第83話 地球帰還報告⑤ 家族になれなかった人たち〜責任を果たすということ
*
「仕事に行ってくる」
僕こと成華タケルはトーストにジャムを塗りたくったものを口に放り込み、急ぎ玄関へと向かう。
「おい、しばし待て。今汁物ができる。それも一緒に食べていけ」
キッチンから顔を覗かせたのは、エプロン姿のエアスト=リアスだった。
デニム地のホットパンツに薄手のヒートテックインナーを着こみ、手にはスープをかき混ぜていたおたまを持っている。
長い銀髪は今は馬の尾っぽのように後ろで一本にまとめられていた。
こんなことを言うと恥ずかしいが、どこからどうみても新妻といった風情だった。
「いや、もう行くよ。食事なんて本来必要ないんだし」
魔族種の根源貴族となって以来、食事は完全に人間だった頃の名残で摂取しているに過ぎない。
朝昼晩と、何となく小腹が減った気になり、食べないで放っておくと、空腹を感じてイライラすることがわかった。
なので、毎日よほどのことでもない限り食事の真似事くらいは続けている。
まあ久々の地球飯なので、初日は暴飲暴食をしてみたりもしたのだが。
「そうか、今作っている汁物はなかなか上手くいったと思ったのだが残念だ……」
「…………」
しょぼんと肩を落とすエアスト=リアス――エアリス。
そんな顔をされたら食べないわけにはいかないじゃないか。
「どうだ、今日はちゃんと野菜に火を入れてから煮てみたぞ。どれも柔らかくなっているだろう?」
「ああ、ちょっと焦げ臭いけどな」
地球に来て以来、エアリスはまず日本語を覚えたがった。
もちろんそれは必要なことなので、願ってもないのだが、もう一つ、彼女は料理を作りたいと言ってきた。
ディーオ――、エアリスの元々の主であったディーオ・エンペドクレスは何百年もまともな食事を必要とせず、たまに旬の果実などが市場に出回れば、それをごく少量口にしていたのみだという。
エアリスはディーオと共に食事を摂った記憶がほとんどなく、彼女自身も料理は作らず、すべて街に降りて食べたり、パンや簡単なスープだけで済ませていたという。
そんな彼女が地球の食材で作る料理はやはり失敗の連続だった。
でも最近ようやく食べられるものになってきたのだ。
それだけではない。
あんなに刺々しかった態度や言動はすっかり鳴りを潜め、彼女は僕に対してよく話し、笑い、そして尽くしてくれるようになった。
丸いちゃぶ台に鍋敷きを置いて、グツグツと湯気を立てる鍋から、エアリスは熱々のスープをよそってくれる。
そして僕が口をつけるのをジッと見つめてくる。
不安そうな、でもどこか期待してるような、そんな表情。
エアリスに限ったことではないかも知れないが、女性というのはどうして他人の食事の世話にこんなに一生懸命になれるのだろうか。
「うん、美味いよ」
お世辞ではない。
ちゃんと食べられる。
僕が作るより遥かに美味い。
「ほら、見てばかりいないで、お前も食べろよ」
「うむ、そうだな。ではいただくとしよう」
ペアで購入した深皿にエアリスがスープを注ぐ。
テーブルを挟んで対面にいたのに、彼女はわざわざ僕の隣に座り直してから「イタダキマス」と覚えたての日本語をつぶやいた。
スープを掬い、静かに口をつけ、目を閉じて味わっている。
そうしてからくしゃっと笑みを歪ませると、彼女は爽やかに言った。
「うむ。やっぱりまだまだだな。だが、明日はもっと上手に作れると思う。その、また食べてくれるか?」
「あ、ああ、もちろん」
全幅の信頼、というのだろうか。
エアリスが向ける笑顔には、ついぞ僕が地球にいた頃には得られることのなかった親愛のようなものが篭っている、ように思う。それはセーレスとの生活の中で感じたものと同じ類のものだ。
僕は、そんな感情を向けてくれるエアリスをありがたく思い、そして同時にセーレスに対して罪悪感のようなものも抱き、複雑な心境に陥っていた。
「そろそろ行ってくるよ。日付が変わる頃には帰ってこられると思う」
「うむ。あの短い方の針が天辺を指す頃合いだな」
エアリスが指差すのは安物のアラームクロックだ。
現在は夕方の五時を少し過ぎたくらいだ。
これから僕はアルバイトに行かなければならない。
「遅くなるかもしれない。先に寝てていいからな」
「いや、待っている。『ひらがな』とやらは覚えたからな。今日中に『カタカナ』も片付けてしまおうと思う」
「そっか」
