第80話 地球帰還報告② カーミラ・カーネーション・フォマルハウト〜憂鬱なる吸血鬼

 * * *



 ――彼女は退屈を持て余していた。


『本日午前8時、日本経済団体連合会は、現会長である塩原化学支倉会長の後任として、西レの墨田大次郎会長を起用すると発表し――』


「本当につまらない。あなた、この責任どう取るおつもりかしら?」


 都内某所、とあるタワーマンションの最上階。

 広大なワンフロアをまるごと貸し切ったそこは、ある一個人の邸宅だった。


 リビングルームには、ソファに優雅に身体を沈める女性と、その後ろに控える黒服の執事がひとり。


 その背後には高層階ならではの眺望が広がっており、都内の隅々が見渡せる。やや遅めのモーニングコーヒーを片手に、叱責の主は背後の執事を振り返る。


「も、申し訳ありません……まさかこのような結果になるとは。想定よりも多くの造反者が出てしまったようです」


 顔面を蒼白にし、項垂れた様子で謝罪する執事――いや、男性ではない。彼女・・は男装の麗人だった。


 ショートボブにした黒髪は前髪の半分が白く色が抜けており、顔立ちはとても美しく品がある。では何故男性と思ったのか。それは彼女が女性の平均を遥かに越える上背をしているためだ。


 身長は控えめに見ても190センチ近くあり、漆黒のスーツの下は筋肉によるものなのかはち切れんばかりに膨らんでいる。


 まるで抜き身の剣――いや鉈か斧のような逞しい女性だが、先述した通り彼女は今顔を青くし、肩を落として項垂れてしまっている。


 それもそのはずで、主の命によりここ十数年に渡り行ってきた内外工作や政治的駆け引きが全て水泡に帰したからだ。


「私があなたにした命令とはなんだったかしらベゴニア?」


「は、はい、財界総理をカーネーションのものにせよと」


 経団連会長が財界総理と呼ばれて久しいが、一時はその地位が低迷し、官界への影響力が低下した時期もあった。だが好景気・・・に湧く現在の日本に於いて改めてその権威が改めて見直されているのだ。だが――


「それがこの結果? この墨田という小僧・・は明らかに御堂・・の手のものではなくて。ついにあの女、旧財閥系企業から会長は出さないという戦後の慣例を破りに来ましたわね」


 ビシ、っと彼女の持つコーヒーカップにヒビが入る。

 その怒りはルールを破られたことに対する怒りではなく、先にルールを破られるくらいなら自分が破ればよかったという後悔からきていた。


 彼女もまた戦後日本に根づいてより、慣例やルールというものをことごとく打ち破って今の地位に上り詰めた背景がある。そのため相手に先を越されることにどうにも我慢ができないのだった。


「こ、今回の根回しは周到に行いましたので、御堂も相当な危機感を持ったのでしょう。カーミラ様の影響力がこれ以上高まることを恐れた故になりふり構わなくなったのかも……」


「そこまで冷静に分析できるのなら、何故前もって手を打たなかったのですか。それともなに、あなたは私が言わなければそんなことにも考えが及ばないほどおバカさんなのかしら?」


 女性――カーミラは己の執事を振り仰いだ。

 執事ベゴニアはその赤い瞳に射すくめられ「ぐっ」と喉をつまらせる。


 カーミラは美しい。

 美しすぎて怖気を誘うほどの美貌だった。


 切れ長の目に長いまつげ。

 まるでルビーのような光沢を持った真紅の瞳。

 髪は薄い桃色のゴールドブロンドをいくつもカールさせ、派手さとゴージャスさが醸し出している。


 見た目は若く、大学生くらいの年齢にしか見えないが、その実彼女はまっとうな人間ではない。


 現存する中で最も古く強力な吸血鬼・・・

 それがカーミラ・カーネーション・フォマルハウトの正体だ。


 700年という時を生き、長くヨーロッパやアフリカ、ユーラシアを転々とした後、戦前の日本へ渡り、貧しいながらも清く正しく生きる人々に感銘を受けた彼女は日本で商売を始め、自らのブランドを立ち上げて現在へと至る。


 カーネーション。それは女性の憧れ。

 カーネーション。それは女性の誉れ。

 カーネーション。それは女性の象徴。


 世界中のセレブたちが愛して止まないコスメブランドがカーネーションであり、ハリウッド女優から一国のファーストレディに至るまでがファンを公言して止まない。


 だがそのカーネーションの会長が戦後数70年以上が経っても同一人物のままであり、なおかつ人間ではないということを知る者は少ない――


「……あなたはいつもそう、肝心要のところで詰めが甘い。ヒトだったころの癖が未だに抜けていないようですわね」


 カーミラは懊悩を隠そうともせず、眉間に深いシワを刻んだまま、自分の執事を振り仰ぐ。ベゴニアは真上を向かなければ顔が見えないほど背が高いため、ハッと気づいた彼女は主のために90度腰を折って頭を下げた。大きな体が見る影もない。小さく縮こまった卑屈な姿だった。


