第97話 ビートサイクル② 百理と命理~新旧人外頭領対決

 *


 意外に思うかもしれないが、東京の都心は天然温泉が数多く存在する。


 世界でも類を見ないほど発達した地下鉄道網がある東京都心は、地質調査の段階で温泉を掘り当てることが少なくない。


 ビジネス街のど真ん中から黒湯温泉が噴き出し、商業ビルの一角に突然スパが登場することも珍しくない。


 御堂命理みどうめいりが戯れに居を構えたのもそんな都心の一等地に居を構える秘密の温泉地下施設だった。


 整然と立ち並んだビル群の一角に、その温泉施設への入り口は存在する。


 何の変哲もない立体駐車場に入ると、登録された車体ならば地下施設へと誘導され、それ以外の車なら単なる駐車しかできない仕組みになっている。


 オレンジ色のナトリウムランプに煌々と照らされた地下道を下って行くと、広大な地下駐車場が現れた。


 チラホラと散見される車はいずれも高級車。

 中には外ナンバーの車まであった。


 車番に待機と休憩を命じ、百理はひとり専用のエレベーターに乗り込んで更に地下を目指す。


 ようやくたどり着いた先には、幽幻の歓楽街が広がっていた。


 真っ赤な絨毯に彩られた桟橋が延々と続き、その下は小川の如く地下水道が流れている。


 橋の両端には等間隔で小さな橋がかけられ、それぞれの施設へと行けるような仕組みになっていた。


 食事やカジノ、賭博場、マッサージ専用のスパ、そして遊郭などである。


 桟橋の所々には東屋が建てられ、和装を扇情的に着崩した遊女がお茶汲みをしていた。


 それを間近で眺めているのは、顔の半分が隠れるドミノマスクをしたスーツ姿の男である。突き出た腹で一生懸命前のめりになり、遊女の露出した太ももを食い入るように見ていた。


