第78話 学校へ行こうよ⑥ 放課後の甘い罠〜赤い魔女は快楽主義者

 *


 終礼のチャイムと共に一日が終わりを告げる。

 それはタケルに取って福音の鐘と一緒だった。


 僕はやった……やり遂げた。

 真面目に学校で一日を過ごしたのだ。


 元ニートがよく頑張ったと自分で自分を褒めてやりたい気分だ。

 最初から最後までちゃんと授業を受けるなど小学生のとき以来である。


 タケルがひとり達成感に包まれていると、何人かの生徒が後ろのロッカーから箒とちりとりを取り出して掃除をはじめていた。それ以外ものは部活に行ったり、塾に行ったり、遊びに行ったりするのだろう。


 無論タケルはそのどれでもない。

 放課後になったら即座に帰ろうと決めていた。


 早く帰ってお風呂入ってエアリスのご飯をお腹いっぱい食べて布団に入りたい。

 あとアウラをナデナデして抱っこして、風呂上がりに髪を乾かしてあげて、枕元に真希奈が映ったスマホを置きながら、ダラダラ会話していつの間にか眠りにつきたい。


 それ以外にするべきことは何一つとしてない。

 むしろそれ以外をしてはいけないとさえ思っている。


 さあ帰ろう。今すぐ帰ろう。

 エアリスにはあとで「先に帰る」とメールしておこう――

 

「あの成華くん、ちょっといいかな」


 出口に向かおうとするタケルの歩みは遮られた。

 目の前にもじもじとした様子の女子生徒が上目にタケルを見上げている。

 なんだ、一体何の用なんだ? まさか僕を笑いに来たのだろうか?(←被害妄想)


「あ、あのね、今日これからみんなと遊びに行かないか、みたいな話になってるんだけど、よければ成華くんも一緒に行かない?」


「え、僕も……?」


「うん、駅前のマックに寄って、それからカラオケとかどうかなーって」


 なんだそれは?

 タケルの人生の選択肢には、カラオケなるものなど登場した試しがなかった。

 これはもしや何かの罠だろうか……?


(真希奈、カラオケから連想される隠語、暗号を列挙、解析してくれ。大至急だ――!)


(ううう、お労しやタケル様……。真希奈はいつでもあなた様だけの味方ですよ……)


 真希奈は涙声でしゃくりあげるのみで答えをくれない。

 なんてことだ、放課後の学校にはこんなにも危険なトラップが待ち受けているものなのか。ここで判断を誤ってしまえば、自分は明日からみんなに虐められてしまうかもしれない。それだけは避けなければ――


 懊悩するタケルに女子生徒は尚も懸命に話しを続ける。


「えっと、成華くんってカラオケしたことある? あ、そもそもカラオケってわかるかな? みんなと一緒にね――あ、みんなって言うのはあっちにいるヒトたちのことなんだけど……」


 そういって彼女が振り向くと、十名近い男子たちがヒラヒラと手を振っていた。女子はタケルの前にいる子を含めて三人しかいなかった。


(おいおい、ラグビーでもできそうな大人数で一体何をしに行こうっていうんだ?

 カラオケってこんな大所帯でなきゃできないもんだっけ……?)


「カラオケっていうのはね、個室で歌ったり、大声で盛り上がったりするんだ。すごく楽しいんだよ。…………それでね、あの、成華くんが行くなら……ほら、あの二年の先輩も来るよね?」


「先輩? エアリスのこと?」


「そう、エアリス先輩!」


 不安そうにタケルを見ていた女子生徒が破顔する。

 ニコニコと媚びるような目つきで猫なで声を出した。


「あのね、だからね、エアリス先輩も一緒に誘って欲しいの。ね、お願い!」


 急激に。タケルの心の波濤がフラットになった。

 なるほど、相手の目的や意図がわかればおそるるに足りず。

 つまりこの子はタケルと遊びたいのではなくエアリスと遊びたいのだ。

 タケルを足がかりに、将であるエアリスを射んとしているわけだ。

 そうかそうか、そういうわけか。

 ああ…………安心した。


(タケル様、もし真希奈に身体があったら、今すぐにでも優しく抱きしめて差し上げますのに……!)


