第82話 地球帰還報告④ 吸血鬼の眷属ベゴニア〜彷徨えるダメダメ執事

 *


「カーミラ様ぁ……ううう」


 車内に情けない声が響いた。

 開かずの間と称される踏切に捕まり、ベゴニアはもう十分以上車で立ち往生していた。


 主であるカーミラから暇をやると言われ、出ていかざるを得なくなってしまったベゴニアは、とりあえず自分の車に乗って飛び出した。


 ――飛び出して……、普段なら絶対に通らないような無茶苦茶なルートを走り、そしてこのような踏切に捕まってしまったのだった。


 黒塗りのSクラスはとても目立った。

 下町の風情に似合わない高級な存在感を、図らずも間近く見る機会を得た人々が、遠慮もなしにジロジロと眺めていく。そんなことにも気づかないほど、ベゴニアは落ち込んでいた。


 男装の麗人である。

 身長は190センチ以上もあり、特注のフォーマルスーツを苦もなく着こなしている。


 四肢はスラリと長く、よく鍛えられ、鋼のように引き締まっていた。

 それと同時に豊かなバストに、なだらかな曲線を描く腰回りなど、女性らしい魅力も併せ持っている。


 何より特徴的なのがその髪の毛だ。

 黒髪と白髪のツートンカラー。


 前髪の右側が真っ白で、それ以外は黒髪である。

 これはいつの頃からなのか、少しずつ白髪の面積が大きくなってきている。


 恐らく元人間だった名残が黒髪で、吸血鬼として年齢を重ねるほどに白髪になっていくものと思われる。


 前下りボブにした髪型は主にも似合っていると褒められ、彼女のお気に入りになっていた。


「あう。まただ……いつになったら出られるのだこれは?」


 僅かな間断もなく、すぐさま電車の往来が始まってしまう。

 踏切は一向に開くことなく、先頭に陣取ったベゴニアはステアリングに突っ伏した。――パァンっ!


「とと…………はあ。わからない、わからないよう……一生懸命カーミラ様にお仕えする以外に、私は一体今更どうすればいいというのだろう……?」


 普段の毅然とした態度や口調はどこへやら。

 完全プライベートの甘えた声が漏れる。


 ふと、顔を上げる。

 フロントガラスに写る情けない顔。

 それは80数年前、まだ彼女が人間だった頃によくしていた表情だった。


 人間だった頃の名前は忘れてしまった。

 だが母は日本人で、父はロシア人だった。

 生まれた場所も北の大地だった。

 ガラス工芸の職人をしていた父だったが、日本が戦場になると知るとしり、母と幼い自分を捨ててロシアに帰ってしまった。


 父が消えたと同時に戦争が始まった。

 それは同時に残された母とふたり、地獄のような生活の始まりでもあった。


 あらゆる物が足りない時代だった。

 食べ物も着るものも、そして暖を取るための石炭や薪さえなかった。


 ハーフでカラダの大きいベゴニアはいつも腹をすかせていた。

 大きなカラダは骨と皮だけになり、枯れ木のような姿は気味悪がられた。

 それだけならまだしも、彫りの深い顔を敵国人と揶揄されて虐められもした。

 疎開先を転々とするたびに違う誰かに蔑まれ、どこに行っても厄介者扱いされた。


 ある日、朝起きると母がいなくなっていた。

 置き手紙も何もない。

 小さな母のかばんだけがなくなり、ベゴニアは一人になった。


 ベゴニアは母を探しながら必死に生きた。

 目標が『母と生きる』ことから、『母を探す』ことになり、一人になったことで彼女の生存本能に火がついた。枯れ枝のような手足で男顔負けの力仕事を請負い、何とか食べていけるようになった。


 だが、うっすら肉をまとった彼女のカラダは大きくともやっぱり女性のもの。

 いつの間にか成人を迎えていたベゴニアは背の大きさに目をつぶれば大層魅力的で、行く先々で下卑た視線を集めるようになった。食べられるようになったのは嬉しいが、面倒なことになった、とベゴニアは感じていた。


 仕事を請け負うたびにもっと稼ぎのいい仕事があると言われ、誰かの情婦になることを勧められた。それを断るとメンツを潰されたとしてやくざ者が絡んでくるようになった。ひどい時は一週間と同じ街にいられず、彼女は母を探しながら日本を南下していった。


