第113話 友達ができました?③ 星崎一平~ナンパは男の華やん
*
「はあ……タケルがいないと詰まらんな」
本日エアリスはおひとりさまのご帰宅である。
学校から最寄りの駅へ向かい、電車に乗って地元の駅で下車。駅ナカと呼ばれるスーパーで今夜の晩餐の材料を買わなければならない。
タケルが急用とのことなので、これから一人で電車に乗り、一人で買い物をし、一人で家に帰らなければならない。
「はあ……」
エアリスはこれから不特定多数のヒト種族と同じ電車に乗らなければならないことに気持ちが沈んでいた。
あの密閉された空間の中、ごく短い時間とはいえ他人と一緒にいなければならないことが耐えられない。隣にタケルがいれば、それとなく彼との距離を詰め、理想を言えば腕を組んでやり過ごしたい。
ただ、タケルはかなりの照れ性らしく、自分が一歩を詰めると一歩引く男だ。逃すまいと袖を引き、最近ようやく手をつないで電車に乗ることに成功した。
あれはいい。タケル自身の激しい脈を手越しに感じ取ることができる。周りの人種族にはジロジロ見られてしまうが構うものか。
タケルはセーレス殿を好いている。それはわかっている。だが彼女と再会を果たすそのときまで、自分が傍らで支え続ける。だから少しだけ、手をつなぐくらいの贅沢は許して欲しい。
「おっと、急がねばならないな……」
時計やスマホを見て時刻を確認するのではなく、エアリスは傾きかけた太陽を見ながら時間を読んだ。電車で帰るとなると、夕飯の買い物をして、アウラを迎えに行ってギリギリだ。
「あ、そうだ……」
ふとエアリスは思う。
何もタケルがいないときまで律儀に電車で帰ることはない。
魔法使って帰宅すればいいではないか。
幸い人通りの少ない道だ。
少し物陰に入って風を纏い、姿を消してこっそり飛んで行けば誰にも気づかれることはないだろう。
うんそうしよう。
バレたらタケルに怒られるかもしれないが、そもそも私をひとり帰らせているあの男が悪いのだ。よし決めた。
黙考していたエアリスは顔を上げて大きく一歩を踏み出す。
途端グニャリ、と異物を踏みしめる感触がしてギョッとした。
「ふべぇ」
地面を見下ろせば、ホコリまみれになった男が地面に寝転がっている。
エアリスのローファーが男の顔面を踏みつけにしていた。
「な、なんだお前は!?」
ザザっと思わず肩を抱きながら後ずさる。
よく見ればタケルと同じ制服姿。
豊葦原の学生なのか。
正直言ってタケル以外の男に全く興味がないエアリスは、クラスメイトはおろか担任の名前も顔も覚えていなかった。まったく未知の、しかも地べたに這いつくばっているような男に薄ら寒いものさえ感じていた。
「ど、どうもー、1年E組の星崎一平ですぅ。エアリス先輩今帰りですか? ですよね? 僕もなんですよー、奇遇ですねえ、これって運命ですか?」
顔に靴跡をつけたままの男――星崎とやらが地べたから聞いてもいない自己紹介をしてくる。その視線が自分のスカートに注がれている気がして、エアリスは裾を押さえた。
「お前など知らん。私は忙しい。消えろ」
いや自分が消えた方が早い、とばかりに星崎の横を通り過ぎようとする。
だが彼は『ハッシ』とエアリスの足首にすがりついた。
「な――ッ!?」
「待ってくださいエアリス先輩! 後生ですから僕の話を聞いてください! お願いですから呼びかけを無視して通り過ぎるんは勘弁してください!」
無視して通り過ぎる? なんの話だ?