 何故真希奈がこんなに取り乱しているのかタケルにはわからなかった。

 なので心の中で語りかける。僕は平気だ、悲しくなんてない、ずっと昔からこんなもんだよ。


 小中学生のときも似たようなことはあった。

 その時の相手は幼馴染の心深で、今はエアリスになっただけだ。

 その時と何も変わらない……。と――


「なにやら私の名前が聞こえたようだが、そなた達、私に何か用向きか?」


 エアリス様のご登場だった。

 教室に残っていた女子は「きゃあああああッ!」っと黄色い悲鳴を上げる。彼女の所属グループである男子たちなどは舐め回すようにエアリスの全身を見つめていた。


「どうしたタケル、この小娘となにかあったのか?」


 小娘て。だが女子生徒の方は気にしていないようだった。

 むしろ目の前に現れたワールドワイドでゴージャスな褐色美人を、まるでメジャーリーガーに憧れる野球少年のようなキラキラした瞳で見上げていた。


「あああ、あのあの、えっとえっと、その……!」


 エアリスはの美しさを間近にし、女子生徒は涙目になってあたふたしていた。彼女の仲間たちは「行け行け!」と身振り手振りで焚きつけるだけで、決して助けようとはしない。やれやれ……。


「実は今、みんなと一緒に遊びに行かないかって誘われてたんだよ。どうする?」


「そうだったのか。そういえば、私も先ほど同級生たちから誘われたな。すべて断ってきたが」


 ガーン、と女子生徒がショックを受けた顔をする。

 そして縋るような目でタケルの方を見てくる。


「貴様はどうするつもりなのだ。私は貴様の決定に従うぞ」


 エアリスから決定権を譲られてしまった。

 あくまで彼女の主人はタケルだからだ。


 女子生徒は祈るように手を組みタケルを見つめる。

 他の連中も固唾をのんで様子を見守っていた。


「……いいんじゃないか。日本の高校生が放課後にどんな遊びをしているのか、ちょっと体験してみよう」


「そうか。貴様がそういうのなら私に異論はない」


 わッ――! と歓声が上がった。

 気がつけば教室にいる殆どの生徒がタケルに注目していた。

 違う、教室だけじゃない――廊下にもたくさんの生徒が集まっていた。


「ありがとう、ありがとう成華くん!」


 女子生徒が泣きながらお礼を言ってくるがちっとも嬉しくない。

 何故ならタケルは添え物で、みんながお近づきになりたいのはあくまでエアリスだけだからだ。


(まあ、それでもいいさ……)


 エアリスも同年代の友達くらいいたほうがいい。

 毎日アウラの世話や家事に追われるばかりなので、多少ハメを外すのもいい気分転換になるはずだ。


 タケルが「はあ」とため息を漏らしていると、エアリスのもとにわらわらと生徒たちが寄っていく。彼女の前にはあっという間に長蛇の列が出来、主に男子がせっせと自己紹介をしている。当の本人は「ああ」とか「うむ」などと生返事ばかりで、まともに名前を覚えるつもりは無いようだったが。


(――真希奈、僕が小学生のときにやっていたアニメ番組の主題歌を全部リストアップ。その後に、片っ端からイントロだけ流してくれ。僕でもカラオケで歌える曲があるかもしれない……!)