「とんでもありません、私はカーミラ様の唯一の眷属。それに相応しい振る舞いを常に心がけています――」


「嘘。あなたは基本的に人間の善性を信じてしまっているのですわ。それは元人間として当然のことであり、美徳ではありますが、こと商売の世界ではヒトの悪性こそを信じなくてはなりません」


 権謀術数。他を蹴落とし自らがのし上がっていく社内闘争。他の商品を出し抜いて如何に自社製品を世に広めるかという販売競争。そこは綺麗事だけではなくヒトの裏をかき、あるときは騙し、既成概念を裏切らなければならない世界。


 カーミラは「そんな基本的なことも理解していないとは看過できませんね」と重くため息を吐き出した。


「お、お言葉ですが、私もカーミラ様には到底及びませんが、100年を生きている身。決して人間を侮っているわけでは――」


「結果が出ていないのでは同じことです。あなたは最後の最後で甘さが出た。部下のミスまで想定出来なかった私も甘かった。決して競争力や政治力であの『御堂』に負けたわけではありません……!」


 結局カーミラが言いたいことはその一言に尽きた。

 今回は自分たちの判断ミスが招いた敗北であり、決して『御堂』に負けたわけではないのだと。


 多大な労力とコスト、そして時間を浪費したにも関わらず、それを失ったのが『御堂』のせいだとはどうしても認めたくないのだった。


「時にベゴニア。あなた100年以上とおっしゃいましたが、正確には今年でいくつになったのかしら?」


 気炎を吐いていた主が突然話題を変えたので、ベゴニアは面食らった。

 だが執事として主の質問には迅速に答えなくてはならない。

「おかげさまで100と1歳になりました」と頭を垂れる。


「まあまあ、そうですか。ということは私に仕えるようになってからは70年以上が経っているのですわね。戦中の焼け野原で拾った女の子がずいぶんと大きくなったものですわ。でも、そうね、そろそろおしめが取れてもいい頃ではなくて……?」


「も、申し訳ありません……!」


 ベゴニアはこうべを垂れたまま面を上げることができなかった。

 忸怩たる思いが溢れて、とても情けない面構えになっているし、下げた頭の天辺にはヒシヒシと主から鋭い視線が刺さっているのを感じるからだ。


「顔をお上げなさいな」


 窓からの陽光にのみ照らされた室内で、カーミラはゆったりとソファに身を沈めている。だが、その全身からはかすかに赤い光輝のようなものが放たれていた。


 カーミラは美しい指先で己のゴールドブロンドを弄びながら、ベゴニアに厳しい言葉を投げかけた。


「ベゴニア、あなたは私の計画のひとつ台無しにしました。そのことはわかっていますね?」


「は、はい。申し訳――」


「現在の御堂に偏重しすぎた日本経済を見直すため、一つの町工場に投資し、今や世界トップシェアを誇る大企業にまで成長させました。それに費やしてきた数十年の歳月――あなたも間近でご覧になっていたはずですわね?」


「も、もちろんです……」


 頷けば頷くほど、取り返しのなさが理解できて、ベゴニアは言葉を失っていく。そもそもカーミラの全身から漏れる赤光しゃっこうとは吸血鬼である彼女が持つ特別な能力が発現する予備現象である。


 まさか殺されはすまいと思うが、穏やかな口調とは裏腹に、カーミラが内心穏やかでないことが知れてベゴニアは小刻みに震えていた。


「か、影に日向にカーミラ様のお側に仕えていれば、たった一人で『御堂』の既得権を打ち破ろうと奮闘する姿はとても頼もしく見えます。た、大変な苦労と覚悟があるのだと……」