などと、エアリスは思ったが、星崎は必死の形相で訴えてくる。
そういえば、何度か誰かに呼び止められたような気がしないでもないが、今の彼女に夕食の支度とアウラを迎えに行く以上に重要なことなどなにもない。こんな男に関わっている暇など一秒もないのだ。
「離せ無礼者め! 離さぬと手打ちにするぞ!」
「ぼ、僕の話を聞いてくれたらすぐにでも離しますぅ! というかここまで身体を張ってるんやから、そのままスルーするんだけは勘弁して下さいぃ!」
「地面に転がったり、泣き落としたり、取りすがったり、おまえは一体何がしたいのだ!?」
「そ、それは――」
ゴクリ、と星崎某が息を呑む。
エアリスも思わずその雰囲気に飲まれる。
邪に塗れた星崎の目に、一瞬だけ真摯の光が宿った――ような気がした。
「エアリス先輩と、ふたりだけの時間を過ごしたいです」
「何だと……?」
何を言い出すのかと思えば。
思わず真剣に聞いてしまった自分が馬鹿だった。
エアリスは星崎の願いを鼻で笑い飛ばした。
「くだらんな。何故私がおまえのような見ず知らずの男と同じ時間を過ごさねばならなぬのか。これから私は夕食の支度があるのでな。失礼する」
星崎に取っては無情にも。エアリスにとっては当然のように。
彼の願いが聞き届けられることは絶対にない。
ダンッ、とエアリスは足裏で地面を叩き、その衝撃で星崎は手を離してしまう。
もう彼女が振り返ることはない。今後この男と会話することもないだろう。
だが、エアリスは侮っていた。
星崎という男の情熱を。
綺麗な女の子とお近づきになりたいという彼の病的なまでの執念を。
「ぐああああッ!」
背後からの悲鳴にエアリスがギョッと振り返る。
何だ、手を振りほどいただけで、怪我をさせるようなことはなにも――
「腹が、腹が痛いぃぃいぃい! 持病の癪やら盲腸的なアレで、痛いぃいぃ!」
星崎が地面の上をのたうち回っていた。
そしてチラっとエアリスを見上げる。目が合った途端再び「ぐおおおッ!」と叫びをあげた。
「エアリス先輩、お願いです、見捨てないで……。今頼れるんは先輩しかおらんのです。ここで先輩に見捨てられてしもたら、僕ぁ冷たくなって明日の朝にはゴミ収集車に回収されてしまいますぅ」
「何だと? 毎朝来ているあの大きな車は、死体も集めて回っているのか?」
どのような作りになっているのか、まるでタケルの創りだす『ゲート』のように、無限にゴミを尻から吸い込んでいくあの車。
一度不思議に思い、ゴミを腹の中に収める様をずっと見ていたが、鳥肌が止まらなかったのをエアリスは覚えている。この男も、このまま放置すれば、あの中に投げ捨てられてしまうというのか……?
「……仕方がないな。今医者を呼んでやろう」
そう言ってエアリスは鞄の中からストラップもデコレーションも一切ないスマホを取り出した。
タケルが叔父夫婦からもらった貴重なお金でエアリスに買い与えたものだ。
遠隔地にいる者と通話ができる優れもので、伝書鷲の超高速版だとエアリスは思っている。
「いやいやいや、それには及びません、割りといつものことですんで、休んでいれば良くなっていきますんで……」
「そうか。では達者でな」
「アイタ―ッ! エ、エアリス先輩が離れた途端痛みがはぁ! あかん、あきません! こりゃあ近くに居てもらわな治るもんも治りません!」
「なんだその都合のいい腹痛はっ!?」
胡散臭い。胡散臭いがエアリスの価値観で言えば、大の
仮に嘘だとして一体彼には何の得があるのだろう。
ならばやっぱり本当なのだろうか。
わからない。この星崎という男が何を考えているのかまったく読めない。
だが――
「無下にはできんか。立て。男がいつまでも地面に寝転がっているな。みっともない」
「は、はい! ありがとうございますぅ!」
星崎は喜色満面で起き上がった。
あちこち汚れているが、彼の笑顔だけは一等輝いているのだった。
「あ、エアリス先輩、一緒におってくださるのは嬉しいんですが、この寒空の下で先輩が風邪を引いてまうのは心苦しいので、場所を変えませんか。ちょうどもう少し行ったところに雰囲気のいい喫茶店があるんですよ。チーズケーキのごっつ美味しい店なんです。ね、そこに行きましょう?」