(もういい、もういいのです。これ以上真希奈を悲しい気持ちにさせないでください。本日タケル様が歌う機会は決して訪れません……)


(いや、もしかしたら万が一ということも)


(億が一もないのです。ないのです……ないのです……)


 そんな風にタケルと真希奈が漫才をしている間に、ほぼ一クラス分にも膨れ上がった「エアリスと遊びたい」者たちはが大移動を開始する。


 その大所帯は大名行列並みの通行優先権を持つ。

 何故なら先頭を歩くのは神々しいまでの美少女・エアリスだからだ。


「エアスト=リアス先輩と遊びに行くの!?」「俺も俺も!」「私も行く!」などと、参加を希望する生徒たちを次々と吸収しながら、集団は勢力を急拡大させていく。というかこの人数を収容できるマクドナルドやカラオケ屋があるとは到底思えないのだった。


 エアリスは女子生徒たちに囲まれ、その周囲を何十倍もの男子生徒に囲まれている。タケルはそれを輪の外から眺め、ちょこちょこと最後尾をついていくだけだ。


 ――タケルは失念していた。

 ここまで舞台が整う前に、彼は早々に気づくべきだったのだ。


 ベゴニア、そして百理が順番に学校にやってきて、最後のひとりが未だ現れていない事実。このようなイベントごとを最も喜ぶ最強最悪の快楽主義者――赤い悪魔、紅の魔女手ぐすね引いている可能性を。


 彼女は色ごとと快楽とイタズラと馬鹿騒ぎと悪ふざけが大好きで、退屈を死ぬほど嫌っている。


 意図したわけではないが、タケルは無意識に彼女が腹を抱えて笑い転げるくらい最高の舞台装置を作り上げてしまっていた。


 そのことをもうすぐ、海よりも深く後悔することとなる――


 *


 グラウンドの方から、遠巻きに羨むような顔が並んでいた。

 部活中の野球部やサッカー部が練習を中断してこちらを見つめているのだ。

 顧問の先生の「お前ら真面目にやれよぉ!」という怒鳴り声が虚しく響く……。


 エアリスを先頭にいただく大集団はちょっとした通報事案になりそうな規模にまで膨れ上がっていた。


 誰もが皆、これからエアリスと過ごす楽しい時間を思い、笑っていた。エアリスは何度も背後を振り返り、タケルのことを気かけていたが、周りの女子達から執拗に話しかけられ、タケルのところに行くこともできない。


 これは巧妙な作戦。

 タケルを出汁にしてエアリスを遊びに誘い、あわよくばもっとお近づきになってしまおうという意図が見え隠れしている。


 仕掛けたのは1年E組の中でも、特にエアリスに心酔するもの。

 彼女の容姿に一瞬で恋に落ち、あまつさえ邪な下心を抱く男女数名である。


 どうしてあんな冴えない男がこんなに綺麗なお方と……!

 きっと彼女は騙されてるんだ、俺の魅力で目を覚まさせてやる!

 ……概ねそのような妄執に囚われていた。


 思春期の思い込みは恐ろしい。

 あるいはそれほどまでにエアリスが魅力的すぎるのが原因か。


 ――その時、不意に集団が止まった。

 ザワッと、先頭の方からざわめきが聞こえてくる。


 タケルも一緒に立ち止まりながら、「どうしたんだろう?」と背伸びをして前方を見てみると――


「ほーほっほっほっ! ようやく来ましたのねエアリスちゃんっ! 私待ちくたびれましてよっ!」


 ゾクリっとタケルの背中に悪寒が走った。

 その声音は、糖蜜を静脈注射されるくらい甘く、そして致死性を孕んでいる。

 そして藻掻けば藻掻くほど抜け出せなくなる蜘蛛の糸のように、その場にいる全員を絡め取り、動けなくしてしまった。


「ほらほら、アウラちゃん! 愛しのママが来ましたわよ! さあさ、存分に甘えていらっしゃいな!」


 正門前で待っていたのは一人の女性。

 桃色のゴールブロンドをカールにした生粋の異国美女である。


 歳は若く、ともすれば大学生くらいに見える。

 だが、纏う雰囲気は圧倒的に大人のそれであり、そういう意味ではエアリスよりも女性としての魅力が数段上と言えた。


 彼女の名前はカーミラ。

 カーミラ・カーネーション・フォマルハウト。


 タケルが地球に来てから僅かな間に知り合った仲間であり、百理と同様に日本を拠とするカーネーショングループの影の会長である。


 その正体は齢700年を生きる吸血鬼であり、地球上に現存する中で最も古く、そして強力な神祖と呼ばれる種族だった。


 だが、誰が知ろう。

 彼女はその長過ぎる生を「おもしろおかしく、そしてちょっぴりシビア」に生きることがモットーであり、自分の楽しみのためなら、ヒトの不幸は大好物という性格破綻者だった。