 ある時、辿り着いた一番大きな街で、空から雨あられと爆弾が降ってきた。

 そこから先のことは、よく覚えていない。

 気がついたら彼女は人間ではなくなっており、目の前には美しい女性がいた。


 カーミラと名乗った女性は焼け野原になった街を眺めながら笑っていた。

 この光景を見てどう思うか、と彼女が言うので、ベゴニアは「もう終わりです」と呟いた。


 するとカーミラは言った。これは始まりなのだと。

 何度も壊して組み立てて、また壊して、そうして人は大きく成長していくのだと言った。


 そのとおりかもしれない、とベゴニアは思った。


 *


 気がつけば、踏切の警報が止んでいた。

 ようやくここから抜け出すことができそうだった。


 とはいえ、自分はどこに行ったらいいのか。

 人間でなくなって以来、ずっと主に仕え、主のために鍛え、主のために勉強し、主の手足となって働いてきた。


 そんな主が何を考えているのかがわからなかい。

 一体何をどうすれば彼女は満足してくれるのだろう。

 いや、正確にはカーミラの望むことがわかるようになるまで帰るな、と言われたのだ。


 こう言ってはなんだが、未だにカーミラのことを図りかねる時がある。

 なにせ自分の七倍以上も生きている本物の吸血鬼だ。


 吸血鬼といえば、陽の光に弱く、にんにくや十字架が苦手で、鏡に映らず、水を嫌うという。


 だがカーミラは炎天下のプライベートビーチで日光浴はするわ、カトリック系の慈善団体に多額の寄付もしたりする。ラーメンに焦がしにんにくを入れたのが大好物だし、毎朝鏡の前でメイクのノリを確認したり、毎日三回は風呂に入ったりして、ベゴニアの持っている吸血鬼像をことごとく破壊してくれていた。


 そんな彼女が何十年も前から暖めていた計画――この御堂財閥に変調した日本社会、引いては日本経済の概念を破壊すること。


 カーミラにとって御堂とは目の上のたんこぶ。

 それがある限り決して上には行けない高い壁だった。


 日本国内で大きな財を築き、今やグローバルな企業となったカーネーションではるものの、日本を本拠地にしている限り、どうしても御堂が邪魔になってしまう。


 おまけに商売だけの話ではなく、外来の吸血鬼であるカーミラと、日本中の妖怪魑魅魍魎の頭領である御堂とでは、どうあっても水と油の間柄だった。


 カーミラは商売の世界でどうにか御堂の既得権益を打ち破ろうと画策し、その度に御堂によってその計画を阻止されるを繰り返していた。


 犬猿の関係であるカーミラと御堂は、まさに一触即発。

 いつ導火線に火がついて、爆発するかもわからない危険な状態にあるのだ。


 そんな時に限って、長く主の元を離れなければならないなんて。

 もし自分がこうしてウダウダやっている間に、カーミラの元に御堂からの刺客が送り込まれでもしたら――


「くそ、焦るな、おちつけっ! とにかく、一刻も早くカーミラ様の求めるところ理解し、そして戻らなければ――」


 遮断機が完全に上がり、ベゴニアはサイドブレーキを上げた。

 クラッチを繋ぎ、静かにアクセルを踏み込んだ時、彼女はとっさにブレーキを踏んだ。


 つんのめるように車体が浮き、着地の瞬間、バウンッとアブソーバーが衝撃を吸収する。


 いきなり急停車したベゴニアに、後方車からけたたましいクラクションが鳴らされる。


 だが、そんなことなど一切構わず、彼女の目は踏切の向こうの人混みへと釘付けになっていた。


 少年がいた。

 大混雑する歩道の通行人の中に、一人、看過できない少年を見つけたのだ。


 身なりはまだ中学生――よくて高校生になったばかりの年ごろだろう。

 背は高くもなく低くもない。

 下はジーンズで上はジャージという、ややこの季節には肌寒い格好をしている。

 髪はボサボサの伸ばし放題で、前髪で目元がほとんど隠れてしまっていた。


 そんな、どこにでもいる普通の少年は、全身に纏うオーラ・・・だけが異常だった。


(な、なんだ、あの禍々しいは――!?)


 カーミラが放つ血のオーラとも違う、御堂百理が使う霊力とも異なる。

 ただ異常。生物として破綻してる。いうなれば無尽蔵のエネルギーを振りまくリアクターが服を着て歩いているようなものだ。


(馬鹿な――、この力、カーミラ様と同等――もしくはそれ以上!?)


 少年が歩いてくる。

 周りの人間たちは、自分たちの隣にバケモノがいるなどとは夢にも思わないのだろう。


 見た目だけなら、少年はあまりにも凡庸だ。

 彼は人の流れに合わせて線路をまたぎ、挙動が怪しいベゴニアの車の脇を通り過ぎていく。


「――っっ!?」


 その時、確かに目があった。

 スモークガラス越しに正確にベゴニアと視線を合わせ、慌てるように逸らしたのだ。


 ベゴニアはアクセルを踏み込み、急ぎその場から離れた。

 生きた心地がしなかった。

 だが、放っておくこともできなかった。


 彼女は程よい距離を走行すると車を乗り捨てた。

 少年とすれ違った踏切から一キロほど。

 姿形は完全に記憶している。

 高鳴る心臓を抑え、ベゴニアは追跡を開始した。

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