第85話 人外魔境都市② 戦闘畢竟者~その拳は閃電手

 *


「――――――うわッ!?」


 ブラックアウトも一瞬、視界を取り戻した僕の眼の前には驚愕に目を見開く女の顔があった。


「くッ、おまえら早くここから――……ああ、ナリはでかいくせして肝は小さかったか」


 ヤのつく職業三人組は、僕の顔が崩壊する瞬間を目の当たりにし、失禁しながら気絶していた。


 まあ僕は死んだことにしたほうが何かと都合がいい。

 もちろん、この場を無事切り抜けられればの話だが……。


「そ――そんなバカな! 頭部破壊でも死なないだと――!」


 女――僕に襲いかかってきた暴力女は、狼狽えた様子ながら、大きく距離を取り後退した。


 疑惑と敵愾心に満ちていた面相に、今ではありありと驚愕と恐怖が貼り付いている。


 というか問答無用で頭蓋骨を壊しに来るあんたの方が怖いよ――!


「不死身と聞いて思わず手を出してしまったが、まさか貴様のような男が我らの身近にいたとは! 危険だ、貴様はあまりにも危険過ぎる……! 我が主の敵となる前に確実に排除する――!!」


 怒気と共に暴力女の全身が膨れ上がった。

 はち切れんばかりの筋肉がスーツを押し上げ、身体が一回り以上大きくなる。


 暴力女は大きな体をゆるりと駆動させると、大きく脚を開き、靴裏をベッタリと地面に接地させた。


 構えは半身の中腰。

 突き出された左拳、こちらに向けられた膝頭から下、そして左拳の奥には鋭い眼光が見え隠れしている。


 僕には――それが空手か拳法の構えだということしかわからない。

 でも実際に拳を向けられて思うことは一つ。

 圧力が物凄い……!

 まるで拳銃――いや、大砲の筒を向けられているようだ。


 そして何よりスキがまったく無い。

 こちらが攻撃をしても即座に躱されそうだし、なにより僕が視認できる女の体が極端に小さい。


 あの構えが曲者なのだ。

 あんなに大きな体をしていながら極端な半身と前傾姿勢により、攻撃可能な部位を小さく隠してしまっている。


 僕がジリっと横に動こうものなら、女もまた、後ろ足を軸にして左拳をこちらに向けてくる。


 女の持ち味は残像さえ置き去りにする突撃スピードと、当たれば必滅の拳である。魔族種となって肉体だって強化されているはずの僕をたやすく破壊する拳を前に、格闘技素人の張り合えるわけがない。


 視界の中、女の後ろ足首が僅かに動いた。

 来る――!

 そう知覚した瞬間、女の左拳が僕の肩肉に突き刺さっていた。


「――ふしゅッ!」


 女の勢いは止まらず、再び全身を弾丸に変えて通り過ぎていく。

 その際、肩を中心に僕の右腕が崩壊された。

 女の拳に込められた威力に、腕が千切られ、一瞬でズタズタにされたのだ。


 なんてパワー。まるで削岩機だ。

 ガードなんて無意味。触れた部分が弱点となり確実に破壊される。

 だが――


「このバケモノめがッ!」


 振り返った女が苦々しい表情で吐き捨てる。

 まったくもってその通りだと思う。


 女からすれば、自分の拳が相手の肉を引き裂き、骨を粉々にする感触が消え失せぬ間に、僕の右腕の再生は終わっているのだ。化物という形容はあまりにも正しい。


 僕にとって女の拳が悪夢なのに対して、女にとってもまた、僕の不死身の再生力は悪夢なのだった。


 *


 夕闇が訪れ、次第に夜の色が濃くなっていく廃倉庫内。30+3人の男たちが累々に倒れ伏すその場所で、突如として始まった人外同士の戦い。誰も目撃者はいないかに見られたその戦闘は、第三者の目によって監視されていた。


(なんということだ、こんな町中で化物同士・・・・の戦いが始まってしまうとは――!)