「お、おう、なんだ、急にベラベラとしゃべり始めて。おまえ本当に腹が痛いんだろうな?」
「もちろん、アイタタ……、しんどいですわぁ。ね、寒空の下だと身体にも悪いですから、ささ行きましょう?」
「おまえの腹痛が治ったら私は帰るからな」
「もちろんですぅ。こっちですよー」
わざとらしく腹を抱えながら、星崎はひょこひょこと歩き出す。
結局言って、エアリスは世間知らずなのだ。
星崎の意図などたったひとつしかないのに、それにも気づかないほど、悪意に疎いのだ。
前を歩く星崎がこっそりと邪悪な笑みを浮かべていることを、本人だけが知らないのだった。
*
一方、星崎が下馬評を覆す奮闘を見せ、エアリスのナンパに成功していたのと同じ頃――豊葦原学園高等部の校舎裏では対峙するふたりの影があった。
校舎裏には鬱蒼とした雑木林が広がっており、適度に手入れもされているが、ジメジメとしていて薄暗く、生徒はあまり好んで近づかない場所である。
壁に寄りかかっっていた針生清次は、待ち望んでいた相手を見据え静かなる闘志を燃やしていた。ダボついた制服の下には、既に臨戦態勢となった彼の筋肉がビクンビクンと痙攣と武者震いを繰り返している。
「よう、来たか。寒い中わざわざありがとよ」
組んでいた腕を解き、針生はギラついた笑みを浮かべる。
対する成華タケルは、一切の喜怒哀楽が感じられない実にフラットな表情で息を吐きだした。
「こんな古典的な方法で呼び出されるなんて。まるで漫画の主人公にでもなった気分だよ」
タケルの手の中には針生直筆の果たし状が握られていた。
星崎プロデュースであり、割りと達者な毛筆が踊っている。
「確かに古臭いやり方だが、俺の本気は伝わっただろう。ダチの受け売りだが嫌いじゃねえんだよ。二年の女にでしゃばってこられても困るしよ」
「確か針生くんだっけ。呼びだされた趣旨は理解してるけど、やっぱりやめない? ここ寒いし決闘なんて無駄なことしないでもう帰ろうよ」
「内容を理解したと言いつつ帰ろうってバカか。なら果たし合い自体無視すりゃよかったじゃねーか」
「でもキミ、多分僕が来るまでずっとここにいるつもりでしょ?」
言われてから針生はキョトンとした。そしてニンマリと太い笑みを浮かべる。
「なんだ、優しいんだな。でも気ぃ使わなくていいぜ。今もおまえと闘えると思うと身体の奥がカッカしてきて堪んねえんだ。――んじゃ、とっととおっ始めるか」
針生は制服の上着を脱ぎ捨てる。
タンクトップから露出した肩、腕の筋肉。そして胸元を押し上げる大胸筋。
余計な肉など一切ない、よく鍛えられた本物の筋肉だ。
それは野球やサッカーなどと言った球技では絶対に付かない、格闘者特有の筋肉でもあった。
「キミ、何か武道とかやってる? 何年くらいやってるのかな?」
「空手だ。何年っていうか、物心ついたころからだな。オヤジの知り合いが道場の師範でな。なんか生まれる前から通うことが決まってたらしい。やれやれだぜ」
「そっか。じゃあもう十年以上やってるんだ。すごいね」
「おまえも何かやってるんだろ? 御託はいいから構えろよ――」
「いや、僕はいいよ」
「今さら臆病風に吹かれても遅えぞ――!」
鋭い踏み込みと同時に左腕が伸びきる。刻み突き。ボクシングで言うジャブだ。
それがタケルの鼻先を捉えた瞬間、ほぼノータイムで右の逆突きが顔面に決まった。
試合ルールならば引き手を取るところを、針生はあえて拳を振りぬいた。
インパクトの瞬間、「あッあ~いッ!」と空手特有の気合を吐く。
タケルは大きく顔を仰け反らせた。
……ただそれだけだった。
「満足した?」
「――ッ!?」
これ以上ない手応えだった。
毎日巻藁を突き、蟹の甲羅のように硬質化した分厚い拳ダコ。
それを思い切り顔面に叩きつけたのだ。
最低でも歯が折れていてもおかしくはない。
だが、タケルは無傷。唇さえ切れていなかった。
「野暮なことを言うけど、今僕が職員室なり警察なりに駆け込んだらキミ、退学になったり補導されたりするんじゃないかな?」
タケルは口元を拭いながら、何故か胸の辺りをポンポンと叩いている。
(何だ、何の仕草だ? 痛みを逃しているのか……?)
