上げても問題なさそうだった。


『プルートーシステムによる身体強化は順調。現在時速800キロ。ステルスシールド問題なし。管制空域内に障害物はありません。日本の防空識別圏を抜け次第、戦闘速度に移行します。ダマスカスまで約8900キロ――』


「到着するまでに予習をしておきたい。イリーナからもらったデータを網膜投影してくれ」


『畏まりました。――どうぞ』


 必ず、必ずやり遂げる。

 初めての魔法飛行、そして初めての戦い。

 興奮と歓喜、そして緊張と不安を鬼面の下に隠し、タケルの空の旅は続く。

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