 百理は静々とその男の背後まで近づくと、やにわに声をかける。


「おはようございます国土交通大臣」


「ぶッ――、御堂百理様!?」


 振り返った途端、男はお茶を吹きだし、ワタワタと慌てた様子を見せた。


「あ、いや、これは、はは、ちょっと汗を流しに来ただけでして――」


「ほらほら、もうすぐ国会が始まりますよ、お急ぎなさい。なんなら母に口利きをしてそこの遊女を貸してあげましょうか?」


「それは是非――あ、いえ、百理様のお手を煩わせる必要はないかと。朝風呂も済みましたし、私はこれで」


「はい。本日も野党の追求に失言しないようお願いしますね」


「はは、そこはほれ、秘書と官僚がマニュアルを作ってくれていますのでご安心を」


 まずいところを見られた、という感じで、スーツの男は足早に立ち去っていく。

 その後姿を見送ってから百理は「はあ」とため息をついた。


 自分は長く生き過ぎた。

 そして多くの時間を見たくもないこの国の暗部にばかり傾けすぎた。


 先ほど立ち去っていった大臣も、実は初当選の頃から知っている男だった。

 世襲議員という謗りを跳ね返し、懸命に努力した立派な政治家だった。

 だがいつしか汚い献金にまみれ、自分の利益ばかりを追求するようになってしまった。

 それを一概に悪と断じることができないのは理解している。


 医者はヒトを直し、教師は生徒を教育する。

 そして同じく先生と呼ばれる議員の役目とは、有権者の元に仕事と金を回すことである。


 道徳的に、そして法的に罪を犯しながらも、その一方で彼の元に集い、潤っている国民がいることもまた事実なのだ。


 必要悪であると、そう割り切るように心がけている。

 朝風呂と称して、息抜きがてら遊女に粉をかけることくらい目を瞑ろうではないか。


「あの方は――さて、どうなのでしょうね……」


 ふと百理は思う。

 成華タケルも、いつしかあのような汚い大人になってしまうのだろうか。

 いや、それだけはない、と思う。


 それだけは――例え地球が消滅してもないだろう。

 ただ純粋に惚れた女を取り戻すために、死の運命を跳ね除けたという少年。


 カーミラ・カーネーション・フォマルハウトとの戦闘より一夜明けた翌日、彼から事情説明を受けた後、改めて百理は成華タケルの生い立ちを精査した。


 何ら特筆することのない少年だった。

 むしろ問題の方が多い子供だったように見えた。


 他者との関わりよりも自分の世界を大事にし、決してその殻を破らず、頑なに守り続ける姿は、良くいえば純粋。悪く言えば我がままな餓鬼であった。


 戦後進駐軍が推し進めた個人崇拝主義の価値観を凌駕する、徹底した利己主義エゴイズムを持っている。そう思えた。


 だがたったひとつの出逢いがそんな彼の価値観の何もかもを破壊してしまう――


「違う世界に行って帰ってくるなど、ヒトが変わるには十分な理由でしょう」


 かつての成華タケルと、今のタケル・エンペドクレスを比較すれば、それは一目瞭然だ。


 現在の彼は希望と意欲に燃えている。

 全ては強くなるため、そして愛するものを取り戻すため。

 その純粋で崇高な想いが今の彼を突き動かしていた。


 様々な若者たちが、希望に燃え、挫折し、夢破れて行った姿を見てきた百理にとって、タケルの存在は『何か』を期待せずにはいられない。


 できれば彼には、個人の限界を超えた、さらにその先の『何か』を見せて欲しいとさえ思ってしまう。


 果たしてそれは、そんな姿は、なんと呼ばれる存在だったか。

 人々の希望と羨望を束ね、それを翼にどこまでも高く舞い上がるものの姿――


 口にすることすらはばかられる、何百年も前に置き去りにしてきた淡い淡い憧憬だった。


 *


 桟橋の終点は、ひときわ大きな暖簾が下がった大浴場だった。


 ここは特別な場所で、男子は絶対禁制。

 両脇に控えた御堂の者が、珍しそうに寄ってくる男を追い払うようになっている。


 百理が近づくと、両脇に控えた作務衣の三助が深々と腰を折ってお辞儀する。

 それに目礼だけで応えると、百理は暖簾をくぐり奥へと進んだ。


 脱衣所で白紬を脱ぎ捨て、下女に手早く髪を結ってもらい、もうもうと湯気を立てる浴場へ足を踏み入れる。


 最低限の照明しかない薄暗い空間だ。光が湯気で拡散し、全体がぼんやり輝いているように見える。


 その正面には微かに浮かび上がった富士山のペンキ絵。

 足下には昔懐かしいケロリンの黄色い湯桶が積まれている。

 実母の趣味で内装は昭和テイストに統一されていた。


「おやおや、ずいぶんと遅かったねえ。全身がふやけちまうところだったよ」


「申し訳ありません。おまたせをしました」


 湯気向こうのシルエットから声が届く。

 枯れ木が湯に浸かっていた。

 いや、見間違いだ、実母だった。


 肉の殆ど残っていない、骨と皮だけの手足。

 色の失せた白髪の向こう、ギョロッとした目玉だけがこちらを見ていた。