針生は内心の動揺を隠しながら改めて構えを取り直す。
「へッ――、ケロっとした顔しやがって。無傷のてめえが怪我しましたって言って誰が信じるんだよ」
「それもそうか。参ったな。サンドバッグになるしかないのか。適当なところで終わらせてよ?」
逃げるどころかズイッと不用意に距離を詰めてくる。
その舐めきった態度に針生は激昂した。
「ふ、ふざけんな――! てめえが泣きを入れるまで止めねえぞ!」
再び顔面へ左右のワンツー。
超至近距離から鎖骨へ肘の打ち下ろし。
腰が折れたところで更に首を抱えて膝を叩き込む。
道場ではプロテクターを着用していても禁じ手に指定される危険なコンボだった。
最低でも前歯は吹き飛び、鎖骨と肋は骨折である。
だが、崩折れるかに見えたタケルの身体は数歩たたらを踏み、難なく屹立していた。
軽く頭を振って、鎖骨と腹を触っている。
悶絶必至の重症のはずだ。だというのに――
「おっかない技使うんだね。ダメだよ、こんなのヒトに使ったら。ね、もうやめよう?」
トントンと、相変わらず心臓の真上を撫でながら、闘う前とまるで変わらない困り顔。
ゾクリ――と、針生の背中に怖気が走る。
おかしい。こいつはまともじゃない。
気味の悪さと闘いへの興奮。
寒さと熱が同居する体内。
天使と悪魔の囁きのように、針生の中で相反する感情が喧嘩をしていた。
「てめえは何だ? マジで何なんだ? 頑丈なんてレベルじゃねえ――、どんな理屈だそりゃあ!?」
針生は半ば恐慌をきたしながら再びステップイン。
今度は重心低く沈み込むと、その反動で跳躍。
左足を振り上げたかと思いきやそれは囮。地面を蹴り上げた右足が弧を描いてタケルの顎を捉える。
カシュン――と、つま先が硬い骨を蹴り抜く感触。
首をのけぞらせ、タケルは大きく体勢を崩した。
どうだ――自分の中で最大の威力を誇る蹴り技を決めたところで、針生は不意に首の後ろがチリチリとするのを感じた。
「やめろッッ真希奈ッ――!!」
その
間近く音波を食らった針生はとっさに頭を抱えて蹲った。
「――あ。ごめん。大きな声出して」
「なッ――!?」
頭上からかけられた気遣いの言葉。
針生は顔を赤くし、転がるように間合いを空ける。
今、俺は何を――なんて無様な姿を。
思わずそうしてしまった自分自身に、そしてタケルへの怒りを燃え上がらせる。
恐怖に負けそうになる心を奮い立たせる。誤魔化す。
成華タケルは相変わらの無傷。
つま先に残る絶好の感触が冷えきる前に、針生は烈火怒涛の追撃を繰り出した。
正拳、裏拳、掌底、背刀、前蹴り、蹴込み蹴り、回し蹴り、後ろ回し蹴り――
まるで何かに突き動かされるように、操られるように、相手への手加減など一切なく本気で――生まれて初めて相手を殺す気で、培ってきた技のすべてを叩き込む。
そこに強い相手を倒すという快感はなかった。
終始優勢のはずの針生は完全に追い詰められていた。
それを認めたくなくて、成華タケルという未知の敵へと愚直に挑み続けるのだった。
*
温かな空気と落ち着いたBGMが流れる喫茶店。
だが、そんな雰囲気の中、お茶を楽しむ人々の会話は今はなく、ヒソヒソとした囁きがあちこちから飛び交っている。
今し方入店してきた一組の男女に、――正確には女性客に誰もが視線を送り、噂をしているのだ。言うまでもなくエアリスと星崎一平のことだった。
(うわぁ~、大注目されてるわぁ、めっちゃ気分ええ!)