 そんな彼女が、タケルの学校通いを知れば、ちょっかいをかけて来ないはずがないのだ。秘書兼ボディガード兼執事であるベゴニアがやってきたのは、タケルの学校での様子を伺うための伏線にほかならない。


 そして、カーミラの腕の中には今、一人の子どもが抱かれている。

 薄い褐色の肌に浅葱色の髪をツインテールにした実に愛らしい幼子。

 それは、今朝もタケルとエアリスのもとに現れた風の精霊――


「アウラ! アウラではないか! 嬉しいぞ、私のことを迎えに来てくれたのか?」


「ママっ!」


 カーミラの腕を離れたアウラがふわ〜と宙を泳ぎながら、両手を広げるエアリスへと飛びついた。


 ――あれ、今あの子、浮かんだような……?


 生徒たちはしきりにまばたきをし、自分の目を疑った。


 エアリスの胸に抱かれ、アウラはキャキャとはしゃいだ。

 見るもの全ての心を浄化するような、そんな最高の笑顔だった。


 そうしてしばらくすると、生徒たちも次第に正気に返り始める。

 エアリスが言ったこと、アウラという幼子が言ったこと。

 母と子ども。親子。エアリス先輩とあの子が……?


「カーミラ殿、わざわざすまない。もしかしてまたアウラがグズったりワガママを言ったりしたのだろうか?」


 よいしょっとアウラを抱き直しながら、エアリスが質問する。

 カーミラは豊かな胸をそびやかし、口元に手を当てながら、長い犬歯が見えるほどの大口でハキハキと答えた。


「いいえ、とんでもありませんわ。アウラちゃんはとってもいい子にしていました。お父さん・・・・とお母さんが不在でも、泣き言ひとつ言わずにたくさんお絵かきをして遊んでいましたともっ!」


『お父さん』という単語だけことさらに大きな声だった。確信犯だった。


「そうか、えらいぞアウラ。どんな絵を描いたのだ、是非ママにも見せてくれ」


「パパとママ、描いた」


「そうかそうか。上手だなあ」


 エアリスは余人には決して見せることのない慈母の笑みを浮かべていた。

 そんな彼女に目を見張るものもいれば、これまでの会話の流れからとんでもない事実に思い当たり、愕然とし始めるものもいる。


 タケルは赤い悪魔に見つかる前にと、背を向けて逃げの体勢に入った。


「我が子を置いてどこへ行くつもりだ?」


 振り向けば暴力体育教師ベゴニア先生がいた。

 授業中に現れたときのようなジャージ姿ではない、ビシッといつもフォーマルスーツ姿であり、メリメリっと筋肉が隆起してはちきれそうになっている。


「は、はは……殺せ、殺せよ」


「心配せずとも、凡百の中に埋もれて生きようとする矮小な貴様の心根はここで死ぬ」


 ガっと襟首を掴まれる。

 ベゴニアはカーミラの眷属。

 つまり吸血鬼である。

 そしてタケルに体術を教えてくれた師匠でもある。

 逃げられるはずなどなかった……。


「あらぁ、そういえばエアリスちゃん、アウラちゃんの『お父さん』はどうしたのかしら?」


「うむ、すぐ近くにいるはずなのだが、この大所帯では見えないな」


 それを聞いたカーミラは満面の笑みを浮かべた。そしてミュージカル女優のように大きく優雅な身振り手振りを交えて叫んだ。


「まあ大変、今すぐ呼んで差し上げなくては! せっかく愛しい我が子が迎えに来てくれたのだからきっと逢いたいはずですわそうに決まってますわ! でも聞こえるかしら……私淑女にあるまじき大声を出してしまいそう。でもしょうがないですものね、アウラちゃんだって一刻も早く逢いたいはずですもの――」