 監視者は御堂百理の密偵、影女の影に潜む百々目鬼どどめきである。


 影女とは古くから存在する妖怪であり、女の影の姿をした平面妖怪である。障子や襖に映り込み、驚いた家人の負の感情を食べて生きるだけの人畜無害な存在だ。


 そんな影女は真なる闇の中では生きることができない。光源が作り出す影の中にのみ存在が許されるのだ。原初は月が落とす影の中に発生したのが影女の始まりであり、そしてまだヒトが電気を得る前、新月の度に多くの影女が死に、三日月の度に無数の影女が生まれるを繰り返していた。


 だが、複雑に入り組んだ現代建築――特に日本の建築物は、昼間であっても影を落としやすく移動がしやすい。夜ともなれば、人工の灯りが無数の影を街に刻む。まさに今の世は影女にとってパラダイスと言えた。


 そして百々目鬼どどめき。無数の目を宿す妖怪は、その目を自由自在に分離し、そこで見た情報のすべてを知ることができる。


 影がある場所ならどこにでも移動できる影女と、無数の目を一個の意思の元見聞きできる百々目鬼どどめきのコンビは、まさに監視と追跡に打って付けといえた。


(カーミラ・カーネーション・フォマルハウト……遠い異国で発生した強力な吸血鬼。今は日本の国土に寄生する忌々しい魔女。そしてその眷属たるベゴニア。戦闘力だけならば御堂隠密隊の頭目と互角、あるいはそれ以上とは聞いていたが……あの少年はなんだ!?)


 百々目鬼どどめきは戦慄した。言葉こそ話せないが影女も動揺しているようだ。


 あれほどの戦闘力を持ったベゴニアが攻めきれずにいる。

 いや、それよりも最初の見事な一撃で、あの少年は死んだはずではなかったか。


 主のため、例え相手が子供の姿をしていても、不穏分子を即座に排除する姿勢は天晴あっぱれとしか言いようがない。


 だが少年は、頭砕かれても、腕を引きちぎられても、再び五体満足でそこにいた。

 みるみるうちに頭部が再生し腕が生え変わる様を、百々目鬼どどめきはあ然としながら見つめていた。


(これは夢か幻か……あの少年はあまりにも常軌を逸している!)


 例えば、彼らの仲間内に風狸ふうりという妖怪がいる。


 風狸は戦闘力こそ皆無だが、『殺意を持った器物』に対しては無敵の耐久力を誇る。だが対して生身の拳にはめっぽう弱く、何代か前の風狸はイタズラが過ぎて人間に撲殺されてしまった。


 あるいはそのような到底条件下でのみ不死性を発揮するタイプの妖怪かとも思ったが――


(まただ! 今度は抉れた脇腹がもう治ってる……!)


 血の霧と化した少年の肉。

 まるで暴風にもてあそばれる風見のように、クルクルと回転しながらベゴニアの拳を躱したようだが、左の脇腹がごっそりと抉り取られてしまった。


 ベゴニアの拳に触れた部位は血の霧になり、その衝撃は少年の内蔵をも致命的に破壊し尽くしたはずだ。


 だが、わずか数秒で少年の腹は、破けた服はそのままに再生し、瑞々しい地肌を取り戻している。


(あの少年はもしかしたらカーミラ以上の脅威となるやもしれない。御館様に、百理様に疾くご報告しなければ――!)


 戦いを見守りながら百々目鬼どどめきは、自身の分身たちへと危急を知らせるのだった。


 *


「ねえ」


 三度の攻撃の後、女の足は止まっていた。

 再びあの極端に小さい前傾姿勢の構えを取りながら、左の砲台を僕に向けている。


 状況は膠着している。

 僕には女に対する明確な攻撃手段がない。


 三度の攻撃でよくわかった。

 この女、マジで強すぎ。人間を超えた膂力を持つ僕だが、それでもただ力任せに殴ったところでダメージを与えられるかわからない。そもそも僕の素人攻撃が当たるとも思えない。