特に男たちの嫉妬の視線が心地いい。
女性連れの男性客が、自分の恋人そっちのけでエアリスを凝視している。
だが実は女性の方でさえも、エアリスをマジマジと見ていた。
彼女の魅力は男女の垣根さえも超えているのだ。
そしてその本人は、今星崎の目の前に座っている。
窓際のテーブルの席で、ウインドウ越しに冬の街並みを見つめながら、行き交う人々を眺めていた。
星崎は改めて思う。こりゃあどえらいわ。ごっつぺっぴんやで――と。
憂いに細められた月光の瞳。
褐色の燃える肌。
光の加減で蒼くも見える銀髪。
適度に着崩された制服の上からもわかる抜群のプロポーション。
テレビや雑誌でいつも見ているモデルや女優たち。
そんな彼女たちが明日からは一変に色あせて見えることだろう。
そしてますますわからなくなる。
何故彼女のような女の子が、成華タケルのような平凡な男に心酔しているのか。
義理の姉弟、とは公言しているが、彼女の態度はそれを超えている。
留学初日に彼女が口走ったように『従者』――すなわち傅くものという言葉が最もしっくりくる。
多分に惜しみない愛情を含んだ忠誠心。
同年代の恋愛では到底あり得ない生の感情は密かに校内の話題になっていた。
彼女の一年生の教室への日参は現在も続き、そんな彼女に対するタケルの態度はちょっと冷たいんじゃないのと、男子のみならず女子たちからも反感を持たれているのだった。
「こういう店に来るのは初めてだな。前々から興味はあったのだが」
ポツリと囁かれた言葉。
エアリスは店内を見渡し、そして初めて正面に座る星崎を見た。
ドキン、と星崎の心臓が高鳴る。
女の子に目を向けられただけで動揺するなんて……、と驚きながらも星崎は返答した。
「そうなんですか。留学生……成華くんはこういうところには連れて来てくれないんですか?」
タケルに対して嫉妬心を抱いていたのは星崎も一緒だ。思わずタケルを批難するような言葉が出てしまう。
「タケルは――、色々と忙しい身の上でな。あまり私の我がままで時間を取らせたくないのだ」
「そうですか……本当は寂しいんやね、エアリス先輩は」
「……そうだな。そうかもしれない。だがいいのだ、私は今タケルの側にいられるだけで嬉しいのだ」
儚げな微笑。
寂しさと悲しさと愛しさと。
そんな感情が一即多になった笑みに、星崎は息を呑んだ。
それと同時にマグマのような激情もこみ上げてくる。
(なんやねん、めちゃくちゃ意地らしいやん。こんな綺麗な子、望めばなんでも手に入るはずやのに。それが喫茶店にも来たことないて? あのクソ冴えへん成華タケルのボンクラダボ助が――絶対僕の方がエアリス先輩を幸せにできるわ!)
「な、成華くんは幸せもんやねえ。エアリス先輩みたいな子にそこまで思われて。羨ましいなあ……」
「そうか。それでそろそろ腹痛は治まったか?」
「え? あ! ――イタタッ! 忘れた頃にまた痛みがっ! お話してたら随分と気分が紛れますわ。もうちょっと付きおうてくれます?」
「しょうがないな。お、注文したものが来たようだぞ」
白い陶器のティーポットが真ん中に置かれ、それぞれの前に暖められたティーカップが置かれる。女性店員が恭しくカップにお茶を注ぎ、湯気と香気がブワッと広がる。
エアリスはそんな一挙手一投足を遠慮なしに見つめていたので、注ぎ終わる頃には店員さんは恥ずかしそうに一礼して下がっていった。
「ここの紅茶は美味しいって評判なんですよ。ささ、遠慮無くどうぞ」
「うむ。ではいただく。いい香りだな。うん、美味い」
「気に入ってもらえて嬉しいですわぁ。ささ、ケーキもどうぞ」
「これがちーずけーきとやらか。ちーずとは確か乾酪ことだったような……甘いのか!」
ピースの先端を小さくフォークでカットし、恐る恐る口にするとエアリスは叫んだ。
ほんのりと褐色の頬が紅潮しているのがわかる。
そんな彼女の何もかも、どんな仕草にも星崎は幸福感と優越感を禁じ得なかった。
「そりゃあ甘いですよ。ケーキですから」
「酸っぱいのではないのかっ!?」
「チーズはそりゃ酸っぱいもんですけど、これはケーキですから」
「むむ。なんと面妖な……」
難しい顔をしながらもエアリスの手は止まらない。ケーキを口の中に入れる度にビックリした顔を作る彼女に星崎は破顔した。
「気に入ってもらえて嬉しいですわあ」
しかし、それにしても。
腹が痛いなどという言い訳に騙されてくれたこともそうだし、こうしてたかがケーキひとつに大喜びしていることもそうだ。
世間知らずというか、ちょっとピュアピュア過ぎませんかね先輩ってば。
この調子で上手いこと騙せば、もしかして最後まで行けちゃうのでは――?