現在、絶賛日本語の勉強中であるエアリスだが、はっきり言って彼女は優秀だった。さすがはディーオによって見出された才能と言うべきか。
地球に降り立ったばかりの頃は、初めて目にする科学文明に大層驚き、はしゃいでいた。
特に彼女はきらびやかな地球の夜景が気に入ったらしく、今でも時々、夜の空中散歩に付き合うよう僕に強請ってくる。
もうちょっとまとまった金が入ったら、彼女に夜景撮影用にデジカメかスマホでもプレゼントしようかと思うのだが……。
と、そのとき、『ピコーン』と部屋の隅の作業机から電子音が響いた。
「おお、どうやらまた『けっさい』が成ったようだな」
「…………」
実は……エアリスは現在、我が家で一番の稼ぎ頭となっている。
広げられたラップトップPCには、ドル円とユーロドルの為替チャートが表示されていた。彼女が予め入れていた注文が約定されたのだ。
「ふーむ。『どるえん』なら100ぴっぷすも取れれば良いのだったな。ではこんなものか。『ゆーろどる』はもう少しで雲の下限か。週足でみると200日線がさぽーとらいんだな。多少の反発を見込んで買い増しをしておこう。今日は特に大きな経済指標はなかったはずだしな。にゅーよーく時間の終値を見てから新たな取引を考えるか。……む。どうしたのだタケル、仕事に行くのではなかったのか?」
「いえ、なんでもないです。どうかそのまま続けてくださいませ」
「何を急に他人行儀なしゃべり方をしている。私が『えふえっくす』をしているときの貴様は少々様子が変だぞ?」
「……近々エアリスさんが喜びそうな贈り物を買おうと思いますので、是非楽しみにしていてください」
「お、贈り物か? タケルが私に……? な、なんだ急に、気持ちは嬉しいが今はそんな余裕はないのだろう。無理をせずともよいぞ?」
「いえ、今し方かなりの余裕ができたみたいなんで、少しでもおまえに還元しないと僕の肩身が狭くてかないませんので……」
たった今エアリスが稼ぎだした利益は、軽く大卒初任給の倍くらいの金額になっていた。
でも僕はバイトに行くぞ!
このまま働かないで家にいてもいいけど、それじゃあエアリスのヒモみたいじゃないか!
エアリスは僕が養う! そしてセーレスも取り戻す!
男成華タケルはクールに仕事に行くぜ!
……とほほ。
*
地球に帰還して間もなく半月が経とうとしていた。
セーレスの探索は、実は全くできていなかった。
それよりなによりも、まずは生活の基盤を立ち上げること、そしてそれを安定させることが僕たちには急務だったからだ。
僕がまず真っ先に行ったこと。
それは、都内にある叔父の家に行き頭を下げることだった。
魔族種龍神族の王といっても地球ではなんの知名度もない子供である僕には、生活資金はもちろん、まずは着る服がなによりも必要だった。
大気圏を突破し、日本へと降り立った僕とエアリスは、僕が住んでいた街の外れの雑木林に身を潜めた。
エアリスが再び風の魔法を使い、全身に光学迷彩を施してから市内へと入っていく。通行人にぶつからないように気をつけながら歩く僕らは、本来なら通報されるような有様だ。
僕はボロボロの黒衣と鎧姿。そして僕にお姫様抱っこされたエアリスは完璧な全裸である。討伐軍の炎の魔法の集中砲火を受けた僕たちは、身につけている服が燃えて無くなってしまっていた。
エアリスは首を伸ばして街ゆく人々を見つめながら目を白黒させていた。
そして、「この上等な身なりをした者達は全員が貴族か大商人なのか」と聞いてきた。
僕は、日本には貴族制度はなく、ここを歩いているのは全員が一般市民だ、と言うと彼女は「そんな馬鹿な……!」と絶句していた。
その気持は痛いほどわかる。
いわば
エアリスは大雑把に300年後の未来にやってきたのと同じショックを受けていた――と言えば、少しは想像がつく。
誰もが小綺麗な身なりをして、飢えることなく、物乞いさえ滅多にいない。
ましてや奴隷制度などなく、義務教育制度があり、日本の識字率はほぼ十割だと告げると、エアリスはお姫様抱っこのまま腕を組み、神妙な顔で聞いてきた。
「この『にっぽん』という国の王はよほどの治世者だな。少なくとも向こうの世界にこれほど豊かで恵まれた国は存在しなかった。魔族種はもちろん、獣人種にも、ヒト種族のどの国にもないだろう。……この国の王はなんという名前なのだ?」
治世者の名を尋ねるのは彼女を始め
「あー、実はな、日本は民主主義の国でな、王様はいないんだ」