 魔法は――最低でも街の一区画を灰にしてしまう。

 未だ制御はできず、垂れ流しの魔力を燃料に引火させることしかできない。

 セーレスを探す前からお尋ね者になるのは避けたかった。


「ふう……」


 思わずため息が出た。

 女の拳がピクっと反応するが攻撃はない。

 僕は手持ち無沙汰から一瞬ハンドポケットしそうになるがすんでのところでやめる。


 かわりに腰に手を置きながら、警戒心の塊になってる女に声をかけた。


「僕さ、今金欠もいいところでさ、イチキュッパのパーカーでも、服は弁償してくれないかな?」


「…………」


「あれ、結構余裕ない感じ? それとも敵とはおしゃべりしたくない?」


「………………」


「じゃあ勝手にしゃべるけど、さっき自分たちの身近に僕みたいのがいたのかって驚いていたけど、それは僕も同じなんだよね」


「……………………」


「人間だった頃には気づかなかったよ。日本にもアンタみたいなバケモノがいるなんて――」


「バケモノは貴様の方だろう」


 燃える瞳が僕を睨みつけていた。

 先ほどの口ぶりから、どうやら女には守るべき主がいるようだ。僕のようなバケモノが近くにいると害を及ぼすと思っているらしい。


 勘違いも甚だしいのだが、主のためになりふり構わないヤツを僕は知っている。

 だからだろうか、先程から三回ほど殺されかかっているにも関わらず、僕はこの女のことを未だ『敵』と見なすことができずにいた。


 ――それに。

 この女には僕にはない本物の『力』を持っている。


 ある日突然与えられた僕のものとは違い、それこそ何年、何十年もの間積み重ねた『武の力』が女からは感じられるのだ。


 だからこそ試してみたい。

 僕に必要な力の一端は、間違いなくこの女が持っているのだから。


「実はまだ、バケモノになってから日が浅くてさ。できれば先輩としていろいろ教えて欲しいんだけど、ダメかな?」


 僕は敵意もなく、本当に気軽な感じで一歩を踏み出した。

 途端、女から圧が放たれる。遠く離れているのに、地面につけようとする足が押された感じさえした。


 女の顔が青く、白くなっていく。

 あれは戦闘態勢だ。

 戦う四肢に血液を多く巡らせると、頭部が青くなると聞いたことがある。


「ふざけたことを……! 貴様ほどのバケモノが自然発生などするものか。私にはわかるぞ、貴様から発せられる霊力とも吸血鬼の持つ血の力とも違う、禍々しいほどの生命エネルギーを……!」


 生命エネルギー。

 なるほど、女には僕の魔力が見えているのか。

 そりゃあすみませんね。未だ制御ができないので、日々ダダ漏れ状態ですよ。


 水道の蛇口が壊れてるくらいならいいけど、魔法世界にいた頃はダムが決壊したくらい魔力が溢れていた。これでも今は河川が氾濫した程度に抑えられているはずなのだが……。


「そして、それほど強大な力を持っているバケモノなら、この国の『御堂』が放っておくはずが――――いや、そうか。そうだったのか……!?」


 なんだ、なにか話の途中で勝手に思いついて納得してる。

 嫌な予感が……。


「そうだ、『御堂』が貴様を放っておくはずがない。ならばこそ、貴様は『御堂』の放った刺客だな!? 私はまんまと『御堂』の罠にハマったということかッ!」


「いや、知らないしっ!」


 御堂御堂ってなんの話だよ。

 僕は日本で一番有名な御堂財閥くらいしか知らないぞ御堂。

 ……え、嘘だよね? 違うよね?


「殺す。殺しても死なないというのなら、死ぬまで殺し続けるのみッッッ!」


 女の顔から迷いが消えた。

 一度目は迷いのない拳だった。

 二度目、三度目は戸惑いがあった。


 束縛から解き放たれた女の拳は凶器そのもの。

 そして女の周囲の空間が歪み、その体が大きくなったように見える。


 あれは呼吸。急速な吸気で周囲の空気を取り込んでいる。

 全身に蓄えた酸素を女は一気に爆発させた。


「――ッ、きえぇぇぇぇぇぇぇつッッッ!」


 その気合は、完全に遅れてやってきた。

 衝撃波が廃倉庫の窓という窓を破砕していく。

 周りに転がってる男たちは全員鼓膜が破裂してるだろう。


 今の一撃は凄まじかった。

 何故ならまったく反応ができなかったから。

 僕は宙を舞いながら・・・・・・・、ただただ本物の音速拳・・・に感服していた。


 ――そう、今眼下には、泣き別れした僕の下半身が崩折れるところであり、数瞬前、腰だめから放たれた女の右拳は僕の心臓部に突き刺さり、そのあまりの威力により、僕の上半身は首だけを残して瞬時に蒸発・・したのだ。