「そこまで察してくれているのであれば、私の悦楽――もとい計画が潰え、再びあの『御堂』の天下を許す事態になってしまった私のこの憤りも理解出来ますわね?」


「は、はい、いえ、それは――」


 先程は『御堂』に負けたわけではない、そう言っていたのに、やっぱり腹に据えかねるものがあるのか――


「ベゴニア」


「――ッ!?」


 ビクリと、身体が硬直する。

 カーミラの視線に射抜かれベゴニアは動けない。

 それ以上、謝罪をすることも、居住まいを正すこともできず、腰を折った姿勢のまま、無為に時間が経過していく。額にじっとりとした汗が滲み始める。


「思えば――、私は少々あなたに甘え過ぎだったかもしれませんわね」


「は? あの、それは……」


「暇を与えます」


 きっぱりと告げられた言葉に、ベゴニアは真っ青になった。

 主から暇を与えられるとは即ちクビを意味するからだ。


 ベゴニアはバネじかけのように顔をあげると、涙を流しながらみっともなくカーミラへと縋った。


「カ、カーミラ様、どうか、それだけは、それだけはお許しを――!」


「まあまあ、そんなに慌ててどうしたのかしら。私は常日頃からのあなたの労をねぎらい、お休みを与えると言っただけですわよ?」


「ひ、必要ありません。休息など私の肉体は欲していません。カーミラ様のお側にお仕えすることこそが私にとっては至上の喜びで――」


「やれやれ、これは参りましたわね。あなた、おしめはおろか乳離れもまだだったとは……」


 カーミラの笑みが凍っていた。

 あからさまな嫌悪と侮蔑の視線が突き刺さり、ベゴニアは悲鳴すら飲み込んで、その場に尻餅をついた。


「ベゴニア、私の最初にして最後の眷属。私のかわいい子供。あなたのその実直なところは大変好ましいですが、あまりに真っ直ぐすぎて今にもポッキリと折れてしまいそう。計画の失敗のことは不問にいたします。ですが、私があなたに何を望んでいるのか、今後どのような役割をさせたいのか、それを真に理解するまでは帰ってくることを許しません」


「そ、そんな……!」


「お返事は?」


「か、畏まりました」


 床の上で大きな身体を縮こませ、ようやく頭を下げることに成功したベゴニアは、それ以上どうしていいのかわからず、床に額をくっつけたままだ。「はあ」とあからさまなため息が聞こえ、ビクっと肩を震わせた。


「出口はあちらでしてよ。いつまでそうしているつもりかしら。これ以上私を失望させないでちょうだいな」


「――ッ、し、失礼致しました……!」


 ドタドタと、床の上を転がりながら、ベゴニアは玄関を飛び出し、急ぎエレベーターフロアへと向かう。その背中を見送ったカーミラは、ソファに身体を預けたまま高い天井を見上げた。


「やってくれましたわね御堂百理め……。日ノ本の正当統治者だかなんだか知りませんが、いい加減かび臭い一族には消えて欲しいものですわ……!」


 彼女は吸血鬼の神祖。

 齢700年を生きる本物の人外。

 未来永劫朽ちることのない肉体と美貌を持ちながら、未だに褪せることのない野望を抱き続ける。


 北欧で発生したカーミラは、イタリア、アフリカ、インドネシア、上海、香港と渡り歩き、戦後の焼け野原となっていた日本に降り立ち、以来ずっとここにいる。


 カーネーショングループを立ち上げ、今や世界を相手に好調な業績を上げている。

 順風満帆で、誰もが羨む豪華な暮らしが、これから未来永劫続くだろう。

 だが、彼女はとある度し難い病にその身を侵されていた。それは――


「はあ、退屈ですわ……。ホント、いっそ御堂百理と全面戦争でもしようかしら……」


 人外の長命種であるがゆえの『倦怠』に彼女は侵されていた。

 戦後の日本に拠点を構えたのも、そのほうが面白そうだから、という理由である。

 経団連会長に自分の傀儡を据えようとした一番の大きな目的は『退屈しのぎ』のためだった。


 そんな彼女は70数年ほど前、自らに課した禁を破り、ひとりの女の命を救い、そのものを吸血鬼の眷属とした。


 それが先ほどの従者ベゴニアである。

 後にも先にも眷属は彼女のみ。


 カーミラの理想として、ベゴニアにはもっと成長してもらいたい。

 そうして自分好みにおもしろおかしく滑稽に踊ってもらおうと思っている。


 でなければ、今のままではあまりにも普通すぎてつまらないのだ。

 あの真面目な部分はいいとして、もっと遊びというか、いい意味での余裕を心の中に持ってほしいと常々思っている。


 いい加減、それをベゴニア自身に理解してもらう意味でも、カーミラは敢えて彼女に冷たく当たったのだった。


「あら、そういえば私の朝ごはん……。シャワーの着替えと、それから今日の予定の確認は……?」


 思考の海から帰還したカーミラは現実を思い知る。

 従者がいなくなった途端このありさま。

 自分一人では替えの下着の場所もわからない。

 でもまあ、とカーミラは思う。


「これはこれで退屈しのぎになりそうですわ」


 ほんのちょっと。

 爪の先に灯った裸火のようなささやかさだけれど。

 こんな不自由さも、彼女は楽しいと感じてしまうほど退屈を持て余しているのだった。


 続く。

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