星崎は心のなかで邪悪な笑みを浮かべた。
何気にエアリスは大ピンチなのだった。
*
「――ちくしょう」
それだけを吐き捨てると、針生は肩で息をしながらズルズルと壁に寄りかかった。
限界だった。酸欠状態に陥り、手足がしびれて動かない。
もう何十回と殴りつけたはずの成華タケルは、あいも変わらずケロリとした顔で立っていた。
自信もプライドもボロボロだ。
自分がいままでしてきた努力を全否定された。
もう何も残ってない。
全てを出し切り、それが相手にかすり傷ひとつ付けられないという結果に終わった。無念だ。ただひたすらに無念だった。
「もう終わりでいいかな?」
「クソ、クソクソッ……、こんだけ好き放題したんだ、覚悟はできてる。煮るなり焼くなり好きにしろよ」
「そんなことしてなんの意味があるのさ。――ダメだぞ」
成華タケルは念を押すように呟き、もう何度目になるのか、ドンっ、と自分の胸を叩いた。
そうして、ホッと、心からの安堵を浮かべて去っていく。
それが――そんな態度が、針生に残ったなけなしのプライドに火をつけた。
「待ってくれよ! 俺は――俺は弱いのか!? なあ!」
「いや、強いよ」
足を止め、肩越しにタケルが言う。
針生は顔面蒼白のまま叫んだ。
「ウソだ! 頼む、本当のことを言ってくれ……じゃないと俺は!」
無様だと自分でもわかっている。
それでも介錯を求めずにはいられなかった。
絶対強者から弱者の烙印を押される。
そんなことでもされないかぎり、自分の弱さを認めることなどできはしないと思った。
「だから、強いってば。高校生レベルじゃ敵なしでしょ。多分、わかんないけど」
確かに。針生は公式戦でこそ成績を残していないが、それは子供の頃から大人の中に交じり、無類の強さを誇っていたからだ。
彼が唯一勝てない相手は、今ではもう道場の師範くらいである。
だからこそ今更同年代の大会に出て勝っても意味が無いと考えていた。
そんな針生の勘が、成華タケルは強者だと訴えている。
結果的にその判断は正しかったと言える。
だが、このままではあまりにも腑に落ちないのだった。
「じゃあおまえは何なんだよ? おまえにかすり傷ひとつ負わせられない俺が強いっていうなら、おまえはどんだけ強いんだよ……!」
「だから僕は強くなんて――、いや、強くなろうとはしているけど。でもそれはきっとキミが求めてる強さとは違くて――ああ、ホントにもう!」
視界の向こうで、成華タケルが初めて構えらしきものを見せた。
「――ッッッ!?」
瞬きの間だった。
眼前に成華タケルがいた。
物音さえ立てず、髪さえ揺らさずに、突き出された拳が針生の顔のすぐ横を抉っていた。
「悪いんだけど、僕は
ざんばら髪の間、僅かにズレた瓶底メガネの奥に、鈍く光る妖しい瞳を見る。
金色の美しい虹彩を宿した双眸が、真摯に針生を映していた。
そしてその言葉の意味を、針生はようやく理解するに至る。
スッと残心を伴ってタケルが離れる。
踵を返し、今度こそ振り向かずに去っていく。
針生はその背に最後の問いを投げた。
「おまえの技、この流派はなんて言うんだ?」
壁――校舎裏の聳えるような大きな壁には巨大な亀裂が走っていた。
恐ろしく疾く、そして静かに刻まれたその拳の威力を見れば、彼の実力は一目瞭然である。だからこそ、一武道家として相手の拳の名前を知っておきたかった。
だが――
タケルはそこで初めてうろたえた――ように見えた。
目を剥いて振り返り、苦々しく顔を顰めている。
針生がそんな様を怪訝に思いつつ見守っていると、彼は観念したように言った。
「
「――マジか」
「師匠の趣味だよ。悪かったな」
拗ねたように吐き捨て、タケルは今度こそ消えた。
針生はその場に尻もちをつき、壁に背を預け、頭上を見上げる。
「はは……すげ」
とてもではないが人間技とは思えない亀裂を見て取り、感嘆のため息を吐き出す。
「やっぱ世界を見てる奴の拳は違う。日本でくすぶってる俺なんかが最初から敵うはずなかったんだな……」
結局言って。