 ベゴニアがタケルを持ち上げる。

 まるで重さを感じさせない所作で宙吊りにされる。

 タケルは大人しくドナドナされしかなかった。


「アウラちゃんのお父さんのタケルくーん! 成華さんちのタケルくーん! いい加減観念して出てきなさいなー。うちの従者にした仕打ちはこれで手打ちにして差し上げますわよー!」


 ざあああああ、と人垣が割れた。

 まるで十戒のようだった。

 タケルはカクンと項垂れたまま、ベゴニアによって運ばれていく。

 市中引き回しの罪人のように、全員の注目を浴びながら最前列へと引きずり出された。


「パパっ、パパー!」


 タケルの胸に飛び込んできたアウラは火の玉のように熱かった。

 血の気が引いているタケルを差し置いてもかなり体温が高い。

 優しく我が子を抱きしめながら、彼は恐る恐る振り返った。


「解散。解散です」


 タケルに声をかけてきた女子生徒が、まったき無表情で解散を宣言していた。

 異を唱える者は誰もいなかった。


 ――やっぱ海外は進んでいて……。


 ――なんであんなヤツが……。


 ――さすがにこの歳であんな大きな子は……。


 ――いくつの時に仕込んだんだよ……。


 ――ああ、でもエアリス先輩素敵……。


 蜘蛛の子を散らすように集団は消滅した。

 同時にタケルとエアリスが公認夫婦になった瞬間でもあった。


「成華さん・・、お子さんのこともあるのに、いろいろと面倒を言ってすみませんでした。もう二度と、余計な口出しはしませんので。お幸せに……」


 まさかの敬語だった。

 クラスメイトの女子に能面のような顔でそう言われ、タケルはアウラを抱いたまま凍りつくのだった。


 成華・エンペドクレス・タケル。

 留学生で、王様で、子持ち。


「なんだよそれ……」


 平和な生活は早々に崩れ去った。


 *


「なんだ? どうしてみんな帰ってしまったのだ?」


 エアリスは突如解散してしまった生徒たちの背中を見送りながら呟く。

 アウラは項垂れるタケルの頭をペシペシと楽しそうに叩いている。

 カーミラはもう――爆笑だった。呵々大笑だった。


「おーほっほっほ! 今のタケルの顔最高でしてよ! ベゴニア、しっかりと録画はいたしましたねっ!?」


「8K画質でバッチリですカーミラ様」


「あんたらなあ……!」


 頭のネジがトンだ快楽主義者め!

 よくも僕の学校生活を台無しにしてくれたなあ!

 せっかく真っ当になれるようがんばっていたのに――!


 カーミラはひとしきり笑うと、「はー、お腹が痛い」と涙をハンカチで拭いながら言った。


「エアリスちゃんから相談を受けていたのです。分不相応なことをする主を見ていられないと」


「分不相応ってなんだ? 僕はただ平和な生活を――」


「平和ですって? 自分を偽ることで手に入れた平和に意味などありませんわ。あなたはまだ日が浅いからしょうがないのでしょうが、いつまでも人間の時の感覚でいられては困ります。ヒトにはヒトの、人外には人外の矜持がありましてよ」


 先程まで、綺麗な顔を歪めて笑っていた女がキリッと真剣な表情でまともなことを口にする。その落差にタケルは戸惑いながらも反論した。


「いや、でも人間社会の中で身分を隠す必要だってあるだろう。無難に平和に波風立てずに生きていくことだって――」


「正体を隠すことと卑屈になることは違います。愛想笑いを浮かべて、周りに合わせて、自分を押し殺して。そんなことで手に入れた平和など、すぐに破綻します。もう一度自分が何者であるのかを思い出し、それに見合った振る舞いをして生活をなさい。そうじゃないとエアリスちゃんが可哀想ですわ」


