第91話 精霊と遊ぼうよ③ 吸血鬼と執事の懸念〜舞い降りるトラブル

 *


「ぐっ、うっ、ほっ」


「どうだ、辛いか、お母さん辛いですといえば休憩をとってもいいぞ」


「いえ、まだまだ、平気ですッ!」


 兎にも角にも修行である。

 僕はまず歩くことから始めていた。

 芝生を踏みしめながら重い足取りで歩を進める。


 たかが200キロ、されど200キロ。

 平均的な成人男性に換算して三人分だ。

 日常生活ではまず縁のない重量である。


 魔族種になる以前だったらどうにもならない重量だった。

 だが今は不自由を感じる程度で歩けてはいる。


 元引きこもりの僕に体力はなかった。

 魔法世界でのサバイバル生活で人並みにはなったと思う。

 だがこんな風に本格的に鍛えるのは初めての経験だった。


 息を吸って吐いて。

 背筋を伸ばして、前を向いて、できるだけ遠くを見つめながら歩く。

 じっとりと額に汗が滲んでくる。

 虚空心臓ではない、自分の小さな心臓の音が嫌に大きく聞こえてくる。


 そうしているといろいろなことが頭を巡ってくる。

 まずはやっぱりセーレスのこと。

 どこにいるのか、どうしているのか。

 お腹をすかせてはいないだろうか。

 痛い思いはしていないだろうか。


 次に考えるのはエアリスのこと。

 ホント地球に来てから彼女に世話になりっぱなしだ。

 どうしたら彼女にこの恩を返せるのか。

 セーレスを見つけたら僕とエアリスはどうなってしまうのか。


 そして最後に考えるのは、この鍛錬自体のこと。

 いくらベゴニアの力を目の当たりにしたとしても、運動経験も格闘経験もゼロの僕が、きちんと武術を身につけることができるのか、という不安。


 もしかして無駄なことをしているのではないか。

 こうしている間にもセーレスが、なにか取り返しの付かないことになってしまっているのではないか――


「こら」


 ポン、と頭の上に大きな手が置かれた。

 細く長い指、だがその表皮は固くてゴツゴツとしている。

 ベゴニアの手だった。


「おまえの生命エネルギー、『魔力』と言ったか。駄々漏れだぞ。見ろ」


 グリっと頭を九十度左に向けられる。


「カーミラ様が垂涎のご様子で舌なめずりをされている。襲われてしまうぞ」


「うわあ」


 そこには己の身体を抱きながら顔を真っ赤にして身悶えるカーミラがいた。


「あああ、あのプリップリの生命力の海に飛び込んですべて独り占めにできたら私、私もうっ……細っこい首筋にツプリと牙を突き立ててタケルの生き血を啜りたい、啜りたいですわ! むしろあんなにいっぱいあるのだから少しぐらい吸い取った方がいいのでは? 身体に溜め込むのは良くないのですからむしろたっぷりと発散させた方が殿方は具合がいいと聞きますし、タケルだって男の子ですものそういうことに興味は尽きないはず。は――、ということはこれはウィンウィンの関係!? むしろ無限に血液も再生されるなら私専用の血液袋になってもらって車に括りつけて荒野を爆走しても――」


「では私はギターをかき鳴らしながら戦意を鼓舞するとしましょう」


「マッ○マックスッ!」


 かなり強めのボディブローがカーミラの腹に突き刺さる。容赦ねえ。


「は――、ベゴニア、私の血液袋は!? タケルという名の血液袋が――」


「そんなものはありません。荒野もモヒカンも釘バッドもないのです。それよりもタケルの魔力が思ったより以上にダダ漏れなので結界を張りましょう。感のいい人間が遠方から様子を見に来る可能性もあります。基点結界です。ほら、準備しますよ」


「あああ、タケル、お願い一口だけ! 先っちょ、先っちょだけでいいから私の熱く尖った逞しい牙をあなたの首筋に埋めさせてちょうだい!」


「ハウス! カーミラ様、お気を確かに! タケルは少し休憩していなさい。お母さん命令です」


「なんかすいません、つい無意識に」


 未だ制御出来ない自分の魔力。

 感情の高ぶりや発露によっても制御ができなくなる。

 こんなことではいけないと自戒の意味を込めて頭を下げた。

 だが――、


「別に悪くはない」


「え?」


 ベゴニアはカーミラの首根っこを掴んだまま鷹揚に頷いた。


「使えるものはなんでも使うといい。自分に何ができて何ができないのか、もう一度ゆっくりと考えろ。おまえは頭を空っぽにしていつの間にか限界を超えるタイプではない。どこまでも理性的に自分を見つめなおし、熟考した末に答えを見つける男だろう」