針生はどこまでも常識人であり、混じりっけなしの人間なのだ。
まさか自分が挑みかかり、殺されかけた相手が人外だとは思いもせず、「あいつ、オリンピックで金メダルでもとるのかなあ」などと自らを納得させてしまうのだった。
*
「それでな、タケルはマキ博士とでばっぐ? などという作業の真っ最中なのだ。アウラと違い、なかなか私に対して心を開いてくれないのだが、真希奈はタケルの娘のようなものだからな、私もなんとか仲良くしたいと考えているのだ。昨夜もタケルは随分と遅くに帰って来てな。いくらなんでもああも徹夜が続いては精神が摩耗してしまうのではないかと日頃から心配しているのだ。私にできることと言えば、あやつが少しでも気を休めるように環境を整え、食事の世話をしてやるくらいしかないのだ……。このけーきというのは本当に美味いな。アウラにもたべさせたいので土産にもらってもいいだろうか」
「好きにすればええですよ……」
星崎はげんなりしそうになる自らを叱咤し、絞りだすようにそう返答した。
なかなか自分のことを話したがらないエアリスの牙城を突き崩すために、彼女が興味を示す唯一の事柄――即ち、成華タケルの話題に水を向けた途端この有様である。
まるで天をつく間欠泉のように、出るわ出るわ成華タケルの話題が。
知りたくもない野郎の情報をこれでもかとインプットされ、星崎はグロッキー寸前になっていた。
それはともかく、今の話で色々とわかったことがある。
あの留学生――成華・エンペドクレス・タケルはタダモンじゃない、ということである。
平凡な見かけに騙されるところだったが、エアリス先輩の話しを総合するととんでもない人物像が見えてきた。
曰く、エアリス先輩の命を救い、大火事か何かの現場から脱出した。
曰く、天下に轟く御堂財閥とカーネーショングループのトップ同士を和解させた。
曰く、人工知能進化研究所(聞いたことある)に通いつめ、何か重要な仕事をしている。
曰く、コードネームマキナ? と呼ばれる人工知能? を開発している。
豊葦原に留学する以前から寝る間もないほど働きづくめであり、遠い遠い世界の果てに行って帰って来たり(資材調達? 長期出張?)もしたのだという。
もうそんなん一介の高校生のレベル越えてますやん、と星崎は思った。
「その、結局エアリス先輩は成華タケルのこと、やっぱり好きなん?」
半分惚気けみたいな話を聞きすぎてヘトヘトの星崎は、それだけは聞いておかなくては、と今日一番重要な質問をする。
するとエアリスは口にしかけていたティーカップをそっと置き、もじもじとしながら答えた。
「好き、か。そうだな。以前はカーミラ殿に乗せられてそのようなことを口走ったこともあったが、今はなんというか、その時よりも遥かに気持ちが強くなっているのが自分でもわかるのだ……うん」
褐色の肌にほんのりと紅を纏って、エアリスは微笑んだ。
その瞬間、店内のBGMも、人々の歓談や息遣いさえも消え失せた――気がした。
星崎は心の中で両手を上げた。
降参だった。
いや、最初から勝負などわかりきっていた。
ようやく納得できる答えを彼女から聞き出せた。
それだけで彼は満足だった。
「店員さーん、こちらにケーキセット包んであげて。急いでな」
「む。悪いな。それで何の話だったか?」
「僕の腹痛が治るまで付きおうてくれた先輩はええヒトですねって話ですよ」
「そうだった。腹の具合は大丈夫なのか?」
「ええ、もうすっかり。ほらほら、ここの勘定は僕が払っときますから、先輩は早う彼のために帰ったほうがええですよ」
「そうか、では世話になったな星崎とやら。失礼する」
ケーキが入った包みを受け取り、エアリスは颯爽と駆け出していく。
カウベルの音すらも彼女の未来を祝福するかのように軽やかに店内に響き渡るのだった。
星崎は女々しくも、そんなエアリスの姿をウインドウ越しに目で追っていた。
すると視界の中、彼女が足を止める。
成華タケルだ。
幾分か制服がくたびれた様子ではあるが、彼は無事の様子だった。