「――ッ!」


 僕は魔力のパスを下半身へと伸ばす。

 首のすぐ下に素っ裸の上半身が再生され、宙を舞いながらも足裏が地面を踏みしめている感触が伝わってくる。


 僕はその下半身を・・・・・・もたもたと疾駆させた・・・・・・・・・・

 遥か向こう、地面の上を水平移動し、足裏から煙を出しながらようやく停止した女――拳を突き出したままの彼女の背中を思い切り蹴り飛ばす。


「――なッ!?」


 会心の手応えに浸っていた女がたたらを踏む。

 振り返った彼女の顔は、なかなかに傑作だった。


 背骨や内臓も丸見えの下半身から嫌がらせ程度とはいえ攻撃を受けたのだ。


 女は一瞬ポカンと口を開け、僕の下半身が上半身を迎えに戻っていく様をマジマジと見ていた。


「ふう、よいしょっと……お、くっついた。いやあ、あんたマジで凄い筋肉してるね。背中とか岩みたい。蹴った足裏が痛いんですけど」


「バカな」


「そういえばさっき吸血鬼とか言ってなかった? あんた吸血鬼なの? なんかロマンを感じるな、拳法使いの吸血鬼なんて――」


「そんなバカな――ッッッ!」


 女の脚が地面を叩く。

 バァンッッ――と発破が炸裂したような音と共に地面が砕け、女は十数メートルの距離を一歩で詰めてきた。


 だが今度は先程の一撃――稲妻が疾走ったような拳ではない。女は両の拳を振りかぶり、それを斧のように同時に振り下ろしてきた。


「――死ねッ!」


「おおおッ!」


 僕は、女の拳を真正面から迎え撃った。

 ――バチッ! という破裂音。

 振り抜かれたのは女の拳。

 破壊されたのは僕の腕。

 一瞬で肘まで消滅するが、即座に再生させる。


「痛ッ――って、痛くないッ! 男は我慢ッ!」


「なッ!? ななな、何なのだ貴様は――!?」


 女は目を剥き、血相を変えながらも次々と拳を繰り出す。

 僕は一切の魔力を再生だけに傾け、その拳に拳を合わせ続けた。


 バァン――バァン――バァン……!!

 一合二合三合と、己の腕を破壊されては再生し、破壊されては再生を繰り返しながら、なんとか女の速度に食らいついていく。ドクンドクンドクンドクンと、虚空心臓も絶好調だ。


 そうして、一体どれほど拳を交えたのか。

 百や二百では利かない

 女の拳は千を超え、同じ数だけ僕は腕を破壊され、再生をした。


 僕は女の拳技を誰よりも近くで見つめながら、その全身を舐め回すように見ていた。


 もちろん、邪な意図からではない。

 これこそが人外の御業。ヒトを超えた者が繰り出す武の力なのかと。


 僕が地球で行わなければならないこと。

 それはセーレスの探索と並行して、自身の強化が挙げられる。


 魔法の制御、そして地力の向上。

 特に後者は今までのように、ただ腕力を振り回すだけではダメだ。

 もっと効率よく効果的に――例えば今目の前で繰り返される芸術の域にまで高められた女の拳のような、こんな強さが欲しい――


「貴様、何を見ている――!?」


 バチバチと拳を合わせながら、僕の視線に気づいた女が声を張り上げる。

 その顔には大分脂汗が浮いていて苦しそうだ。


 恐らく限界が近いのだろう。

 それは僕も同じだ。

 魔力の限界ではない。

 常人の集中力と精神力しかない僕では、この破壊と再生のルーティンに耐えきれないのだ。


「ぐッ――」


 案の定、僕の呼吸が乱れた一瞬を見切り、女が大きく吸気する。

 僕は突然止まった女の動きについていけない。

 早い速度に慣れていた脳が混乱をきたしたためだ。


「――っ!」


 女が繰り出したのは掌底。

 両の掌による打撃だ。

 それが、僕の胸に叩き込まれる。


「――――――がはッ」


 残念ながら、女の掌に必殺の威力はなかった。

 見れば女も失神寸前のようで、意識を保っているのがやっとのようだ。


 女からすれば致命打に遠いやけくその攻撃。

 でも僕にとってはそれが有効な打撃となった。


 肉体の欠損や、命の危機に直結する怪我には瞬時に発揮されるのが僕の再生力だ。

 でも、女の攻撃はそのどちらでもない、ただ胸を強く叩くという行為。

 それにより、僕の肺は限界・・・・・・まで空気が・・・・・押し出され・・・・・てしまっていた・・・・・・・


 結果極度の酸欠に陥り、僕はその場に膝をつく。

 顔面蒼白で視界の中にはチカチカと星が散り、意識が飛びそうになる。

 耳の奥がキーンとなって頭がグラグラした。ダメだ、とてもすぐには立ち上がれそうもない……!