 そうなのか? いや、そうなのだろうか……。

 自分以外の誰かに自分のことを教えられるのは、なんとも奇妙なものだと思った。

 僕は随分凝り固まっていた肩から力を抜き、その場に尻もちをついた。


 *


「ベゴニア、ベゴニア、もう結構でしてよ。襟の後ろを掴んで借りてきた猫みたいに連れて行かないで頂戴」


「ああ、これは失礼しました」


 シュタっと、しなやかな四足獣のように地面に降り立つカーミラ。

 ふわりと大輪のようにフレアスカートが広がり、真っ白い太ももが顕になる。「あらやだ」とカーミラは裾を押さえた。


「まったく。さっきのボディブローもちょっぴり痛かったですわ」


「それは結構でございました」


「やっぱりわざと痛くしましたの!?」


「いえそんな。誤解ですよ?」


「何故に疑問形?」


 カーミラが連れてこられたのは邸宅内のダイニングキッチンだった。

 十人は座れるようなアンティーク調のラウンドテーブルがあり、椅子を引いたベゴニアに促され、カーミラはぶつくさと腰を掛ける。


「カーミラ様、我が弟子に色々と気を使っていただいて感謝いたします」


「言ったでしょう。あなたのものは私のものだと。まったく。私達にこんなに気を使わせるなんて悪い子ですわタケルは」


 半分本気、でも半分はウソ。

 本人を休ませるために、わざと漫才を演じ席を外したのだ。


 ベゴニアはケトルにウォーターサーバから水をくみ、コンロの上に乗せる。

 その間に流れるような手つきで茶葉を取り出し、ティーセットを用意した。


「まだ初日です。随分気負っているようにも見えます。私は気長に教えるつもりでいますが、やはりまだ若いのでしょう、かなり焦りが見えますね」


「少し前までは普通の人間だったのだから仕方がありませんわ。……それにしてもちょっと甘やかし過ぎではないかしら。師弟関係にあまり情を挟まない方がいいのではなくて?」


 カーミラは武術の修行のときくらいはもっと鬼のように厳しくしてはどうかと言っていた。


 タケルが教わりたいこととはスポーツの類ではない。

 命をかけた、戦うための技術なのだ。

 甘やかして実践で敗北してはそれこそ意味が無い。

 だがベゴニアはあっさりとそれを否定した。


「逆です。タケルは甘やかすくらいでちょうどいい。あの子は決して自分自身を甘やかしたりはしない。むしろ誰かが側で注意してやらないとどこまでも無茶をして――狂気に身を委ねかねません」


「その根拠はなにかしら?」


「タケルは初見で私を追い詰めました。それも自殺行為とも取れる方法で。どんなに不死身の身体を持っていようとも、僅か数カ月前までは人間だった少年が、己自身をあっさりと死の只中に放り込んできたのです。その狂気に危うく不覚を取るところでした」


 シュウシュウと湯が沸騰し、ベゴニアはカップを温めるために湯を注ぐ。

 茶葉はドリップするのではなく、はやりのエスプレッソマシンに入れて高圧で抽出する。


 何百年も同じ茶を飲んでいるので、違った飲み方を知るとすぐ飛びついてしまうのだ。こうした最新の抽出機を使った紅茶の飲み方が今ふたりのブームだった。


「私達が思っている以上に、あの子は危うい思想を持っていると? そしてそれほどの修羅場も経験していると?」


「おそらくは」


 その疑念は真実だった。

 聖都での戦い、聖剣の召喚、そして討伐軍との戦い。

 いずれも現代の地球では到底経験できないような修羅場をタケルは経験しているのだった。


「それにしても。タケルの意中の相手は幸せ者ですわね。私なんてこの数百年、そんな殿方に出会ったことなんてありませんもの。私も世界を股にかけて追いかけられたいものですわ」


「カーミラ様、その言葉はあの子にこそふさわしいでしょう」


「分かってますわ。エアリスちゃんね」


 エスプレッソマシンから取り出した香りも風味も格段に強い紅茶をカップに注ぐ。

 カーミラはたっぷりと香気を楽しんでから静かに口をつけた。


「エアリス殿もタケル同様、強い力を持つ割に精神はまだ未熟のようです。慣れない土地に来てかなり無理をしているようにも見えます」


「傍から見てる分にはあんなにわかりやすいのに」


 初めてタケルのアパートに押しかけたとき、その目には嫉妬の炎が宿っていた。

 からかいがいのあるオモチャかと一瞬思ったが、よくよく観察すると洒落にならない相手だとわかった。


「今日も来てはくれませんでした」


「私達、思いっきり避けられてますわね」


 タケルの役には立ちたいが、同じくらい邪魔もしたくない。

 そしてカーミラたちが絡むと、どうしても我が抑えられなくなるのを、彼女も自覚しているのだろう。


「あーもう、焦れったいですわねえ。いくらでもチャンスはあるのだからさっさと襲ってしまえばいいのに」


「誰もがカーミラ様のように欲望に素直な快楽主義者ではないのです」


 桐箱の中からズッシリと重い羊羹の包みを取り出す。

 大粒の小豆がこれでもかと入った紫珠を切り分けていく。


「端っこ、私端っこのところを厚さ2,4ミリで!」


「どこも同じです。というか細かすぎて面倒なので却下します」


 カーミラは頬を膨らましながらブーたれた。


「最近従者がとっても生意気ですわ」


「タケルの前では強い母でいなければなりませんので」


「あなたの冗談もそこまで行けば立派なものですわね」


「は?(怒)」


「え?(呆)」


 ふたりがボケ倒していると、庭の方から大きな轟音が響き渡った。

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