「貴様、私が異邦者だと思って馬鹿にしているのか?」
「いや、本当に絶対的な権力を持った王様ってのは存在しないんだ」
「なんだと……? で、ではどのような統治でこの国はこれほどの栄華を誇っているのだ!?」
エアリスが僕の胸元を掴みながら聞いてくる。
おまえ、ちょっとはおっぱい隠せよ。
目のやり場に困るだろ。どうせ僕しか見てないからいいけど……。
「さっき言った民主主義っていうのは、この国に住まう全員が主権者で、全員で代表者を選んで、その代表者が国の一番偉いヒトを決めて政治をするっていう意味なんだ」
「ぜ、全員が主権者? 馬鹿な、それでは国としての意思決定は誰がするのだ?」
「地域ごとに何人か代表者を選んで、その人達の中から総理大臣――まあ『王様』を選ぶんだよ」
「なんだ、やっぱり王はいるのではないか……」
祈るように手を合わせ、エアリスはほっと息をつく。
「でもおまえたちの言う王様って世襲制だろ。王家の血を引くものしか王様にはなれないっていう」
「うむ。そうだな」
「違うんだ、極端なことを言えば、僕でも頑張ればこの国の王様になれる可能性があるんだ」
「はあ――!?」
腕の中、エアリスが身を乗り出して僕の顔をマジマジと見つめてくる。
琥珀色の瞳が「おまえは何を言っているんだ?」とでも言うように揺れていた。
「満25歳以上になれば全員がその資格を得られる。まあ一人でどんなに頑張ったところで、みんなに認められて選ばれないと絶対になれはしないけどな」
「わ、わからん……、それでよく国としての体裁を保っていられるな。他国に侵略された時はどのように対処しているのだ……?」
「自衛隊っていう組織はあるが、今のところはお金を出して、もっと強い国に守ってもらってるってのが現状かな」
「それでは傀儡国家と同じではないか!」
「うーん、一概にそうとも言い切れないんだが、いろいろ複雑なんだよ」
大政奉還後から現在に至るまでの皇室の扱いとか、第二次世界大戦後から
そういえば春先から今までのニュースとか、話題になっていた政治的なあれやこれやもどうなったのかチェックしておかないと。
そうこうしているうちに、僕らは街の中心を抜けて閑静な住宅街へとたどり着いていた。
*
両親が不在になってから叔父の家を頼るように言われ、それでも僕は決して叔父には懐かなかった。
ひとりで頑なにあの家に引きこもり続け、僕はさぞ可愛くない甥っ子だったろう。
叔父の家にも盆暮れ正月など含めて片手で足りる程度しか訪ねたことはない。
両親の顔と同じくらい、僕は叔父夫婦の顔もよく思い出せない……。
何の変哲もない一戸建て住宅。
小さな門構えで、猫の額のような庭が少し。
ガレージにはマイカーの軽自動車が一台。
極々一般的な、そして平凡な佇まいだ。
だがこの平凡が、日本という国に於いてどれほどの苦労を重ねた結果に得られるのか、未だ成人すらしていない僕でも、ようやく少しだけわかる気がする。
そしてこれからそんな叔父に対して、僕がどれほど虫のいい相談を持ちかけようとしているのかも――
「エアリス」
「どうした?」
僕は彼女をアスファルトの上にそっと立たせる。
全裸なので当然裸足だ。
石畳よりもキメの粗い地面で彼女の素足が傷つくかもしれない。
だが今の僕は彼女のために靴ひとつ、シャツ一枚買うお金がないのだ。
たった一度だけ。僕は『人間』だった頃の成華タケルに戻る。
そのために必要な勇気を彼女からもらう。
「タケル――!?」
戸惑う声がすぐ耳元で聞こえる。
ギュウっとエアリスを抱き寄せ、その確かな体温を合わせた肌と肌から感じ取る。
「エアスト=リアス。タケル・エンペドクレスが告げる。おまえはこの場に残れ。僕が戻るまで決して姿を現すことなく待ち続けるんだ。いいな?」
「…………それは、命令か?」
「そうだ。必ず戻る。だから信じて待っていて欲しい」
「承知した」
彼女が一歩離れる。
途端二人に共通していた屈折率が変わり、僕の姿のみが薄暗い街灯の元に照らされ、影を落とした。
あちこちが破れ、焼け焦げてボロボロ。
まさに
もしかしたら顔を見せた途端に通報されてしまうかもしれない。
だが、そんなことくらいで物怖じなどしていられない。
僕は大きく息を吸い込み、力強くインターホンを押した。
*
家の中は何も変わっていなかった。
僕は今、ごくごく普通のダイニングテーブルに座っている。
木目が整ったテーブルに、すわり心地がいいとも悪いとも言えない木製の椅子。
すぐ奥にはキッチンがあり、コンロの上ではシュウシュウとケトルが音を立て始めている。
丸い白色蛍光灯が僕と、そして対面に座る気難しい顔を映し出していた。
「お久しぶりです」
僕の第一声に、腕を組んで黙り込んでいた叔父がたじろいだ……ように見えた。
成華モトハル。
確かそんな名前だったはずだ。
銀縁メガネで白髪が混じった黒髪を後ろに撫で付けている。
父の弟で、ごくごく普通のサラリーマンだったはずだ。
ピィィーッとケトルが鳴った。
叔父の隣に座っていた叔母が静かに席を立ち、キッチンでお茶を入れ始める。
ふたりきりになり、気まずい空気が流れた。
「はい、コーヒーでよかったかしら」
「あ、はい」
差し出されたカップからは湯気があふれていた。
真っ黒くて独特の香気が漂ってくる。人間だった頃はコーヒーなんて好きじゃなかったが、今改めて口をつけてみると、酷く懐かしい味がした。
ああ、僕は本当に、地球に帰ってきたんだな……。
「あのね、その格好、寒くないかしら?」
「え、あ、平気です」
成華スミエ、だったか。
叔父よりもさらに印象が薄い。
ただ、いつも叔父の隣でニコニコと笑っていたことしか覚えていない。
そういえば……、いつも僕と叔父の会話の切っ掛けを作ってくれていたのがこのヒトだったような気がする。
「平気なんて、そんなわけないじゃないの。夏なんてとっくに終わって夜はそれなりに肌寒いのよ。ちょっと待ってなさいね」
そう言って叔母は再びリビングを出て行った。
僕はムスッとした叔父といちいちふたりきりにされるたび、針の筵のような居心地の悪さを感じていた。
「五ヶ月ぶりに顔を見せたと思えば……、なんだそのふざけた格好は。おまえがゲームばかりしているのは知っていたが、今度はコスプレまでするようになったのか」
ようやく口を開いた叔父からは、やっぱり小言が飛び出した。
歓迎されていないのはわかっていたが、いきなりそう来るか。
まあ今の僕の格好を見れば、そう言いたくなる気持ちもわかる。
「まあ、成り行きで仕方なくって感じですけど……」
「なんだそれは。コスプレをする成り行きとはなんだ。おまえな、学校から留年の通知書が来ていたぞ。いや、それよりもこの五ヶ月間、一体どこで何をしていた? てっきり私たちも、おまえは行方不明になって、今頃どこぞで死んだと思っていたんだぞ……!」
あの日――あの日とは僕が
「それは、すみませんでした。少し遠くに行っていたんです」
「それは、学校に行くよりも優先してやらなければいけないことだったのか。それよりも無事だったのなら何故ウチに一報を寄越さなかったっ!?」
「それは……」
「はいはい、そんなにいっぺんに聞いたって答えられるわけじゃないないですか」
僕が言いよどんでいると、筒抜けだった会話を聞いていた叔母が戻ってくる。その手には何着かの洋服を持っていた。
「タケルちゃん、このヒトのお古だけどちょっと着てみてちょうだい」
「ありがとうございます」
席を立ち、渡された服を手にリビングの方へと移動する。
視線を感じたので振り返れば、口元に手を当てた叔母が驚いた表情で僕を見ていた。
「あの、なんでしょう?」
「いえね、タケルちゃんが素直にお礼を言うなんて初めてだなあって思って」
「そう、ですか……」
いや、そうだった。
この家で叔母が作ってくれたごはんを食べたことがあった。
でも僕は「いただきます」も「ごちそうさま」も言わず、黙って食べた記憶しかなかった。
「あの、食事」
「え、何かしら?」
「ごちそうさまでした」
「え? え?」
「言ってなかったと思って」
「まあ」
僕はいろいろなことに気づいていなかった。
両親への不満とは別のところで、この叔父夫婦のことまで邪険にする必要はなかった。
むしろ会えない両親以上に、この叔父と叔母に甘えていたのだ。
僕はとてつもなく、我がままで卑屈な糞ガキだった。
それが何故か今はわかるのだった。
ゴドン、と重い音を立てて、剥ぎとった黒曜の鎧をカーペットの上に置く。
黒衣の衣装はボロボロに焼け焦げて穴だらけ。
どのみちもう使い物にはならない。
かと言って他人に処分を頼んでいいものでもない。
「すみません、何かこいつを入れられる袋を――」
振り返ると、目を見開きながら絶句した叔母が、ブルブルと戦慄きながら立ち尽くしていた。叔父は椅子から立ち上がって僕の全身を凝視している。
ああ。これか。
いや、ちょうどいい。
皮肉にも、僕の身体に刻まれたこれが、僕の言葉が嘘ではないと証明してくれるはずだ。
「今から僕、突拍子もないことを言いますけど、全部本当のことです。頭がおかしくなったわけでもないし、信じてくれとも言いません。でも僕はもう、普通の人間じゃなくなってしまったんです……」
両手を拡げ、灯りの下に自分の身体を曝け出す。
全身に刻まれたのは
ヒト種族の悪業がすべて集結した証であり呪いだ。
そして僕は魔法世界で過ごした半年あまりのことをふたりに話し出した。
*
「タケル」
僕が玄関を出るとすぐ目の前の空間から声がした。
ふわりと、柔らかな重みが首に巻き付く。
どうやら抱きしめられているらしい。
触れ合っていても、もう一度かけ直さないと光学迷彩は効果が出ないようだ。
まあ叔父のお下がりの洋服を着ているから見た目は問題はないはずである。
さすがのエアリスでも、まったく知らない異世界でたったひとり、しかも裸で放り出されていては不安にもなるというものだ。僕は「待たせたな」と彼女の頭のあたりをポンポンと優しく叩いた。
「そこにいるのかしら、えっと、エアリス、ちゃん?」
「ええ」
「どうかタケルちゃんをよろしくね」
そう言って叔母は、何もない空間に頭を下げた。
「タケル、このご婦人は貴様の」
「いや、他人だ。関わるのはもうこれっきりだ」
魔族種の言語を使っているので、叔母には通じていないはずだ。
僕がこれからしようとしていることを考えれば、もうこの人達と関わりを持ってはいけない。決して巻き込んではいけないヒトたちなのだ。
「タケルちゃん」
「はい」
「うちのヒトを恨まないでね」
「恨むもなにも、感謝してます」
僕の両手には紙袋が握られている。
エアリス用にと、叔母のお下がりの洋服。
そして僕が両親からの仕送りをプールしていた銀行口座のキャッシュカードが入っている。これはどうやら新たに作りなおしたものらしい。
「ううん、違うの。これまでうちのひとがあなたに関わってこなかったことによ」
「それは、僕がそうなるように――」
「学校に来るように呼びだされたときも、あのひとはずっとあなたのご両親に連絡を取ろうとしていたの。現地にまで飛んでいったこともあったのよ」
「え」
初耳だった。僕の生活態度が問題になって学校に両親ごと呼びだされたときのことだろう。結局両親とは連絡が取れず、叔父夫婦も学校に来てくれず、呼び出しの話自体がたち消えてしまったのだった。
「あなたが頑なに私たちに懐かなかったのも、自分の家とご両親が帰ってくる場所を守っていたからなんでしょう?」
「それは……、もういまさらです」
「そうね……もう今のあなたには関係のないことよね」
僕は、僕の目的を話した。
その上で、生まれて初めて頭を下げた。
今の僕には男として責任を取らなければならない
そして、助けださなければならない
叔父さんも叔母さんも、すべての話を信じてくれたわけではないだろう。
ただ僕は、せめて最後だけは真剣に、嘘をつかないでいたかったから偽りなく話したのだ。
そしてその誠意は、確かに形あるものとして返ってきた。
僕の想いが認められたのだと思いたい。
それはつい泣きたくなってしまうほど嬉しいものなのだった。
「でもね、せめていつか学校にはちゃんと行きなさい。今のあなたには余計なことかもしれないけど、この世界では必要なことよ。必ず役に立つはずだから」
「それは、今はまだ考えられません。でもいずれは、考えるつもりです」
「それでいいの。ゆっくり落ち着いて、考えられるようになってからでいいから。始めるのに遅いなんてことは絶対ないんだから、ね?」
「はい。エアリス――」
風の魔素が僕の全身を包み込む。
姿を消すのは瞬きの間だ。
叔母が驚いた様子でキョロキョロと辺りを見渡している。
僕がそんな叔母に対して深々と頭を下げると、隣りにいたエアリスも同じように頭を下げた。
こうして僕らは生活資金を得ることができた。
翌日には外国人にも優しい保証人会社と契約し、格安のアパートを借りた。
木造二階建て、築三十年で六畳一間。一応バス・トイレ付き。
そこが僕とエアリスの地球での新たな拠点となったのだった。
次編『人外魔境都市編』に続く。
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