 その背後、湯船の一角には防水型の液晶テレビがあり、そこには今世間を賑わせているフィギュアスケートの世界選手権が映しだされていた。


「お入りよ。邪魔するものは何もない、母子の語り合いだ。遠慮することはないさね」


「では、かけ湯で失礼します」


 ケロリンで湯を掬い、自分自身を洗い流す。

 途端ビクリ、となって百理は桶を取り落とした。


「熱いです」


「我慢しな。これでもおまえがくると思って冷ましておいたんだ。これ以上温くしたらあたしが風邪を引いちまうよ」


「ううう」


「相変わらず熱いのも寒いのもダメかい」


「辛いのも苦いのも嫌です」


「そらなんとも、刺激のない人生だ」


 カカ、と命理は笑った。

 妙にくぐもった声だった。

 百理は老木の中から空気が漏れているような音だと思った。


「いいねえ、この子……。華があるよ」


 フィギュアの世界選手権大会は時差の関係で今がクライマックスだった。

 とある日本人選手が、歴代最高得点をマークし、そのまま優勝を決めてしまった。


 今回演技に取り入れられた音楽や振り付けも、日本神道をモチーフしているらしい。それも命理的が気に入っているポイントのひとつだろう。


「ちょいと前までは日本人が西洋人に張り合おうだなんて、夢のまた夢だったのに。嬉しいねえ」


「そうですね。最近ではラグビー日本代表もようやく日の目を見ました。日々懸命に身体を大きくし、練習に励んでいた成果が出たようです」


「ああ、おまえさんの好みはそっちのエースだろう。昔からでかい男が好みだったものねえ」


「べ、別にそんなことはありません。大きいとか小さいとか、男性の体格で好みを意識したことはありませんので……」


「そうかい……。そういえばマッチ棒のようにちっこいらしいじゃないか、成華タケルは」


「……!」


 薄闇の向こうでクククっと喉の鳴る音がする。

 湯気で表情は見えないが、母はさぞかしイヤらしい笑みを浮かべているのだろう。


「色々と報告は受けているよ。餓鬼が大きな力を持ってイキがっているとね。どうして殺してしまわない?」


「彼は破格の不死性を持っています。私の力ではとうてい殺しきることはできないでしょう」


「それはあの吸血鬼のようにかい?」


「いえ、恐らくはそれよりも」


「そいつは嬉しくないねえ。まるで呪いのようじゃないか」


 呪い。確かにそうだ。

 現世に生を受けたものは、その瞬間から死に向かって歩んでいく。

 成華タケルはその理から逸脱した異常な存在だ。


「まあいい。正攻法で殺せないなら、おまえさんのもうひとつの武器を使えばいい」


「武器……私の、ですか? それは一体……」


「300年以上も未だ抜かれたことのない伝家の宝刀。ついに解禁する時がきたようだねえ」


 えっひゃっひゃっひゃ! と下卑た笑いが炸裂する。

 百理は首を捻りひねり、ハッ――と目を見開いた後顔を赤くした。


「男を腹の上で殺せるのは女だけの武器さね。ちょっと痩せっぽちだが器量は私譲りでいい方なんだ。成華タケルを咥え込んじまいな・・・・・・・・


「それは――あの方はもう特定の、心に決められた方が! そのためにいかな艱難辛苦をも乗り越える覚悟なのです! 我らの都合のみでそれに水を指すことなどできませ――」


 じいっと薄暗い湯気の向こうから視線を感じる。

 母得意の誘導尋問だと気づき、百理はお湯の中にザブンと沈み込んだ。


「まあ、それもひとつの手段だということさね。いざとなったらいつでも刀を抜ける準備はしておきな。女として恥をかくことがないようにね」


「ふぁい……」


 ぶくぶくぶく……。百理はこの場から今すぐ逃げ出したい気分になった。


「成華タケルのことはおまえの胸三寸に任せるさ。使えるものはなんでも使って手なづけてやんな」


「ええ、それにあたり、ひとつお願いがあります」


「なんだい?」


「『賢者の石シードコア』をくださいませ」


「は――あ?」


 ばしゃん、とお湯が波打つ。初めて老獪な母が動揺したのがわかった。


「何に……使うつもりなんだい。ありゃあ門外不出の御堂が誇る秘宝中の秘宝。それを――おまえまさか!?」


「使えるものはなんでも使え。お母様はたった今ご自分がおっしゃったことをも反故になさるおつもりですか。よもやそのようなことなさいませんよね?」


「揚げ足を取るんじゃないよ小餓鬼子が――!」


 ぶわわっと、命理の方から猛烈な湯気が発生する。ジュウウウ~っと周囲の湯が急速に沸騰、蒸発しているのだ。


「あれは来るべき時のために脈々と受け継がれてきた我らが至宝! 餓鬼のお遊び感覚で持ちだしていい代物では断じてないよ――!」


「では、きたるべき時が来たら、その至宝を一体どのように使うのでしょう。未だその具体的な使用方法もわかっていないではありませんか。ただ単に希少性の高いものだからといって、使い方もわからぬ石礫を後生大事にし続けるくらいなら、私がよりよい使い方をしてくださるお方に差し上げようと言っているのです。何か問題がありますか――?」