針生っちが負けたか……。にわかには信じられないことだが事実だろう。
星崎が見守る中、エアリスがハンカチを取り出し、彼の顔を拭っている。
成華タケルが、分厚い瓶底メガネを取った。
その下からは、日本人にはない金色の虹彩を持つ美しい瞳が現れた。
それも一瞬、またいつものように野暮ったいメガネを装着し、ボサボサの髪で顔を隠してしまう。
そんな姿を偶然にも目撃した星崎は「かー」っと頭を抱えた。
「僕もまだまだやね。あいつとんだ伊達男やん。敵わんなあ」
できることなら彼があの擬態を学校では貫き通してくれることを願いつつ、星崎は冷め切った紅茶をズズズっと未練がましく啜るのだった。
*
昨日は散々だった。
昼休みには変態の相手をし、放課後は校舎裏で喧嘩を売られた。
そして今朝方学校に到着すると、中央階段が使用禁止になっていた。
外壁に大きな亀裂が見つかり、急遽補修工事をするそうだ。
……あとで百理やカーミラに相談しよう。また借金が増えるなあ。
「おはよう」
いつものように誰に声をかけるわけでもなくポツリと呟く。
そう、僕は朝の教室の雰囲気に挨拶をする。
これもまた大事な習慣である。
だというのに、なんと今日は何人かの女生徒が「おはよー成華くん」と返事をしてくれた。
おお。これは一体どんな隠喩が?
それでも、相変わらず男子は僕を遠巻きに見ているだけだった。
やっぱりエアリス関連で収まりの付かない感情を抱いている様子。
まあいいけどね。
「おはようさん」
そう言って教室に入ってきたのは、昨日の三人組だ。
確か変態……甘粕士郎、星崎一平、そして因縁浅からぬ針生清次だったはず。
彼らはごくごく自然にクラスに溶け込んでいる(若干一名を除いて)。
そんな三人が軽い足取りで僕の席までやってきた。
「おはよーさん、センセ」
「え? お、おはよう?」
星崎一平がいっそ馴れ馴れしいくらいの笑顔で挨拶をしてくる。
突然のことに驚き、僕はどもってしまった。
「おっす、やっぱり全然無傷なんだな。昨日はその、悪かった。もうしない。反省してる」
「いや、もういいよ。慣れてるんだこういうのは」
「そっか。やっぱその
針生清次は、昨日こそアレな奴だと思ったが、冷静に話しをしてみると普通に良い奴そうだった。
平気とか、怪我はないし、とかは彼に失礼になるので言わないでおく。
さっきから僕の内側で真希奈(昨日は危うく彼を炎の魔法で殺しかけた)が唸るように彼を威嚇しているが、これで多少溜飲を下げてくれると思う……多分。
「おはようございます、お義父さ――」
スパーンと、甘粕士郎が言うより早く、両サイドの二人が張り手を食らわす。
なんて切れ味のいいツッコミだろう。思わず感心してしまった。
「痛いぞ。俺は昨日の傷がまだ――」
「ええからやめとき。これ以上そのボケかますなら、正真正銘女子にゴミカス扱いされるで」
「もうすでに手遅れかもしれんが、小さい子は犯罪だからな。自覚してるか?」
「バカな、俺は単に子供が好きなだけだ。近所の幼稚園や小学校の運動会にも自主的に手伝いを申し出るほどなんだぞ」
「下心さえなけりゃ普通の美談やのに」
「ホントにそのうち捕まっちまうからな? 嫌だぞ俺、モザイク付きでワイドショーのインタビュー受けるの」
「やめろ! そうやっておまえたち
「はいはい、もう行くで。ほなセンセ、今度一緒にナンパしようね」
「俺の道場にも一度遊びに来てくれ。世界のレベルを肌で感じるのは、みんなにもいい刺激になると思う」
「え、うん、ありがとう……?」
なんだろうこれ。いいのかな、そう言っちゃっても。
なんだかよくわからないけど、何故か僕にも男子の普通の『友達』らしきものができたようだ。
うん。ちょっと、いやかなり、嬉しい変化なのだった。
【友達ができました?編】了。
次回【ピカレスクinダマスカスの章 プルートーの鎧編】に続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます