第76話 学校へいこうよ④ 乱入体育教師〜謎の美女はやや脳筋

 *


「あかん、僕ぁ恋してもうた……」


 体育館は寒かった。ただの凍える冷たい板張りの箱と化したそこで、誰かが倉庫から持ち出した大型ストーブの前に、男子生徒たちはおしくらまんじゅうになっていた。


 火に当たる輪から少し外れたところに立つ男子生徒が三人。

 いずれもタケルのクラスメイトであり、名前を甘粕士郎あまかすしろう針生清次はりゅうきよつぐ星崎一平ほしざきいっぺいと言った。ちなみに先の恋をした云々のセリフは星崎によるものだ。


「恋っておまえ、あの褐色の留学生にか?」


 ギョッとして聞き返したのは針生だ。

 彼は寒さなどへっちゃらなのか、一人だけ半袖に短パン姿である。


「もちろん。エアスト=リアス先輩、ものごっつ美人だったやん。僕ぁこんな気持になったんは生まれて初めてや」


 いつもならまず真っ先に暖を求めてストーブに行くだろう星崎は、もう既にそんな必要がないくらいポーッと顔と全身が赤く火照っているようだった。


「馬鹿、やめとけやめとけ。ありゃああの成華なんちゃらクレスって留学生にホの字だよ。どうみてもあの冴えない男の女だろうが」


 針生は乱暴な口調でさっさと星崎の芽生えたばかりの恋心を摘み取ろうとする。先程は「僕ぁ生まれて初めてや」などとは言っていたが、もう何度目だという話だった。


 星崎は恋多き男であり、振られても振られてもすぐ次の新しい恋を始める男だ。いちいち付き合ってられないのである。


「ちゃうちゃう、そんなんやない。今回僕ぁ本気も本気よ。例えエアスト=リアス先輩の気持ちが、一部の隙もなくあの留学生に向いていたとしても、僕の恋心は止まらなんよ。絶対告白して想いを伝えるんよ」


 いつになく真剣かつ真摯な顔つきで宣言する星崎に、針生は「面倒くせえ。勝手にしろ」と早々に匙を投げた。骨を拾う気も無いようである。


「甘粕はどうだ? ああいうバインバインの女は」


「興味がないな」


 先程から腕を組み、壁によりかかりながら沈黙を貫いていた男――甘粕が口を開く。その印象はよく言えばクール。悪く入ればムスッとしていて終始不機嫌そうだった。


「なんでや、エアスト=リアス先輩最高やろ! あんな海外モデル顔負けのおっぱいの持ち主、男やったら誰でも好きやろうが!」


「だから、それが興味が無いと言っている」


 針生と星崎はザッと甘粕から距離を取り、口元を隠しながらヒソヒソと囁きあう。


「やっぱあいつってばアレなのか?」


「信じたくはないけど、健全な男子高校生の発言とは思えんよ」


「帰り道、幼稚園の前をウロウロしてるあいつを見かけたけど、やっぱそういうことかな……?」


「僕も、甘粕っちが、保母さんに連れられとる園児たちを慈しむような目で見とったん見かけたことあるぅ……!」


 ――うわぁ……。


 これ以上踏み込んではいけない。

 パンドラの箱を敢えて開けるような愚は犯すまい。

 今後決して甘粕に対して好みの女性の話題は振らないと誓う針生と星崎だった。


「遅れてすみません――って、あれ?」


 チャイムから遅れること五分あまり。

 体育館の重たい鉄製扉を開けて入ってきたのは例の留学生だ。

 襟元まできっちりとファスナーを閉じたジャージ姿で、卸立ててでパリッとノリが効いてる感じがした。


「ちッ」


 舌打ちをしたのは星崎である。

 当然だ。彼は恋のライバルなのだから。


「え?」


 キョトンとした顔でこちらを見てくる留学生。

 星崎はケンカはからっきしなくせに、恋の勝負では負けられないと思ったのか、懸命に彼を睨みつけた。……針生の後ろに隠れながら。


「なんや、やるんか(小声)? やる気やったら相手したらぁ(小声)! こちらにおわす針生っちは喧嘩空手の有段者やで(やや大声)!」


「おまえよう、マジだせえよ」


「はは、目ぇそらしよった! あいつ僕の眼力に恐れを成したようやで!」


「はあ……言ってろ」


「…………」


 勝ち誇る星崎と呆れてものも言えない針生。

 相変わらず甘粕は腕を組んで黙り込んだままだ。


 どうやら教師の到着が遅れているようで、手持ち無沙汰になった生徒たちは、いい加減ストーブに当たるのも空きたのか、勝手にバスケを始める者も現れ始めた。


 留学生――タケルは、どちらの輪にも加わることなく、甘粕たちと同様、体育館の隅っこの壁にもたれかかる。


 甘粕たちとは大分距離が空いており、向こうもなかなかコミュニケーション能力に難があるようである。


 現段階で、三人と一人が交わることはまだないのだった。


 *


 タケルが所属するE組の男子生徒たちは、広い体育館で待ちぼうけを食らっていた。授業を受け持つ体育教師がいつまで経ってもやってこないからだ。いい加減遊んでいた男子たちもだらけ始め、場はグダグダになりつつあった。


 タケルはというと、バスケで遊んでいる方にも、ストーブに当たりながら馬鹿話で盛り上がっている方にも馴染むことができず、体育館の隅っこに座り込んでいた。


 こういうとき、積極的にみんなに話しかけられるような性格だったらなあ、と思ってしまう。不意に空いた時間を友人との会話や遊びに費やす。そんなものに憧れていた時期が自分にもあったと。でもいつしかひとり遊びばっかり上手くなって行ってしまった。


 タケルはもともと、そんな風に自分の思考に埋没するのが好きであり、そちらの方が有益だと判断してしまう。


 やはり思い出されるのはつい先日の出来事――


 イリーナ・アレクセイヴナ・ケレンスカヤとの邂逅である。


 彼女は長い間、その存在を秘匿されていたが、今はもうそうではない。

 御堂とカーネーションの働きかけにより、公の存在となった彼女は、今まで以上の自由を手に入れ、今のタケルと同じく留学という形で日本へ招聘することが決まっている。


 イリーナ自身も、冬の森から初めて外の世界に出るとあり、しかもそれが漫画やアニメでおなじみだった日本ということもあり、かなり乗り気になってくれているようだ。


 イリーナ自身の能力はまだまだ未知数だが、彼女の知能と、そして『RSA量子複合暗号文』を解読した演算能力があれば世界中の――


 例えばセキュリティが厳しい軍事施設や大企業が保有するデータであっても、たやすく侵入することができるだろう。


 そう、もはや表の世界にセーレスの痕跡はひとつも存在しない。

 イリーガルな手段を使い、裏の世界に答えを求めるしか無くなっている。


 今までは手当たり次第に怪しい施設を襲撃し、セーレスの手がかりを探し回っていたが、イリーナの異能を持ってすれば、今まで以上に高い精度でセーレスの探索が可能になるはずだ。


(タケル様、タケル様)


「ん? どうした真希奈」


 愛娘に話しかけられ、タケルはわずか優しい笑みを浮かべながら口元を隠す。

 ひとりでブツブツ言ってる危ないやつと思われないよう、もっと小声で喋らなければ。


(もしもお暇でしたら、何か動画でも再生いたしますか?)


「いや、一応今は授業中だからスマホを取り出すのは不味いよ」


 ジャージのポケットには忍ばせてはいるが、それを堂々と使う予定はない。

 本来なら生徒は授業中は愚か休み時間や放課後もスマホをなどの使用は禁止されているが、授業中に使わないという不文律を守ることで、それ以外の時間はお目溢しがされているのだ。留学生とはいえ、最低限その辺はわきまえなければ。


(じゃあじゃあ、真希奈と『しりとり』しましょう!)


「しりとり?」


 これまた唐突な。

 タケルはやや呆れた声を上げた。


(お嫌ですか?)


「そんなことないけど、真希奈は僕とそんなことして楽しいのか?」


(もちろんです! すっごくすっごく楽しいです!)


 どうやら真希奈はタケルと話すこと自体が楽しいようだ。

 話題はなんでもよく、しりとりというのも方便だろう。

 授業開始のチャイムが鳴って間もなく15分。

 相変わらず先生は来ないみたいだし、少しくらい付き合うか。


「じゃあ、真希奈のな」


(な、ですね、ナイスバディは敵です――の、す! すですよタケル様!)


「うん? す、す、スイカ」


(カップルなんて敵です!)


「はい? す、す、すだち」


(乳デカ女はやっぱり敵です!)


「さっきから敵ばっかだなおまえ!」


 ダメだ、真希奈の思考が偏りすぎてる。

 というかずっと「す」攻めを食らってキツイ。

 いい加減、まだ授業は始まらないのか――


「全員集合――ッ!!」


 突然、体育館内に激が飛ぶ。

 ビリビリと窓が震え、談笑していたものも、バスケをしていたものも全員が腰を抜かしている。


 タケルは愕然としていた。

 声の主は、まさかまさかの自分の知り合いだったからだ。


「集合だ貴様ら、さっさと集まれ――ッ!」


 雷に打たれたように全員が最速で整列する。

 タケルはまるで全身に鉛でもつめ込まれたような足取りで、ノロノロと歩くことしかできなかった。


「遅いぞッ、特に最後までちんたらしていた貴様、名を名乗れ!」


「名乗れじゃないよ、なにしてんのさアンタは――!」


 ジャージ姿で現れたのはどこからどう見ても体育教師などではなかった。


 身長は軽く見ても190センチ以上。

 長い手足に引き絞られた体躯。

 鋭い目つきに白髪が混じった前下りボブカット。

 大男のような逞しい体つきではあるが、豊かに盛り上がったバストが女性である証だった。


 なんだ、留学生の知り合いか……?

 ヒソヒソと男子たちが囁きあっていた。不味い。


「――うおっほん。本日体育教師の佐藤先生は病欠だ。彼は頭が硬すぎて急遽入院するほどの大怪我を負ってしまったからだ。したがって今日の授業は私が受け持つこととなった。紹介が遅れたな、私のことは『ベゴニア先生』と呼ぶように」


 彼女は間違いなくタケルの関係者だった。

 大柄ではあるもののその顔立ちはロシア人と日本人のハーフであり、かなり整った美女であると言える。


 だが彼女は人間の規格を遥かに超えた筋肉量を誇っており、急遽あつらえたであろうジャージは七分丈のつんつるてん。全身ははち切れんばかりにムキムキとしている。そのただならぬ佇まいとオーラから、可哀想に男子たちは全員ビビり気味だった。


「若干一名、先程から生意気な態度のものがいるな。そこの貴様だ!」


 ビシィっと指を刺されたのはやっぱりタケルだった。

 男子たちの疑惑が核心に変わった瞬間だった。


「反省を促す意味でも、貴様だけは私のことを『お母さん』と呼ぶように――」


「さっさと授業を始めましょう! もうあと三十分もないですよベゴニア先生!」


 ――ちッ、とベゴニア先生から舌打ちが聞こえる。

 彼女はタケルにお母さん、母、あるいはママと呼ばれたくて仕方がない母性の塊なのだった。


「そうだったな、残り時間は少ない……本来ならもっと早くに登場する予定だったのだが、あの糞体育教師めが私の話を聞かなかったのでな。おまけにセクハラまがいのことまでしてきて――ああ、まだ殴り足りない!」


 嫌なことを思い出したのだろう、ベゴニア先生が拳を握る。

 握りしめた拳は人間の肌ではなく、まるで鋼の表面のようなテクスチャだった。手の甲の真ん中にブコっと太い血管が浮かび上がらなければ、本物の金属だと思ったことだろう。


 ――うわああ、とそれを見た生徒たちが引いている。

 タケルは「はは、初対面の誰もがビビるこの女、僕の体術の師匠なんだぜ……」と乾いた笑いを浮かべていた。


「よし、今日は私の最初の授業だ。とはいえみんな、私のことが気になって授業にならないだろう。したがって本日は自己紹介をかねた特別授業を行う。全員その場で馬歩站椿まほたんとうだ――!」


「?」


「??」


「???」


 ――と、全員の頭に疑問符が浮かんだ。

 まったく聞き慣れない単語だったから当然だ。

「あれって」「だよなあ」とか言っているのは空手経験者だろう。


「何だ誰もできないのか? やれやれ最近の子供は情けないな。よし貴様、私の見たところ経験がありそうだな。前に出てきてやってみろ!」


 タケルをご指名だった。

 どこまで本気なんだこの女……。

 すっごくやりたくないけど、全員から注目されている。

 タケルは不承不承、最前列へと出ていく。


「えっと……これでいいでしょうか?」


 足を揃えた準備姿勢から、踵をくっつけたままつま先を開く。

 今度はつま先を支点に踵を開き、さらにつま先を肩幅に開いた。

 この状態のまま腰を低く落とし、中立姿勢になる。

 他の男子たちも見よう見まねで中腰になった。

 なんだこの授業は……?


「顎を引け! 猫背になるな! 背筋を伸ばすんだ! なんだそのへっぴり腰は! よく見ていろ、こうだッ!」


 シュタ、スウ、スタン……。

 ジャージの擦れる音や、床を踏みしめる音すら洗練されている。

 ベゴニアが直立し、その長い手足を天を戴くように広げる。

 ゆっくりと腰を下ろしながら、両手を胸の前で合わせ、ふわりと開く。

 拳ひとつ分の隙間を空けた両手を正中線に沿って下ろし、へその下あたりで固定。

 どっしりとしたその不動の構えは、まるで大樹が根を下ろすかのように威風堂々としたものだった。


 武術というものにまるで経験がないはずの生徒たちが「おお」と感嘆の声を上げる。どんな入門したての小坊主であっても、目の前に仏がいたらそりゃあ気づく、というレベルの凄まじい練功が透けて見える動きだった。


「この姿勢を維持しろ。残り時間はずっとこれを続けるぞ!」


 ええー、という不満の声すら上がらなかった。

 体罰というものが教育現場から姿を消し、私生活でも親に殴られなくなって久しい現代において、ベゴニアの持つ絶対強者のオーラを浴びた生徒たちは、逆らおうなどという気概を根こそぎ奪われていた。


 ただ早く、一刻も早くこの時間が終わってくれるようにと祈りながら、なんだか訳の分からない中腰の訓練を黙々とこなすのだった。


「ほう貴様、なかなか見どころがあるぞ。さぞや名のある者に師事を受けていると見える」


 まさかの自画自賛だった。

 他の生徒には厳しい癖に、タケルにだけはやたらと甘い。


 ことここにいたり、タケルはようやくベゴニア師匠の意図を理解しつつあった。つまり、このヒトはみんなの前で可愛い愛弟子を「よいしょ」してよく見せたいのだ。


 タケルがクラスの中で一廉ひとかどの存在として扱われるよう、あるいはもっと単純に舐められたりしないようにと、そんな理由でタケルに強者のイメージを付加しようとしているのだ。


 正直言ってありがた迷惑だった。


「よし、貴様だけは私と組み手をしよう。見立てではこの中で私とまともに闘えそうなのは貴様だけだろう。手加減はするが真剣勝負だ。では行くぞ――」


「あんたなあ、いい加減に――」


「いた、あそこ、あの女ですっ!」


 体育館の入口からなだれ込んできたのは、禿頭の男性教師とふたりの警察官だった。どうみても不審者を捕まえに来た風味だった。


「やれやれ、組手の前に邪魔者を排除するか――」


 ベゴニアはやる気満々だった。

 ボキボキと指を鳴らしながらケダモノのような笑みを浮かべる。

 と――


「おい」


「うん?」


 ――闘ったらもう二度とあんたのことは「母さん」って呼ばないぞ、とタケルは口にした。それはベゴニアにとっては伝家の宝刀と同じだった。


「そ、そんな――、頼む、それだけは……!」


「じゃあどうするんだ?」


「そ、それは、それはあああ――」


「はやく捕まえてください!」


「あー、そこのキミ、ちょっと話を聞かせて――」


「大人しくしてれば危害は――」


「――脱出っ!」


 涙目になったベゴニアは脱兎のごとく逃げ出した。

 逃げ出す際も「みんな、日頃の鍛錬を忘れるなよっ!」と捨て台詞を残し、ドカーンと反対側にあった鉄の扉を蹴り倒して出ていく。


「こら、待てッ!」


「止まりなさい!」


 警察官ふたりが追いかけるが、そもそも捕まえられるはずがない。

 ベゴニアは人間ではなく吸血鬼の眷属。

 実年齢も100歳を超える本物の人外なのだ。

 その気になれば住宅街の屋根伝いにあっという間に離脱するだろう。


「成華くん、もしかしてあの人知り合いだったの?」


「まさか。あんな変質者知らないよ」


 助かった緊張感からその場にへたり込む生徒たち。

 そのうちひとりから声をかけられ、タケルはすっとぼけた。

 正直あんなのと知り合いだなんて思われるのも嫌だった。


 それにしても、留学初日の二時間目だというのに疲労感が半端なかった。

 せめて残りの時間は平穏無事に過ごせますように……というタケルの願いは叶うことはない。


 何故ならこの後も、第二第三の闖入者が手ぐすねを引いて待っていることを彼はまだ知らないからだ。


 続く。

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