第90話 精霊と遊ぼうよ② 修行開始〜センスと実力は別の問題

 *


「お金ってあるところにはあるんだな……」


 庭付き一軒家、といえば夢のマイホームだが、僕の目の前には軽く100メートル競争ができそうなくらい広々とした芝生のお庭があった。


 その場に立ってグルリと首をめぐらせれば、庭の周囲は立木と煉瓦塀によって囲まれており、敷地の中央には白亜の洋館が鎮座している。


 僕は本日カーミラに……正確にはベゴニアによって呼ばれたはずである。

 いよいよ僕の修行が開始されるとのことで、色々と胸を踊らせて都内某所までやってきたわけなのだが……。

 

「さっきからボーッと突っ立って何してますの? せっかく私の新居に招待したのですから、何か気の利いたことをおっしゃったら?」


 洋館を呆然と見上げていた僕の頭の上に手が置かれる。

 白く美しく、それでいて暖かな女性の手。

 振り返れば桃色のゴールドブロンドをカールにしたカーミラが「ん?」みたいな表情で僕を覗き込んでいた。


「て、天下のカーネーショングループの会長様の自宅にしてはずいぶんと慎ましいね?」


 もちろんこれは皮肉である。

 都内にこれほど大きな庭付きの邸宅を買ってしまえるだなんて、やはりカーミラは生粋のセレブと言える。


 改めて見ても、僕はとんでもないヒトたちを協力者として引き入れることが適ったのだ。……などと思っていると――


「自宅だなんて、ここは仮の住まいですわ。というかあなたのために買ったのですわよ?」


「僕のため? え、なんで?」


「おバカさんね。ベゴニアとの修行――吸血鬼の眷属とあなたとの修行を他人に見られたら不味いでしょう。だからちょうどひと目に付きにくいこの邸宅を買い上げたのですわ。たった10億だったので即買いしましたの」


「10億ッ!?」


 僕の修行場に10億円ってどんな金銭感覚してるんだよ……?


 *


 カーミラとベゴニア、そして百理と知り合ってから一週間が経過していた。


 僕らの部屋に泊まったあと、カーミラは「やっぱり大きなお風呂に入りたいですわ」と言い残し、翌日には高級ホテルに仮住まいを始めてしまった。


 それから一週間ほどで、手頃な邸宅を都内に見つけたと言っていたが……それがこれほど立派なものだったとは。


「少々私の好みには合わない手狭な物件ですが、まあ今回は仕方がありませんわ」


 見上げるほどの大きな家なのに、一体どのあたりが気に入らないのだろうか。僕には見当もつかないのだった。


「武術の鍛錬は此れ他者に見せるべからず。武練とは人知れずこっそりと培うものなのですわ。武術家が毎朝早くから練磨しているのは何も健康にいいからだけではありません。他者に技を盗まれないよう、親兄弟にすら気づかれることなく練功を積むのです」


「――なるほど。誰にも知られずに強くなって、初見の相手には実力を悟らせず戦うのか」


「そ――、その通りですわ。わかってるじゃありませんの」


「いや、相手が油断して舐めてかかってきてくれた方が倒しやすいかと思って。あと戦い方を知ってる相手なら事前に対策を立てられるし」


「ふ、ふん。そこまで心得ているのなら私からはもう特にありませんわ。……くすん」


 そこはかとなく残念そうなカーミラ。いろいろ相手に講釈を垂れるのが好きなタイプなのかもしれないな、と思った。


「でも、じゃあこの邸宅は鍛錬に向いてるってことなのか?」


「そうですわ。この町内すべての住人に引っ越ししてもらいましたから」


「は?」


「引越し先の斡旋と業者の手配、見舞金を贈ったりで一週間かかりましたわ。それ以外にも海抜も高くて駅前の商業ビルからも離れているから、高所から監視される恐れも少なくて済みますわ」