「な――、え?」


 決死の思いで放った掌打が不発に終わり絶望――するより早く、その攻撃が通ったことの方に女は驚いたようだった。


「あんた、マジ強いね……こんなに追い詰められたのは初めてだよ……」


「……何なんだ貴様は」


 ことここに至り、女の全身から圧が消えた。

 構えを解き、大きく肩で息をしている。


「貴様は戦っている最中にもまるで殺気がなかった。貴様は『御堂』の刺客ではないのか……?」


「ああ、『御堂』なんて知らない。僕は元人間の魔族種だ」


「魔族種?」


 聞き慣れない言葉に女が眉をしかめる。

 それよりも誤解が解けたならもういいかな。

 意識が途切れる前に言っておきたいんだ。


「ねえ、僕をあんたの弟子にしてよ」


「何だと?」


「僕は強くならなくちゃいけないんだ。あいつから、セーレスを取り戻すために――」


 意識が沈んでいく。

 限界を超えた戦いと肉体再生の連続。

 そして戦いが終わり、緊張が途切れたことで、僕は気を失ってしまった。


「おい貴様、しっかりしろっ!」


 崩れ落ちる直前、僕は女の逞しい腕に確かに抱きとめられていた。


 *


「ただいま戻りましたカーミラ様」


「ふえ?」


 カーミラ・カーネーション・フォマルハウトは驚愕した。

 酒のあてに食べていた鯵のなめろうタルタル風(ベゴニア作)が、お気に入りのカーペットの上にボトリと落ちる。


 そんな無作法にも気づかないほど、目の前の光景は、ここ数十年の間にはないほど異常なものだった。


「奥の客間を使わせてもらいます」


「え、ええ……構わなくてよ」


「ありがとうございます」


 今朝方、怒りに任せて暇を出したはずの執事がその日の夜に帰ってきた。

 カーミラの求めるところを理解するまで、帰宅は禁じていたはずだった。


 その御蔭でカーミラは本日のスケジュールを全てキャンセルするはめになった。

 全ての予定をベゴニア任せにしていたのだ。彼女がいなくては仕事のしようがない。


 重要な商談があった気がするし、重要な食事会があった気がするし、重要な会議もあった気がするが、もう後の祭りである。


 ベゴニアがいなくては仕事はおろか、シャワーの替えの下着すら見つけられないことに気づいたカーミラは、その日一日をふて寝して過ごした。


 もちろん寝室のベッドの周りは、脚の踏み場もないほどにひっくり返した洋服類が散らかり放題になっている。


 そんなささくれだった気分を解消するために開けたとっておきのワインをチビリつつ、「そういえば昨晩ベゴニアが作ってくれたおつまみが冷蔵庫にあったはず」と思い出し、白米が欲しくなるその味を噛み締めながら、「さて、主の威厳を保ちつつ従者に早々の帰還を命じるにはどうしたらいいだろうか」と思い悩んでいた矢先のことだ。


 全身くたびれてボロボロの様で帰ってきたベゴニアに、カーミラは質問を投げかける。


「あの、ねえベゴニア、少し聞いてもいいかしら?」


「後でもいいでしょうか、とりあえずこの子を横にしてやりたいのですが」


「そう、ごめんなさい。でもひとつだけお願いよ」


「わかりました。なんでしょう」


 あなたの質問より今は重要なことがあるのに……カーミラにはベゴニアの目がそう語っているように見えた。


「あなたが今背負ってる、そのやったらめったら強い生命力を惜しげも無く垂れ流しにしている半裸の殿方はどちら様なのかしら?」


「弟子です」


「……弟子。あなたの?」


「はい。では失礼します」


 ここを追い出した時は泣きそうだったのに、それが今は毅然として、まるで我が子を守る母親のようなキリっとした面構えだった。


 ここ数十年あまり、どこに行くにも自分にベッタリで、前々からちょっとウザいなーと思っていた従者ベゴニアが、一足飛びで精神的自立を遂げていた。


 さらに、わずか半日の間に、あのような少年をどこから見つけて、弟子にするに至ったのか。正直言って――


「お、おもしろい……! 超ナイスですわベゴニア! 私が待っていたのはこういう非日常的なシチュエーションですのよ!」


 手の中のグラスを一気に飲み干したカーミラ(下着姿)は、これからの刺激的な毎日を想像して顔を綻ばせるのだった。


 続く。

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