 くっ――、この赤い悪魔は。

 ふざけていたかと思えば急にこんな正論を吐いてくる。

 エアリスの方を見ると悲しそうな、そして寂しそうな表情で目を逸らす。

 彼女からすれば、自分の主が人間相手にヘコヘコして、上手く立ちまわろうと必死になる姿は見たくなかったのだろう。


 確かにタケルも少々卑屈に成りすぎていたかもしれない。

 まともな学校生活を送ったことがないゆえに、つい『普通』に憧れを持ってしまった。


 でももうタケルは『普通』ではない。

 タケル自身も、そんな彼を支える仲間たちも全員、普通の人間ではないのだ。


 そんな仲間たちからすれば、タケルの生活態度は酷く歪に見えた。

 つい荒療治をして、目を覚まさせてやろうと思ってしまうほどに。


「それよりもタケル、ちょっとこちらをごらんなさいな」


 再び綺麗すぎる顔に邪悪な笑みを浮かべたカーミラが手招きする。

 こんなのが世界的企業の創始者なのだと思うと消費者は浮かばれないな、と思ってしまう。


「何だよ、スマホがどうした?」


「先ほどのあなたの顔も傑作でしたが、こちらが本日のベストショットになりますわ」


「――ッ、カーミラ様、それはっ!?」


 ベゴニアが血相変えて手を伸ばすが遅かった。

 スマホの小さな画面には、なんとも情けないハの字眉の従者ベゴニアが写っていた。


 しょげ返っていて、涙目で、鼻の頭を真っ赤にして。

 正直仲間内で一番年長者に見えるベゴニアのその有様はかなりショッキングだった。


「――こっ、この子ったら、あなたに――ぶふっ、捨てられるって、お母さんって呼んでくれなくなるって、ぐっ、本気でべそかいて――、あーもうダメですわ、思い出しただけでもうっ!」


「あなたという方は、もう消したと、写真は一枚もないと言ったのはウソだったのですか!」


「あたりまえじゃありませんのっ! こんな面白いネタ簡単に手放してなるものですか! これから毎日朝晩眺めて、飽きるまで笑ってやりますわよっ!」


「許さん、例え主といえどももう我慢ならない――!」


「やりますの!?」


「やらいでか!」


「やめてくださいね」


 その声は背後から。

 校門前に止まった黒塗りの高級車のそばに、昼休みの保健室で見た顔があった。


「生徒の往来の邪魔です。もっと端っこに寄りなさい。まったく何をして――あ」


 制服姿ではなく、いつもの白紬姿になった百理は、タケルを見るなり顔を赤くした。


 めざといカーミラが新たなネタの匂いに敏感に反応する。

 それを止めるためにベゴニアが拳を振り上げた。

 そうしてエアリスとアウラは暴力的かつ間違った日本文化を学んでいく――


 彼女たちこそ、タケルが地球で初めて得た本物の仲間たち。

 彼の正体と目的を知りながら、それでも協力を申し出てくれた得難い存在。


 特にカーミラ、ベゴニア、百理などは、生粋の人外たちであり、同時に日本のみならず世界を相手にする企業人でもあった。


(タケル様、和やかな雰囲気ではありますが、ひょっとして真希奈のことを忘れていませんか?)


(まさか、僕とおまえは一心同体だろう?)


(そ、そうです。その通りです。ああ、真希奈は果報者です。そのようなお言葉をいただけるなんて!)


 真希奈をなだめながらタケルは、カーミラ、百理、ベゴニアと出会ったばかりの頃を思い出していた。


 それは地球に帰ってきて間もなくのこと。

 世間の影で、人知れず苛烈な戦いを繰り広げていた百理とカーミラ。


 タケルは強大な力を持つがゆえに二人の争いに巻き込まれてしまった。

 それはわずか二ヶ月前、タケルがエアリスと共に地球帰還を果たした直後のことだった――


『地球帰還報告編』に続く。

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