「嘘だろ……、そこまでする必要あるのか?」


「当然あります」


 答えたのは第三者の声だった。


「お邪魔いたします。タケル様、ごきげんよう」


「百理、さん」


 白紬に白い羽織。ぬばたまの黒髪がよく映える人外頭領さまのお出ましだった。


「いいえ、どうぞ私のことは百理と呼び捨てになさってください」


「ああ、ええと」


 カーミラの前だからだろうか、百理はやや冷たく取り澄ました感じで言う。

 この実年齢300歳以上の人外頭領は、あの白蛇様になんとなく雰囲気が似ているのでちょっぴり苦手なのだった。


「飾り、変えた?」


 苦し紛れになんとなく気づいたことを言ってみる。

 彼女は螺鈿をあしらった髪飾りをしている。

 それが花柄から蝶に変わっていた。


 なんとなくカーミラっぽいな、と思ったがそれは黙っておく。

 百理はびっくり、といった顔で目を瞬かせていた。

 ちょっと頬が赤いような……。


「まあまあ、本日の来客はタケルだけと思っていましたのに。天下の御堂様がこんな犬小屋になんの御用かしらっ」


 カーミラは相変わらず棘のある口調でずいっと僕の前にしゃしゃり出てきた。

 百理は涼し気な顔でそれを見やりながらスッと後ろに視線を送ると、背後に控えていた和装の侍女が静々と歩み出てくる。


 手には御堂の家紋が入った手帛紗てふくさの包みが。

 カーミラは腕を組んで仁王立ちしたままなので、仕方なく僕が受け取る。

 ズシッと重くて硬い手触りがした。あとどうでもいいが高級ちりめんだこの布。


「あらあら、何かしら。タケル、今すぐ開けてちょうだいな。後で爆発でもしたら大変ですからね」


「またそんな意地の悪いことを」


「カーネーショングループと御堂財閥の経済を土俵にした切った張ったの抗争をあなたはご存じないようですわね」


「そこまで!?」


 僕は慌てて手帛紗を解く。

 中から出てきたのは立派な桐の箱だった。

 蓋をあけると微かに甘い香りがした。


「三膳堂の紫珠と白翠……ようかんです。なんでもないただのお引越し祝いです」


「はッ、引越し祝いだなんてそんな見え透いた――、あら本当に?」


「はい。それ以外に何かありますか。それとも日本通のあなたが和菓子はお嫌いでしたか?」


「……大好きですわ」


 カーミラは意地でも目を合わせるつもりがないのか、でも目端や口端がピクピクと震えていた。


「それは重畳。私は株主総会の打ち合わせがありますので本日はこれで失礼いたします。タケル様、ご鍛錬頑張ってくださいまし。必要とあれば隠密隊からも乱取りの相手を派遣いたしますので遠慮なくおっしゃってください」


「ああ。ありがとう百理」


「はい」


 目元だけで微笑むと、百理は草履履きで芝生を踏みしめ去っていく。

 と、不意に彼女が振り返った。


「余計なことかもしれませんが、いくつか監視ポイントになりそうな場所にウチの者を配置させています。間違っても敵と誤認しないようお願いします」


「え、ええ、助かりますわ」


「よしなに」


 去り際もたおやかに、今度こそ百理は帰っていった。

 忙しい合間をぬってわざわざ来てくれたのだろう。

 カーミラは腕を組んだまま「ふん」と面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「長年の喧嘩相手が消えてしまいましたわ。ホントにつまらない」


 そうは言いながらも、彼女の頬はほんのり赤く染まっているのだった。


 *


 百理が帰るのと入れ替わるようにして邸宅内からベゴニアがやってきた。

 いつものスーツ姿だが、その全身からは闘気のようなものが立ち昇っているように見えた。僕も必然気合が入る。


「待たせてしまったなタケル。早速始めよう。覚悟はいいか」


「はい、よろしくお願いします」


「うむ。ではまずは私の呼び方だが、師匠と先生どちらがいい?」


「どっちでもいいです」


「お母さんという選択肢もあるぞ」


「あんたは僕に何を求めてるのかな?」


「まあ、呼び方は好きにしてくれ」


 じゃあ聞くなよ。僕はげんなりしそうになるのをぐっと堪える。


「今日は初日だ。まずはこれを身につけてもらう」


「これって……」


 ずんぐりとした袖なしベストだ。

 中身は見るからにダウンフェザーではない重そうなものが詰まっていた。


鉄布衫てっぷざんという重り入りのジャケットだ。鍛錬の最中は必ずこれをつけて稽古をするように」


「はい」


 差し出されるベスト。僕は何の心構えもなくそれを受け取った。途端――


「うおっ!」


 危うくバランスを崩してしまうところだった。

 というか芝生の上に足が沈み込んでいる。

 一体何キロあるんだこれ!?


「ああ、それ一着で200キロある。タケルは力自慢らしいからそれほどではないだろう」


「いや、でも、これはっ!」


 単純に200キロのバーベルを持ち上げるだけなら、普通の人間でも鍛えたり、正しいフォームで行えば可能だろう。


 だがこれを身体に纏って鍛錬をするとなれば容易ではない。

 常人なら着こむだけで身体を痛めるかもしれない。


「どれ、貸してみろ」


 片手でヒョイッと、まるで重さを感じさせずにベゴニアはベストを受け取り、普通に袖を通す。その状態でも彼女は背筋をピンと伸ばしたまま、あくまで自然体でいる。彼女の腕が僅かに上がった瞬間――


 ヒュオっと空気を裂いて拳が僕の顔の脇を通り過ぎ――

 その拳が目の前で開かれ視界が塞がれる。


「……どうだ、おまえにはこの域に達してもらう」


 声は真後ろから聞こえた。

 ここは草地である。

 硬い靴履きで動けば、当然踏みしめる音がする。


 だが靴音は一切せず、まるで彼女の身体から重みが消えてしまったかのような、そんな流れる足運びだった。


「私が編み出した武術はこの歩法が基本となる。己の身体から重力を消し去り、空気と一体になることによってあれほどのスピードを生み出すのだ」


「すごい……こんなにすごいとは思いませんでした」


 掛け値なしに、僕は称賛の言葉を口にしていた。


「すごいか。私ってカッコいいか?」


「カッコいいです」


 僕は素直にうなずいた。


「お母さんすごいですと言――」


「ご教授よろしくおねがいします!」


 頭を下げてから顔をあげると微妙にしょんぼりとしたベゴニアがいた。

 もう無視することにした。


「では始めるぞ。おまえは魔族種ということで、本来なら十年はかかる身体強化を終えたものとして教えていく。その身に余すことなく刻みつけるがいい、私が生み出した『超特急・快・音速拳ちょうとっきゅうかいおんそくけん』を!」


「え」


 盛り上がりかけていたテンションが急降下していく。

 僕の顔面から血の気が引いた。

 ぶふぅ――っと視界の隅っこでカーミラが吹き出していた。


「どうした、『超特急・快・音速拳』だ。私が何十年も苦心して考えた。カッコいい名前だろう?」


「…………」


 ――クソだせえ。

 などとは口が裂けても言えず、僕は彼女が納得する新たな名前を用意しようと決意するのだった。

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