 お湯の温度はすでに沸点を超えていた。

 それでも百理は顔色一つ変えず――むしろ凍てつくような眼差しで蒸気の向こうを見据え続ける。


「成華タケルに渡すつもりかい?」


「相変わらず耳が早いですね。その通りです。本日午後から彼が『人工知能進化研究所』の安倍川所長を訪ねることになっています。彼が必要とするものには、恐らく『賢者の石シードコア』が必要になるでしょう」


「わかってるのかい? 星読みによる『滅びの日』は必ずやってくる。その時になってから賢者の石が必要になったら、おまえさんどう責任を取るつもりだい?」


「そうなればこの首を、と言いたいところですが、それはできかねます」


「命が惜しいのかい?」


「いいえ。今更この身を憂う理由などありません」


「じゃあ、なんだっていうんだい! 命も捨てない、責任も取らないでどうするつもりだって言うんだ!」


 ついに、命理の全身から深碧しんぺきの炎が上がった。

 湯船の中身はボコボコと泡立ち、地獄の釜の様相になった。

 百理は自身の白い肌が真っ赤に爛れていくのも構わず、悪鬼の如き母に言い放った。


「我らの宿願は『滅びの日』より日の本を守りぬくこと。ですが、私は気付きました。例え日本を守りぬいたとしても、すべてが退廃した瓦礫の世界に君臨することなど無意味であると。守るのならば日本だけではなく世界を――この星の生きとし生けるすべての生命を救済しなければなりません。そのためにこその『賢者の石シードコア』、そして成華タケルが必要となるのです」


「この星とは大きく出たねえ。それほどの価値があの小僧っ子にあると、おまえさんは言うのかい?」


「はい。もし私の審美眼が誤っていたとしたら、潔く私の命を差し出しましょう。最も、その時にはこの世界そのものがなくなっているかも知れませんが」


 滝のような汗を流しながら、百理は微笑んだ。

 やせ我慢などではない。心の底から腹をくくった者の覚悟の笑みだった。

 それを認めた瞬間、命理の炎が雲散霧消する。


「――っち。壊れちまったか。表彰式が見たかったのに」


 液晶テレビは壊れていた。表面が気泡と罅だらけでボロボロだった。


「お母様」


「好きにおしよ」


「ほ、本当ですか」


「どうせあたしの許可がなくても勝手に持っていくんだろう。いいさね、宝の持ち腐れになるくらいなら少しでも使える可能性のあるやつに託すのも一興だよ」


「ありがとうございます」


「ふん。変わったねおまえさん」


「はい?」


 ジロジロとした遠慮のない視線を感じる。

 同性とはいえ、裸を見られることに慣れていない百理は居心地が悪そうに身じろぎした。


「使命のためには死ねないと言ったくせに、自分が信じた男のためにならあっさり命を賭けられるとはね。おったまげたよ。こりゃあ近々、念願だった初孫の顔が見られるのかねえ?」


「か、からかわないでください! それにあの方にはもう特定の女性が――」


「昔から『英雄』は色を好むというよ。優秀な胤なら大歓迎さ。30代目の御堂は良くないモノと混ざっちまったが、成華タケルは違うことを願うよ」


「もちろん、彼のお方は須佐之男尊すさのおのみことの化身です。悪いもののはずがありません」


「…………」


 はたと沈黙が流れた。

 湯気の向こうで、ザバっとお湯から上がる音がする。


「先に失礼するよ。こっ恥ずかしくてのぼせちまったからね」


「はい?」


 一人残された百理は、何が恥ずかしかったのだろうと、下女が様子を見に来るまで考えあぐね、結局のぼせてしまうのだった。

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